ディックの場合

 俺が生まれてきた頃、故郷はとても平和で豊かだった。俺が通っていたパブリック・スクールで学ばされたことは、やれ技術力が世界一だとか、植民地が多いとか、そういうしようもないことばかりだった。もちろん、それ以外のことも教えられた。例えば、隣国のフランスやジャーマニーなんて犬猿の仲の国との歴史や、当時流行っていたアルフレッド・マーシャルの経済理念について延々と講釈を垂らされるなんていうこともざらだ。けれども、俺はそういった座学でお偉方の能弁を黙って聴いているよりは、外に出て誰かにいい加減にしろよと止められるまでリフティングをしたり、ゴルフのパターを夜遅くまで素振りするといったことを好むようなやつだった。授業もしょっちゅう抜け出しては教師や親から怒られていた。授業で聴かされることや、授業そのものが嫌いだったわけじゃない。ただ俺にとって、リフティングやパターの素振りのほうがよほど価値があり、有意義なことだと感じられていただけだ。頭に叩き込まれることよりも、体に叩き込まれるようなことを好んでいたわけだ。ずっとだって楽しんでおこなえたことを、だからといって堅物の周囲の人間たちが許してくれるはずもない。故郷は平和そのものだったが、家庭内は、所属階級と比較したときの俺の素行の悪さもあってつねに険悪なものだったといえる。俺にとってもっとも身近な世界である家庭というものはとても混沌としていて荒んでいた。当然、そういうふうになってしまっている原因は俺自身の素行の悪さにあったから、それが嫌だったら馬鹿真面目に授業を受け、親の言うことをもれなく聞き、真っ当な生き方をすればいいと言われるのかもしれない。だが、とにかく、俺にはそんな生き方ができなかった。息がつまりそうで。

 パブリック・スクールの連中は両親と違って堅物なやつらばかりじゃなかったのが救いだった。確かに真面目に授業を受けて、親の仕事を継ぐことを目標としているのが大半だったが、中には俺のように自分の好きなことをして生きたいと思っているやつも多くいた。そういうやつは俺よりも素行は良かったが、それはいわゆるで、俺と隠れていろいろとやんちゃをやらかすのが趣味であり、楽しみだったらしい。そのやんちゃが露呈したときの責任は、言わずもがな、そのほとんどすべてが俺に降りかかってきたものだが、解放されたあと俺の元へ訪れては、悪いな、とひと言添えて、またいろいろとやんちゃをやらかすというのが日常だった。だからこそ、パブリック・スクールに通うことはある意味でもっとも避けたいことであったし、ある意味でもっとも望むべきことでもあったというわけだ。当時の俺にディレンマなどという複雑な感情があったのかどうかはもはや定かではないが、そういうのっぴきならない状況に、なんとなく矛盾のようなものを感じていたことだけは確かだと思われる。

 俺はそんなパブリック・スクールでそれから親しい付き合いをしていくことになる人物と出会った。オスニエル・キームという大人しいやつだった。大人しいやつと言っても、俺とやんちゃ遊びをするくらいには活発な性格だったと言えるのだろうが、普段の彼の様子は誰がどう見てもやんちゃをするようには見えなかったのだ。俺と絡まないときは、ひとりで静かに図鑑を眺めているか、小さなスケッチブックに自分だけの世界を描き出すということをしているような、いわゆるインドア派の不思議ちゃんだった。

 そんな俺たちが出逢ったのは、パブリック・スクールでのとある一件に起因している。それは、俺が美術の時間にこっそり抜け出して、学校の裏庭の噴水の前でいつものようにリフティングの練習をしていたときだった。のちにオッツと愛称を付けて呼ぶそいつが、俺がいた噴水を挟んで向こう側の花壇のたもとにしゃがみこみ、なにかしきりに手を動かしている様子が見えた。この時間はどの学年の連中も授業が入っているから、俺の他に生徒の姿を見かけるとしたら、それは授業をサボっているやつということにほかならなかった。俺は俺以外に授業を抜け出して遊んでいるやつがいることに驚き、リフティングをするのをやめ、そいつの元へ駆け寄ってみる。そいつはとても熱心で周りのことに気を向けていないらしく、俺はそいつのすぐ後ろに回りこんで何をしているのか探ってみることにした。見ると、そいつはどうやら、もぞもぞと蠢く茶色くてふさふさした芋虫を一生懸命スケッチしているようだった。すでにスケッチブックには微細に毛が描きこまれていたのだ。

 うわあ、趣味悪いな、こいつ。

 と思いながら俺は顔をしかめた。すると、顔をしかめたことで俺の存在に気がついたのか、そいつがびくりと肩を震わせ、ものすごい勢いでこちらに振り向いた。「あっ」と小さく声を上げて、そいつは急いで立ち上がり、足早に立ち去ろうとする。「待てよ。言いつけるなんてことしないさ」俺はそう言ってそいつを呼び止めた。足を止めておそるおそる振り向いたそいつは、今度は「うう」と呻いてから、何かに気づいたようにはっとした。「もしかして、うわさのリチャードくん?」そう訊ねてきた。話が早かった。「うわさの、ってなんだよ。でも、わかってるじゃん。そら、逃げんなよ」俺がそう言うと、そいつは安心しきったようだった。肩の力を抜き、はあ、と大きなため息を吐く。

「お前、名前は?」落ち着いたときに俺が問うと、「オスニエル・キーム。友達からはオッツって呼ばれているよ」なかなか歯切れの良い声で返されて、ほんの少し圧倒された。先ほどの様子からはどうも挙動不審な面ばかりがうかがえて、そんなに快活なやつとは思えなかったからだ。「それにしても、お前さっき何してたんだ。なんか描いてたよな」俺のことはすでにわかっている様子だったから、さっさと次の疑問を訊ねてみると、オッツはあっけらかんとした様子で答える。「虫の観察だよ。虫、好きなの?」いいや、と首を横に振りながら俺は答えた。「なんだかすごい描きこまれてたから。絵、上手いんだな」俺がそう言うと、オッツは言う。「わかる? 僕、ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルって人のファンなんだ。フランスの昆虫学者なんだけど、もしかして知ってるの?」目をこれでもかと輝かせたオッツは、どうやら俺がそのファーブルとかいう昆虫学者を知っているものと思い込んでいるらしい。しかし、残念ながら俺は昆虫には興味がなく、その学者については名前を聞くのも初めてだった。「知らないな。だれだそれ」俺が答えると、オッツは明らかにがっかりした様子で肩を落とした。「なんだ。残念」

 オッツはそうして、今まで描いたの見せようか、と訊ねてきた。少しだけ彼の描く絵に興味が湧いた俺は、見る、と言って差し出されたスケッチブックを手に取った。一ページ目から開くと、そこには鉛筆で細部まで綺麗に描かれた見たこともない模様の蝶々が描かれていた。次のページをめくると、これまた見たことのない蝿のような生き物のスケッチ。ぱらぱらと見ていくと、どれもこれも見たことのない虫ばかりが描かれていた。そして、先ほどまで熱心に描かれていた毛むくじゃらの芋虫まで見終わると、「見たことない虫ばっかりだな。すげえ」そう感想をつぶやいた。そしたら、「でしょう。すごいでしょう。全部僕が見つけたんだ」と嬉々とした様子で言われた。「ふうん。ブックワームならぬ、ワームワームってわけか」と俺が思わずつまらない思いつきを声に出すと、オッツは「ワームワーム! おもしろいよそれ、大好き!」と、いきなり大声で笑い出した。突然のことにびっくりした俺は、それでもなんだか嬉しい気持ちになった。「よおし、それじゃ今日からお前はワームワームだ。なあ、ワームワーム」俺は冗談のつもりでそう言ったが、彼は「うん。ぜひともそう呼んでくれると嬉しい!」と、本気でそう呼ばれる気でいたようだ。どうやら、彼は本当に虫が大好きらしい。

 それから俺たちは授業を抜け出した俺たちを見つけるために学校中を探し回っていたという先生たちに捕まるまで、校内の片隅で互いの興味について語り合った。「ディックくんは好きなこととか無いの?」とオッツ。「好きなことはなんでも、さ。俺がやりたいと思ったことなら、なんでも」と言うと「へえ。なんだかとても自由だね。そういうの、いいなあ」とオッツが返してきたので、俺はほんの少しだけ疑問に思った。「どういうことだよ。昆虫観察って、お前の好きなことなんだろう」そう問うと、彼は言う。「そりゃあそうさ。昆虫観察は大好き。でも、それ以上に親が他の勉強についてうるさく言うからね」ふうん、と俺は相槌を打った。俺より断然頭の良いと思われるオッツとて親の小言は多かれ少なかれ存在するのだろう。貴族階級の親というのは、会社を引き継いでもらうために子どもに必要以上に一所懸命に構う節があるのだ。

 これは俺が天性の感性で気づいたことだ。世の中には、奴隷として生まれてきてしまったら一生奴隷のままなんて人間がいて、そんな彼らは奴隷の身分を嘆き、貴族や地主といった上位階級の人々を羨みながら生きているらしいが、貴族に生まれたからといって、親の会社を引き継ぐことが生まれてきた子どもの責任だなんて言われている今の社会では、子どもなど奴隷にも等しい身分に違いないだろう。親の意向に逆らうことが許され、自分の選択を優先できるというのは、きっと俺が生きている間には実現しない社会なのだとも思っている。だからこそこうして授業を抜け出して、くだらない虚勢を張りたがる親たちに尊大な反骨精神を見せつけているのかもしれない。

「親の小言はうるさいよな。よくわかるよ、その気持ち」俺は素直にそう答えた。「僕らの世代って、すごく不幸な時代に生まれてきてしまったのかもね。自分の人生も選べないんじゃ、アフリカの奴隷といっしょだと思う」と彼が言う。「同じこと考えるよな。俺も、お前も」俺はそう言った。するとオッツは、同じこと考えていたんだ、と適当な相槌を打つ。

 俺たちはどことなくしんみりした雰囲気になり、しばらく黙っていたのだが、やがて俺がひとつの問いを投げかけることになった。それは、オッツが不意にスケッチブックを取り出し、鉛筆を走らせ始めたからだった。なにか一心不乱に鉛筆を走らせ始めたので、何事かと覗いて見ると、ロンドンとマンチェスターの間を走る蒸気機関車の一枚絵だった。「どうしたんだよ」俺がそう問うと、オッツは言う。「つい半世紀前まで蒸気機関車の速度っていうのは、時速十キロから三十キロくらいしか出ていなかったんだ。それが今では時速百キロを裕に超えている。時代はこれから段々速くなっていくよ。無尽蔵に速くなっていって、追いつけない人が出てくる。そうなった時、僕らは自分のペースを保ちつつ、社会をうまく渡り歩いていけるんだろうか、と思って」Oオッツの言う言葉の意味が難しすぎて理解できなかった俺は、なおざりに「ふうん」とだけ相槌を打っておいた。そのあとのことは、眉を吊り上げてかんかんに怒った先生に見つかるまで、多愛の無い話をして過ごしたのだった。

 俺たちはパブリック・スクールで一緒に行動するようになったが、英国一斉の学力テストで多少のふるいにはかけられた。当然のごとく、学力の関係上、俺はパブリック・スクールなどではなく、そこそこ有名なステート・スクールに進学することになった。反対にオッツはとても頭が良かったから、国内でも有数の超エリート・パブリック・スクールに進学することになった。お互いに学校が位置する場所は遠く離れてしまったから、そのあとのことは本当に、たまに手紙のやりとりをするくらいだった。その程度の付き合いというよりも、当時は男同士でプライベートでしかない手紙のやりとりなんてしようものなら、もしかして同性愛者か、男の恋人か、と疑われたものだから、それほど親密な間柄だったと言わざるを得ない。しかし、俺たちはまったくそういうふうには捉えておらず、なにか、心の奥底で繋がっている関係なのだと思っていた。

 一九〇〇年代、世界はにわかに混沌の様相を呈してきた。ビスマルク辞任後のヴィルヘルム二世体制下のジャーマニーが、それまでの諸国との関係をふいにするような態度をとり始めたからだった。義和団事件後にはジャーマニーに対して対露協調路線を打診していたイギリス政府だったが、あちら側がこれを断ったのだ。国内では対英路線について激しい論争が湧き起こっていたらしい。英独のせめぎあいは一九〇七年まで続き、一九〇七年以降は、両者は明確な敵対国家として認識するようになった。一九一四年からは、サライェヴォで皇太子のお坊ちゃんが暗殺されて、オーストリアのセルビアへの宣戦布告を待っていたかのように、各国が参戦を表明したというわけだ。

 ヨーロッパではナポレオン戦争以後、際立った戦争を経験しておらず、各国は植民地競争に明け暮れていた。俺たちは文明人なんだと傲慢になっていたのかもしれない。だから開戦直後、俺を含む貴族出身の若者も、労働者階級出身の若者も、こぞって戦争に参加していった。どうせ数ヶ月で終わるだろうと楽観視していたし、この戦争で手柄を立てれば自分の国はさらに発展し、自分自身もさらに社会の高みを目指せるだろう、いい経験になる、と思っていたからだ。俺はそこまで思っていたわけではなかったが、やはり、いずれ親の仕事を継がなければならない身として、親の意向に反対してはいたが、無理やり兵士に志願させられた。あの頃、戦争に参加したくないと思っていたのは俺とオッツぐらいのものだとすら思っていた。それほど回りの奴らは、戦争に対してネガティヴな感情を抱くものはいなかった。俺にはそれがどうにも気になって仕方がなかった。

 戦地に赴く前に、俺は何度かオッツと手紙のやりとりをした。内容としては、「お前は志願したか?」、「いいや、してないよ。でも代わりに、化学兵器開発の一員に加わることになった」、「化学兵器?」、「毒ガスだよ。有毒な気体。うまくいけば、相手を一網打尽にできるんだって。気乗りしないよ」、「へえ。俺は親のおかげで兵士になることにしたぜ」、「そうか。聞くところによると、あちらさんも化学兵器を作っているんだって。気を付けてね」、「わかってるよ。気体ののろい動きに俺の脚が負けるか」そんなやりとりだった。

 戦況は当初から最悪だった。機関銃の導入で、前線の各地では機関銃の射撃音が轟き、無意味にも生身で突撃してくるジャーマン兵を適当に作業で撃ち抜いていくだけだ。引き金を引いて適当に真横に動かすだけで、おもしろいように人が倒れてゆくさまはもちろん抵抗感があったが、それでも、撃たなければこちらが殺されてしまうわけだし、多少の愉快さをその身に感じながらも、俺は引き金を引き、適当に機関銃を横なぎに動かした。戦況が最悪だと思ったのは、こんな流れ作業のように人を殺すことが俺にとっては愉快さを別にして、最高に胸糞が悪かったということだった。

 戦闘の合間にもオッツからの手紙は届いた。「戦場はどうだい。こちらの方が優勢らしいけど、鉄が不足してきているって開発仲間から聞いたよ。そろそろ機関銃は使えなくなるかもしれない」、「機関銃が使えなくなるってことは、俺たちもジャーマニーみたいに塹壕掘って這いつくばりながら戦わなきゃならないってことか」、「そうなるね。塹壕の中は環境が悪いから、特に雨が降ったあとなんかは、水虫に気を付けて。痒いと注意散漫になるから」、「わかった」、「あと、僕の開発チームが新しい毒ガスを作ったから、今度から実践に投入されるよ」、「ああ、注意して扱えってんだろ」、「うん。じゃあ、気を付けてね」、「ああ、ありがとな」。そんなやり取りのあと、すぐに俺の戦場から機関銃は消えた。代わりに支給されたのはガスマスクと例の最新化学兵器だ。俺はガスマスクを付けて毒ガスを撒き散らす手榴弾を投げ込んでゆく。これも、おもしろいように人が倒れていった。だが、俺は、いっそのことガスマスクを外してやろうかとも思った。そして、膠着状態の塹壕線は体力を消耗し、オッツの言うとおり、俺は酷い水虫になった。

 いつしか戦争が始まって、三年が経とうとしていた。

「いつ終わるんだろうな。この戦争」

「僕にだってわからない。毎日毎日研究室にこもって危ない化学兵器の生成に神経をすり減らしている。もう嫌だ。もううんざりだ。人を殺すための道具をこの手で作っている」

「俺も、そうだ。そういえば俺、水虫になったよ。雨が降ると足も冷えてまずい。他の奴らは症状が酷くなって、本国に送還されちまったよ。俺も、早くそっちに帰りたいな。暖かい暖炉の側で毛布にくるまって眠りたい」

「言わないでくれよ。僕だって最近は家にも帰ってないんだ。それに、不眠不休で働いている。このあいだなんて、眠くてうっかり薬品を落としそうになったんだ。笑えるね」

「すげえおもしろい話だな」

「最近はこの薬を飲んでみようかな、なんて思ったりもしているよ」

「奇遇だな。俺は毒ガス溜まりの中に飛び込んでみようかと思っている」

 俺たちはすっかり心をやられていて、そのあとはまるで機械のように体を動かし続けた。その作業の中で、オッツから手紙と、ちょっとした贈り物が届いたが、ジャーマン兵をたくさん殺せばそれだけ早く家に帰れる。それだけを思っていたため、封を開けることは無く、塹壕の中から単調に引き金を引き、手榴弾を投げ、敵の攻撃をやり過ごし、物資を受け取り、また引き金を引いて、手榴弾を投げ、敵の攻撃をやり過ごし、物資を受け取り、また引き金を……また……終わりが見えないことを繰り返して……。

 俺はいつしか塹壕の中で、たったひとりでそんなことをしていることに気づいた。周りには誰もいない。遠くで銃撃戦の音だけが響いている。それ以外には何も聴こえず、俺は銃を置いてその場にしゃがみこんだ。俺以外の兵士は、みんなそちらで応戦しているようだった。俺はそこで、ようやくオッツから届いた手紙に目を通そうという気になった。

 小さな袋を開けてみると、中にはブリキのシガレットケースが入っていた。絵柄は赤地に白で「R6」と大きく印字されている。「ジャーマニー製じゃねえか。どこでこんなもん」そうごちつつも、俺は同封のマッチで煙草に火を付け、すう、と深く一息吸ってから、手紙の方を開いてみた。そこには、こう書かれてあった。

「ディック、すまない。僕にはもう耐え切れない。手にかけることができない。こんなことを望んでやってはいないと言えば、それはおそらく嘘になるだろう。僕は、こんなことをするために生きてきたわけではないけども、けれど、きっとこの時代に生まれてきて、こんな道を歩んだばかりに、僕自身が望むべき道を踏み外していったのかもしれない。うまくは言い表せない。こんな言葉を書いてしまったことを謝らせてくれ。検閲は厳しい。今回は、こんなことを書けるのは、きっと幸運だ。戦地にいる君を鼓舞するために、ユーモアたっぷりの筆致で書かなければならないのが、どうにも悔やまれることだね。開発の合間に少しずつ、気を紛らわせるために描いてきたいろいろな絵を君に託したいと思う。見てごらん。その中に書いてあるのはね、ぜんぶ蟷螂なんだ。わかるかい。蟷螂のメス。メスはね、オスを食らうんだ。子を産むための栄養分とするために。けれども、それをオスは既にわかっているんだ。それは自然の摂理だ。食われるものは食われ、食われないものは食われない。共食いということでもあるのかもしれない。とにかく、僕は、食われた。けれども、それは僕の知らない間に、だ。食われたからには、もう、動けない。動きたくない。こんなことをするために生きていたくない。これは僕が望んだことじゃないのに。違うよ。誤解しないでくれ。一度は逃げようとした。戦場にいる君すらほっぽり出して、どこか遠くへ行って、本当の僕がしたかったことを、昆虫の研究を、したいがために、僕は逃げ出そうとした。結果は失敗さ。情けない話にね、僕って体が貧弱だからさ、走っていたら体力が尽きて追いつかれてしまったんだ。笑えるよ。主要な研究員だったから処罰は軽いもんだけど、僕は、たぶんそこで心が折れたんじゃないかな。わからないよ。もう、わからない。ごめんね。そうそう、一緒にジャーマニー製の煙草も入れておいたよ。どこで手に入れたって、配給物資の中に紛れ込んでいたのをこっそり持ち出したんだ。どうせ処分されるなら楽しんだ方がいいに決まっていると思って。それで一本吸ったのさ。うまかった。すごくうまかった。こんなにうまいものだと知らなかったから、君にも分けてあげようと思った。君は僕より過酷な環境にいるし、こういうものがきっと必要だろうと思うし、僕はもう吸わないからさ。だから、残りはぜんぶあげるよ。ねえ、だから、どうか生きて帰ってきて。お願いだ。僕は、僕は、僕は、」

 手紙はそこで終わっていた。僕は、に続くカンマの先は、ぐるぐると渦巻き模様が延々描かれていて、それはとても均整にバランスがとれていて、こんな綺麗なものを俺はここ数年目にしてはいなかったから、なんだかとても嬉しくなった。気分は楽しくなって、不味いはずのジャーマニー製の煙草も、心なしかうまいと感じることができるようになった。俺は、塹壕の切れ間から珍しくからりと晴れた青すぎる空を見つめ、ゆらめく煙草の紫煙を写した。

 そして、響いて、どこからか、が、俺は、発砲音?

 目の前が、暗くなって──。


   *   *   *


 ディックはやにわにぶるぶると体を震わせ始めた。「俺は、俺は」恐れる必要などありはしない。ディック、きみはオッツというきみの友人のあとを追ったのだ。それだけの話であると推測できはしないかね。しかし、きみはその友人とはまた異なる方法、場所、時間で、同じ運命を辿ったのだ。それは、むしろよろこぶべきことではないだろうか。考えてもごらんなさい。きみも、きみの友人も、現世のつらさにはほとほと困り果てていたのだ。きみたちはもう現世で生きていたくないと思っていたではないか。それを恐れる必要などありはしない。だから、きみはなぜそんなにも体を冷たくし、震えているのか、どうかこの老いぼれにその所以を教えてはくれないだろうか。もしかするならきみが恐れているのはここにこうして訪れることではなく、この場に辿り着くことでもなく、その友人との別れそのものであると言うつもりなのかもしれない。しかし、それすらもとうの昔に運命と言う名の巨大なうねりのさなかにあったのだ。そのうねりの中で偶然にも出会い、進学を機に再び別れ、手紙という文章中でしか会えず、互いに交流を図っているとしても、それは現世で言われる詭弁と呼ばれるものだ。もしかしたらきみは戦場で第一通を受け取った時点でオッツという友人のすり替わりと交流していたのかもしれないのである。この可能性は十分に考えられる。そして、きみは想像の中にオッツその人の姿を勝手に描き出し、あたかもその人と心から通じ合っていたような錯覚を覚えていただけなのだ。戦場はつらく、苦しい場所である。そこできみがある種の幻覚症状のような状態に陥っていたとしてもそれは考慮されないものではまったくない。

「黙れ」それはできない。WATASHIはきみの話を聞いてとても興奮している。きみに何か語らずにはおられない。どうか、どうか、この老いぼれに、きみがどれだけ不愉快になろうとも語ることを止めさせはしないでくれたまえ。こんなことは初めてなのだ。きみが初めてオッツという友人と邂逅したそのときの気持ちのように、WATASHIはいまとても言いようの知れない不可思議な感情に食われている。つまり、WATASHIもその蟷螂のオスやオッツやきみと同じように食われているのだろう。これが食われているということなのだ。食われ、その中で噛み砕かれ攪拌され、いかようにも表現しがたいこの感情のやり場の無さと言ったら、もはやこのまま脱線してあの邪悪に蠢く空の彼方に飛んでいってしまいそうなほどに。

「食われているのはどうにもしなかった俺の心だ。オッツは、勇気を出して一度は逃げ出そうとした。嫌だって、こんなことごめんだって。でも俺は何もしなかった。逃げ出しもせず、向かおうともせず、塹壕の中で臆病にも頭を出して機械的に敵を殺すことだけを考えていた。それ以外に苦しみから逃れる方法が無いと思っていた」そうだとも。きみは完全に食われていたのである。そのような中で、きみは見事に殺された。敵国のものであろうと煙草の味を精一杯楽しんで安らかに殺されたのだ。こんなに穏やかなものは、WATASHIの現役時代でもそうそう見かけることは無かったはずだと、銀色の珠が囁いてくれている。きみはあの時代において最高峰に安らかな最期を遂げたのだ。その点で言うならば、きみは、とても幸運な人生の持ち主だったと言える。

「そうなのか。そんなこと、俺は思えない」そうだな。しかし、今はそれで良いのではないだろうか。きみの友人であるOtsも、きっと今頃は、特急か快速か、それともまだしぶとく走っているWATASHIのような蒸気機関車に載っているのか、それは定かに思い測ることはできないが、それでもきみの友人だ。きみと同じように、新たな生まれ変わりのその先にあるものの生き様を楽しむだろう。

 ところで、きみはどうするのかね。WATASHIはこの時をもって運行をやめようとしている。しかし、まだこの先に歩いているものがいるのではいかと訝ってもいる。もしきみさえよければ、このままもっとずっと先へ一緒に走ってはみないかね。「戻ると、どうなるんだ」戻るときみは新たな具現として新たな生き様を与えられ、その生き様を生きるだろう。しかし、どんな生き様かを自らの意思で選び取ることはできない。

「なるほど、それなら答えはひとつだ」なんだろうか。「俺は、このままお前と一緒に走ってみようと思う」その答えを待っていた。オッツのことは、もういいのかね。「いいんだ。俺もオッツも、生まれ変わりなんて信じちゃいないしな」なかなかおもしろい理由だ。では、行こうか。「ああ」

 WATASHIは一度大きく警笛を鳴らすと、ほんの少しだけ鉄輪の勢いを速めた。

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