ターミナル
籠り虚院蝉
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大地は偉大に薄紅色で、大空は雄大に玉虫色だった。渦巻き模様を描く広大な画板はじっとそこに色を着けられるのを待っているだけで、何かを主張するわけでもなく佇むばかり。川らしい川は無く、かといって水溜りのようなわずかなオアシスが地を這って申し訳程度に潤しているわけでもなく、この場はただ無味乾燥としていて、奇奇怪怪な特徴といえば、もっとも初めに述べたような渦巻き模様と周囲を取り囲む乾いた断崖絶壁しかない。
かなり端的に述べるならここはグランド・キャニオンと呼べるのかもしれない。しかしながらここはグランド・キャニオンほど美しい景色などではないし、大地を鮮やかに彩る薄紅色は、悠久の時のながれを物語るようなロマンティックなものではない。この場に豊潤な感性を有した存在が在るならば、それはおそらくゴッホで、ゴッホの幾度目かの生まれ変わり(どこかにいるだろう)が、ほうと感嘆の溜息を漏らすかもしれない。もちろん、そんなことが起こりうる可能性は乾ききったこの場においてまったくやはり空虚な妄想に違いない。それほど、乾いた大地にWATASHIのたったひとつ有している銀色の珠も、何か感傷を抱かずにはいられないのだろう。時代は、とにかく、速く、急いていた。忙しなくなっていくものはなにも実体を有する存在だけではないというのに、この薄紅色の大地と、この玉虫色の大空は、まるで変わらずヅモモモモウウウと蠢いている。邪悪なる光景だなどと終末を予言する空模様は、悪い何者かに支配されているからささあ早く助けておくれ、といかにもじれったく身じろいでいる。画板はつんとしていて身動きひとつとらないが、その上を這いずり回る玉虫色の空模様はまさしく意地の悪い性格をしていた。これは一度しか逡巡しないが、変わり果ててしまったのは、永久ではなく、一瞬のほうなのだ。
すなわち、この場が一寸たりとも変わることはないことをも示している。WATASHIたちはすっかり変わってしまったのだといえるのだ。まずWATASHIたちが生まれたのは、少なくとも体感で三〇〇〇年後にグリース、マルタ、ローム帝国の一部に登場した馬車だ。そして十六世紀になると木製線路の上に簡単な車を走らせる。その後、産業革命を経て蒸気機関が開発されると、さまざまな道具が鋼鉄化する。線路は木製から鉄製になり、ユナイテッド・キングダムで初めて、蒸気で走る蒸気機関車が地を駆けた。無論、駆けるというほど俊敏な速度は持ち合わせてはいなかった。大きな戦争を二度へだて、電気機関車と呼ばれる新型が導入されると、陸地での物流は格段に向上し、WATASHIたちも加速度的に増え、消えてゆく存在を目的地まで運ぶために新型へと移行しなければならない羽目になった。
しゅっぽしゅっぽと蒸気と煙を吐き散らすような、とりわけWATASHIのような老いぼれも、そろそろ引き際をわきまえなければならないのである。のんびりと走っていると、隣のどなたかがひゅううううううんと風を切る音だけを残して追い越していってしまう。あいつは最新の電気浮上式鉄道とかいうきざなやつだ。線路も新しく、その線路を覆い隠すように大仰な推進用電磁石を携えた長い壁が続いており、まるでどこかの神経質で横柄な権力者が馬を用いて疾駆するかのような様相だ。だがしかし、どうにも見た目が当世風なおかげで醜さを見出せない。電気浮上式鉄道が嫌いというわけでは毛頭ない。ただWATASHIたち自身の時代の流れは永久ではないのだ。WATASHI自身の役目として、まだまだその意義が失われはしないだろう。むしろ、これからはより忙しくなっていくはずだ。そのためにWATASHIのようなのろまで能天気が、変わらない空模様を見上げつつ目的地に乗客を載せるというのは、他の連中からしたら目障りでしようがないのだ。そればかりは認めるべき事実であるし、納得している点でもある。引き際をわきまえなければならないのが老いぼれだけではないことも重々承知している。憎まれっ子世にはばかる、というへそ曲がりの理屈がまかり通るほど、この場も現世と呼ばれる場も同情をさそうものではない、ということも。
WATASHIたちがつねに一方通行で目指すべき目的地のその間は、すなわち現世ではイデアとか転生と呼ばれるものの間にある。言わずもがな回送は必要だ。だから「つねに一方通行」という表現はいささか不適当なのだが、自身のこの役割において実質を見出すことができるのは、こちらではなくすべて乗客のほうであるので、乗客がつねに一方通行と表現したほうが適当なのかもしれない。少なくとも乗客以外の存在が実質を見出すことそのものに意味はあるのだろうか。ここで生まれ消えていく存在はなんら自意識を持たないし、自覚することすらないのだから、本当ならば考えることすら無意味に程近いのだ。だいたい百年ほど続く線路の上で乗客を客車いっぱいになるまで載せて、適当なところで進路の前後を交替させ、あとは目的地までできる限り速く向かっていくだけだ。判断するべきものは客車がいっぱいになったかとか、速く、速く、速く、速く速く速く速く速く!……よし止まれ、ということだけで済む。簡単な役割だ。蒸気と
空模様はあいかわらず終末の予言を意地悪く囁いている。隣を駆けていった電気浮上式鉄道はすでに遠いかなたまで過ぎ去ってしまった。その線路ももはや隣には続いておらず、だいぶ遠くまで来たのだということを示してくれる。先ほどのやつの客車はどうやら消えてゆく存在がところせましと満載だったように見えたが、やはりここまで遠くへ来るとなると、それなりに載り入るものも多いのだろう。ところが、WATASHIの客車には消えてゆく存在が一人も載り合わせてはいなかった。まったく幽霊列車とも表現できそうなガランドウである。
どうだろう。死に急いでしまったのだろう。そうだ、生き急いでいたのなら、少しはゆっくりとした汽車旅も捨てたものではない。どうだい、乗ってみないかい。ああ。なんと、待っているだって、そうかい。では、WATASHIは行くよ。待てよ。一期一会の出会いだし、いいことを教えてあげよう。ここから少し向こうまで歩くと、最近運転を始めた快速電車の線路があるから、そのかたわらで座って待っているといい。WATASHIと違ってのろまではないし、音も静かだし、揺れも少ないから、きっと快適に、目的地まであっという間に着いてしまう。では、行ってしまうよ。よい旅を。
記憶をずっとずっと遡ってみると、そんなやりとりをしたことがあることを、銀色の珠がそっと思い出させてくれる。たしかに、そんなやりとりをしていたのだろう。あの時のお客さんはきちんと言いつけを守って快速電車に乗ってくれただろうか。いつのことだったかまでは思い出させてはくれないが、もしあのまま言いつけを守らずに自分勝手な方向へ歩いていってしまっていたら、その先でもはやふっと消えてしまっていたことだろうに。しかし、絶えず変わっている消えてゆく存在をあなたは同一人物かと尋ねることはできまい。いつまでも変わっているのだ。
老いぼれの最後の運転だとばかり判断して、長い間ひと息もつかずにずっと走っているというのに、何も載せられないこの体たらくぶりときたら、まるで売れないくせに一人芝居をしているようなものだ。相棒なんていやしない。こんなに虚しいこともないのかもしれない。周りにはたしかにまだしっかりとした足取りで歩を進ませているものがいる。しかし同時に、今にも倒れそうなほど重々しい足取りで歩くものもいるのだ。中には、泣いているのだろうか、うずくまってじっと動かないものもいる。すやすやと地に伏せて眠りこけているものもいれば、もうひとつの存在を抱えながらジャンプすることで歩いているものもいる。実に多種多様な存在を確認することができるが、どいつもこいつも向かう先といえば、まっすぐと遠い地平線の向こうか、電気浮上式鉄道や快速電車や新幹線の線路で、蒸気機関車に載ろうとするものはいない。その有り様だけで、このままどこまで進んでいけば、最終の伴侶を見つけることができるというのだろうかという疑問を与えられてしまうのは、まさしく自明のことだった。先のとおり今現在、現世の存在は生き急ぎ、死に急いでいる。せかせかと忙しなく動いているのは彼らだけではないのだが、一日に何百何千何万もの本数を走っているわれわれとて、この忙しさには鉄輪を空転させてしまう勢いだ。現にWATASHIの率いる三等客車以降の貨物部分の鉄輪は整備も何もあったものではなく、時たますかっすかっと空回りしてしまう。われわれ全体の目まぐるしさの度合いはというと、WATASHIが現役だった頃と比べると、申し分ないほどに向上してしまった。それでもまだまだわれわれの数は足りない。毎回の運転がラッシュなのだ。その目まぐるしいなかで、WATASHIはやはり老いぼれらしく取り残されているらしい。
予言を囁き妖しく蠢いている玉虫色の大空を背に広げ、宿命とばかりにしばらくのんびり走っていると、遠い線路のかたわらに人間らしきかたちをした影がうかがえた。ほんの少し無駄な話をするが、遠くにいる人間の姿は、時おりチンパンジーやオランウータンに見えることがある。
WATASHIの判断力が鈍ったのだといえばそれまでだ。今回も、人間らしき、と表現したのは、この役割最後の見栄っ張りが高じた結果にすぎない。ところがこの見栄っ張りは、単なる見栄っ張りではなかったようだ。のろのろと精一杯の全力で駆けて、WATASHIはその影の近くに停車する。このとき、電気機関車のやつらならば、お客の目の前にドアをもってくることができるのだが、生憎と錆び付いて鉄輪がきりきりする蒸気機関車のWATASHIはそこまで正確無比な停車はできない。乗降口はお客から数メートル離れた位置にある。お客は力無く立ち上がると、数メートル離れたその乗降口の側までふらふらと歩き、妙に節くれ立った手で扉を開けて中に載り込んだ。そして、しばらく一等の客車内をうろうろとし、気に入った席を見つけたのか、どっかと埃を巻き上げながら、疲労困憊の様子で倒れこむように座った。WATASHIはそれを確認すると、しゅっぽしゅっぽと気持ちがいいくらい軽快な音を鳴らしながら発進する。
程なくして全速力になると、WATASHIはお客の様子をうかがった。乗り込んできたお客はどうやら兵隊のようで、カーキ色の制服に苔色のヘルメットをだらしなく被っている。表情はひどく疲れきった様子で、ところどころに擦り傷や泥の撥ね跡もある。汗もたくさん掻いていて、今まさに戦場に立っていたのだということがわかった。顔立ちは、どこだろうか。たしか記憶から与えられて──そう、これこそまさにユナイテッド・キングダム人というやつだっただろうか。色白で鼻が高く、眉が垂れ気味の顔立ちは、尋ねればだいたいユナイテッド・キングダム人だった気がする。普段のWATASHIならそこまで気が向かなかっただろうが、最後だからにちがいない。乗客のことを知りたくなってしまったのは、老いぼれが良かれと判断しただけの豊かな余生の過ごし方だ。つまり、WATASHIはほんの少しだけ彼に興味が湧いたのだった。
うたた寝しそうなところ申し訳ないが、きみね。名前はなんというんだい。そうやって静かに耳元で囁いてみると、兵隊はびくりと大きく肩を震わせ、座席から大げさに転げ落ちた。はずみによって苔色のヘルメットが転がっていき、後ろから二番目のボックス席の中へと入り込んで止まる。兵隊は慌てて這いつくばりながらそのヘルメットの転がった先に向かって座席の裏に隠れ、突撃銃を構えるような体勢で目だけを出して周囲を確認する。しかし、その手には何も抱えられてはいない。安心なさい。ここはもう戦場ではないのだよ。そうやってふたたび耳元で囁いてやると、兵隊は、はっと目をわずかに見開いて、今いちどゆっくりと周囲を確認した。そして、強ばらせていた全身、その力をふうううううと抜いていく。「ここは、蒸気機関車のなかか」そのとおりである。なかなか察しのいいことだ。WATASHIがそう耳元で囁くと、「お前はだれだ。俺は戦場にいたはずでは」と困惑した様子で視線をあたふたさせる。案ずる必要はまったく無い。ただ、さあ、まずは名前を名乗ってもらうとしよう。「名前。リチャード・ロックウッド。だが、仲間からはディックと呼ばれていた」それならば、ディック。きみはどうしてこんなに若くして、もう載ってしまいたいと思ったのだね。「そんなの聞いて、どうするんだ」老いぼれの最後のわがままを許してくれ。「待て。お前はだれだ。ここはどこで、俺はどこに向かっているんだ」ぼんやりとしたままWATASHIに載り込もうと線路のかたわらに力無く座っていたことを、ディックは覚えていないのだろうか。しかし、それは知りようもないことだ。なぜなら、WATASHIとて今までそんなことを気に留めたことは一度たりともなかったからだ。何もかもが初めてだ。ディックもWATASHIも、この場で為すべきことなど目的地に向かうことだけだというのに、明確に使命らしい使命といえるものは、それしかない。それを、このディックとやらは一寸も理解していないようだ。まるで、まだまだその心持ちは現世のいずこにか置いてきて、二度と帰らぬ場所でそれを全うしようとでもいうようだ。しかし、この場に来てしまったからには後戻りはできない。たまに窓から無理やり飛び出してしまったり、誰かが載り合わせたときにこっそりと入れ替わるように降りていくものもいたが、それは規則違反で、きちんと運賃は払ってもらわねばならないのである。間違えて載り合わせてしまって万が一降りたいのなら、その場でひと言呟くだけでいい。しかし、このディックとやらはそれすらも把握していないらしく、辺りをきょろきょろ見渡しては頭を抱えて唸っている。よもや現世に悔恨をのこしたまま載り合わせてしまったのだろうか。それは十二分にあり得る話だ。しかし、そういった可能性を持ち合わせたまま載り合わせるものは、たいてい困惑の色を浮かべるようなことはなく、むしろ、駄々をこねつつ喚いたり、車内で暴れたり、さめざめと泣く、といったことをするばかりだ。困惑の色を浮かべつつ載り合わせた理由すらわからないのなら、それはきっと、覚悟のないままただぼんやりとそうしたものだけだろう。ぼんやりと、わけのわからぬまま、ディックは載り合わせてしまったのだ。おお、かわいそうなディック。
「おい、ここはどこだ。どこに向かっていると聞いている」ディックがWATASHIに訊ねてくる。WATASHIがしばらく黙ったままでいたからだろう。その声色は少しばかりいら立っている。ここはイデアと転生の間にある場所だ。この蒸気機関車は数ある鉄道のうちのひとつでしかなく、きみは運悪く老いぼれの蒸気機関車に載り合わせてしまったのだ。この意味がわかるだろうか。「俺は、俺は。じゃあ」その先はいけない。その
「言っている意味がわからないぞ。上官の根性論より意味不明だ」それはそうだろう。だが、だいぶ落ち着いたようだ。
「ひとつ確認させてくれ。俺は、その、そうなのか。仲間を置いて、俺だけ、こんなところに」それは違うかもしれない。同じ場所で同じ働きをしていても、同じ場所で載り合わせるとは限らない。現世とは物質でできているのだろう。ここはそうではなく、実体のない虚実をない混ぜにした場所なのだ。だから、ここで現世でのコモン・センスは通用しないと肝に銘じておく必要がある。そして、WATASHIはきみの言う仲間がどうなったのかということについて、知ることは何もない。もしかしたら、仲良く同時に異なる鉄道を走るものに載り合わせたのかもしれないし、そもそも載っておらず、まだこの薄紅色の乾いた大地をその足で歩いているのかもしれない。きみの仲間というものたちの動向はきみの現世での記憶如何によるのではないのかね。「たしかに、ああ」それならばいま一度、きみの話を聞いてみることにしようではないか。ようやく落ち着いてきたころには、おのずといくぶんか饒舌になっているものだ。
ディックはボックス席の座席から目だけを出して警戒するのを解き、そのボックス席の窓際の席に大仰に腰掛けた。「話をする前に、もうひとつ聞こう」ディックはヘルメットをかたわらに置き、こげ茶にきらめく短めの黒髪をかき上げた。髪の毛に引っ付いていた汗が細かなしぶきとなって、このボックス席一帯に飛び散ってしまった。臭いが付いてしまうだろう、紳士のくせに粗野な行動は慎みたまえ、と囁きたくなるのをこらえ、「お前はだれだ」WATASHIはきみに囁きかけているものだ、と代わりに囁いた。「答えになっていない。叱られるぞ」違うのだ。それは悠然ときみの前に横たわる答えだ。なぜなら、WATASHIにはそうとしか答えようがないからだ。これが答えでないというのなら、きみの前に、きみの納得するような答えは存在しないことになってしまう。それは、きみがもっとも忌み嫌っていることではないのかね。納得がいかないままぼんやりと載り合わせてきたにしては、随分と威勢のいい理性と判断力を有していることになる。「わかったよ。とりあえず、俺は俺が今までいた世界とはまったく別次元に飛んできてしまったんだろ。そして、もうそこには戻れない。俺はお前に覚えている限りの俺のことを話す」まったくそのとおりである。その察しの良さが天性のものか、それとも現世で身に付けてきたものなのかは、ディックの物語を聞くことで推測してみよう。
「しかし、なぜ、俺のことを聞きたいと思った」ディックが不意にそのようなことを訊ねてきた。それは実に簡単なことといえる。乗客のことを知りたくなってしまったのは、老いぼれが良かれと判断しただけの豊かな余生の過ごし方なのだ。つまり、WATASHIは、ほんの少しだけ、きみに、興味が湧いた。
「そうかい。納得がいく答えで安心したよ」そして、窓の外を眺めながら、とつとつと語り始める。
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