儷蝶凌の場合
私は貧しい農村の生まれだった。学も教養も無ければ知恵も無い。唯一の取り柄である顔の整い方から、体を売って家族を養う。顔がよければ体もよいということで、私の存在は農村を遠く離れた都会の人たちにもこっそりと知れ渡るようになっていった。一日に多くのお金持ちの男の人が私のもとを訪れて、私はひっきりなしにその相手をする。毎日同じことを繰り返して疲れるけども、家族のためだから、我慢した。
そのなかで、ある日私のところへ不思議な客がやってきた。綺麗な身なりで顔も形も整ったその男の人が、私のことを手元に置いておきたいのだと直談判しに来たのだった。その男の人の名前は
私と家族はよく相談しあって、三日間かけて答えを出した。その答えは、「私は彼についていく」。両親とはその日以来会わなくなった。ただ、蒋巍崦は毎月家族のために大金を送ることだけを約束していたから、もし生きているのなら、おそらくはどん底の生活から抜け出して今までにないくらい楽しく暮らしているのだろうと思っていた。少なくとも、私はその取引でそれだけを望んでいた。もとより家族を養うために誰彼構わず体を売っていた身で、今さら何をされるのかといった心配はなかった。だから、よく話し合って決めたことだけど、私の中で答えは最初から決まっているようなものだった。
そうして私が広東の蒋巍崦の自宅に連れられて最初にされたことは、裸にされて体の採寸を測ることだった。侍女に尋ねてみると、なんでも、私のために特注の高級ドレスをオーダーメイドするから、今度からそれを着て欲しいのだということだった。けれども、その侍女が私より綺麗な顔つきと体型と所作をしていたから、どうして私ごときにそこまでする必要があるのか気になった。それを聞いてみても、侍女たちはそこまでのことはわからないようで、首をふるふると横に振ると、黙って作業を再開した。数時間かけて採寸を測ったり、体や髪の毛を洗ったり、丁寧に肌の手入れをされると、私はオーダーメイドドレスが仕上がるまで仮のドレスを着ることになった。侍女はお古のものだと言ったが、当時の私の目からしても高級なものだというのがありありとわかった。クリーム色のドレスにシルクの肌さわりは、私の心持ちも一新させてくれるようだった。やがて人生で最高の美しい姿になると、私の世話をしていた綺麗な侍女たちは私よりずっと汚らしく、醜く見えた。私は世界一の美女になったのだという錯覚すら感じられて、魔法にでもかけられたような気分になった。最後に細かい身だしなみを整えると、私は再び侍女たちに連れられて蒋巍崦の部屋へと向かう。その道なりの通路で、通りがかる他の黒手幹部たちは、みな一度や二度や三度までも私のほうへ視線を向けていた。絶世の美女と呼ばれる人の気分とはこんなものなのかと、私は十四歳ながらも人から羨ましがられ注目を集めるということの、最高の気持ちよさを知ったのだった。
私は通路を歩いて蒋巍崦のもとへたどり着いた。観音開きの豪奢な扉に侍女たちがひとり片一方の取手に手をかけ、私はその前に堂々と立っていた。そうして厳かに扉がゆっくりと開かれると、そこは私の家だった場所の土間の何倍もあるような広い空間が広がっていて、その部屋の真ん中には何人も一度に寝転がれそうな、大きな天蓋付のベッドが置いてあった。そして、そのベッドの縁に腰掛けているのは、シルクの黒い下着だけを身に付けた蒋巍崦の姿だった。当たり前だ。正式に結婚していなくとも、結ばれたに等しい仲ならば男女同士で何をするかというのはわかりきっている。ここに来る前の私は指折りの売女だったし、そんな私のことを手元に置いておきたい理由も容易に想像がつく。ただ、問題はその行為のやり方だった。乱暴をされるのは誰だって嫌なはずで、私もそのうちの一人であるとその時は世界で一番自覚していたと思っている。今までの男は私がお金の分だけ様々な注文に応えるという感じだったので、たびたび酷いことをされることがあったが、この人はどうだろうか。少なくとも礼節はしっかりしているようだったし、酷いことをするような人とは到底思えなかったけど、表と裏で性格が異なるというのはよくある話。今までは、そうして騙されたこともあった。けれども、もし優しくされたのなら、私はもっと彼のことを好きになれる。
蒋巍崦は私の訪れに気づくとすっと立ち上がった。いつの間にか私の傍に付いていた侍女たちはどこかへ消えてしまっていて、その広い部屋に、年齢に反してたくましい体つきの蒋巍崦と、おびただしい数の男と体を重ね培われてきた豊かな体を有した女性である私が、静かに向かい合った。男の体は見慣れているから大して胸が高鳴ったりしない。ちらりと視線を下に向けても、彼は興奮も気分の高揚もしていないようだった。だからこそ、これから一体何をするのかといった考えが、途端に疑念へと変わった瞬間だった。
そして、どうしてか、私は、神妙な表情と雰囲気で私を見つめ近づいてきた蒋巍崦に、静かにその体を抱き締められた。
てっきりキスをせがまれるものと思っていたから、その意外な行動に面食らってしまった。
「驚かないでくれ。君を抱くつもりはない」
この人は何を言っているのだろうと思われて、彼の腕の中で顔を上げた。すると、彼は厳しめに歪んだ鉄の仮面を張り付けたような表情のまま、涙を流していた。
「あの」私が声を出そうとすると、「情けない顔を見せて、すまない」と言われ、私は中途半端に開いてしまった口を何もなかったかのように閉じた。そして、蒋巍崦はまた首をわずかに傾けて私の方を見ると口を開いた。「僕には昔、妻がいた。誰にも優しく気品に溢れ、男以上に度胸があり、誰よりも繊細で、それでいて気の利くとても良い妻だった」妻だった、ということは、今はもう妻ではないのか、と思った。「察しがついているだろう。そう。妻は死んだんだ」
私は弾かれたように再び顔を上げた。目を少し見開いて彼のことを心配そうに見つめていたかもしれない。「どうして」私は問うた。蒋巍崦は「この国の党の幹部に嵌められ、激しい拷問の末、殺されたのだ。僕のことを嗅ぎ回っていた事は前から知っていたのだが、まさか奴らの画策した罠にまんまと嵌められ、僕の留守中に妻を奪われるなどとは思わなかった。考えてもいなかった。奴らは妻を散々苦しめたが、妻は一度も口を開くことはなかった。僕や黒手や部下たちを案じて、何も語らずに逝ってしまったんだ」あまりの壮絶な彼の過去に、私は訊ねた。「どうして、そのことを私に」すると蒋巍崦は言った。
「君は妻の若い頃にそっくりなんだ」
一体何が似ているというのだろう。顔だろうか。性格だろうか。それとも、家族の助けとなるために体を売っていたことだろうか。私は無意識にそんなことを思ってしまったのだが、彼は「すべてが似ている。そっくりだ。まるで妻の生まれ変わりのようだ」と付け加えるように言うことで、私はなんとなくの気づきを手に入れた。しかし、すべてがすべて似ているわけではないということは、現実的に考えてみても明らかだった。
マフィアの首領などという存在が私に目を付けたことは、だからこそようやく妻に似ている人を見つけたからだというのだろうか。マフィアは強面で得物を持った恐ろしい人だとばかり思っていたが、妙にしおらしい部分を持った人もいるのだということが、とても新鮮に思えてならなかった。
私は爪先で立つと、初めてお金で縛られないキスをしてあげた。
「惚れたのかい」彼が問う。私は首を横に振ってそれを否定する。「そうか」
その様子は決して寂しいものではなかった。蒋巍崦はただ、私という存在がいれば十分なのだとでも宣言するように私の肩を強く抱き締めるだけだ。こんなにも強く熱く抱きしめられたことはなく、しかしそこで、蒋巍崦は私のことを私としてではなく死んだ妻だと思って抱きしめているのだということが不意に頭を過ぎった。だからこそ、これほどまでに熱い抱擁ができるのだ、と。けれど、それでも私はこんなに可哀想な人を、自分を妻と見ているからといって幻滅するという気分にはならなかった。むしろ、より良い彼の妻であろうと努めようとする意識のほうが
それに、彼は黒手を統べるマフィアの首領なのだ。
私はある日、通りがかりの部下の人から「蒋巍崦に会ったら、
「蒋巍崦」と私が呼びかけながら部屋に入るも、彼の姿は見えなかった。部屋の中を少し調べてどこに行ったのか考えていると、真っ白のシルクのシーツに包まれたベッドの上に黒く鈍く光る──一丁の拳銃を見つけた。気になって手に取ってみると、小さい割にずっしりと重い。刻印された文字は何と読めばいいのかわからない。字面からなんとなく西欧のものだというのがわかるのだが、それ以上のことはわからなかった。もちろん、それは銃の扱い方も。
「儷、そこで何をしている」と、不意に後ろから蒋巍崦の声がしたので、私は慌てて振り向いた。「その銃は」と私の手の中にある拳銃に気付いた彼が、血相を変えて私に飛びかかってきた。「僕のことを手にかけるつもりか」と私の両肩に手を置いて、指が食い込むほどに掴まれた。「違うわ。ただ、ベッドの上に置いてあって。それに私、拳銃の扱い方なんて知らない」私がそう言うと、彼ははっと気が付いたように目を見開き、指の力を抜いていった。「確かに、そうだったな。すまない」と、申し訳無さそうに後ずさった。
「気にしてない。あなたの前で拳銃を持っていた私が悪いの」
「そうか。……すまない」
蒋巍崦は私から優しく拳銃を取り上げると、手を引いて手近な椅子に座らせてくれた。水出しの紅茶を淹れてくれ、それを手渡されると、私は何も言わずに口を付ける。その紅茶はとても味わい深くて、華やかで、でも奥ゆかしい感じがした。感じたことのない味だった。それで、とても美味しい紅茶なのだということは理解できた。「この紅茶は何て言うの」私が尋ねると、「セイロンティーというんだ。イギリスという国に統治されていた島の、とても有名で美味しい紅茶だよ。気に入ったかい」私は微笑みながらそう語りかけてくる蒋巍崦に「ええ、とっても」と答える。けれど、蒋巍崦がこの紅茶を勧めてくるのにも、なんとなく別の理由がある気がした。やっぱり、今も彼は私の姿に妻だったという人の面影を重ねているのだ。そして、このセイロンティーというやつは、きっとその妻だった人が好きだった紅茶なのだ。私の姿も少しは見ていてほしいとは願うけども、蒋巍崦にとってはその妻の方が私より一段と素晴らしい人だったはずだ。蒋巍崦の私を見る目はつねに私に向けられてはいるが、いつもその奥の誰かを見ている。ただ、そのことは悲しくない。家族以外の人に心を向けられたことがなく、蒋巍崦の気持ちが本当はどこに向けられているのかまで、私は把握することができないのだから。
そうして二人で何も語らずゆっくりとセイロンティーを飲み終えると、蒋巍崦は立ち上がった。「ところで、僕に何か用があったんだろう。何かあったかい」と尋ねてくる。
「ああ」と私はそこで言伝の存在を思い出し、「青帯の××の処遇について話し合いたいから、四時に会議室に来てほしいって」と答えた。
「それか。わざわざ伝えに来てくれたというわけだったのか。乱暴をしてすまなかった」
「気にしてないから。平気よ」
「ありがとう」
私たちはそうして抱き合った。男の人と付き合っているのに、体を重ねる行為というのは、こうして抱き締め合うか、唇が触れ合う程度のキスをすることだけで、とても新鮮な気持ちなのは今でも変わらない。
そんなことが長く続けば、段々と、それが私にとって普通のことになっていくのは明白だった。蒋巍崦と出会ってから数年が経ち、私は立派な女になった。けれども依然として私は蒋巍崦と体を重ねたことはなかったし、妻の代わりだと言うわりに子供を授かろうとする素振りさえ見せない。まるで蒋巍崦は私のことを「妻人形」のように見ているかのようだった。
文化大革命時の中国国内にいた華系マフィアは、そのとき中国共産党の台頭や、完全な一党独裁体制に先駆けた資本主義と、共産党幹部との賄賂の贈与に余念が無かった。すなわち、毛沢東派の意向に沿って紅衛兵を組織・運営するのを手伝い、毛沢東派の反対勢力を合法的かつ黙認的に糾弾することを可能にしていた。華系マフィアの幹部たちは、世界に最も先駆けて、中国共産党の脅威を察知し、先手を打っていた。
私は中国国内で三番手の勢力を有した黒手に所属している。広東に本部を置き、組織運営の違いから国内最大勢力の青帯とは犬猿の仲だ。中国共産党毛沢東派の台頭と、反対勢力の対立で国内が日に日に騒がしくなっていく中、黒手と青帯の対立も日増しに激しくなっていった。最近は先の国内対立の関係で、青帯の勢力が弱まっている傾向にあったが、中国共産党側に付いていたのが、反対勢力の勢いに圧されていたからだ。黒手は主に麻薬や臓器売買、カルテルなどで勢力拡大を狙う組織であったから、中国共産党の国内台頭は確実に組織の衰退を招くとして、反対勢力側に付いていた。つまり、黒手と青帯の関係はそのまま国内状況によって左右される状況にあり、そして、その状況はいつでも二転三転する可能性を孕んでいた。そして、この闘争によって勝利した側が、新たな中国マフィアの台頭となるか、または、改めてその覇権を強化するかというのが決まる。
そんな不安定な状況の中、私は黒手と青帯の会合に立ち会っていた。
その場はとても緊張していた。無理もなかった。今まさに対立している組織同士の頂点が机を挟んで向かい合っているのだから。
「毛沢東派や紅衛兵と手を組んでいるというのは知っている」
蒋巍崦が静かに話を切り出した。
「しかし、毛沢東派の実権が確実になると困るのは、青帯、お前たちも同様だ。聞くところによると、国民弾圧の『国民』とは我々のような存在も指すそうじゃないか。奴らが覇権を握ったとき、寝返らない可能性は拭い切れない」
蒋巍崦の言葉はけん制だった。中国共産党毛沢東派は、主に学生から組織される紅衛兵を利用しているだけとの声は大きい。実際、この覇権争いが終結したときには、彼らのような野蛮な人間と認識された者は、当局によって農村へ左遷されてしまうだろう、と──蒋巍崦は推測していた。だからこそ、蒋巍崦は寝返りの可能性を十分に察知していた。
けれども、その言葉には別の意味合いも含んでいた。
国内で毛沢東派に共感する紅衛兵と呼ばれるシンパは、基本的に学生と一般人からなっている。国民が国民を弾圧するという異常過ぎる事態が起こっている中、紅衛兵の名のもとにただ憂さ晴らしをするだけの輩がいれば、仇敵を打倒するためだけに紅衛兵を名乗る連中もいる。そして、蒋巍崦の含めたけん制の意味には、「青帯の部下が紅衛兵に成りすまし、他の組織の弾圧をしている」ということだった。青帯の背後に中国共産党毛沢東派という強力な後ろ盾がいるとなると、紅衛兵に成りすました青帯の人間を排除するのは土台難しい。
吼騫鰭の言葉を聞いた青帯の首領
「寝返ったときは寝返ったときだ。今は党に
吼騫鰭は再び不敵に笑う。蒋巍崦はそんな彼に向けて言った。
「自分の立場がまるでわかっていないようだな。最近の共産党の動向を見てみろ。同じ共産党員ですら必要とあらば殺すような連中だ」
「それは同じ穴の狢ってやつだ。オレたちだって、人を殺したり、排除することに関しては非難できないと思うがね。それともお前は自分の都合のために仲間を消したことは無いってのか」
蒋巍崦は黙った。仲間を排除したことは無いと言いたかっただろう。彼を後ろから見ていた私は、彼の肩が震えていることに気が付いた。
結局、その日の会合は両者平行線のまま幕を閉じた。
帰りの車中、蒋巍崦は言った。
「危険な目に合わせて済まない」
「どうしたの」
「あんな危険な場所に君を連れてきたことにだ。一触即発の状況だった」
「そうだったの」
まったく気付いていなかった。
けれども、蒋巍崦が言いたいことはわかっている。妻だったという女の人から離れているうちに妻を連れ去られてしまったのだ。どんな場所でも遠出するときは自分の近くに置いておきたいのだろう。ところが、向かう先も危険で、彼がこれからどうやって私を扱えばいいのかという際に、立たされているのだと。
「自分で自分の身を守る術は、私も少しは心得てる。平気よ」
蒋巍崦はまた黙った。そして、それ以上は何も言わなかった。
文化大革命の勢いはとどまるところを知らなかった。紅衛兵はますます増加し、青帯の勢力も付随して伸長してゆく。黒手はついに組織の自立さえままならないような瀬戸際に追い込まれていた。すでに青帯の部下らによって黒手の支部がいくつか壊滅させられ、部下の数も紅衛兵によってじわじわと削られてゆく。紅衛兵に青帯の部下が潜んでいることは、もはや明白だった。
業を煮やした蒋巍崦は激しく憤り、青帯の首領吼騫鰭を捕まえて拷問にかけると言い出した。
「そんなことしたら報復合戦になるわ」
「構うものか。あのクズどもめ。人をなんとも思わん畜生が。潰してやらんと気がすまない」
「同じ穴の狢になるというのなら、私はあなたの元を離れる」
ベッドに腰掛けて項垂れていた蒋巍崦は弾かれたように頭を上げると、怒っていた表情を急に不安なものにさせた。私が離れることが、何より彼にとっての悩みの種なのだ。とりわけ、今の国内状況でその悩みが一層強くなっていることは私には痛いほどわかる。紅衛兵に扮して黒手の仲間が始末されている現状では尚更だ。
だからこそ、蒋巍崦は不安でしょうがない。
「待て、待ってくれ。行かないでくれ」
「あなたが人を殺すことを目標にするような人になってほしくない。そんな蒋巍崦を私は見たくないの」
「だが、始末しなければ危険は大きくなる。今までのような穏やかな暮らしはできなくなるんだ」
「だったら、さよならね」
「待ってくれ!」
踵を返した私に、蒋巍崦は声を張り上げた。
「……それなら取引しよう」
「何かしら」
「君を家族の元へ送り返す」
「今更よ」
「君の家族はきっとわかってくれる。あそこは山間の場所で、紅衛兵の手も薄い」
彼はなんとしても吼騫鰭に対して復讐を成し遂げたいようだった。しかし、確かにそうすれば私は蒋巍崦が人を殺す鬼になる瞬間を見ずに済む。秘密裏に家へ帰れば、青帯から私の姿をくらますこともできる。
単純にいい考えだと思った私は、それに頷いた。蒋巍崦の表情が途端に明るくなる。
「ありがとう……」
私の出発は、その日から五日後ということになった。
運命は意外にも呆気ないものだと気付いたのは、死んでからだった。
私はその日、襤褸切れのような服を纏った。豪華な服を着ていると怪しまれるからだった。車も一般的なソ連車を選び、私と蒋巍崦は車に乗り込む。
そこかしこで暴徒化した紅衛兵が見えた。人を縛り上げている人がいれば、一方的に暴行を加えている人もいる。阿鼻叫喚の光景とは、こんなものを言うのだろうか、と思い、今までの生活を振り返って、自分の感覚が狂ってしまったんだろうかと思った。
生家への道のりは平坦ではない。山をいくつも超えなくてはならないし、怪しまれないように人通りの少ない泥道や獣道を選ぶ必要もある。なぜ自分こんなにも冷静に周囲を認識できるのだろう。生家に暮らしていたときは、その日その時の感覚だけが頼りで、予測するという感覚は必要なかった。
私は変わってしまったのだ。
“何も知らない”から“ちょっと知ってる”へ。
私は隣に座る蒋巍崦の方へ目だけを向けた。その視線だけで蒋巍崦は私に気付いたのか、私の顔を見て優しく微笑んでくれる。「心配はいらない」と。それは確かに私に向けられていた。紛れもない、私自身に向けられたものだとわかった。
なぜなら、生を意識させられる者としての妻は、私しかいないからだった。
目の前にいる私、儷蝶凌。
私は今、蒋巍崦に愛されている。
蒋巍崦がそんな気でいてくれるのを柄にも無く想像して、私は蒋巍崦に微笑み返した。
そして、しばらくして私は生家のある村に着いた。まるで見窄らしい場所であると感じられたのは、やはり私の感覚が変わってしまったからだろう。村は寂れて華やかさの欠片も無い。意気揚々と歩いているわけではないが、久しぶりに会う両親がどうなっているのか、楽しみだった。かなりの年数が経ってしまったから、だいぶ老けてしまったに違いない。蒋巍崦は毎月欠かさず大金を送り続けていたため、生きていることは間違いないと言っていた。
車から降り、ちらちら視線を向けてくる村人たち。見知った顔の人も多いのに、向けられるのは冷たい視線ばかりだ。身売りに出された女が今更のこのこと村に帰ってくるなど、とんだ恥晒しだとでも思っているのかもしれない。もしくは、突然現れた私に対して、誰だろうと思っているだけなのかもしれない。真意はわからない。
家の前にたどり着いた。私は身につけた作法で背筋を伸ばした。久しぶりの両親。放任主義で私のことなんか見向きもしていなかったけども、三日間話し合って納得してくれた両親。何者にも代え難い両親――。
私の後ろには普段着の蒋巍崦が立っている。そして、私は実家の前にいた。もう二度と戻ってくることのないはずだった家の前は、やはり見窄らしく、土臭くて、黴臭くて、今の私にはとても耐えられたものではなかったけれど、懐かしいことに変わりはなく、私は──胸いっぱいに深呼吸した。
「ちょうど十年ぶりの生家だな」
蒋巍崦が背後から声をかけてくれた。私は頷く。
「ええ、久しぶり」
「留守でなければいいが」
「連絡はしてないの」
「足がつくかもしれない」
私は引き戸に手をかけた。乾いてくすんだ色味と手触りのそれがざらついているのに心地よく、いつまでも触っていたい気分になる。
私は。
私は、しかし、意を決して、勢いよく引き戸を引いた。
「……え」
両親はいた。錆のようにくすんだ絨毯の上で眠っていた。二人、折り重なって。
「おかあさん、おとうさん」
私の唇は──両親がそうなように、かさかさに乾いて──掠れた声を漏らした。
「これは一体──なぜ……」
私はその瞬間、息を呑む蒋巍崦の声に気付いて振り向いた。見ると彼は、付き人だった二人に銃を向けられ、頭の後ろで手を組み、屈まされていた。
「蒋巍崦」
私は呟く。
彼は口を動かす。
はめられた。
「申し訳ありません。蒋巍崦」
付き人だったひとりが言う。
「こうでもしなければ、我々の家族が危ないのです」
ちがう。はめられたのではない。
彼ら付き人だった人もまた、仕方がなかったのだ。自分以外の大切な他者のために、彼らもまた、何かを犠牲にしなければならない境遇に身を寄せたのだ。
私はゆっくりと微動だにしない蒋巍崦に歩み寄った。ここで終わりなのだと私には確かな直感があって、物事はすべてその通りになるだろうと思った。だから、私はこの次に間違いなく訪れる死を予見していた。その上で私は彼の前にしゃがみこみ、彼と同じ視線になると、その唇目がけて口付けをした。この場でそれを行うことの意味は、それを行っている私自身、意味がよくわかっていなかった。
「こんなことになってしまって、本当にすまない……」
「早いか遅いかの話だもの。いいわ」
私の言葉に、彼はわずかに驚いた表情をして、ふっと口角をつり上げた。
「大人になった」
私はそれには答えず、「あなたのためなら、死んでもいい」と告げた。
当然、蒋巍崦はそれを許してくれない。
「儷、やめてくれ。僕はどうなってもいい。だが、君には生きていてほしいんだ」
「いいえ。家族は死んでた。あなたもここで死ぬわ。だったらせめて怖くないように、ひとりで死なないように、私はあなたと一緒に逝きたい」
「儷……」
ちらりと見ると、付き添いだった人は泣いていた。私は彼らにも微笑みかけた。
そして、私は──。
* * *
「死んだわ」
蝶凌はそのときと同じ微笑みを浮かべてみせた。そして、その笑みは今まで感じてきたであろうどんな笑顔よりも、儚げで、輝いているように見えた。あの場にはこんな人間もいるのか、と驚き呆然とし、鉄輪を動かすのも忘れていたくらいであった。
ひとつ、聞いてもいいだろうか。「何」その蒋巍崦という存在もまた死んでいるのだろう。「たぶんね」きみはこの場がどんな場か気づいていないだろう。しかし、その適応力は高い。よくよく耳を傾けてほしいのだが、「慣れてる」その蒋巍崦という存在は、なぜだろうか、わかるのは、彼はここにはいない。銀色の珠がそう囁いてくれている。それが言わんとしていることはつまり、蒋巍崦が生きているか、もしくは生まれ変わることすら許されていないかのどちらかということになるのだ。この意味が、蝶凌、きみにわかるかね。そして、この事実を知ってしまったとき、きみはどうするのかね。
そういうと、蝶凌は言う。「どうもしないわ」どうせもう会えないと。「そうね」では、場所を新たに移した心境はどうか。「それもどうもしない。ただ」ただ。「気持ちはなぜか、“何も知らない自分”って感じがする。私、死んだのに、どうかしたのかしら。蒋巍崦とも、もう会えないっていうのに、なんだかとても心地がいいの」
WATASHIはなぜかこの体に、風を切るそれとはまた別の、爽やかなものが通り過ぎてゆくのを感じた。これがある種の清々しさというものだというのは、律儀にも銀色の珠がにわかに教えてくれた。ディックのときとはまた違った感覚である。彼のときは興奮という感覚だったと銀色の珠がそっとかすかな感じで教えてくれたのだが、今回のこの感覚は銀色の珠も清々しさとはわかっていたようだ。しかし、どのように捉え形容したらよいのか、どうもうまくいかないらしい。結局、「ある種の清々しさ」で決着したようだった。
「それで、この機関車はどこへ向かおうとしているのかしら。死後の世界でいいのかしら」
蝶凌が唐突に問うてくることで、その声に気付いたディックが目を覚ましてしまった。
「ああ、よく寝た……て、誰だ」
「あなたこそ」
「見た感じ東洋系だな。ジャパニーズか」
「残念。チャイニーズよ。あなたこそフレンチマンに見える」
「やめてくれ。俺はジェントルマンだぜ」
「ジェントルマン……セイロンティーのイギリス?」
「お、よく知ってるな」
どうやら二人はそこから意気投合してしまったようだ。蒋巍崦の英国好きが功を奏したようだった。WATASHIは図らずも談笑に耽り始めた二人に声をかける。
申し訳ないが、蝶凌に訊ねたいことがある。と、それを聞いた蝶凌がふと虚空に顔を向けた。「何かしら」きみはこれから我々と共に、この遥かな開裂を突き進んでみようという気にはならないかね。「どういうことかしら」蝶凌が不思議そうに返すと、これにはディックが答えてくれた。「この機関車はどうやら、このレールの先へ行ってみたいらしいんだ」、「え?」、「豊かな余生の過ごし方なんだと」、「豊かな余生の過ごし方……」
それきりなぜか蝶凌は黙った。発言のターンは彼女にあると思われたWATASHIとディックは、ひたすら彼女の次の言葉を待った。
やがて、目を瞑っていた目をぱっと開くと、彼女は勢いに任せた風に言う。
「うん。私も第二の人生ってやつを楽しんでみたい。新しい自分──というよりも──まだ“何も知らない”自分になって」
女性ならではの切り替えの早さだ、とディックが言うも、その声にもまたどこか清々しいものが感ぜられた。どうやら彼もWATASHI同様のものを感じていたようだ。
では、すぐ出発しようか。
彼らが頷くのを見届けてから、WATASHIは止めていた鉄輪をゆっくりと動かし始めた。
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