乗客が二人に増えたことにより車内はとても賑やかになった。ディックと蝶凌は馬が合うらしく会話は留まるところを知らない。ディックは座学は嫌いだと言っていたはずだが、蝶凌が生きていた未来の世界はどうなっているのかとか、どんな新しい発見があるのかとか、興味津々な様子で聞いている。対して蝶凌も、二十世紀初頭のユナイテッド・キングダムというものに興味があるらしく、ディックの言葉に熱心に耳を傾けている。

 そして、WATASHIは二人のお伽噺のような物語を傍らにて聞くことで、なにか銀色の珠も感じたことのない感覚――気持ち、というのだろうか――とにかく、そんなものを感じていた。そうとわかるのは、銀色の珠が、この気持ちをなんと表現したら良いのか戸惑っているからであろう。だからこそWATASHIにはその由縁無き感情の在処を知りたかった。

「おい……おい……」

 と、ここでディックが呼び掛ける声が聞こえた。なんだね、と問うと、彼は言う。

「お前の名前は何て言うんだ」

「そう言えば聞いたことないわ」

 二人が口々にそう言うのを契機に、WATASHIは、名前、と呟いた。二人はまるで子供のように瞳を輝かせながらWATASHIの言葉を待っている。どこに定まっているとも言えない虚空を見つめながら。

 名前、と改めて考えてみた。しかし、名前に当たるような固有名詞など持ち合わせてはいないと銀色の珠が静かに教えてくれる。だからWATASHIは、そんなものは無いよ、と彼らに告げた。彼らは当然残念そうに眉をひそめる。

「名前が無いなんて……。悲しいやつだな」

「貧しい村で生まれた私にだって名前はあるわ」

 それはWATASHIがぽっと出のような存在だからなのだ。気付いたら走っているし、気付いたらいなくなっている。ここで生まれ出たものに名前など存在しない。名付けてくれるものさえいない。そんなものなのだ。ここで生まれたあらゆるものに、そもそも固有名詞など必要無いのだよ。それは、WATASHIたちのようなものに確かな認識というものを向けてくれるものがいないからなのだ。それを今ここで証明してくれているのは、ディック、蝶凌、きみたちが虚空を向いていることからもわかる。

 そう言うと、蝶凌が言った。

「名前、付けてあげましょうか」

 なんと、そんなことをしていいのかね。

「いいんじゃないか、別に。何も無いものに何か有らしむべきを有らしめるのは人間の性だ、ってオッツが生前俺に話してくれたことがある」

 彼らの言葉を聞き、WATASHIは考えた。それならば、WATASHIというものの存在を一体どこに定めるかを決める必要があると思われたのだ。有る対象だというのに、いつまでも彼らが虚空を向いているというのも奇妙な感じがしてしまう。ところが、WATASHIは機関部から貨物部分まで全てがWATASHIと言えてしまう。認識できない主体は、有る、とは言えず、どちらかと言うと、在るだけ、のものなのではないだろうか。ここで生まれた存在であるからには、在るだけ、という呪縛から解き放たれることは非常に難しいはずである。というようなことをかいつまんで彼らに説明してやると、今度は二人とも黙ってしまった。

 その折、さらに先へ進んだWATASHIたちは、前方に何らかの影があるのを見た。真っ白いもやのような存在で、今まで見てきた存在とはまるで印象が違うように感じる。人とも動物とも呼べないようなそれをは、近くまで行って停車し、より注意深く見てみると、本当に真っ白いもやだった。ふわふわと一点に留まっているかのように見えたそれは、ほんの僅かずつだが遥かな地平線に向かって進んでいた。

「どうしたんだ」ディックが言う。また乗客がいたのだ。済まないが、二人とも降りてそれを確認してくれないだろうか。「どんなそれなの」真っ白いもやである。「真っ白いもや?」そのとおり。意思を持っているか確かめてほしい。「声を掛ければいいだろ」口が無く、会話もままならず、もやであるからには前述の意識も定かでない。「お前が言えたことか」しかしながら、触れるものと触れないものでは、やはり勝手も異なるであろう。WATASHIは線路の上から離れることはできないし、まして手を伸ばすこともできないのだ。あちらの存在であれば、きみたちの方がより円滑なコミュニケーションができるかもしれない。

「なるほど」、「興味あるし、私は別に構わないわ」よろしくお願いするよ。

 ディックと蝶凌は一等の客車から降り、その真っ白いもやの元へと歩いて行った。

「なあおい」

「私たちの声が聞こえるかしら」

 二人はもやに語り掛ける。さして違和感を覚えていない彼らの声調はこの空間に慣れた証かもしれない。

『なに』

「おおっ」

「しゃべった」

 二人は驚きの声を上げつつ、その様子は興味津々といったものだった。WATASHIは、なにか、WATASHIの方を向いた二人の後押しの視線を感じながら、そのもやに話し掛ける。

 失礼だが、きみの名前は何と言うのだね。

『名前……  だよ』

「は?」

「え?」

 ふむ。

 もう一度言ってみてはくれるかな。

『  』

 なんだその名前は……とディックと蝶凌が唖然と口を開けるも、WATASHIはその名前の意味がわかった。しかしながら、あの場で実体の無いものが、この場において不定形の何ものかの形を有することがあるなど聞いたこともない。それも  がそうであることなど皆無であり、有り得ない。

 なるほど、名前はわかった。しかし、なぜきみはこんな遠くまで一人で歩いているのかね。ここにはもはや  を認識してくれる存在は人っ子一人いないはずである。路線は既に数百年の時を進んでいる。きみを認識してくれるものは誰一人いないのだ。

『それは違う。  は生きている。この場とあの場で生きている』

「どういう意味かしら」

 蝶凌が言う。WATASHIもそれは気になるところだ。それに、なんとくなくきみの背景には興味深いものがありそうだ。  、きみのお伽噺を聞いてみたい。

『いいよ』

 ごく自然な成り行きで、  の語りは始まった。

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