第二話

 その日はとても麗らかな春の日だった。

「えー、今日からこのクラスに編入するクラスメイトを紹介する。さ、黒板に名前を書いて」

「うぃっす」

 カツカツとチョークが黒板にぶつかる音がする。

 刻まれた名前は“高杉 煙羅(たかすぎ えんら)”と書かれていた。

「高杉煙羅です。趣味は無し、体動かすことで面白そ―な事があれば教えて下さい。ま、適当に仲良くしてくれると助かります」

 きゃああ、と女子の黄色い歓声が小さく上がる。

 灰色の短い髪をツンツンに逆立てており、瞳は濃い灰色。年頃の男らしく整った顔つき。スラリとした佇まいと程よくついた筋肉が前を開けっ放しにした学ランの中に着込んだTシャツの上からでも見て取れる。

 歓声の上がった方に煙羅はにぃっと無邪気な微笑みを向けてみる。

 再び歓声が上がり、男子はあまり面白くなさそうに鼻を鳴らした。










「高杉くんってハーフなの?!」

「ねえねえ、サッカーとかやってみない?私マネージャーなんだけどぉ」

「えー、テニスが良いわよ、是非!」

「水泳部も面白いわよ!」

「あははー、皆積極的で俺嬉しいわぁ」

 HRが終わって休憩時間になった途端、煙羅は多数の女子に囲まれていた。

 きゃあきゃあと押し合いへし合い、机の周りに群がる者、このクラスに美形が編入してきたと聞いて教室の外から窓越し、扉越しに覗く者。

 どれにしても見世物小屋の珍獣にでもなった気分だな、と煙羅は思いながら、適当ではあるが質問に答えていく。

「ハーフじゃなくて先祖返りってやつ?」

「わあ、なんか神秘的!!似合うー!」

「じゃあ誕生日は?」

「内緒」

「えー」

「じゃあ君が決めてよ、俺の記念日。……なんつって」

「きゃーキザーぁ」

「身長と体重!」

「百七十六センチ、体重はヒミツ」

「秘密の多い男ってこと?」

「そゆこと」

 きゃーあ、とまた歓声が上がる。

 ……それを、離れた席から姫神 留羽(ひめがみ るう)は見つめていた。

――それなりに教えたとおり、上手く溶け込んだみたいだな。

 元々煙羅は人懐っこい妖怪だったらしく、昨晩一夜漬けで一通りの勉強と現代知識、そして大体の人間設定まで教え込んだのが功を奏したらしい。

――ただ、ここまでの人気者になるとは思わなかった……。

 ひしめき合う女子生徒の背中を見つめている留羽としては、複雑な思いもある。

 一応留羽から妖力供給がなされているのと、試した結果、普通の食事でも体力回復が出来るということがわかり、煙羅が人を――特に処女を――襲うことは無いだろうが、それでも不意に妖怪の血が騒がないとも限らない。

――一応釘を刺しておくべきか……?

 そう思い、留羽は自分の席を立つ。

 そしてすたすたと煙羅の席へと向かうと……。

――……割り込めない、だと……!!

 留羽は他の女子よりも平均をかなり下回って小柄だ。加えて力は殆ど無く、隙間のないほどに詰め込まれた女子の壁に阻まれて煙羅に近づくことさえ出来ないでいた。

 なんとか両腕を隙間に差し込んで体を捩じ込もうとしても、ぽんっと弾き出される。

 四苦八苦しながら何度かそれを繰り返していた留羽に、煙羅のほうが気付いた。

「はいちょっとごめんねー。……何してンの、お前」

「あ……」

 席を立ち、女の子の垣根を掻き分けて、煙羅は留羽の前に立つ。

 因みに留羽と煙羅には三十センチ近い身長差があり、ポケットに両手を突っ込んだ煙羅はその顔を覗き込むように腰を折っている。

「……あまり浮かれすぎるな。お前は私のものなのだからな」


 ざわっ。


 弾き出された衝撃で何度か尻餅をついた留羽がセーラー服を叩きながら言った言葉に教室中がざわめく。

「……今ここでそういう事言っちゃう子なわけね、お前ってやつは」

「? 何か可笑しかったか?」

 一瞬虚を突かれた顔をしたものの、すぐにくつくつと笑いながら煙羅が言う。

「おかしいも何も、空気読めって話だよ……あーあ、皆黙っちゃってぇ」

「た、高杉くん……、姫神さんと……付き合ってるの?」

 勇気のある一人の女子が尤もな疑問を口にした。

 それに、満面の笑みを浮かべながら煙羅は手を横に振る。

「えー、無い無い。俺とこいつは遠い親戚で、同居人ってだけー」

「一緒に住んでるの?!」


 ざわざわっ。


「……お前も何か地雷を踏んだようだぞ」

「……そうだな。……おっかしいな、江戸時代なら長屋で同じ屋根の下なんて普通だったぞ……?」

 ざわめきが収まらない教室と廊下を放置して、二人してコソコソと囁き合う留羽と煙羅。

 それは傍から見て付き合っているようにしか見えず――。


 高杉煙羅は、姫神留羽と同棲している。

 もしかしたら付き合っているかもしれない。


 そういう共通認識が、本日めでたく学校中に知れ渡ることとなったのだった。










「……何だか学校ってのは疲れるんだな」

「何だ、もう音を上げたのか。妖怪というのは気力の無いものなのだな」

 今日一日学校で過ごした感想を漏らした煙羅に留羽が辛辣な物言いを返す。

「いや勉強は面白いし、女の子はかわいーし、いいんだけどさあ……男共が嫉妬の目を向けてくるのが辛い」

「お前が無駄な愛想を撒き散らすからだろう」

「……お前はちょっとばらまいたほうが良いと思う」

 夕暮れが赤く教室を染め上げ、もうすぐ黄昏時という時刻。

 教室には二人しかいない状態で、留羽は長い棒状の物を背負い、学生鞄を持って煙羅の方へ振り返った。

「最低限の会話はクラスメイトとしている」

「最低限すぎるんだよ、ヒメは」

 今日一日で十分すぎるほどに分かったと、煙羅は自分の学生鞄を片手で持ち上げながら溜息を吐く。

 留羽は、クラスで思いっきり浮いた存在だった。

 授業中は寝ているか、起きていても何処かぼんやりと窓の外を見ていることが多い。

 端正な顔立ちなのに、この口調にこの人形のような容姿と人を寄せ付けない空気のせいで友人らしき人間はゼロ。

「もっと日常会話ってやつを楽しむような友人をだなーぁ」

「日常会話を楽しむ相手など不要」

 ばっさりと切り捨てられる。

「……お前ね」

 呆れた煙羅が口を開くが、それを遮るようにして留羽が細い息を吐いた。

「私には使命があるのだ。死命と言い換えてもいい」

「……」

「それを果たすまでは死ねぬし、生きられぬ」

「ヒメ」

「だから友人など作っている暇はない」

 その真っ黒な艶のある、黒曜石のように鋭い目が彼女の決意を物語る。

「……お前自身が妖怪みたいなこと言ってどうするよ。人間の生は短いんだぞ」

「私の生は更に短い。……後一年、生きられるかどうか」

 だが、ぽつりと零した言葉にだけ哀愁が漂った。

「え?それって……?」

「行くぞ、ついてこい、煙羅。お前に紹介したい者がいる」

「あ、おい!!……ったく、勝手なお姫様だぜ」

 聞き返そうとした煙羅を無視して歩き出した留羽の後を、後ろ頭をガシガシと掻いた煙羅は小走りで追うのだった――。










 旧校舎。

 そこは放課後誰も近づかぬ、立ち入り禁止区域。

「とはいえ、たまに不良共が入り込んでいることがあるがな」

 言いながら、留羽はポケットから鍵を取り出し、張り巡らされたフェンスの一角に設けられた扉の南京錠へ差し込んだ。

「なんで立ち入り禁止区域の鍵をお前が持ってるんだよ」

「私がこの学校の校長と契約したからだ。中にいるあやかし達を鎮める代わりに」

「はあ?」

「過去、この旧校舎を取り壊す話があったらしい。だが、全ての関係者が呪い殺された。ある者はノイローゼで自殺、ある者は事故、ある者は原因不明の病気……そこに私の前任者が来て魂鎮めを行った。校長はこれを信じ、旧校舎の取り壊しを断念、後任としてやってきた私にも鍵を渡したというわけだ」

「はあ。……で、その前任者は?」

「死んだ」

「はあ?!」

「開いた。行くぞ」

 金網の扉を押し開き、留羽が言う。

 扉を閉めると鍵をポケットに入れて迷いなく旧校舎の校舎内へと歩みを進めていく。

「死んだって……!!」

「後任が来たんだ、前任は死んだに決まっているだろう。……今明かりを灯す。『火の神よ。姫神留羽が願い奉る。今暫しの明るさを我らの目に宿し給え』」

 すっかりと日も落ち、外は真っ暗になってしまったというのに明るいのは、留羽が今、言霊で火の神を呼び出したからだ。

 目に宿った火の神は、猫の目のように暗闇を見通す力を留羽と煙羅に与えていた。

「ついてこい、行くぞ」

  ぎいぎいと古い木の廊下特有の軋みを響かせながら、暗い廊下を歩いていく、留羽と煙羅。

「俺は別に妖怪なんだから術を使わなくても見えたんだけど」

「そうか」

「っていうか、さっきの話に戻るけど。そんな危ないところになんでわざわざヒメが行くんだ?お前が百歩譲って凄腕の祓い師にしたって一人ですることじゃないだろう!!」

「今はお前がいる」

「そ、それは……じゃなくって、今までの話だ!!」

「そこ、足元床が抜けているから気をつけろ」

「のわぁ?!」

 ズボッ。

「……だから気をつけろと言ったのに」

「言うのが遅すぎるんだよ!!」

 見事に床の穴に腰まで嵌った煙羅を見下ろして、留羽は溜息をつく。

 見えている見えていると思っていただけに情けない姿を晒した煙羅はと言うと、真っ赤になりながら体を穴から抜こうとするが、これがまた綺麗に嵌ったようでなかなか抜けずに苦戦している。

「……そんな使い魔で役に立つのか、ヒメ」

 そんな中、闇夜から声がした。

 凛と澄んだ、だが低く一本筋が通ったような声。

「!!」

「ああ、先に来ていたのか。鍵が開いていないからまだなのかと」

 穴に嵌ったまま全身の毛を逆立てた煙羅と違い、留羽がいつもの抑揚のない鈴のような声で応答する。

「鍵など俺が使うものか。フェンスを乗り越えれば済むことだ」

 それは闇夜が形を成したかのようだった。

 赤みを帯びた黒いストレートの髪を短く切り、声のように澄んだ瞳は金色。白磁の肌は筋の浮いた首筋と顔で見て取れる、紛うことなき美青年。

「誰だよ!」

「躾のなっていない犬だな。本当に役に立つのか?」

「それはこれからだ。今日使えなければ家事手伝いにでもする」

「それはいい。代々のヒメは家事が苦手だからな」

「ヒメ!だからあいつ誰だよ!!」

 鼻を鳴らして笑った男に、ぎゃんぎゃんと煙羅が吠え立てる。

「少しは静かにしていられないのか、煙羅。……あれは雨宮 九鬼(あまみや くき)。同盟者だ」

「紹介に預かった、雨宮九鬼だ。よろしく頼む、間抜けな煙々羅」

「間抜けは余計だ!」

 ズボッと音がして、やっと穴から抜け出した煙羅が更に吠える。

「って、……ん?」

 だが、すん、と匂いを嗅ぐ仕草をして、煙羅はその灰色の目を一気に険しくし、臨戦態勢を取った。

「ヒメ。コイツのことを同盟者とか言ったな。こいつの正体が何なのか知っていて言ってるのか」

「勿論」

「鬼だぞ!人間の皮を被っちゃいるが、中身は正真正銘の鬼だ!そんなものを同盟者に選ぶなんて……」

「……ヒメ、この使い魔は話を聞く耳というものを持たないのか?耳なし芳一か?」

 心底呆れたように九鬼は息を吐き、学ランの首元を軽く肌蹴る。

 着込んでいた白いシャツも首元を緩めると、そこには赤い一筋の線が、まるで首を切ったようにぐるりと走っていた。

「鼻は効くようだな、煙々羅。お察しの通り、俺は鬼だ。だが、“元”鬼と言い直してもらおう。腹立たしいことだが」

「? どういうことだ、ヒメ」

「九鬼は、鬼の力を奪われた鬼だ」

 九鬼の言葉に首を傾げた煙羅に、留羽が補足する。

「目的地に行きがてら話そう。少し私の話にもなるが、いいな、九鬼」

「構わん」









 ――昔々、それは平安時代のお話。

 あるところに、生き比売神と呼ばれる、生きた神様がいました。

 それは美しい少女の形をした神様でした。

 彼女は姫としての立場より神としての立場を取り、斎姫(いつきひめ)として純潔を守って人々のために祈り暮らし、そして静かに人としての命を終えて本当の神様となる予定でした。

 ……しかし……ある一人の男の野望の前に、その静かな生は尽きることとなります。



「九鬼、物語調がすぎるのではないか?」

「このくらい御伽噺めいたほうが“らしい”だろう?俺達の関係を話すのならば」

「……好きにするがいい」



 男は、永遠の命を欲しました。

 彼自身沢山の妖怪を斬り、人の世を守ってきたはずだったのですが、その傍ら、妖怪ですら儚い命であることを嘆き苦しんでおりました。

 長きを生きる妖怪ですらあの儚さなのだ、儚き人の身ではなすべきこともなせぬまま己は死ぬ。

 それはとても辛いこと。苦しいこと。耐え難きこと。男は悩んでおりました。

 そして生き神たる姫が娘として生まれたとき、男は一つの計を案じました。



「生き神にも親はいる……か、まあ」

「勿論。人である以上、母親も居た。だが、神を産む偉業の前にその生命を全て捧げたのだ」

「……続きを話すぞ」



 ある鬼の首を取って来いと帝に言われたある夜、男は行動を実行に移します。

 朱天童子(しゅてんどうじ)。それがその鬼の名でした。

 神が堕ち、鬼となったその鬼は、比類すべき者の居ない強さでしたが、長年の野望を持った男と、その男が持つ刀“鬼神切り(きしんぎり)”の前に首を落とされてしまいます。

 鬼神切りは神をも恐れぬ刀鍛冶が、その魂を込めて打った刀で、すべての神と妖怪を斬るという怨念の染み付いた妖刀だったのです。

 男は朱天童子の首を持って斎姫の宮へと向かいました。

 歯向かうものは全て殺して、生き比売神たる姫のところへと――。



「……なあ、何処へ向かってるんだ?」

「旧体育館だ」

「……男は生き比売神に言いました――」



――「儂に喰らわれて、死ぬがいい、と」



「着いた。話は中へ入ってからでいいな?」

「構わない」

「あの、俺だけがあんまり理解してないんですけどー……」

 九鬼の提案に留羽が頷き、煙羅が小さく不平を漏らす。

「安心しろ、話はもう終わる。質問も受け付けてやろう。……生きていたら、だが」

「へ?」

 ぎぎぃ、と鉄製の重い扉を安々と九鬼は押し開き、埃っぽい木造りの体育館へ足を踏み出した。

「頑張れ、と声援を送っておいてやろう。私とて、昨日今日で、得た使い魔を失いたくない」

「え?え?」

「入れ。そして構えろ。……死にたくなければな、煙々羅」

 九鬼に言われるまま、煙羅は体育館の真ん中に意味がわからないまま足を進める。

 留羽は入り口の壁に背を預け、棒状の物を抱きかかえたまま静観の構えのようだった。

「え?」

「避けろよ。一瞬で終わるなど、馬鹿馬鹿しい」

 まるで何かの試合のように対峙した二人の男の片方が、腰のホルスターから銃を抜き、撃ち放った。



――ガァン!



「あ……っぶねー……!!!!」

 間一髪、煙羅はそれを避ける。後一瞬、それが銃だと認識するのが遅ければ、脳天を撃ち抜かれていただろう。

 体を大きく傾がせた状態で後ろを見、そして九鬼に向き直って煙羅は怒鳴り立てた。

「危ねえじゃねえか!!何すんだよ!!」

「俺と戦え。使える使い魔かどうか確かめてやる。それがヒメとの約束でな。役立たずは必要無い」

「うわ、うわわっ?!」

 次々と銃声が鳴り響く。

 不可視のそれを慌てたさまではあるものの避けきる煙羅の姿に、九鬼が「ほう」と感嘆の声を上げた。

「逃げ足は早いらしい」

「っこのッ……!!」

「だが、いつまでも避けているだけでは俺は倒せんぞ」

「わかってらあ!!」

 銃弾飛び交う中、それを掻い潜って煙羅が距離を詰め、九鬼の懐へ飛び込み、掌底を食らわせる。

「喰らえ」

「……スピードは認めよう。だが、浅いな」

 確実に食らわせたと思った掌底は手応えが浅く、精々が九鬼の薄い腹を撫でただけだと知って煙羅は歯噛みした。

「くそっ」

「ご褒美だ、俺も近接に切り替えるとしよう。御伽噺の続きだ」

「馬鹿にしやがって!」

「……男は朱天の首をその場で食い尽くし、そして姫に手を伸ばした」

「ぐぁっ!!」

 喋りながら放たれた九鬼の上段蹴りが煙羅の顔に爪先をめり込ませる。

 錐揉みしながら煙羅は吹き飛び、だがなんとか受け身をとって屈み込んだまま口の血を拭った。

「……姫は叫んだ。『何故です父上』と」

「ヒメ?」

 いつの間にか煙羅の近くに歩み寄っていた留羽が九鬼の言葉の続きを継ぐ。

「『なにゆえ私を食らうというのですか、それでは鬼畜生に墜ちてしまいまする』と」

 そして、セーラー服の袖を捲くって、煙羅の前に突き出す。

「ヒメ……」

「男は言った。『鬼畜生となるためよ。鬼畜生になって未来永劫を生きるためよ』と……」

 ぐい、とその小枝のような細い腕を、煙羅の口元に押し付ける。

「食え、煙羅。お前の力は“ここ”にある」

「ヒメ」

「九鬼に勝て。それが私の、最初の命令だ」

「――ッ!!」

 ぬばたまの黒い瞳が灰色の瞳を射抜く。

 その刹那、まるで誘い込まれるように、そして貪るように煙羅は留羽の腕を口にしていた。

 芳しく、甘い。白菊の強い香が頭を満たす。脳髄の芯まで痺れさせ、そして煙羅の体を作り変えていく。

「……行け、煙羅」

「お、おおおおおおお!!!」

「やっとお出ましか、煙々羅」

 九鬼が自分の服を整えながら呟く。

 先ほどとは見違えるスピードで迫ってくる煙羅の姿を、恐るべき眼力で追いつつ、後ろへ一歩退く。

 それでさっきと同じ掌底は防げるはずだった。

「遅ぇよ」

「何っ……あ、がっ!」

 口元を紅に染めた煙羅がニィと笑う。

 さっきと同じ掌底と見えたそれは、踏み込みの足が一歩分多かった。利き足ではない方で踏込されたとは思えない威力で当てられた九鬼は二つ折りになって広い体育館の床にゴロゴロと転がった。

「この俺が見誤った……だと……!!」

「煙で俺の幻影を見せた。俺の正体を知っていながらお前は俺を侮った。こっからは全俺のターンだ」

 口元を学ランの袖で拭い、冷めた目で煙羅が呟く。

「なっ、消え……?!」

「ばあ」

 なんとか血を吐きながら起き上がった九鬼が煙羅の居た場所を見ると既にそこに煙羅の姿はなかった。その直後に自分の後ろに気配を感じ、振り返った先に煙羅の顔だけがある。

「!!」

 咄嗟に銃を抜き、その顔の眉間に撃ち込む。

 だが、撃ち込むより先にその顔は揺らめき消え。

「だから、遅ぇって」

「うがっ……」

 ポケットに手を突っ込んだ煙羅がその長い足で九鬼の脳天に踵落としを食らわせ、そのまま踏み潰す。

「鬼といえど、お前は人の皮を被っている。元に戻った俺様の敵じゃねえよ」

「ぐっ……が、ァ……!!」

「鬼になるか?お前も」

「煙羅、そこまで」

 涼やかに留羽の声が響く。

「ヒメ」

「それ以上は私が許さん。九鬼、お前もだ」

「……」

「足をどけろ、煙羅」

「……へいへい、っと」

 つかつかと、食われた左腕をスカーフで手当しつつ留羽が歩み寄ってくる。

 そして無理やり這いつくばらされていた九鬼に手を差し伸べた。

「合格でいいな?」

「……ああ」

「けっ」

「一応言っておくが、九鬼の強さは銃撃戦にある。近距離に持ち込んだ地点でかなりのハンデがあったことを頭に入れておけ、煙羅」

「わーったよ」

「煙羅」

「わかったって!!」

「……いや、予想外だったのはこちらの方でもある。煙々羅という妖怪が強いとは何処の書物にも記載がなかった」

 立ち上がり、服の埃を払い、口元を手の甲で拭う九鬼が長い息を吐く。

「これならば斉天童子(せいてんどうじ)を叩く戦力となりえるだろう。……ヒメ、やつが扱えそうな武器はあるのか」

「満月の夜の水に一年浸し続けたナイフが二振りある。それを与えようと思う」

「ナイフ?扱ったことねえぞ」

「昨夜短刀を二刀流で扱ったと言っていただろう。そう変わらん。後は私と稽古して覚えてもらう」

「うぇ、またスパルタかよ」

「文句を言うな。…あ」

「片手だと巻きにくいだろう。巻いてやるからじっとしてろ」

 立ち上がった九鬼が留羽のスカーフを奪い取って留羽の左腕に的確に止血するように巻きつける。

 それを面白くなさそうに煙羅は横目で見つつ、さっき出た気になる単語を口にした。

「……で、斉天童子って何だ」

「鬼と比売神を食って鬼となった、男の今の名だ」

 九鬼が拳を握る。

「俺の力を奪い、ヒメを狙っている」

「ん?俺の力?」

「俺の本当の名は朱天童子。誰しもが恐れた、血塗れの鬼」

「そして私は食われた生き比売神の生まれ変わりにして、……斉天童子の血を引く一族の生き残り」

「斉天童子ってのは、今も生きてるのか」

「いや、封印されて眠っている。……前任が死んだと言っただろう。それは、過去の私だ。命を賭して斉天童子の封印を守った」

「封印されているならいいじゃねえか」

「俺は斉天童子から俺の力を奪い返したい。ヒメは、斉天童子を打ち倒したい。そこで手を組んだ」

「まさかこの学校に朱天童子が入学しているとは思いもせなんだ」

 留羽が左腕の具合を見ながら呟く。

「一度は刃を交えもしたが、朱天が人を襲わぬというのなら、敵は一つ」

「人を襲わない?」

「この世は既に人の世だ。妖怪の住む世ではない。であれば俺は俺の力を取り戻し、自らの仇を討ったら人としてひっそりと生きるさ」

「ふうん……」

「人の世を脅かすようなら私が祓うまで。そういう契約だ」

「ああ、だから同盟者……」

「得心がいったか?煙々羅」

 九鬼がそう言うと、煙羅はフンと鼻を鳴らして首を横に振った。

「俺は煙々羅じゃねえ」

「ほう?」

 九鬼が面白そうに目を見開く。

「高杉煙羅だ。この世が人の世だと言うなら、俺も人として生きる道を選ぶさ」

「殊勝なことだ」

「昨夜一晩叩き込んだからな」

「……あれ、二度は御免だわー……」

「ふむ、ヒメのスパルタは気になるが、それは帰りがてら聞くこととしよう。もういい時間だ」

「あっ、それからお前もなんでヒメのことヒメって呼んでるんだよ!」

「それは……」

「私が許可したからだ。文句があるか?煙羅」

「うぐっ……」

「ヒメは名字で呼ばれるのも名前で呼ばれるのも嫌うからな」

「なんで」

「理由は自分で聞くがいい」

「なんで?」

「言いたくない」

「取り付く島なーし!!」

 両手を上げた煙羅に、ヒメは涼しい顔をして、九鬼は少しだけ愉快そうに口端を持ち上げた。









「役者は揃ったようじゃのう」

 男は――いや、鬼は、水鏡を眺めながら嗤う。

 辺りは暗く、漆黒の闇の中、鬼の水盆と鬼自身だけが輝いている。

「さて……じき、時は満ちる。待っておれよ、今生の比売神よ――」

 鬼は嗤う。

 呵呵と嗤う。

 生前、源 頼風(みなもとの よりかぜ)と呼ばれたときと同じ顔で、嗤う――。









第三話へ続く――。

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