第3話 成長する息子
『タケミチくん』はその後も年を重ねていった。小学校を卒業して、中学生になった。それに合わせて勧誘の電話やダイレクトメールも多岐にわたった。夏期講習、赤十字、ボーイスカウト、空手道場、記憶術、身長伸ばし器、新しくオープンした若者向け美容室の案内状、その他にも数え上げればきりがない。『タケミチくん』が現れる前と比べると、驚くほど大量で魅惑的な情報の数々である。
それらをファイルに収めながら、康子は存在しない息子について空想せずにはいられなかった。体育会系のサークルで知り合った二人の子供だ、きっとスポーツマンになるだろう。夫も自分も背は高い方だから、加藤さんの息子みたいに身長伸ばし器は欲しがらないだろうな。でも学校の成績は良くないかもしれない。やっぱり塾には親の方から行かせておくべきなのかも。へえ、男性用エステなんかあるんだ。最近の中学生にはこんなハガキまで届くんだなあ。でも何、この料金。いくら頼まれても私なら絶対許さないよ、こんな大金。
玄関のチャイムが鳴った。康子はあわててファイルを閉じ、インターフォンを取った。
「あ、どうもこんにちわ。ジュピター学習システムの者なんですが、タケミチくんはご在宅ですか?」
ふうん、ハガキと電話の次は訪問販売か。そう思った瞬間、康子の中にちょっとしたいたずら心がめばえた。
「タケミチでしたらもう少ししたら帰ってくると思うんですけど。良かったら入ってお待ちになります?」
「……へーえ、最近の高校受験はそういう風になってるんですか」
「ええ。お母様方の頃に比べるとずいぶん違ってきているでしょう」
康子より年下のようであるセールスマンは、ここがポイントとばかりに身を乗り出した。
「ですからお母様、少し早いと思われるかもしれませんが、今から始めるべきです。他のお子様もすでに受験勉強をスタートさせているんですよ」
玄関にはアコーディオン状のパンフレットがずらりと広げてある。他人事と思って聞いてる分には結構おもしろいわねと、悩んでいる素振りを見せながら康子はにやつく口元を隠した。
「それにしてもタケミチは遅いわねえ、ちょっと電話してみますね?」
啓之はすぐに電話に出た。
『もしもし?どうした、康子』
「あ、もしもし。今日帰りは何時頃になるの?」
『いつもと同じくらいかな。何かあるのか』
「いいの。うん、わかった。それじゃ」
電話を切ると康子はセールスマンに頭を下げた。
「ごめんなさい、息子は友達の所に泊まりに行くそうなんです。また後日あらためてお願いしますねえ」
玄関まで見送ってドアを閉めてから、康子はしばらくの間くすくす笑っていた。断った時の、セールスマンのあの顔ときたら! 悪いことしたなあ。でも、楽しかった。どうせなら、タケミチが本当に帰ってきてたら面白かったのに。
康子は会話の最中、今にも「ただいま」とタケミチがドアを開けるんじゃないかと、空想に浸って楽しんでさえいたのだ。
しかし、ふと思いついて康子は笑いを引っこめた。
本当にタケミチはいないのだろうか?
タケミチは、本当はどこかにいるんじゃないか?
もしかしたら……。
ひょっとしたら……。
その日の夕食、康子はその思いつきを啓之に話すことにした。
「あなた、ミユキさんのことだけど」
啓之はピュッという音をたて、口の中のみそ汁を噴き出した。
「おい、ミユキのことはちゃんと謝っただろう。決着はついたんだから、もう話題にするのはよそうって約束したじゃないか」
五年ほど前、啓之は職場の後輩に手を出した。ちょっとした変化や生活サイクルの乱れに敏感な康子に、夫は嘘をつけなかった。相手が退職した後、話し合いで一応の決着はついた問題だった。
「そうじゃないの。もしかしてあなた……」
「完全に切れてるって。もともと俺はそんなことできる人間じゃなかったんだ。懲りてるよ。勘弁してくれ」
「ちがうの。あなたもしかして、ミユキさんとの間に……子供が……」
「なんだと、馬鹿言うな」
青ざめた顔で啓之は立ち上がり、康子に詰め寄った。
「でもそう考えたら……タケミチが……」
「タケミチ……? そうか。いいか康子、考えてみろ、タケミチのダイレクトメールが届きだしたのは、ミユキが俺の会社に入社するよりもっと昔の話だろ? それに、俺の浮気はミユキの一件だけだ」
啓之は両手で康子の肩を力強くつかんだ。
「絶対、他で子供をつくったりしていない。安心しろ」
しかしその時康子の胸に込み上げたのは、安心よりもむしろ失望だった。
「だったらタケミチは……やっぱりどこにもいないのね……」
啓之が息を呑む音が間近でしたが、康子はあふれてくる涙を抑えるのに必死で気づかなかった。
「康子。あのファイルとか、変な遊びはもうやめろ。お前おかしいぞ」
涙ぐみながら首を振る妻に啓之は言葉を失い、ただ立ちつくした。
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