第5話「それでは、稽古を始める」

 それから毎日、俺はジムに通いつめた。

 主に右腕と体幹を鍛えるトレーニングをしていた。達也さんが無理のないメニューを組んでくれたので、さほどつらくはなかったが、決して楽ではなかった。


 筋力だけではなく、体力と持久力をつけるため、ランニングマシンで走ったりもした。

 そうして分かったのだけど、片腕になるとどうもバランスが悪くなる。重さが違うからか、よろけてしまうことが多々あった。そのたびに達也さんに支えてもらった。


 右腕のトレーニングの中で、一番きつかったのは懸垂だった。筋力だけではなく、握力も付けなければならないため、効果的なトレーニングとして採用したと達也さんは言っていた。


 しかし片腕で全体重を支えつつ、持ち上げるのはなかなかに大変だ。初めは順手で普通の棒で懸垂を始めた。それに慣れてきた一週間後には、棒にタオルを巻いて太くして、しかも逆手でやるように言われた。


 順手だったら降りるときに楽ができるが、逆手はそうはいかない。降りるときも力を入れ続けなければ落ちてしまう。一瞬の気も緩められない。実際、俺は何度も落ちてしまった。


「筋トレは休むことも重要だ。しかし君は二週間で剣道ができるようにならないといけない。部位ごとに分けて休みを取り入れつつ、慣らしていこう」


 達也さんの言うとおりにトレーニングしていくと、次第にできることが増えていく。

 続けられる回数もどんどん増えていく。

 できると筋トレが最終的な目的ではないのに楽しくなる。


「はい。プロテインだよ」

「ああ、ありがとう」


 さらに言えば、こうやって何かと俺の面倒を見てくれる鈴木に助けられていた。

 部活のマネージャーのように水分や蜂蜜漬けのレモン、運動後のプロテインなどを差し入れてくれた。


 しかし、学校生活では一切、俺と会話しない。

 教室でも挨拶は交わさない。視線が合っても何の反応も示さない。

 それなのに放課後のジムでは甲斐甲斐しくサポートしてくれる。

 不思議に思いながら、俺は教室でこっそりハンドグリッパーを握り締める。


 どうして鈴木は学校で明るく振舞わないのだろう?

 振舞えないのではなく、振舞わない。

 きっと鈴木なら上手く人とやっていけるはずなのに。

 教室では空気に徹している。


 本来なら訊くべきだろうけど、何故か訊けなかった。

 訊きづらいとか筋トレに集中しているとか、いろいろ理由はあったけど。

 どうしても踏み込めなかった。

 剣道のように、踏み込めなかった。


 それはひとえに俺の弱さでもあり。

 人との距離感が上手い鈴木の強さの賜物でもあった。



◆◇◆◇



「引き締まった身体になった。これなら剣道ができるだろう」


 二週間後、ジムに来た板崎さんは俺にそう言ってくれた。

 ほっと一息つく。これで駄目だったらどうしようもなかった。


「板崎さん。分かっていると思いますが――」

「安心しろ。優しく指導してやる」


 念を押すように達也さんが言ったのを、途中で遮った板崎さん。

 気のせいかもしれないが、二週間ぶりに会った板崎さんが大きく見える。

 身長は俺のほうが大きいが、気迫が違うような……


「それでは道場に向かう。胴着や防具は準備してあるから、ついて来なさい」


 今日は板崎さんに会うので、ウェアには着替えていない。

 金曜日ということもあって、学生服のままだ。


「分かりました」

「お嬢ちゃんも一緒に来るか?」


 板崎さんの問いに鈴木は「良いんですか?」と嬉しそうに答えた。

 どうやら一緒に行きたかったみたいだ。


「ああ。まだまだ、支えは必要だからな」

「そうですね。高橋くん心配ですから」


 過保護というよりおせっかいに思えたが、素直な厚意は嬉しかった。


「ゆくぞ、高橋」


 俺たちは達也さんと別れて、板崎さんの先導で道場に向かう。

 そういえば、初めて名前で呼ばれたなと今更ながら気づいた。


 板崎さんの道場はジムから少し離れた住宅街にあった。

 古風な塀が連なって、門も時代劇に出るような木製だった。

 中に入ると家があって、その左側に道場らしき建物が見えた。


「門下生はどのくらいいるんですか?」


 物音一つしないのを不思議に思ったので訊ねると「今はいない」とこちらを向かずに答えた板崎さん。


「道場は日曜日に近くの高校に貸している。だから日曜以外は好きに使って構わない」

「はあ……」

「あは。好きなだけ練習できるね」


 鈴木ののん気な言葉はともかく、マンツーマンで指導されるとは思わなかった。

 少しだけ緊張してしまう。


「中に入ったら着替えておけ。わしは別に準備してくる」


 道場の前で言った後、板崎さんは家のほうへ向かう。

 俺と鈴木は中に入る。


 電気を点けると真正面に掛け軸がかけられている。

 達筆な字で『香取大明神』と書かれている。

 神棚もあって空気も澄んでいる。


 俺が一礼して中に入ると、鈴木も慌てて頭を下げた。

 右側に畳まれた胴着と防具袋が置かれていた。

 さっそく着替えようとするが……


「鈴木、着替えるから……」

「手伝うよ。片手じゃできないでしょ?」


 当然のように言う鈴木に驚きながら「いや、裸になるし……」と言った。


「私は気にしないよ?」

「俺が気にするんだよ!」

「じゃあ片腕で着替えられるの?」


 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。

 しかし、同級生に裸を見られるのも抵抗がある。


「…………」

「何恥ずかしがっているの? いいから着替えようよ」


 絶対に一人で着られるようになろう。

 そう決意した。



◆◇◆◇



 羞恥の時間が終わり、俺と鈴木は板崎さんを正座で待っていた。

 面と小手はつけていない状態だ。

 がらりと道場の入り口が開き、胴着と防具を身に付けた板崎さんがやってきた。


 板崎さんは面と小手を抱え、もう一方の手で二本の竹刀を持っていた。

 一礼して俺の正面に正座で座る。その際、小手を置いてその上に面を置く。


「それでは、稽古を始める」

「よろしくおねがいします」


 互いに正座のまま礼をして、それから「まだ面は付けなくていい」と言われた。


「まずは素振りからだ。基本を忠実に守る。それが上達の早道だ」

「分かりました」


 俺は後ろで鈴木が見守る中、板崎さんから竹刀を受け取る。

 久しぶりの竹刀。

 握った感触は懐かしい。


「なるべく長めに持て」

「長め……柄の後ろですか?」

「そうだ。長めに持って素振りしろ」


 俺は少しだけ板崎さんから離れて、言われたとおり竹刀を振った。

 振ったとき、音が鳴らなかった。

 振るスピードが遅いせいだ。


 でも、竹刀が振れた事実は。

 俺を高揚させるのに十分すぎた。


「足を使って正面素振りをやれ」


 板崎さんが厳しい声で言った。

 俺は前後に動きながら素振りを繰り返す。


 何度も振っても音が鳴らない。

 両手だった頃よりもかなり遅い。


 板崎さんは一向に止める合図を出さない。

 俺は何回、何十回と振った。


「はあ、はあ、はあ……」


 自然と息が切れる。

 右腕に乳酸が溜まり、振る速度が遅くなるのを感じる。

 それでも止めの声は出ない。


「――っ!」


 とうとう竹刀を落としてしまった。

 多分、百も振っていない。


「高橋くん、大丈夫――」

「高橋! すぐに竹刀を拾え!」


 鈴木の声をかき消すくらいの怒声を発する板崎さん。

 俺は慌てて竹刀を拾った。


「まだ止めろと言っていない。振り続けろ」

「そ、そんな……」


 鈴木がショックを受ける中、俺は姿勢と呼吸を整えて――振る。

 中学のときには鳴っていた、音が聞こえない。

 昔できていたことができなくなるのは悔しい。


 何度も振って、何度も落として。

 そのたびに、板崎さんに怒鳴られて。

 結局、二時間素振りだけで終わってしまった。


「明日は土曜日だな。一日中稽古ができる」


 全身汗だくで、呼吸すらままならない俺に、板崎さんは冷たく言った。


「お前も分かっているように、満足のいく素振りができなければ、何度でも振れ」

「……はい」


 そしてそのまま道場を先に出て行く板崎さん。

 鈴木が俺に近づいて「大丈夫?」と心配そうに声をかけた。

 俺は『弟子殺し』の意味が分かりかけていた。

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