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のんびりと走っているWATASHIの上空には、相変わらず玉虫色の邪悪なる空が囁いている。この先へ行ってどうするのか。ここからもっとずっと先へ行ってしまえば、お前もそこでふっと消えてしまうかもしれないのだぞ。そのように囁かれているような気もするが、ここまで来たのならば今さら後になど退けぬのではないだろうか。今は共にもっと先へと走ってみたいと願う存在も連れているのだ。もしかしたら、このものを先へと載せてゆくことで、老いぼれの最期にも希望のような一筋の光明が差すのではないか。そんなことを思ってすらいるが、やはりいずれ運行をやめねばならない身に、そこまで期待を抱かせるようなこの場ではないということは十二分以上に承知している。ここまで走ってきて周りには薄紅色の断崖絶壁しか見えないのだ。この場は永遠で、変わってしまうのはつねに我々だけで、我々のこの行為にも本来的に意義など無いのかもしれない。どこまで先へ行ってしまえばこの永遠の界隈に静かな開烈を見て取ることができるのだろうか。
ほら、ご覧なさい。ディックも初めは揚々とこの場の珍しさと不可思議さに子どものように目を輝かせながら風景を眺めていたものの、どこまで行ってもどこを見てももはや何も変わらないではないかと悟った後は、苔色のヘルメットを弄んでつまらなそうに外を見ているのだ。ここまで遠くへ来るとなると、隣を走る線路も皆目見当たらなくなり、この場にいるのは我々だけなのだと気づかされることはあれど、それがつまらなさを解消することは到底なく、むしろ、孤独という名の羽虫が頭の中をぷんぷん煩わしく飛び回ってしまうのだろう。いくら手で払いのけてもこの場が臭いのか、はたまたそのもの自身が臭いのか、孤独という名の羽虫はどこへも行かず頭の中にまとわりついている。まったく救いようの無い現象と呼べるのである。
とりわけ、今この考えがディックにだだ漏れているということはもちろんのこと、なぜならWATASHIはわざとそうしているからなのである。理由は至極簡単なことで、そうすることでどことなく愉しい感じになるし、ディックにもおそらく死ぬほど退屈させるということもなくなるだろうという算段からなのだ、何も変わらないからこそ何かを変えようと愉しいことを考えてしまうのは老いぼれにはあまり無い考えなのだろうが、そうだ、WATASHIは未だかつて誰も到達したことのないこのはるかな大地の開烈を拝んでやるという確かに破天荒な目標が生まれてしまったからには、やはり他の新しい機関車共にはわからないことなのであろう。それを、WATASHIは拝みに行ってやるという前電電未踏の地へ向かおうとしている老いぼれなりに燃えほとばしる野心とやらを……。
「いい加減うるさい。ちょっと黙れ」おや、おや、そんなに眉を東京タワーのようにすぼめないでくれたまえ。そのまま注文の多い料理店の紳士らのように顔をしわくちゃにさせて戻らなくなってしまうだろうよ。こんなに恐ろしいことはない。くわばら、くわばら。
「東京タワーだの、注文の多いなんとかだの、一体何の話をしてやがるんだ」ああっ、これはすまないことをしてしまったようだ。なにぶんWATASHIも老いぼれなものでね、他のものの話というのを途中すっ飛ばしてひとりであれやこれやと語ってしまうものなのだよ。きみのいた現世でも、そういう老いぼれは存在していたこととかつてのお客から存じている。
「そうだな。そんなお年寄りは確かにいたが、今はそんなことはどうでもいいんだ。ちょっと黙れって言っているんだ」や、や、や、これは、これは、こんな老いぼれになんと酷なことを言うものかね。きみ。
「機関車が老いぼれ云々言っても人間の感覚じゃあ何のことやらさっぱりだし、お前はたまにわけのわからない発言をするし、俺にはお前の言っていることが全然わからないんだ。わからないことを延々語られても苛々するだけなんだよ」うううむ。ヘルメットを振りかぶらないでくれたまえ。そのままそれを床に叩きつけようものなら体をがたがたごとと揺らしてきみを困らせてやろう。しかし、これはこれからの旅路において由々しき問題やも知れぬ。
「どうしてだ」WATASHIはこの場にいて数えられない刻を過ごしているものだが、載り入れるものの独り言をたまに聞いていると、なんとなしに銀色の珠が記憶してしまうものなのだ。ゆえに、WATASHIがどんな知恵や知識を有していようがいまいが、それはWATASHIが意識してそうしたものではないということだ。すなわち、WATASHIにはその言葉の意味やニュアンス等々説明せよと目くじら立てて問い詰められてもできぬことなのだ。全てはWATASHIの中の銀色の珠が知っている。だが、そこでは知らないこともあるし、知っていることももちろん存在している。銀色の珠は、まるで気まぐれのようにWATASHIの思考に説明せよと言ってのっぴきならない茶々を入れてくるのだよ。だから、なぜだろうか。ディック。きみに、東京タワーとはなんなのだ、注文の多い料理店の紳士らとはどんなやつなのだ、そんなことを訊ねられてもWATASHIは答えることができない。
「それは、きついことを言ってすまなかった」
わかってくれたのか。
「だが、やっぱり少し黙ってくれ。うるさい」
なるほど、すまない。
ディックはそうして再びヘルメットをかぶると車窓から外を眺めながらうとうとし始めた。現世での長旅の疲れは未だ癒えぬものなのだろう。少しの間だけだが、大切な旅の伴侶のためにも、ここはひとつ何も言わずにおいてやろうではないか。蒸気機関車は目を瞑ることも
さて、そうしてしばらくのんびり走っていると、また前方に人らしきゆらめく影が見えた。猫背ではあるが突っ立ったまま不動で、まるで本当に列車を待っている風にも見える。WATASHIは少し速度を落としつつ、その背中でひん曲がってしまった棒のような人間の前に停車した。艶があり背中まで長い黒髪をそのまま垂らし、召し物はみすぼらしい麻布の切れ端のようなものだっが、顔は端正に整っており、僅かな化粧っ気も窺える。その異様な雰囲気を湛えた女性はWATASHIの停車に気付くと、何の抵抗も無しにWATASHIに乗り込んできた。まるでこの場とWATASHIの役割を既に知っていたかのような振る舞いである。そして、三等の客車から乗り込んだその女性はディックと同じ一等の客車内を目指して躊躇いもなく歩き出した。こんなみすぼらしい見た目をした女性が一等の客車の何たるかを知っているような迷いの一切無い行動に、WATASHIはいよいよ不可思議な念が生まれてしまったのを感じる。ここで、WATASHIはまた年寄り特有の甲斐甲斐しさと興味と、少しばかりの色気を感じながらその女性に声を掛けてみることにした。
そこの若い女性の方、一体何処の誰かというのを歩きながらでいいので教えてはくれまいか。そのように言うと、女性は「
しかしながら、どうしてきみという存在はそんなに奇妙な格好をしているのかね。その美貌にそのみすぼらしい麻布の切れ端はまるで似つかわしくないように思えるのだが、もしかしてと考えたWATASHIはきみに何か重大で興味深い理由があるようにも思える。もしきみがその事を許してくれるのならば、WATASHIにその由縁を教えてはくれないだろうか。そう言うと蝶凌は微動だにしていなかった顔をほんの僅かに顰め、「ここはどこ。私はどうして機関車なんかに」と至極今更なことを言ってのけたのである。まさか、とWATASHIは目を見張ったような気分になった。まさか、あれほどまでに自然な流れでこの場に居合わせた存在など見たことがなかったからだ。先程のディックのように多少の戸惑いの中でこの場に居合わせ載り合わせるものは数え切れないほど多いし、事実この身に感じてきたことだが、云わば本能とも呼べそうなほどの自然すぎる行動の末にここに、WATASHIに載り合わせてきたものは到底皆無である。故に、彼女の行動はそうであれとも呼べる本能的なものだったのだと新鮮なものに気付かされたのである。
もしや、きみはおかしいと思わなかったのかね。ほんの少しばかりのことだが、ここに居ることに気づくことが真っ当なものであるなら、きみという存在はまるでここにいることが当然だとは感じ得ない──他のものとはまた一線を画す存在であるということになるのだが、そのことについてきみは如何に考えるというのかね。まるで、こういった場がすでに用意されていることを現世において既知の知としていたような振る舞いをしたようだ。「私、自分の気持ちに嘘は吐けないの」はて、どういうことだろう。「どんなことだってすらりと納得できてしまえる能力っていうのは、あなたにはそれほど特別なことなのかしら」これは一本取られたようだ。なるほど、しかし、ご覧なさい。そこでヘルメットを被って転寝しているものだって、きみのように落ち着き払った様子で乗り合わせたことはないよ。きみはまた、彼とは違ったものだということでWATASHIがあい納得できるとでも思っているということだろうか。「それでいいと思う」芯の強い女性は好みと言えそうだ。「あなたはまるで紳士みたいな口振りだけど、私になにか用があったんじゃなかったかしら。由縁を教えてくれとかどうとか」
それでWATASHIは思い出した。蝶凌との会話がなかなか楽しいものだから、当初の目的をすっかり忘れてしまうところであった。どれ、それでは蝶凌、きみが現世で歩いてきた、そのお伽噺のような物語を、WATASHIに聞かせてくれはしないかね。
「わかったわ」
そして、蝶凌は静かに語り始めた。
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