第3話「高橋くん。なんだか私、ドキドキしてきたよ」
駅に近いビルの二階に『スズキトレーニングジム』と書かれた看板がある。
どうやらそこが鈴木の親戚が経営しているジムらしい。
鈴木は小さいジムと言っていたが、中に入るとたくさんの筋トレマシンがずらりと並んであって、まばらながらも人がいた。
設備も新品で、どれもこれも手入れが行き届いている。トレーナーも数人いるし、なかなか立派なところだと思った。
鈴木は慣れた様子でマシンの間を通り、トレーナーらしきおじさんに「ただいまー」と声をかけた。
そのおじさんが振り向くと、色黒の身体にムキムキな筋肉が見えた。タンクトップに下はジャージというスタイルだった。親戚だからか、どことなく鈴木に似ていた。
「おお、真理か。おかえり」
「今日は是非会わせたい人がいるの。高橋歩くん」
そう言って俺を紹介する鈴木。
しかしその紹介の仕方だと、まるで彼氏のようだなと思った。
まあ親戚の人らしいし、後で勘違いを解けば――
「なに!? 紹介したい奴って男か! い、いつの間に!?」
あれ? かなり動揺している……
そのムキムキおじさんは恐い顔で俺に近づいてきた。
「お、お前! いつ真理に手を出した!」
「え、あ、その、違います……」
「誤魔化すんじゃない!」
激しく誤解をしているようだ。
俺は「おい、鈴木。なんとかしてくれ」と言った。
「鈴木だと? なに親しげに呼んでいるんだ!」
「いや、名字……全然親しげじゃないです……」
「あは。パパ、高橋くんは彼氏じゃないよ」
くすくす笑いながらやっと訂正を入れた鈴木。
というか、わざと誤解させたな……?
「な、なんだ……よ、良かった……」
ほっと一息入れたムキムキおじさんから離れて、俺は鈴木に「今お前、パパって言わなかったか?」と問い詰めた。
「そうだよ。ここは父さんがやっているジムだよ」
「……親戚がやっているって言わなかったか?」
「パパも親戚でしょ?」
「一親等じゃねえか!」
実家がスポーツジム営んでいることが恥ずかしいと思う性格じゃない。
絶対に先ほどのやりとりが見たかっただけだ。
「改めて聞くが、二人の関係は?」
冷静さを取り戻したらしいムキムキおじさん……もとい、鈴木パパは俺に訊ねた。
「クラスメイトです」
「ほう。クラスメイト……気を悪くしないでほしいのだが、その左腕はどうした?」
まあ聞くよなと思いつつ「去年、事故で失いました」と正直に答えた。
難しい顔になる鈴木パパ。
「見たところ、普通に歩けるようだが、リハビリ目的で来たわけではないな?」
「ええ、まあ。鈴木……娘さんに連れてこられまして」
「真理。どういうつもりで連れてきたんだ?」
厳しい口調で訊ねる鈴木パパに、娘は明るく答えた。
「高橋くん、事故に遭う前はスポーツしていたんだって。でもそれ以来運動していないから、ここでやってみたらどうかなって」
「……大半のトレーナーは、その、慣れていないんだ」
曖昧な言い方だが、要は障害者のトレーニングに慣れていないという意味だ。
「ならパパが見てあげてよ。少しだけで良いから」
「俺がか? まあ他の者よりは多少なんとかなるが……」
「ねえ高橋くん。ウェア貸すから運動しない?」
話をどんどん進める鈴木に「ちょっと待ってくれ」とストップをかけた。
「俺は鈴木の父さん……えっと、なんて呼べば?」
「ああ、名前を言ってなかったな。達也だ」
「ありがとうございます。その、達也さんや他の客の迷惑になるんだったら、俺は無理して筋トレしたくない」
自分でも立派な意見だと思う。
実際は片腕ということで他の客から奇異の目で見られるのが嫌なだけだ。
しかしそれをストレートに言うのは憚られた。
「だから、今日は見学に来ただけだ。それにジムに通うとなると月謝も払わないといけない。いくらか知らないけど、高校生の小遣いだときついものがある」
「…………」
黙りこんでしまった鈴木。
俺はこれで納得してくれるだろうと思った。
だが――
「――偉い!」
大声を出して俺に向けて拍手したのは、達也さんだった。
何故か頬を涙が伝っている。
「今どき見ない、立派な高校生――いや、男だ!」
「えっ? 何言ってるんすか?」
「本当は運動がしたくてたまらないのに、俺たちのことを優先し、自分を後回しにする姿勢が気に入った!」
そんなつもりは微塵も無い。
慌てて「そんなことない――」と否定しようとしたが、びしっと開いた右手を俺の前に突き出された。
「皆まで言うな! 今日は俺が付きっきりで面倒見てやる! その後のことはまた考えよう!」
さっきの誤解と言い、マジで思い込みが凄いおじさんだった。
俺は鈴木を横目で見た。
ぐっと親指を立てられた。
「…………」
「とりあえず、トレーニングウェア持ってくるから、更衣室で着替えてくれ!」
◆◇◆◇
トレーニングウェアなるものに着替えた俺は、軽い準備運動の後にランニングマシンで走ることになった。
軽く時速十キロからスタートして、最大で時速十二キロまで速度を上げるらしい。
「すっすっはっはっ」
「そうだ。二回吸って二回吐くリズムで走るんだ」
しばらく運動してなかったせいか、息切れが激しくなる。
だが十五分ほどだったのでなんとか走りきることができた。
「はー、はー、はー」
「結構体力あるじゃないか。次は腹筋にしよう」
俺にできる筋トレマシンは少ない。
どれもこれも両手を使う用途で作られているからだ。
しかし達也さんは俺でもできる器具を選んでくれている。
「はい。スポドリだよ」
鈴木もいつもの学生服からジャージに着替えていた。
差し出されたスポーツドリンク。
直接飲むタイプの水筒だった。
「ありがとう……うめえなこれ」
「ふふふ。私の自作だからね」
「へえ。それは凄いな」
目の前でぶら下がり健康器のような器具で、何回も懸垂をしているおじいさんを見ながら、俺は鈴木に「連れてきてくれてありがとうな」と礼を言った。
「久しぶりに運動したら、気分が晴れたって感じがする」
「あは。それは良かったね」
「でも、今日でやめておく」
俺は鈴木のどうして? という顔に答えた。
「他の人の迷惑になるしさ。それに他の人はスポーツや自分を鍛えるって目的がある。俺にはそれがない」
「無くても、時々来るのは?」
「それこそ達也さんに迷惑だろ。あの人ジムのオーナーもしているんだからさ」
鈴木には感謝しているけど、だからこそ断らなくちゃいけないと思った。
だから誠意を込めて言う。
「やっぱり俺は諦めることにするよ」
「高橋くん……」
「お前の厚意は嬉しい。でも月謝の問題もあるから――」
そのとき、ぽんと肩を叩かれた。
振り返ると、先ほど懸垂をしていたおじいさんがいた。
頭に毛がまったく無い。顔に皺が刻まれている。
だけど身体には筋肉が付いていた。おそらく七十代だと思うけど、姿勢が老人とは思えなかった。
「な、なんですか?」
「先ほどから、君たちのやりとりを聞いていた」
おじいさんはにこにこ笑っている。
そしてとんでもないことを言い出した。
「わしがお前さんの月謝を出そう。それなら続けられるかな?」
「えっ? 本気で言っているんですか?」
見ず知らずの俺の月謝を払う?
もしかして富豪だったりするのか?
「板崎さん。どういう風の吹き回しですか?」
俺と鈴木が唖然としていると、困った表情で達也さんがこっちにやってきた。
俺たちのやりとりを少し離れたところで見ていたらしい。
「ただのきまぐれ……そう言ったら信じるかな?」
「信じられませんね。『弟子殺し』の板崎さんのことだ。何か裏があるんじゃないですか?」
で、弟子殺し?
なんか物騒な単語が出てきたが……
「君。怪我をする前は剣道をやっていなかったか?」
おじいさん……板崎さんが鋭く言い当てたので、思わず「はい、そうです」とほとんど反射的に答える。
すると板崎さんはにやっと笑った。
「はは。正直で良い。まあ、動きを見れば分かる」
板崎さんは俺に言った。
「まだ剣道に未練があるのなら、わしが鍛え直してやろう」
「……何言っているんですか? 俺は――」
「片腕でも竹刀を振れるようにしてやる。だが、基礎体力がだいぶ落ちているようだ。わしが面倒を見る前に、ここでトレーニングしなさい」
片腕でも竹刀が振れるようになる。
その言葉は魅力的だった。
諦めてしまった俺にも、魅力的に聞こえたんだ。
「板崎さん。勝手なことを言わないでください。あなたに高校生を任せたら、潰れてしまう」
「そうかもしれないな。しかしそうはならないこともある」
達也さんは埒が明かないと思ったのか、俺を説得する。
「やめたほうがいい。もし剣道をやるとしても、この人だけは駄目だ」
必死な顔で止める達也さん。
そんなにやばい人なのか?
「まあ今決めなくても良い。返事は後日でも――」
「……明日まで待ってください」
俺は板崎さんと達也さん、そして鈴木に言った。
好奇心と不安と余裕と、三者三様の表情だった。
「明日、学校はありません。じっくり考えて、明日の夕方、ここに来ます」
「……それで決められるか?」
板崎さんの問いに俺は頷いた。
すると老人は満足そうに笑った。
「良い覚悟だ。どのような決断をしても納得できるかもしれん。では夕方、待っている」
板崎さんはそう言い残して、その場を立ち去った。
「高橋くん。なんだか私、ドキドキしてきたよ」
鈴木の楽しむような声。
達也さんはふうっと溜息をついた。
もう一度、竹刀が振れる。
そう考えると鼓動が高鳴った。
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