第22話 夢魔

 近く御前試合が行われ、観兵式ののち騎士団を中心に軍を再編成して出兵という流れになる事になった。


 ゴートワナ帝国は、産業や経済が強い国ではない。恐怖で属国を支配し、その富を享受している国だ。そのため国土を広げ、支配地域を増やす必要があるし、常に恐怖を与え続けなければならない。目的のためには手段を択ばず何でもやる国。

 何度も小競り合いを繰り返してきていたが、ついに大軍が国境を超えてきそうという報告。


 帝王ヴィルヘルムは、呪術師を従えた魔導士である。剣と剣で戦うのはあくまで前哨戦で、最終的には魔導士を守りながらの魔法の応酬になっていく。

 エステリア王国も魔法に強い国ではあるが、今回の帝国の動きはやたらと自信が感じられる。何か大きな力を手に入れたのではないかと思われて不安だ。



 あの日以来、コーヘイとフレイアは顔を合わせていない。お互い気まずい雰囲気であったし、フレイアが以前以上に部屋に閉じこもってしまって、滅多に姿を見せる事がなくなっていたからだ。


 コーヘイも従軍が決まりそうだから、もしかしたらこのまま顔を見ないまま別れる事になってしまうかもしれなかった。


 意を決して会いに行ったが、この日フレイアは熱を出して寝込んでいるという事で会えなかった。最近、よく体調を崩していると聞く。

 謹慎の三か月は終わっていたが、王子救出の功績もあって、今は静養として休んでいる状態。


 シェリもほとんど会えてない。随分衰弱してきてるから、魔術師団の医療部屋に移すという話もあるらしい。


 なぜあの時、無事であった事のみに感謝して素直に抱きしめなかったのか。何をしても彼女は彼女だ。彼女は他人のためにすべてを差し出すのに自分は、自分を心配させる彼女に怒ってしまったのだ。なんと未熟だったろう。




 ついにフレイアは治癒術師の本格的な治療を受ける事になった。


 戦端が開かれれば、国の一職員の治療に関わっていられなくなるので、その前に診ておこうという事になったのだ。


「呪術だな、夢魔を放たれたらしい」


 治癒の副団長カイルは、もはや意識がほとんど戻らない少女の様子を淡々と伝える。


 セトルヴィードは手に持った新しい護符を、机の引き出しに仕舞った。もう役に立つものではない。

 彼女は仕事の用がないと本当に来る事がなく、手渡せなかったのだ。


 呪術師に目をつけられるような行為を確かにやらかしてはいた。


 しかしこんなふうに攻撃されるような要素があるとは思っておらず、油断した。

 フレイアは異世界人とはいえ、国で役職を持っているわけでもないただの下っ端の職員の一人だ。こんな方法で狙われる理由など、到底思いつかなかった。

 夢魔は個人的な恨みのレベルで放たれる魔獣ではなく、術者の死と引き換えに放たれる。術者が夢魔に乗り移ると言った方がいいだろうか。性格の悪い術者ほど、質が悪い。


 夢魔の攻撃は残酷で、本人が一番みたくない記憶を掘り起こし、繰り返し見せ付ける。精神が崩壊するまで。

 余りの苦しさに、心が壊れる前に心臓が壊れる事もあるという。



 出来るなら一番つらい記憶を見せる前に、死なせてやったほうがいい場合さえあるのだ。


 フレイアは時々うなされている程度で、それほど辛い記憶をもっていないようにも見えるが……。辛い記憶がなければ、長く眠り続けるだけで済む場合もある。


「記憶喪失という話だが、その場合はどうなるんだろうな」


 カイルは治癒の専門家として興味があるようだ。

 それにしても、自分の事だけすっぽり抜け落ちる記憶喪失なんてあるだろうか?



 まず局長エリセが呼び出され、少女の過去について聴取がなされる。


 セトルヴィードはその話を聞き終えると、フレイアを苦しみから解放する役目を担う勇者を選ぶよう、騎士団に通達した。



◇◆◇◆



 コーヘイは抜き身の剣を床に突き立て、それを両の手で支えフレイアの眠るベッドの傍らで静かに立っていた。

 周辺では高位の二人の魔導士が、様々な魔方陣を準備している。





 少女は、とりあえず三歳ぐらいまでは、何事もなく育っていた。

 環境が変わったのは、弟が生まれた日から。


 父親も母親も、男子を切望していた。特に父親は跡取りを欲しがっていて。


 彼女は両親に放置され、寂しかった。

 辛くて泣いても、うるさいと乱雑に殴られるだけ。

 幼い少女はどんなに辛くても、泣声を出せなくなっていった。


 それでも少女は、自分の出来る事を精一杯やった。

 家の手伝いをし勉強を頑張って、自分の事も見て欲しい、愛して欲しいと心で叫び続けて。延ばしても届かない手、誰も支えてくれない孤独、寂しさ、絶望。

 人の顔色を窺っては、殴られないよう、怒られないよう、先手を打って動く。


 少女の心は冷たい暗い感情で満たされつつあった。しかし、その心に芽生える闇を、誰かに見せる事も、ぶつける事もなく育っていく。


 大きな事件が起きたのは、少女が十四歳になったばかりの時。


 父親はあくどい男だった。小さな会社をだまして潰し。

 慕われていた社長は自殺した。

 従業員達は一矢報いようと、娘を攫ったのだ。


 娘を返して欲しければ、すべての悪事を世間に告白するか、金を払え、という要求を突き付けたが男は簡単に娘を見捨てた。


 恨みを晴らすための生贄の子羊、狂乱の供物。復讐と、憂さ晴らしと、欲望と、狂気をすべて、少女はその身に引き受ける事になってしまった。


 衣服を切るために突き出されるナイフ。

 少女は本能的に、これからなされる行為を予感して恐怖した。

 力の限り暴れ抵抗をする。


 ナイフは勢い余って、衣服ではなく彼女の足を大きく切り裂いた。



「……っ!!」


 フレイアの体が大きくビクンと跳ねた。


「始まったか」


 魔導士は紫の目を少し細め、少女を見守る。

 タイミングが大事だった。

 被害者が精神を崩壊させて心が死ねば、夢魔も宿主を失って消滅する。しかしそうなる前に宿主が死んだ場合、夢魔は更に凶悪な魔物となって他の人間に取りつく。

 だからといって、廃人になるまで苦しめたくはなかった。


 硬く封じられた記憶を、夢魔はこじ開けるのに苦労したようだったが、一度開いてしまえば鍵は次々と爆ぜて壊れていく。


 記憶の奔流の中の、取っておきの絶望が選び取られる。


 本当なら、その記憶を見せられる前に死なせてやりたい。しかしそうなると、他に犠牲者が出る確率が遥かに高まる。少なくとも最悪の悪夢を一度は見せないといけないのだ。

 銀髪の魔導士は苦渋の決断をしていた。


 形容しがたい、愛おしい気持ちを感じていた。一緒にいると心地良くて、時間が許すならずっと他愛ない会話をしながら、茶を飲みながら過ごしていたかった。笑顔だけを見ていたかった。

 自分の立場が恨めしい。彼女の同僚たちのように、気ままに傍にいられたならきっとこの夢魔からも守ってあげることができたのに。

 しかし自分は国を守るための重責があり、自分の感情は常に二の次にする必要があった。


「いや……やめてぇ、怖い、痛い、やだ、やめて……」


 少女の息遣いが荒く、激しくなる。右手が助けを求めて空に向かって差し出される。握って励ましたいが、夢魔に取りつかれた人間に触れてはならない。

 嗚咽は絞り出されるようで、聞く者の心さえ苦しめる。コーヘイは剣を強く握りなおし、目を閉じてひたすら耐える。


 フレイアの脳裏にはもはや映像はなく、逃げ出した自分が崖から落ちた無重力の瞬間の感覚と、爆発するような肩を貫く痛み、恐怖と相対するように渦巻く自分の黒い感情。なぜ自分がこんな目に合うのかという理不尽に対する、恨み、悲しみ、憎しみが渦を巻きながら、痛みと恐怖がぶつかり合い、拡大していく。闇が闇を飲み込んでいく。もうこんなもの見たくないのに、激情は止まらない。この世の災厄のすべてが詰められた箱が目の前で開いたかのようだ。



 世界が、自分が、憎悪に焼かれて炭になるように黒く染まっていく。重くのしかかり身動きができない。闇に掴まってしまった。もはや音すら聞こえない。




 そんな音を失った世界で闇が深まって行く中、別の光景が重なりはじめた。


 金色の。


 金色の風景。闇に重なる、暖かな光。


 小麦畑。


 金色の小麦畑。


 驚いた顔、心配そうに見つめる目、自分に向けられた、はじめての優しさ。




 ……おかあさん。




 フレイアの唇から、苦悶の声以外の言葉が漏れはじめた。




 ……おとうさん。




「わたしは 負けない わたしは 強い わたしは 死なない わたしは 生きるわたしは 戦う ……」




 死の床にあった父が、繰り返し復唱させたあの言葉が、自然と口につく。


 言葉の合間に織り込まれた詠唱の言葉。唱えると同時に、フレイアの記憶の小麦畑の、枝葉の輪郭のラインすべてに光が走る。次々と実が爆ぜ散って光の粒と化した。


 魔力の流れはやがて複雑な回廊を駆け巡る。


「なんだこれは」


 最高位魔導士であるセトルヴィードですら見たことがない風景が、ベッドの周辺に広がっていた。


 ぽつりぽつりと、金の光の粒が輝きだしたと思ったら、粒は渦をなし、いくつもの星雲のような魔方陣を形作っていく。宇宙の縮図が展開されて、生きているように流れ動いていくのだ。


 三次元展開された魔方陣。魔導士はあまりの光景に身動きできなかった。


 この光景の中でも、コーヘイは集中を切らしていなかった。

 全神経を尖らせ、気配を感じる。


 フレイアが目を開けた。黒曜石のようだった瞳は、若葉に透ける光のような、輝く明るい若草色。


 刹那、少女の体からこの景色に相応しくない醜悪な黒い塊がはじき出された。


 コーヘイは、居合道の達人もかくやという一閃をふるう。全身全霊の一太刀。

 夢魔は二つに分断され、激情と憤怒と呪いを込めた、不快な悲鳴を上げて灰になっていった。



 ベッドの周辺に敷かれた魔方陣が、光に取り込まれ、分解され、消えていく。

 

 セトルヴィードがフレイアの瞳を覗き込むと、その虹彩に複雑な魔方陣があり、揺らめきながら何度も記述を変えていた。


 すべての魔法陣が溶けるように消えた時、フレイアの瞳からも光が消え、元の黒い瞳が紫の瞳を見つめ返す。


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