第7話「お前は固執している」

 『できない』が『できる』ようになる。

 それは強敵に勝つことの次に達成感のあることだと今更ながら思った。

 鋭い面打ちができるようになってからは、板崎さんが本格的に指導をしてくれた。


「素早く打て。そして当てることを考えろ」


 片手での面や胴、小手の基本的な打ち方、そして中学生のときには使えなかった突きを教えてもらうと、厳しい練習が始まった。

 それは――二十本稽古である。


「どうした? まだ二本しか取れてないぞ?」

「はあ、はあ、はあ……」


 ぴたりと俺に竹刀の先を向ける板崎さん。

 俺はなんとか中段に構え直す。

 そして――勢い良く打ちのめされる。


 板崎さんから二十本取るまで、稽古は終わらない。

 その前に片手の素振りを五百本こなしたので、腕がぱんぱんになっている。

 途中の休憩もなしで続けるので、全身汗だくで息も続かない。


「おっと。そろそろ時間だな。お嬢ちゃん、高橋の面倒は任す」


 汗はかいているものの、息一つ切らさない板崎さんは面を外した後、家に帰ってしまった。

 鈴木に飲み物をもらうが、息切れで飲むことすらままならない。


「私、よく分からないけど、剣道の練習ってこんなにつらいの?」

「い、いや……あの人が、おかしい、だけだ……」


 火曜日から金曜日まで、ずっと同じ二十本稽古を続けているけど、取れた回数は一日五本か六本ぐらいだった。

 それが情けなくて仕方がない。


「ちくしょう。どうしても取れない……」

「……私は見ることしかできないけど」


 面を外した俺にタオルを差し出す鈴木。

 いつか見た真剣な表情で言う。


「それでも、動きが良くなっていると思うよ」

「…………」

「素人目から見てもね」


 鈴木にそう言ってもらえるのは嬉しいが、板崎さんは何も言ってくれなかった。

 ひたすら打たれて、ひたすら檄を飛ばされて。

 最後は人形のように打たれるだけ。


「あ、そうだ。これ、良かったら」


 鈴木はぱんと手を叩いて、スマホを操作する。


「なんだ? なんかくれるのか?」

「動画を撮ってみたの。四十分くらいかな。もし良ければ、土曜日はデジカメ持ってきて、ずっと撮るけど」


 自分がどういう風に動いているのかを知る。

 確かに重要なことだった。


「ありがとう。それじゃ、土曜日は頼む」

「うん。任せて」

「……悪いな。毎日付き合わせて」


 鈴木のサポートは助かるが、本当のことを言えば申し訳ない気持ちで一杯だった。

 俺のために時間を使わせるのが、もったいないと思ったのだ。


「ううん。別にやることもないし。勉強はきちんとやっているから、安心して」


 にっこりと笑う鈴木。

 それから悪戯っぽい目つきになった。


「あは。意外と私のこと考えてくれているんだ」

「そ、そりゃ当たり前だろ」

「優しいんだね、高橋くん」


 上機嫌になった鈴木は俺に雑巾を差し出した。


「掃除して帰ろう。お腹すいたでしょ?」



◆◇◆◇



 土曜日。朝から夕方までかなり打ち込まれた。

 鈴木と知り合って一ヶ月弱。

 もうすぐ五月の半ばが過ぎようとしていた。

 少しずつ気温が上昇しているけど、まだ肌寒い日もあった。

 もうすぐ梅雨が始まる。じめじめした空気はあまり得意ではなかった。


「今日は十本か。まだまだだな」


 その場にへたり込んでいる俺に冷たく言い放った板崎さん。

 俺は文句を言うつもりはないが、せめて助言が欲しかった。


「い、板崎さん。どうすれば……いいんですか?」

「…………」

「やっぱり、左腕があった頃のほうが、俺は強かった」


 そう。いかに板崎さんが強くても両腕が揃っていたら二十本取れる自信がある。

 中学の頃はそれくらい、俺は強かった――


「お前は固執している」


 板崎さんはゆっくりと近づいて見下ろした。

 まるで俺が間違っていると言わんばかりだった。


「左腕があった頃のほうが強い? それはまだ、お前が『工夫』していないから、そう言ってしまったんだ」

「く、工夫?」

「どうして片腕しかないことをマイナスに考えるんだ?」


 それは、どう考えても……


「け、剣道は、両手で持ってやるものですよ?」

「それは思い込みだ。現に上段からの片手面打ちや二刀流もあるではないか」

「そ、それは……」


 板崎さんは俺から遠ざかって、また面を付け始めた。


「ならわしも片手で戦ってやろう」

「……えっ?」

「一本だけ見せてやる」


 面を付け終えた板崎さんは俺に向けて竹刀を構えた。

 つばの近くで短く片手で持っている。

 俺は慌てて構えた。


 ゆっくりと間合いと詰めてくる板崎さん。

 そしてぴたりと止まる。

 散々立ち会ったので、板崎さんの間合いは分かる。

 あの距離では届かない――


「でりゃああああ!」


 ――ぱん、という音。


「…………」


 届かないはずの面が、届いた。

 慌てて板崎さんを見ると。

 こちらを向いて、残心をしていた。


「どうだ? 分かったか?」

「……どうして、届くわけが」

「お嬢ちゃんに、映像を見せてもらうんだな」


 鈴木を見ると、何がなんだか分からないという顔をしていた。

 傍目から見れば、俺があっさり面を打たれたように見えただろう。


「今日はここまでとする」


 板崎さんが帰った後、掃除を終えて、鈴木にデジカメの映像を見せてもらった。

 でもさっぱり分からなかった。

 どうして届いたのか……


「なんでだ? まるで竹刀が伸びたような……」

「そうなの? 私にはまったく分からなかったよ」


 鈴木は「とりあえず、それ貸してあげる」とデジカメを渡してきた。


「日曜日はパパのジムに来るでしょ? そのときに返してね」

「あ、ああ。分かった」

「竹刀が伸びる……そんなこと、ありえるのかな?」


 いや、そんなことはありえない。

 なにか秘密があるはずだ。

 それを知ることができれば、板崎さんとの稽古に生かされるだろう。


 その日、板崎さんに挨拶しようと家のほうに向かうと、この前見かけた女性がいた。

 板崎さんと険しい顔で話していた。


「……では、相田はそのように稽古させます」

「そうだな……ああ、高橋か」


 俺と鈴木が頭を下げると女性が「板崎先生、この子たちは?」と怪訝な顔で訊ねた。


「前にも一度見かけましたが」

「男のほうが、わしの弟子だ」


 板崎さんが言うと女性は興味をそそられたのか、俺をしげしげと見る。


「へえ。先生が弟子を……君、片腕どうしたの?」

「事故で、失くしました」


 俺が答えると、女性が「ああ、あの高橋歩くんか」と呟いた。


「高橋くんのこと、知っているんですか?」


 鈴木が訊ねると「私の高校にスポーツ推薦で来る予定だった子だよ」と答えた。

 そうか。私立黄桜高校の教師だったのか。


「よく覚えていますね」

「君のことは中学時代から注目していた。事故のことがなければ、レギュラーにしたいくらいだった」


 意外と高評価だったらしい。

 すると女性は「失礼。自己紹介が遅れたね」と言う。


「私は三村という」

「俺は高橋で、そっちは鈴木です」

「まさか、先生がカップルを道場に入れるとは思わなかった」


 その言葉に俺と鈴木がほぼ同時に「違います」と否定した。


「鈴木は手伝ってくれているだけです」

「そうですよ。失礼しちゃうなあ」

「ああ。ごめんなさいね。でもどうして板崎さんが教えることに?」


 三村さんが板崎さんに訊ねた。


「もう弟子を取らないと言っていたじゃないですか」

「……高橋には才能がある。磨けば光る原石だ」


 板崎さんに褒められたのは、素振りが上手くいったとき以来だった。

 その評価に三村さんは「珍しいですね」と驚く。


「私の生徒には、そんなこと言わないのに」

「はっきり言えば、高橋ほどの才能は無いからな」


 その言葉にぴくりと三村さんは反応した。

 プライドを傷つけられたようだった。


「へえ。なら一度、私の生徒と高橋くんを戦わせてみたいですね」

「…………」

「高橋くん。君、どこの高校に行ったの?」


 関係無さそうなことを訊かれた俺は、反射的に「市立睡蓮高校です」と答えた。


「市立睡蓮高校……覚えておくわ」

「……高橋。お嬢ちゃんを家まで送ってやれ」


 帰れと言われたので、俺は「失礼します」と一礼してその場を後にする。

 鈴木は「あそこで高校の名前、言わないほうが良かったと思うけど」と耳打ちしてきた。


「うん? なんでだ?」

「杞憂になればいいけど。なんか変なことになりそう」


 鈴木が溜息をついた。

 俺は何がなんだか分からなかった。

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