さりとて時は散り花を咲かせる。
Rosso
第一話
「何故ですか父上!」
十二単を着た少女が叫ぶ。
「なにゆえ私を食らうというのですか、それでは鬼畜生に堕ちてしまいまする!」
「鬼畜生となるためよ」
恰幅の良い、烏帽子を被った男が大口を開けて笑った。
「鬼畜生となり、未来永劫を生きるためよ。そのための糧となれ、生き比売神たる――よ」
呵呵と笑い、男は少女に手を伸ばす。
重い装束に満足に動けぬ少女は為す術なく男に捕まり、喉笛を食い千切られて――。
※
「っ!」
そこで、留羽は目覚めた。
呼吸が荒いのを自覚し、顔を上げて辺りを見渡す。
「姫神ー、居眠りするなー」
「……すみません」
何の変哲もない学校。教師の声が響く。
どうやら授業中うたた寝をしていたらしいと気付くと、留羽ははぁと溜息を吐いた。
――夢……もう何度目だろうか……。
――いや、考えるのも馬鹿らしい、何百と見ているに違いない。
十二単の少女が食われ、男が大鬼へと変生する夢。
その夢に留羽は幼き時から悩まされ続けてきた。
否、戦ってきた。
――今更、どうということはない……。
姫神 留羽(ひめがみ るう)。十七歳。
艶のある黒髪を腰まで伸ばし、瞳は漆黒の黒。
肌は病的なほど透き通り、セーラー服に包まれたほっそりとした体つきは同い年の少女たちよりも幼い。
中学生、いや小学生高学年だと言ってもまだ通るだろう。
彼女はずっと、戦ってきた。
――でもこの夢を見るということはきっと……。
留羽は教室内をもう一度見回す。
――近くに、いる。
何と、と思われるかもしれない。
その答えは実にシンプルかつ信じがたいものだろう。
――“あやかし”が。
彼女は、ずっと、「あやかし」と呼ばれる化け物と戦ってきたのだ。
たった一人で。
※
放課後遅く、居眠りした罰として、留羽は生物準備室に資料を届けるように言いつけられた。
「失礼します」
少し香るエタノールの香り、並ぶ標本達、そしてたくさんの器具。
「やあ、悪かったね」
待っていましたとばかりに机に向かって座っていた生物教師は振り返り、悪びれもせずにそう言うと煙草をふかした。
「今ちょっと手が離せなくて。……君、この水晶玉をどう思う?」
「……どう、とは」
煙草を揉み消し、机の引き出しより差し出された小ぶりのメロンくらいありそうな水晶玉を受け取って、留羽は首を傾げる。
「……見た目より軽いな、と思います」
受け取ったときは持てるか不安だったが、渡されてみるとそれは意外と軽かった。
もう一回りくらい小さいサイズの水晶玉でももう少し重さはあるだろう。
「そうだろう」
教師は満足そうに笑い、水晶玉を受け取ると、つるりとその表面を撫でた。
「この水晶玉はただの水晶玉ではないんだ。知り合いの古物商から買い取ったのだけどね。きっと何か仕掛けが――」
「あの、……私はこれで」
「まあ待ちたまえ」
持ってきた荷物を床に置き、無理矢理に帰ろうとした留羽の腕を生物教師が捕まえる。
「……離してください」
「この水晶玉は何かを内包している。君は妖怪を信じるかい?」
「!」
うっとりとした生物教師の言葉に、留羽は逆に体を固くした。
一般人の気配しかしないこの教師から、何故妖怪の名前が出るのだろうか。
――そんなの、理由は一つしか無い。
「この水晶玉は妖怪を孕んでいる……封じている、と言ったほうが正しいかな?兎も角この中には妖怪がいて、今か今かと出るのを待ち望んでいるのだよ」
「……先生、離してください」
「暴れないでくれ。嗚呼――」
振りほどこうと留羽が軽く身を捩った瞬間、生物教師は態とらしく水晶玉から手を滑らせた。
「君が暴れるから、水晶玉が落ちてしまった」
ガシャン。
「割れてしまったねえ」
くすくすと、生物教師が笑う。
その目は既に常人のものとは逸脱し、完全に何かに魅入られている。
「ああ、中には小箱が入っていたのか。振っても音はしなかったのに……」
「触らないでください!」
留羽の静止の声も虚しく、空いた片手で生物教師は小箱を摘み上げた。
「何の変哲もない削り木で編まれた小箱。これを開けると何が入っているのかな」
「開けるなっ!」
「ふふ」
遂に怒鳴って箱に手を伸ばした留羽の細腕から逃れる生物教師の片腕。
「痛っ……!」
「見ていたまえ。妖怪の復活の瞬間を。そしてその血を捧げるのだ」
強く反対側に引っ張られて思わず悲鳴を漏らした留羽とは逆に、恍惚とした声で高らかに生物教師は宣言し、薄く削られた木で出来ている箱はその手の中で握り潰された。
「――っ!」
「……やあっと出られたぜぇ」
留羽が息を呑んだ瞬間、その後ろから若い男の声がした。
広くもない生物準備室。背後には短い廊下とドアしか無い。
そのドアが開いた気配もなく、背後に立たれたということは。
「あやかし……」
「ハジメマシテ、お嬢さん」
留羽が振り返ると、短い灰色髪をツンツンに逆立てた男がにへらにへらと笑いながら立っていた。
見ただけでは学生服を着込んでおり、普通の人間にしか見えない。
だが、普通の人間ではないことは明らかだった。
「ああ、あんたはもういいや、用済みだから」
そして、そう言うが早いか、留羽の片腕の拘束が解かれる。ちらりと横目で生物教師の様子を留羽が伺うと、どうやら気を失っているようだった。
「復活を遂げた妖怪は飢えていてなぁ。人間の血肉を逸早く摂取しないと消えちまうんだよ」
灰色髪の男は目も濃い灰色だった。それがきゅう、と、獲物を前にした肉食獣のように細められながら、男は喋り続ける。
「だからあんたには悪いが……俺の最初の獲物になってくれ」
「そこの生物教師は餌にはならなかったのか?」
「……怯えもせずによく回る口だな。ああそうさ、成人男性の血肉では役に立たない。清らかな処女で、柔らかくて、甘い、乙女の血肉でないと」
「そうか、それは残念だな」
「ああそうだ、残念だ。あんたは此処でお終い――」
「私が相手で」
灰色髪の男の言葉を遮って、留羽は振り向く。その右手は人差し指と中指だけを伸ばして手を結んだ形になっていた。
それを見咎めた灰色髪の男は目を剥いて一歩後退る。
「剣の印、だと……!」
「私は生業としてあやかし祓いを行っている。運が悪かったのはお前の方だ」
「くっ……マジかよ」
「だから残念だなと言ったんだ。お前は此処で祓われる」
淡々と語られる留羽の言葉に、灰色髪の男は暫く目を剥いていたが、ややあって顔を手で覆い、下を向いて笑い出した。
「……ふ、はは」
「?何がおかしい」
「いや何、……とんだ未熟者の祓い師がいたものだと思って、な!」
「何っ!」
言うが早いか、真正面に捉えていたはずの灰色髪の男の姿が留羽の目の前から掻き消える。
「そんな、馬鹿な」
さすがの留羽も困惑して呟くが、事実は事実だ。
慌てて教室を飛び出し、その姿を探すがあの目立つ髪型の男は何処にもいない。
「逃したか……?!」
「いいや。……広いところに出てくれてどうもありがとう」
「!」
人気の全く無い暗い廊下をうろうろと、そしてきょろきょろと見渡していた留羽のすぐ背後に、灰色髪の男の声がした。
そして。
「うっ!」
「きゃあっ、とか言わねえのな。可愛げのない女。男に抱きすくめられた経験も無い癖に」
留羽の背中から学生服の腕が二本伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられる。
すん、と首筋の匂いを嗅がれて、留羽は全身の毛が逆立つのを感じた。
「男の匂いが微塵もしねえ。香るのは処女特有の白菊の香りだけ。はっはァ、こりゃ極上の獲物だぜ」
「離せッ!」
「力も弱い、体も小さい。よくそれで今まで食われずに居たもんだ。ここは高校って奴だろう。十六、七、八の娘が通う学び舎だと聞いていたが……お前本当にその年か?」
「うるさい!離れろ」
「嫌だね。……獲物を捕まえた時、獣がどうするか分かってないみたいだな」
片腕で両腕を拘束され、留羽は灰色髪の男のもう片方の手で無理やり上を向かされる。
顕になった白い病的に細い首筋に、灰色髪の男は舌舐めずりをした。
「まずは喉笛を食い千切るんだよ」
――お父様!!
――何故ですお父様!!
男の言葉に留羽の夢が思い出される。
がぱりと口を開き、留羽の首筋へ男の牙が伸びる瞬間、留羽は渾身の力を奮って何とか左腕だけを脱出させた。
「そんな事してももう遅――むぐっ?!」
「いいや、遅くない」
がっ、と首筋の前に留羽の腕に噛みつかされる、灰色髪の男。
「なんだぁ?腕からがお好みか?」
モゴモゴと噛みつきながら喋り続ける男の言葉に耳を貸さず、もう片方の腕も振り解いた留羽は自分を抱きすくめている男の腕を手に取る。
「なら、腕から食ってやるよォ」
ぐじゅり、という、生肉が無理矢理に引き裂かれる音が辺りに小さく響いた。
柔らかな肉と強い筋が断ち切られる音だ。布越しでも牙は問題なく腕の肉に届いている。
「なっ……!」
だが、それは二重だった。
「お、前……!」
「……」
男が驚愕の声を漏らす。
左腕は高く掲げたまま軽くしゃがみ込んで、留羽は男の腕を男と同じように食っていた。
ぶちぶちと引き千切る音は留羽のほうが早く、千切られた男の腕だった肉は留羽の白い喉を通って嚥下される。
「お前……お前、何をした!!」
「……知れたこと。お前を食った」
思わず留羽を突き飛ばすようにして離れた男は、食われた腕を押さえて留羽を怯えた目で見つめる。
「……。……?……!」
「どうした」
「どうして……どうして再生しない!!力が衰えているとはいえ、俺は……!」
「煙々羅。それが貴様の本性か」
「どうしてそれを!」
「血肉は何よりも雄弁にそのモノの本性を語る」
口を真っ赤に染めた、ある意味男よりも化け物に見える端正な顔立ちの少女は、ぷっと学生服の切れ端を吐き出し、再び右手を剣の印に構えて一歩男へと歩み寄った。
「申し遅れた。私は姫神留羽。鬼食い比売神の一族にして生まれ変わり」
「鬼食い比売神……だと……!」
「遥か昔、我が父はかつての私を食らい、鬼となった。その血を受け継ぐ者。そして私は、かつての私の記憶を受け継ぐ者」
「き、聞いたことねえ!妖怪を食らってその正体を当てる一族がいるなんて、俺は知らない!」
「お前は年若いあやかしと見える。我が正体を知らぬとておかしくはない。さて、其の身に起こる変化を感じ取っているか?煙々羅。私の血の味はどうだった?」
「!!」
煙々羅と呼ばれた男は自分の体を慌てて見下ろす。
「……!!」
「随分と透けてきている。血の契約は結ばれた。お前は私の中に封印する。以後、使い魔として仕えよ」
「なっ……!」
留羽の言う通り、男の体は半透明を通り越して殆ど透明と化していた。
その己の変化に、男は唸り声のような声を喉奥から漏らす。
「最初からこのつもりで……」
「いいや、最初は祓って終わるつもりだった。だがお前に食われるくらいなら私はお前を喰らい尽くす。いつか私の中で消え果てるまで、その身は私のものだ」
「クソがあああああ!!!!!!」
「運が悪かったな、煙々羅」
形の良い留羽の唇が血に塗れて真っ赤な三日月を描いた。
※
――「……あれ?」
そのまま消え果てると思っていた煙々羅こと男は、ふと気がつくと自分の体が元に戻っていることに気がついた。
「俺……消え果てるはずじゃ……」
「言っただろう。『いつか私の中で消え果てるまで』、お前の身は私のものだ」
「……」
「妖力供給も私からなされる。自分の腕を見てみるが良い。傷は微塵も残っていないはずだ。……全く、私の方は痕になるやもしれんというのに不公平な」
セーラー服のスカーフを解いて自分の左腕に巻きつけながら、淡々と留羽は語る。
それをぽかんと灰色髪の男は見つめながら口を開けていた。
「……何か質問は」
「えっと。……俺は今後、どうなる訳?っていうかどうしたら良い訳?お前を殺せば自由になるの?」
言われた通り満ち満ちる力も確認し、すっかり毒気を抜かれた灰色髪の男は何処か間抜けな質問を口にする。
「私を殺せばたちまち妖力は私の元に返り、お前の身は塵と化す」
「じゃあ殺せないじゃん!」
「私の使い魔として生きろと言ったはずだが。聞こえていなかったか?」
「聞こえてたけど!えー!俺の妖怪ライフ、初っ端から奴隷かよおおおおおお!」
「奴隷とは人聞きの悪い。きちんと戸籍も与えてやるし、明日からお前もこの学園に通うのだぞ」
「はい?!」
「見たところ高校生くらいに見える。勉強は今日一日でみっちり私が家で教えてやるから安心しろ。何、妖怪の頭脳は人間よりも勉強に向いている。知識を詰め込むだけなら数時間あれば十分だろう」
「そういう問題じゃなくて、」
「他に何か問題が?」
男の言葉を遮って、スカーフを左腕に巻きつけ止血した留羽が顔を上げる。
「……俺って今顕界してるわけじゃん」
「そうだな」
「さっきから試してるけど、煙になって逃げることが出来ない」
「今は必要な時以外は制限を掛けている。逃げる意思がなくなればその制限は自然と解けるはずだ」
「つまり、普通の人間と変わらない状態な訳デスよ」
「そうだな」
「……住むところとか飯とかも世話してくれんの?」
「勿論。私の家は広い。4LDKだ。お前の住む部屋くらい貸してやれる。戸籍上は……そうだな、遠い親戚とでもしておこうか。ああ、転校の手続きも必要だな」
「うわぁ」
イタレリツクセリじゃん。と灰色髪の男は呟く。
実はこの少女はやっぱり最初からこうする予定だったのではないかと思わざるを得ないくらいに。
「言っておくが家具はないから帰りに家具屋に寄るぞ。今日一日は床で寝ろ。幸いにして季節は春だ、風邪を引くこともあるまい」
「体痛くなるだろ!」
「なら、私の中で寝るか?」
「え゛」
突然の提案に、灰色髪の男が引いた。
「いや、それは、どういうイミで……?」
「私の意思でなら、煙々羅の姿に戻すことが出来る。……体と術が未熟故、元に戻すときは文字通り嘔吐するしか無い訳だが……」
「床で寝ます!!」
「……そうか」
勢いよく片手を上げて宣言した灰色髪の男に、今度は留羽が微妙に引いたようだった。
「……そういえば名前をつけねばな。お前、元々の名前はあるのか」
「特にはないけど」
「では煙羅(えんら)と呼ぼう」
「安直!」
「む。……仕方ないだろう。私も使い魔に名前をつけるのは初めてなのだ」
「今までは?」
「使い魔にする前に殺してきた」
「……俺、運悪いのか良いのかわからなくなってきた」
「悪いほうだと思うぞ。……明日までに名字は自分で考えろ。そこまで面倒見きれない」
「……」
というか、このまま名字までつけられたら明らかに田中とか鈴木とかそういうありきたりなものを適当につけられるのだろうなあと煙羅は思う。
それは煙羅の美意識にとってちょっと頂けないものでもあったので、煙羅は素直に頷いた。
「では帰るぞ」
腕の簡単な処置を終え、説明も終えたとばかりに、荷物を取りに自分の教室へ向かおうとする留羽に慌てて煙羅は呼び止めようとするが、
「ちょっと待て、えーと、名前、なまえ……」
名前が思い出せずに、口ごもる。
何せ戦いの最中に相手の名前を覚える余裕などなかったのだから。
「私の名か?姫神 留羽という」
「留羽」
「姫神と呼べ」
即座に否定された。
「……ヒメって呼ぶわ」
「……ふむ、妥協案としては悪くない」
気に入ったらしく、留羽は煙羅の提案を受け入れ、再び歩き出す。
「家具店に寄るのだからな。宅配業者に急いでもらわねばならん」
「あのさあ、その口調は癖な訳?」
「何か問題が?」
並んで歩きながら、小さな留羽の旋毛を見下ろしつつ煙羅が尋ねると、留羽から即座に不思議そうな問いが返ってきた。
「問いを問いで返すのは失礼に当たるんじゃねえの」
「この場合は主従関係という名目に沿って考えるべきだろう。寧ろ敬語で話せと言わないだけ私は寛大な主人だ」
「あーはいはい。……それで?問題はないけど、癖なの?」
「……」
降参とばかりに両手を挙げた煙羅の問いに、留羽が一瞬口を閉ざす。
「……これは、私の魂に刻まれた記憶のひとつだ」
そして静かにそう答えた。
※
第二話へ続く――。
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