第4話「高橋くん、剣道好きなんでしょ?」
家に帰って自分の部屋のベッドに寝転んで考えると、どうもあのおじいさん――板崎さんが胡散臭く思えた。
もう一度竹刀を振れるようになるのは、泣きたくなるくらい嬉しいことだ。
しかし見ず知らずの俺の代わりに安くない月謝を支払うのは怪しく思える。
そんなことをして、板崎さんに何のメリットがあるのだろうか?
考えれば考えるほど、おかしいと思ってしまう。
疑い深い性格ではないが、俺に好都合な側面しかないだけに裏がある気がしてならない。
世の中、そんなに甘くないことぐらい、片腕を失くして気づかされた。
それに達也さんの態度もおかしかった。
あの人は板崎さんのことを『弟子殺し』と呼んでいた。
実際に殺人をしたわけではないにしろ、恐ろしい異名であることは間違いない。
そもそも俺は板崎さんのことを何一つ知らない。
板崎さんがあの場から去った後、達也さんに話を訊こうとしても、何も答えてくれなかった。一応、鈴木にも聞いたけど「よく知らない」とはぐらかされた。
ネットで『板崎 剣道家』と調べたけど、ろくな情報はなかった。
まあ平凡な名前だし、全国で板崎という名字を持って剣道をやっている人は大勢いる。
それにどこかで指導者をやっていると仮定しても、老人がSNSで宣伝しているとは思えない。
そんなことを深夜まで考えていると、不意にスマホの通知音が鳴った。
ラインだと思って確認すると、鈴木からだった。
帰り際、交換したなと思いつつ、内容を確認する。
『明日、駅前のコーヒー屋さんで会わない? いろいろ悩んでいるでしょ?』
まるで心の内を覗かれている気がしたが、悩んでいたのは事実だった。
案外、いい考えというか、板崎さんのことを聞けるかもしれない。
俺は『了解。何時頃?』と返信した。
◆◇◆◇
「あ、高橋くん。こっちだよ」
大きく手を振って、俺にアピールする鈴木。
店内はまばらに人がいて、少しだけ注目を集める。
俺は足早に鈴木のいる、奥の四人席に向かった。
「早いな。約束の時間まで十分もあるが」
約束の時間は三時だったはずだ。
腰かけながら言うと、鈴木はくすくす笑いながら「三十分前には着てたよ」と言う。
「二十分も待たせたのか。悪かったな」
「いいよ。勝手に待ってただけだし。それに待つのは嫌いじゃないよ」
待つのは嫌いじゃないというのは理解できなかったが、俺はピンポンを押して店員さんに「アイスコーヒーください」と注文した。
鈴木は既に、コーヒーを注文していて、カップの半分くらい飲んでいた。
店員さんが立ち去った後、改めて鈴木の姿を見る。
もちろん、制服ではない。白を基調とした地味なファッションをしていた。まるでどこにでもいるようでいない文学少女のようだ。
「それで、どうして俺を呼び出した?」
「悩んでいると思ったから。いろんなこと、考えているんでしょ?」
見透かすようなことを鈴木は言う。
そのとおりだったが、肯定するのは癪だった。
「別に、考えてねえよ」
「じゃあ板崎さんになんて言うの?」
「……まだ決めてない」
鈴木は「そんなに悩むことないと思うけど」とコーヒーカップの縁を指で撫でた。
「月謝を払ってくれて、竹刀も振れるようになる。いい事ずくめじゃない」
「普通に考えれば、そうなんだが……裏があるような気がして」
俺の返答に鈴木は「どんな裏があってもいいと思うよ」とあっさり言った。
「裏があっても、利用されても、死ぬような目に遭うわけじゃないでしょ?」
「……まあ実際、死ぬような目に遭ったこと、俺はあるからな」
「あは。それちょっと面白かった」
自虐を混ぜた冗談に鈴木は素直に笑った。
どちらも悪趣味だったなと思う。
アイスコーヒーが届いて、それをストローで飲む。
苦くて美味しかった。
するとそれまでへらへらしていた鈴木が「真面目に言うとね」と真剣なものへと変わった。
「板崎さんのことはよく知らない。パパの知り合いで週に二回来るってことしか。だから何を考えているのか、分からないの」
「そうか……」
「でもね。これだけは言えるよ」
鈴木はそのままの口調で言う。
「好きなことを諦めて生きるのって、つらくない?」
「…………」
「高橋くん、剣道好きなんでしょ?」
剣道をやっていて、きついと思ったことは何回でもある。
防具を着けて動くのは重いし暑い。
稽古の内容はハードだ。
でも稽古を積み重ねれば強くなれた。
傍には仲間もいた。
試合に勝てば嬉しいし、負けたら悔しかった。
俺は、剣道が好きだ。
「ああ。俺は剣道好きだよ」
目の前の鈴木にはっきりと言えた。
何の照れもなく、躊躇もなく。
言えることができた。
「ふふふ。格好いいね、高橋くんは」
このとき、鈴木は一瞬、悲しそうな表情を見せたけど、すぐに笑顔になった。
少し違和感を覚えたが、鈴木の「それじゃ、行こうか」と言われた。
「行くって、どこに?」
「ジムだよ。もう板崎さんいると思うよ」
◆◇◆◇
「お願いします。俺にもう一度、剣道をやらせてください」
正座をして、目の前の板崎さんに頭を下げる俺。
後ろから達也さんの溜息が聞こえた気がした。
「よくぞ言ってくれた。それではわしが剣道の指導をしよう」
満足そうにそう言った板崎さん。
顔を上げて「本当ですか!?」と訊ねてしまう。
「ああ。お前を一人前の剣士にしてやる。鈴木、それでいいな?」
「……正直言って、俺は反対なんですけどね」
達也さんのほうを見るとやめたほうがいいと表情が物語っていた。
でも目を逸らさず見つめていると、やがて仕方ないなと苦笑した。
「分かった。それじゃ、今日からこのジムに通うように」
「ありがとうございます!」
達也さんにも頭を下げた。
片腕の俺を指導するのは大変だ。
だけど、鍛えると決意してくれた達也さんには感謝しかなかった。
「良かったね、高橋くん!」
鈴木も喜んでくれている。
まあ鈴木の言葉が無かったら、決断できなかっただろう。
「ありがとうな」
「ううん。大したことしてないよ」
手を振ってやんわりと言う鈴木。
それを見ていた板崎さんは俺に「こういうのはどうだ?」と提案した。
「お嬢ちゃんにも指導を手伝ってもらうというのは」
「真理は素人ですよ? 足手まといになります」
達也さんが断ると「軽いお手伝いだけだ」と板崎さんは言う。
「部活のマネージャーみたいなことをさせる。人手が足りないからな」
「あ、それならできるかも」
「……真理がいいなら」
俺がぼんやりしているうちに、話が進んでしまった。
鈴木は「よろしくね、高橋くん!」と元気良く言った。
「ああ。よろしく」
それから板崎さんは「とりあえず二週間だな」と言った。
「二週間はここで鍛えてもらう。竹刀が振れるようになるには、その右腕の筋力を上げて、持久力もつけねばならん」
「今でも、竹刀なら振れると思いますけど」
「一時間、振り続けられるか?」
その言葉に二の句も継げられなかった。
板崎さんは「それから握力も強くしてほしい」と達也さんに言った。
「握力、ですか?」
「そうだ。無ければ強くなれん」
竹刀は柔らかく持てと言われたが、それとは間逆の考え方だった。
一体、板崎さんは何を考えているのだろう?
「それでは二週間後、このジムで会おう」
「えっ? 板崎さん来ないんですか?」
俺はてっきり、一緒についてくれると思ったのだが。
板崎さんは「久しぶりの弟子だからな」と言う。
「わしも鍛え直す必要がある。二週間したらわしの道場に案内する」
「はあ……道場……?」
「さほど立派なところではないが、我慢しろ」
板崎さんは最後に俺に右肩に手を置いた。
「わしのことは信用できぬと思うが、それでも構わん」
「…………」
「強い剣士に必ずしてやる」
俺は板崎さんの力強い目を見て、ああこの人なら本当にできるかもと思ってしまった。
片腕になってしまった俺が、もう一度強くなれるのか。
少しの期待と大きな不安が俺の心に去来した。
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