第4話 本当の子供

それから五年が過ぎた。ダイレクトメールも勧誘の電話も、途切れることなく桜木家のポストをにぎわせた。特に『タケミチくん』が大学受験期に差しかかった時には多くの塾から山のように『ラストチャンス!』のビラが舞い込み、桜木夫妻を閉口させた。高校卒業後は、一年を通じて予備校のチラシが届いた。それらをファイルに収めながら康子は苦笑した。どうやらうちの息子は、浪人したことになってるらしい。


桜木夫妻に、依然として子供はできなかった。


「しかし、広告って怖いもんだな」


啓之の言葉に康子は皿を洗う手を止め、夫の方を向いた。


「俺たちの世代とは比較にならんほど、広告が溢れている。自宅に届くものだけでこれだけあるんだ、プレッシャーすら感じるよ。習い事を三つも四つもかけもち、塾にも通う小学生がいるのもわかる気がする」

「そうよねえ。もし私たちに子供がいたら、今頃大変だったでしょうね」

「うん。業者の連絡網というのは凄い。子供が一人いると思いこまれただけでこんなに情報が出回り、色んなものが届くんだからなあ。選択の権利はこちらにあるけど、ないと困るぞ、なぜやらない、子供のためだぞ、なんていう圧力がひどい。情報社会の公害って言ってもいいんじゃないか」


康子はアルバムの横に並べられたファイルを遠目に数えてみた。数年前、もしかしたらと思って近所の高校の名簿をあさってタケミチの名前を探したのは、今でも秘密だ。

啓之は妻の様子に目を細め、ビールを飲み干してテーブルに置いた。


「もう終わりにしないか」

「なにを?」


とっさに意味を捉えかねて、康子は聞き返した。


「お前も気味の悪い架空の子供に振り回されて、疲れただろう。俺たち今年で幾つになった? 養子でももらって、『タケミチくん』のことも消費者センターになんとかしてもらって、本当の子供を育てていこうとは思わないか」


二人の間に長い沈黙が訪れた。康子はファイルに向けたままの目をそらさず、ぼんやりと夫の言葉を考えていた。


「どうだい」

「嫌よ」

「嫌なのか」

「あなたはそれでいいの」

「もちろんそれでいいんじゃないのか」

「私はもうタケミチを忘れることなんてできない」


そうだ、もうタケミチを忘れたりなんかできっこない。口にすることで康子は自分の気持ちを素直に認めることができた。


「今から子育てをはじめるのはとても大変なことよ。タケミチのことだけで、私はもうたくさん」

「なにを言ってるんだ。タケミチなんて子は、いないんだぞ!」


声を荒げる啓之に康子はほほ笑んで見せた。


「いるのよ、ここに」


康子は棚からファイルを取り出すと、食卓に広げた。


「私はこのファイルを通して、成長するタケミチをずっと心の中で育ててきたの」

「康子……目を覚ましてくれ」

「ねえ、これからは二人で、タケミチのたどってきた道をつくりあげていきましょうよ」


啓之は厳しいまなざしをファイルと妻の顔の間で往復させた。

夫の苦渋の表情と、にぎりしめた拳を、康子は穏やかな顔で見守っていた。

顔を上げた啓之は初めて自分からファイルを手に取り、しばらく黙り込んだ後、ぽつりと言った。


「淋しい老後になるぞ」

「大丈夫よ、きっと」


その夜の桜木家は、明け方近くまで光が絶えなかった。

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