利害は微妙に釣り合わない
ぴよ2000
第1話
1
落ちていく。
浮遊感に身体を覆われ、足は宙を踏みつける。
上下左右が反転しては裏返り、視界に映る世界は逆転し、流転した。
「っあ」
慣れ親しんだはずの大地が迫ってくる。
がさがさのアスファルトが。普段は気にしないような、わずかな凹凸が。今の僕にとってはどんな剣より鋭く思える。
束の間、ごっ、という激しくも無機質な音と衝撃がヘルメット越しに伝わってきた。
体感の滞空時間とは裏腹に路面に打ち付けられた時のあっけなさに何の感慨も沸かず、当然、痛い。 じん、と鈍い痛みが当初の痛みを上回り、何とぶつかってこうなったのか一瞬忘れた。
「大丈夫ですか?」
ふらふらの状態でなんとか立ち上がると、視界の端から一人の女性が小走りで駆け寄ってきた。声の感じだと同い年とはいわないがまあまあ若い。20代くらいだろうか。
焦点が合わず、相手の女性がどんな顔なのかはっきりわからないが、息も荒く声も震えていて、動揺を露にしている。返事の代わりに手をあげて無事を伝えると、相手の女性は「とにかく救急車を」とポケットから携帯を取り出した。
「大丈夫ですから!」
その動作に意識が一気に覚醒し「え。ちょっ」その携帯を奪い取る。
傍らには側面のボディカバーがぱっくり割れたスクーピー50㏄が山ののり面に横転していて、道路の真ん中には前部が若干凹んだ灰色のボルボが停車している。
普通に考えればこれは交通事故で、救急車も警察も呼ばなければならない現状であることは明らか。つまり、相手方であるボルボの運転手が119番通報をしようとしたことは間違っておらず、むしろ正しい判断だ。
ところが、今の僕にとって、事を大袈裟にするのは好ましくない。いや、非常に宜しくない。
「僕は大丈夫ですから、何もしないでください」
携帯を半ば押し付けるように相手に返して、次にバイクを起き上がらせた。キーを回してインジェクションボタンを押すと、何でも無かったかのようにエンジンが始動し、ほっと胸を撫で下ろす。
車体を車道に下ろし、シートに座ったところで「アディオス」「ちょっと待った」がっしり肩を掴まれ、逃走は妨害された。
「怪我は見ての通り大丈夫ですから僕に構わず行ってください」
「いやいや、私に構わず行こうとしないでください」
「事故の事は無かったことにしてもらって大丈夫ですので先を急がせてください」
「そんな勝手な言い分が通る状況ではありませんよ」
いや本当にごもっとも。そんなことは僕だって百も承知である。しかしここで粘らなければ色々厄介なことになるのは火を見るより明らか。ただでさえ面倒な状況なのにこれ以上事態をややこしくしてたまるか。
「というかそもそも」
覚悟を決めた矢先の事。
きめの細やかな白い手がすっと延びてきて、エンジンキーがグリンと回された。しまった、と思うより先に車体は再びしんと静まりかえり、逃走が困難を極めた事を悟る。
「あなたの顔に見覚えがあるわ」
「僕にはありませんが」
「嘘ね」
目深にかぶっていたハーフヘルメットの縁をぐいっと上に引っ張られ、眼前に相手の顔が迫ってきた。
「まさか、無理矢理僕の唇を」
「奪う訳ないでしょ。教え子なんか対象外やっちゅーねん」
小顔に切れ長のクールな目元。まじまじと木野先生に見つめられ、自分の正体が見破られた事に観念した。
「泉野君にバイク通学の許可を出した記憶は無いのだけれど」
「あーあ、何でこうなるかなあ」
車と声で何となく察しはついていたが、こうして相手を再認識するとやっぱりげんなりする。偶然起きた交通事故で、相手が偶然担任教師だったなんて、交通事故よりも低い確率ではなかろうか。
2
「先生」
「何」
「見逃してください」
「お前は馬鹿か」
やっぱり駄目か。
ただ幸いなことに、朝の山道で人気が無いので他に通報してくるような人はいない。木野先生さえ黙ってさえいてくれば、とワンチャンかけてみたが、それも今あっけなく終わった。
「……いや。まだ諦めるのは早い」
「何がよ……というか、本当に怪我は大丈夫なの? 見たところ派手に転んだようだったけれど」
「あー、それはまあ、はい、自分頑丈なんで」
事故が起きたのは山道の交差点。三差路を真っ直ぐ走っていたら横から出てきた木野先生のボルボにぶつけられたが、無意識に受け身ができていたせいか最初の時より痛みがひいてきた。そんなことよりも校則違反が露見した事による停学等のペナルティが気になるところで、今も気が気でない。
あーペナルティかぁー、と自分の末路に苛まれ、いや待てよ? と、とあることに思い付いた。
「先生」
「いくらお金を積まれても駄目なものは駄目」
「いつから示談金の交渉が始まったんですか……そうじゃなくて、先生って昔に違反とかあるんですか」
「違反? ……あるにはあるけど、どうして?」
「いえ、先生でも事故や違反はするんだなーって」
「嘘つけ。何か企んでるでしょ」
おっと、僕としたことがうっかり顔に出してしまった。不覚にも先生に警戒心を与えてしまったが、過去に違反がある、ということを引き出せただけでもデカイ収穫だ。
「僕、今年の夏に原付免許を取ったところなんですけど」
先生は細い眉をつり上がらせ、それが? と怪訝な表情を浮かばせた。僕は構わず続ける。
「交通事故でも点数が引かれるって教本に書いてあって」
携帯を触っていた先生の指がピタッと止まった。
が、時既に遅く通話ボタンをタップしていたようで、プルルルと小さなコール音だけが二人の間に静かに響き渡る。
「点数が」
『お待たせしました。こちら110番指令センターです。緊急の要件でしょうか』
コール音が途切れ、野太い声が電話口から聞こえた。110ということはやはり警察か。事故の届出をしようとしていたようだが、木野先生は『もしもし?』と電話口から応答を求められても目をキョロキョロさせるだけで一向に答える気配はない。
「……木野先生?」
時が止まったのかと錯覚してしまう位に先生は固まり、何か逡巡しているようにも見受けられる。しばらくして、悪戯電話と思ったのか『要件がなければ切りますよ。失礼します』と電話口から聞こえて、断電を告げる短周期の信号音が寂しげに鳴り響いた。
「……泉野君は普段からこっそりバイクで通学していた訳ね」
「ええ、まあ」
「そっか。先生もね、この山道を越えたところの住宅に住んでいて、毎朝早くから出勤して、夜遅く残業して退勤してるわけ」
「はあ」
「当然、こんな山道を経由しなければならないということは、最寄りに電車とかバスとか交通機関がないわけで……その、ねえ?」
「そんな、察しろよ、みたいな目で見られましても、ねえ?」
木野先生は携帯をスーツのポケットにしまい、腕を組みながらボルボにもたれかかる。まるで、何かを思案するようにうーんと唸り、考えに煮詰まったのか懐から煙草を取り出して、口に咥えた。
「どうせそのジャージの下は制服なんでしょ。でなければ、メットインに制服を隠しているか」
「えっ、まあ、そうですね」
許可されてないのに馬鹿正直に制服で原付バイクを乗り回して登校するやつがいるわけない。そんな当たり前の事を核心を突いたかの如く指摘してこられても反応に困るというか、
「まあ、停学だけは見逃してあげる……しっかりうちの車の修理費さえ支払ってくれればね」
「さっきいくらお金を積まれても駄目なものは駄目って」「大人っていうのはね、誠意を見せることが時には大事なの」
うわきたねぇ。
まさかとは思うが、教師という聖職者が教え子相手にマウンティングを取ろうとしている? だが、こちらも論点をすり替えられて気付かないほどガキではない。
「まさか僕が本当に怪我をしていないとでも思ったんですか」
「何……?」
「交通事故を起こして相手に怪我をさせた場合、普通の違反よりも大きな減点を食らう事があるようです。勿論、罰金も来ます」
いや、はたしてそうだったかな。自分で言っておきながら、実はあまり自信がない。むしろ運転経験は先生の方が僕より遥かに上で、違反に関することは僕より詳しいはずだ。こんなハッタリめいた脅しに軽々と引っ掛かるとは「そ、そんな話が通用すると思って、」声が若干震えていて、思っていたよりチョロかった。教本の後ろの方に書いてあったうろ覚えの内容を思い出しながら、いかにもはっきりと知っている風を装う。
「先生は確か、過去にも交通違反をしていると言っていましたね。それだと今回の事故の点数を合わせると確実に免停になると思いますが」
「免停……」
虚空を眺めながら、先生は脱力したように呟いた。この調子だとうまく丸め込めそうだ。そう勝機を見出だしたところで「いや、いやいや」先生が僕に手をかざす。
「先に交差点に入っていたのは私で、私は巻き込まれた。だから、私は悪くない」
何か言い出した。
子供のような理論をいきなり持ち出してきて、怒りを通り越して唖然としていると「いい? 確かに私は泉野君に怪我を負わせたのかもしれない。でも、この事故状況で私からお金を掠め取ろうだなんて、当たり屋か何かなの?」「いや、僕はお金が欲しいんじゃなくて全て無かったことにして欲しいんですが」「そもそも校則違反をしている時点であつかましい話だよね。むしろ全て無かったことにした上で私に修理代を支払うのが当然の流れなんじゃない?」おおう、どうしても修理代は欲しいのかよ。でも、校則違反ゆえにこの事故を無かったことにしたい事は確かで……まさか、この一瞬で僕の事情を逆手に取ってきたのか、このエセ聖職者……。
「ま、待ってください」
腹の立つ気持ちを抑え、冷静に考える。
先生は事を大袈裟にしたくない。
それは僕だって同じで、その点に関していえば利害は一致している。しかし、そこに加えて先生は修理代も欲しいと主張し、「この車のローンだってまだ残っているのに!」なんだか譲る気配がない。ではどう対処するのが一番なのか。ふむ。
「事故についていえば」
「何よ」
「この事故は出会い頭で、どっちが良かろうが悪かろうがお互い様といえます」
「いいえ、泉野君が一方的に悪いです」
「それは先生の主観であって客観的な話ではありません。でも、どうしてもというならこの場を公平にジャッジしてくれる機関を要請しましょう」
言うなり、僕はポケットから携帯を取り出し、電話発信画面から110の数字をタップする。
通話ボタンは押さず、紋所のように画面を先生にかざした。
「先生がお金の話をするなら、僕だってバイクの修理をして欲しいし、治療費だって欲しいですよ」
3
「正気なの?」
「こうでもしない限りらちが明かなさそうなので」
こうなれば僕だって捨て身の覚悟だ! って、そんな訳ない。勿論、ハッタリ120パーセント。こうでもしなければ木野先生は引き下がらないだろうと仕掛けただけだ。
「もし本気なら自分だって無傷では済まない。私の言っていることわかる?」
効果はあったみたいで、先生は顔を強ばらせながら僕に詰め寄ってきた。ここで僕が怖じ気づけばこれ以降ハッタリは通用しないだろう。半端な覚悟ではないと思わせるため「それ以上僕に近付けば」指を通話ボタンに近づける。くっと先生が動きを止め、鋭い目がこちらに向いた。
「私を脅しているつもり?」
「脅しと捉えるか交渉と捉えるかは先生次第です」
「ふふ。少し勘違いをしているようね。私は泉野君を守ってあげたいと思っている。ただ、一教師として自分の非を認められる人間としても育って欲しいとも思っているのよ」
「非があるのはお互い様ですし、僕だって先生を免停にさせたくなんかありません……この際もうお金の話は忘れましょうよ」
「お金はね……大切じゃけぇの!」
次の瞬間、足下で火花が散った。いや、よくみれば煙草だ。アスファルトに叩きつけられた火種が勢い良く粉々になって、これは、先生が咥えていた、
「っなぁ」
携帯がぐいっと引っ張られた。すんでのところで掴み直したが先生の指が離れず、僕の携帯は二人の間でえらく不安定に踊った。
「煙草で、隙を、」
「泉野君も二十歳になれば吸えるようになります」
「これが教師のすることですか」
「お互い様。あなただってさっき私の携帯を奪ったじゃない」
先生の綺麗な顔が眼前でギリギリと歪む。
説得を諦めた次は携帯を強取するという手段に出やがった。
「落ち着いて考えて。何も今すぐに修理代を払って欲しい訳じゃないの。泉野君はまだ学生で収入があるわけない。だから、アルバイトでもして誠意を見せて欲しいの。高収入のバイト探しだったら先生も手伝うから」
「やくざかあんたは」
極道映画のワンシーンで聞くような台詞を早口で平然と言ってくるが、その言葉がポンと出てくるこの人の方が交通事故よりよっぽど恐ろしい。
しかし、まさか高校生のハッタリでここまで必死になるとは思ってもみなかった……というか、人をここまでさせるって、車ってそんなに高いのか……? そりゃあ、ボルボは高級車だとは話に聞くけど『もしもし、こちら110番コールセンターです』「ちょっとタンマです先生、今何か聞こえました」「奇遇ね。私も今何か聞こえたわ」
揉み合いは一時中断。元の静けさを取り戻したかのように周りの木々がさざめいた。このまま何も聞こえなければ良いのに『もしもし? もしかして交通事故ですか?』一拍の間を置いて、僕達が手にしている携帯から、野太くも丁寧な声が響いてくる。
見れば、掴み合いになった時にボタンに触れたのだろうか、画面は通話中となっていて、ついでにスピーカーもオンになっていた。
「……」
先生が無言でこちらを見る。何とかしろというサインに思えるが、この混沌と化した状況に第三者機関を要請する千載一遇のチャンスでもある。ただ、ハッタリから生じた事故のようなもので、僕だって警察を呼ぶつもりは毛頭ない。
『もしもし、交通事故ですか? 場所はどちらでしょうか?』
「……間違い電話です」
『間違い電話? でもさっき修理代がどうとか』
ぽちっと通話終了ボタンをタップし、何ともしようのない現状にため息をついた。
「なかなかやるじゃない」
先生がぼそっと呟いて、その場にしゃがみこむ。その姿に疲れが見てとれるが、僕だって精神的にへとへとだ。事故原因はお互いにあるが、怪我云々も含めて馬鹿馬鹿しくなってきた。
「先生」
「何よ」
「僕の原付は親が知り合いから譲ってもらったもので、元々傷だらけなんです」
言って、スタンドを立てて道端に停めたスクーピーを見やった。今回の事故でボディこそぱっくり割れてしまったが、古い傷もあちこちにたくさんついている。
「そもそも、バイクに乗りたくて免許を取った訳ではないんですよ」
高校生といえば社会的なステータスが欲しいと思うお年頃。例えば、レンタルビデオショップやコンビニの会員登録に使えるような身分証が欲しいと思うのは当然ではなかろうか。僕の場合、16歳から取得可能な運転免許証というのはとても魅力的だった。
「じゃあどうして」
「先生と同じで、僕の家も山を隔てた向こう側にあります。交通機関も発達していないので今日みたいに通学でバイクを使うこともあります」
田舎に住んでいるとバスや電車の本数の少なさに不便と感じることもある。といっても、バイク通学を始めるまでは数少ないバスや電車の本数で登校していた訳だから、時刻表に合わせて家を出れば良いだけの話だ。校則違反を交通機関のせいにしている今の僕の姿は、先生からすればさぞかし滑稽に見えることだろう。
そして、車を大切に乗っている先生と、バイクを単なる足としか思っていない自分とでは、乗り物に対する価値観は決して同じではない。
「僕は特にバイクに対して何の思い入れもありませんし、バイクの修理代なんていりません……そして、今の僕に先生の車を修理できる程の余裕もありません」
「ずいぶん勝手な言いぐさじゃない。大人の世界がそれで通用すると」「大人になれば……学校を卒業して大人になれば、先生への責任は必ず取ります」
「……へ? せきにん?」
木野先生の目が点になった、ような気がした。それもそうだ。都合の良いことばかりを言う自分に呆れているのかもしれない。でも、ここで口ごもる訳にはいかない。
「僕は、先生の教えを受けて立派な大人になると誓います」
「学生の癖に適当なことを」
「いいえ。僕は本気です」
木野先生の肩をがっしり掴み、目を見据える。気の強そうな二重の瞼。その下にある瞳が、今はどこか弱々しい。僕の姿勢に怯んでいるのか。
僕は意を決して言う。
「勝手は承知の上ですが、僕が卒業して、先生に責任を取れるようになるまで……それまで、待っていてくれませんか」
突風が吹いて、ざあっとあたりの枯れ葉が舞い上がった。せっかく声を張ったのに、これではしっかり相手に伝わったのかわからない。実際、木野先生はぽかんと口を開けて、しゃがんだまま微動だにしない。もしかして時が止まったのか? 逃げるなら今じゃあないのか、なんて考えていると「教え子は対象外って言ったじゃない」「えっ、何の話」「わーかーりーまーしーたー」全然わかっていなさそうに声を張り上げながら先生は唐突に立ち上がった。半ばヒステリックなリアクションだったのでこれまでのとはまた違った怖さを感じる。なんと言うか、先の読めないような。
「あの、何か気に障るようなことを言いましたか……?」
「別に? ううん大丈夫。それよりも今の言葉に嘘はなしね。私は今25歳で泉野君とは一回り近く年上だけど今の言葉にも責任を持ってよね」
「どうして今の話で実年齢をカミングアウトしたんですか」
「ともかく」
先生は、ダン、とアスファルトを踏みつけ僕を指差す。びくっとしたが、その反応が面白かったのか先生はいたずらっぽくにやっと笑った。
「私でよければ泉野君を立派な大人にします」
4
「あの」
「泉野君、怪我とかは大丈夫? 今日はもう学校休んだら?」
「いや、身体は大丈夫ですがある意味大怪我したかもしれません」
「それは大変。早く家に帰らないと……あっ、親には二人の事まだ内緒にしててね? 教育委員会が乗り込んでくるから」
「それって事故のことですよね? 他に深い意味なんてありませんよね?」
「まあ、ある意味事故というか……」
唇に指をあてて、木野先生はどこか恥ずかしそうに微笑んだ。
「……」
これ多分絶対何か勘違いしてーるー!
喉元まででかかったが、ぐっと堪えた。いや、それこそ僕の勘違いかもしれない。だって、思い返す限り言葉のセレクトに誤りがないんだもの。これは僕の考えすぎなやつで「あーあ、新車だったけどキズモノにされちゃったなー。でも、これはこれで良い思い出になるかもしれないね……ふふ」先生が愛しそうに車の傷を撫でていて、僕の不安は確信に変わりそうだ。いや、これも考えすぎなやつだと思いたい。
「まあでも」
気持ちを切り替えたように声音を変え、木野先生はこちらを振り返った。
「お互い、そろそろ行かなくちゃね。遅刻しちゃうし」
「そうですね! 早く行きましょう!」
「本当だ。泉野君元気じゃない」
あまり深く考えてはいけない。いずれにせよ事が丸く収まりかけている今が絶好のチャンス。僕も気持ちを切り替えてスクーピーに跨がった。
「それでは学校で」
「あっ、放課後に職員室来なさいね。メルアド交換しなきゃ」
「それって後に修理のやり取りをするためですよね?」
「そうそうそうそう勿論よ」
インジェクションボタンを押して、エンジンを始動させる。ブルンと車体が微動し、張り積めていた緊張がほどけていく。この感覚、嫌いじゃない。
ほっと一息ついて、アクセルをひねったところで「あー、そこの車とバイクの運転手ー、エンジンを切って降りてくださいー」「今何か聞こえましたね」「奇遇ね。私も聞こえたわ」がらがらの間延びした声があたりに響き渡り、二人同時に振り向いた。
赤色のランプが屋根に付いた白色と黒色のツートンカラーのセダンがいつの間にか後ろに停まっていて、それがパトカーだと気付くにはそう時間はかからなかった。
5
「一度通報すると携帯で通報者の位置情報がわかるんですねぇ。ところで、見たところ事故のようですが?」
パトカーから降りてきた警察官から職務質問を受け、極めて不本意ながら無事に僕らは届出の義務を全うすることができた。届出とは勿論事故の事である。
ただ、幸いというか、杞憂だった点というかを挙げると「え? 職場や学校に事故の連絡をするかって? いえいえ。そりゃあ確かに同じ学校の生徒と教師が事故を起こしたなんて稀だとは思いますが、個人情報がなんやらうるさいご時世ですからね。むやみやたらに職場や学校に連絡するようなことはありません」ただし事情地域都道府県によりけり対応は異なるとのことで、僕達はたまたま運が良かったらしい。やっぱり隠し事は良くない。
『でも、日本の警察って優秀だよね~』
「それ、大方の悪役が言う台詞ですよ」
突っ込みを入れると、電話口の向こうから『悪役って言うなー』と間延びした声が聞こえて来た。深夜11時。あれからは事もなく日課時限を過ごし、帰路について現在に至る。この時間になると木野先生でもさすがに帰宅しているらしく、メルアド交換時における「今夜の10時半に電話してきてね。親には内緒でね」の指示通り先生に発信したところ、修理の話し合いではなく学年主任や受け持ちのモンスターペアレントに対する愚痴を聞かされ、のっけから雲行きが怪しかった。
「あの、これってお金の話し合いでは」
『そうそう。これはお金の話し合いよ。今度駅前にできたラーメン屋に一緒に行かない? 先生がおごってあげる』
「脈絡とは」
そんなやり取りを30分程続けて、これが不毛な電話だとようやく悟ったのがつい先ほど。我ながら気付くのが遅かったと思う。
「僕、もう寝てもいいですか?」
『まだ駄目。一人だと先生寂しくて死んじゃうわ』
「夜更かしは肌に悪いですよ」
社会人だったらもっと気を使おうよ。というか付き合いたてのカップルみたいで気が引けるのが正直なところ。いやいや、先生も25だったら相手くらいはいるだろう。
『言っておくけど私はまだ独身だからね』
「聞いていないんですけど」
『生徒と教師の関係だから節度は守って頂戴ね』
「それこっちの台詞です。……えっ、これって肌荒れの話ですよね?」
『私の肌が気になるって話でしょ?』
「違うわい」
声を荒げつつも心中を覗かれたような発言にどっきりしたのは本当だ。たまたまだよな?
『そういえばこれ何の電話だったっけ? あっ、私の車の修理の話だった?』
「そうそれ! 何だしっかり覚えてるじゃないですか!」
趣旨を忘れていた事はもうこの際突っ込まない。
いちいち脱線して話が前に進まなさそうだ。
『ポルシェは外車だからねー。高くつくわよ』
「先生が乗ってたのはボルボ! しれっと嘘つかないでくださいよ」
まあ、修理費が高額になるのは目に見えている。出来れば払いたくないが、停学になることを思えば背に腹は変えられないのだ。
「見積もりとかは出してもらったんですか? いや、車の修理費用なんてよくはわからないんですが」『300万よ』
「さん、」
びゃく、と最後まで反芻できなかった。言葉が詰まり、喉が一気にからからになる。いや、いやいや。
「さすがに冗談ですよね? そんな高額になるなんて」
『本当。まだ正確な数字を出してもらってないけれど、ディーラーに軽く見てもらった結果それくらいはくだらないって』
「一体どこのディーラーに」
『とにかく。ああして言いきった手前しっかり支払ってもらうからね』
「ええー……」
途方もない数字を聞かされ、軽く目眩を覚えた。
てっきり10万から20万位が妥当だろうと勝手に思っていたが。
『といっても、単なる学生に対して先生も大人げなかったわ。そして今すぐ払って欲しい訳じゃないし、ゆくゆくで大丈夫よ』
「は、はあ」
まあ、額の桁が違えどアルバイトもしていない現状から一気に支払えるものでもない。でも、就職しても借金地獄という訳で『挙式を挙げるのに必要な相場よね』なんて言葉すらしっかり聞き取れなかった。
利害は微妙に釣り合わない ぴよ2000 @piyo2000
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