第2章 遠い音と浴室
第 1 話 不思議な子供
枝葉が擦れ合う音。
布を引き摺る音。肉と骨がぶつかる音。
踏切が閉じる音。包丁が床に刺さる音。
驚いて飛び去る鳥の羽ばたく音。切れた管から漏れる液体の音。茂みを歩く音。垂れた雫が波紋を作った音。塞いだ耳の中から聞こえる音。裸足の足音。首を掻き毟る音。瓶の割れる音。
含んだ物を吐き出す音。椅子を引き摺る音。トラックの荷台が揺れる音。タイヤが床を擦る音。骨を削る音。肉を不器用に裂く音。水の張ったお風呂に何かが落ちる音。近付くサイレンの音。
誰かが泣く音。誰かが我慢している音。風が梢を揺らす音。鳥が鳴く音。呟く言葉の音。胸の内で鳴り響く音。泣いている音。涙が床を叩く音。抱き締められる音。他人の心臓の音。啜り泣く音。ごめんねという音。大丈夫だという音。遠くなる足音。沢山の音。
遠くなる音。音。音。音。音。音。音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音どうして音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音聞こえないの音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音。
聞こえるよ。
靴を履いたまま上がる。散らかった部屋だ。
流し台にはいつから溜めているのか、食器が乱雑に積み上げられている。青い茶碗と青い箸、小さな欠けた白い茶碗。小さな子供と暮らしていたようで、柄に動物が描かれたスプーンやフォークもあった。
床は足場の踏み場もない程に、ゴミと服とで溢れかえっている。食べかけの物がそこらに置いてあるせいで、噎せ返りそうな悪臭が立ち込めている。虫の姿が見えないのは、冬だからか。実に幸運な季節だったと少し安堵すると同時に、夏場の部屋を想像してしまい、胃の中の昼食がせり上がりそうになる。
部屋の中で、唯一、確保されてるスペースはマットレスの上くらいで、そこを中心にゴミが広がっており、部屋の奥の押し入れの前には文字通り山のようにゴミが聳えていた。ゴミの種類は、空のコンビニ弁当や、中身のないダンボール箱などが殆どだ。
この部屋に初めて訪れた白いスーツを着た女性は、ゴミを避けながら窓に近付くと、謎の染みが付いたカーテンを開けて、そのまま窓も開放した。
新鮮な空気が部屋に入り込む。同時に、健康的な自然光も部屋に差し込む。女性はそうしてから、持って来ていたビニール袋を手に取り、手袋を嵌めてからそこらに散らばるゴミを集め始めた。
燃えるゴミ、燃えないゴミと分別はしっかりと行なっている。
ここはアパートの一室だ。1DKで風呂トイレは共同、駅からも遠く、築年数もそれなりの安アパートの204号室である。
女性がゴミを手際よく分別してまとめると、床が見えるようになった。一体何年溜め込んでいたのか、床には黴が生えていた。正体を知りたくない、悪臭を放つ染みも幾つか床に広がっている。
女性は気にせず、掃除を続ける。
しかし、女性はお掃除屋さんではないし、ここの家主でもない。女性がゴミを纏めているのは、単にそうしなければ奥に辿り着けないからだ。
半日程過ぎた頃には、玄関から押し入れ迄の道が出来上がった。窓から差す光は橙色だ。遠くに目を向ければ、微かに月も登っていた。
押し入れ前のゴミを半分程片付ける。既にパンパンのゴミ袋が、後ろに積み上がっていた。押し入れには子供が貼ったのか、キラキラしたシールが数個貼られていたが、日焼けして色褪せていた。
女性は押し入れの前に立った。耳をそば立てる。何も聞こえない。
ゆっくりと、慎重に襖を開けていく。中は暗く、籠った埃の匂いでくしゃみが出そうだ。
一枚分開けば、奥の様子も見えた。意外なことに、押し入れの中には荷物もゴミも置かれていなかった。
そこには三、四歳くらいの女の子が一人、芋虫のように布団に包まっていた。その子は突然現れた女性に目を向ける事もなく、ずっと耳を塞いでいた。聞き取れないが、口の中で何かを話している。
女性はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。ボタンを幾つか押した後、それを耳に当てた。
「
電話の相手は低い声で答えた。
「いない。形容し難い者かもしれんから、確保しろ」
「分かりました」
女性は、遊直は携帯電話を閉じて、ポケットへと戻すと、押し入れに目を向けた。おくるみのように包まれた女の子はこちらの存在にまだ気付いていないようである。
「こんにちは」
声を掛けてみるが、見向きもしない。
遊直は押し入れの上段を登り、女の子の正面に腰を下ろした。そこで、漸く彼女は遊直の存在に気付いたようであった。
驚いているのか、みじろぎもせず、じっと遊直を見つめている。
「こんにちは。私は特殊生体捕縛課に所属している、遊直です」
挨拶をしても、あまりぴんと来ていない。やはり、まだまだ知名度が低いのだろう。これ程に幼い子供なら仕方のないことでもある。
「アナタを保護します。一緒に来て頂けますか?」
「あ、う、いあ。ぶーぶーのおと」
女の子は何かを発しながら、布団の中から両腕を取り出す。そして、その手で記号を使ったり、動かしたりしている。
手話だろうか。遊直は簡単な挨拶くらいしか知らなかった。彼女の使う言葉の中に、遊直の知る動きはない。そこから意思を読み取るのは難しいと思われた。
「何故、ここにいるのですか?」
「ねーねー、ねーねー」
「ねーねー? お姉ちゃんがいるのですか?」
「こわい? ぶーぶー」
口の動きが分かりやすいように、はっきりと発音して尋ねると、彼女は部屋を指差した。指の先にあるのは、玄関だ。
短くぷにぷにした指はくいと左に二度曲がる。玄関を出て左にあるのは、脱衣所と風呂場だ。
「ちょっと、待っててくださいね」
遊直はゴミを掻き分けて玄関から出て、共同の脱衣所を見た。壁のスイッチを押しても、電気はつかない。仕方ないと、携帯電話の明かりで、周囲を見渡す。
水場特有の籠った空気だ。脱衣所には籠が床に置かれており、隣には古い洗濯機が置かれている。棚には掃除用の洗剤が並んでおり、隅には掃除用具が立て掛けられている。
引き戸を開くと、三畳か四畳程の狭い浴室があった。洗い場は人が一人座ったら隙間がなく、浴槽も膝を折り畳んだ状態でなければ入れないだろう。ゴミだらけの部屋を見て来たからだろうか、古いが綺麗にされていると感じた。
白いタイル張りで、隅の方に風呂用の椅子が置かれている。壁には小さな鏡もついていた。
特に変わった物はない。アパート自体が古い建物なので、お化けが出てもおかしくない暗い雰囲気はあるが、それだけだ。異質さはない。
彼女が指差したのはここではないのだろうか。
遊直は、不思議に思いながら、風呂場を出た。
近くの部屋も確認するが、施錠されていた。預かっていた鍵で開けると、生活感のある部屋ではあるが、人気はない。
事前の情報では、このアパートに住んでいた人間は七名。全員行方不明になっている。
事件が発覚したのは一ヶ月程前の事だ。
帰省すると家族に伝えていた住人の一人が、一向に帰ってこないどころか連絡がつかなくなったのを心配した家族が、このアパートまで様子を見にきたのだ。今年大学生になったばかりのその住人は、二週間程大学にもバイト先にも顔を見せておらず、すぐに警察へ相談をしに家族は向かった。その時に初めて事件として扱われる事となった。
捜索願を受理した警察が、近隣住民への聞き込みを開始した所、アパートに残っていたのは既に一組の親子だけであった。高校生の娘と、無職の父親。前田紬と、前田忠彦である。
他の住人の行方が分からなくなっていた事が発覚したのも、この聞き込みを開始した頃である。
聞き込み当初、在宅していたのは父親のみで、彼はアパートの住人に対し、一度も顔を合わせたことはないので、行方不明になっている事さえも知らなかったと答えた。実際、近所付き合いは皆無であったことが、後々に管理人でもある大家の矢端早苗からの証言で分かっている。
殆どの住人は、挨拶をしても無視するような性格で、矢端は敢えてそのような交流に難のある人物や通常の賃貸を借りられない人を選んで、部屋を貸していた。その理由は、そういった付き合いがない方がご近所問題も発展しづらく、他で部屋を借りられない人は追い出されるのを嫌がり、問題行為が案外少ないと考えていたからとのことだ。騒音等の問題行動による通報は、一度も発生しておらず、物静かな人物が多かったのは確かなようだ。
二ヶ月前から住人の内数人が家賃を滞納し始め、矢端が直々に家を訪ねたが、全て留守であったという。交流を嫌う性質を持つ住人に対し、矢端は寛容で、三ヶ月までは待ち、以降無視が続くようであれば、警察に相談するつもりだったようだが、その前に件の大学生の行方不明が発覚した。この事から、行方不明事件は数ヶ月前から発生していたと思われる。
一ヶ月に渡る警察による懸命な捜索も届かず、現在も行方不明者は発見されていない。
そして、三日前に最後の住人であった、前田忠彦と前田紬が行方不明になった。異様な事件に、警察は形容し難い者の関与を疑い、彼らの専門家である特殊生体管理部へと調査を委託した。
そして、現場に派遣されたのが、特殊生体管理部内でも実行部隊に位置する、特殊生体捕縛課に属する遊直であった。
遊直は204号室へと戻る。
ゴミの山を抜けて、押し入れを覗くと、少女はいなくなっていた。包まっていた布団だけが、抜け殻のように残っている。
離れていたのは五分程だ。ドアが開けられる音は聞こえなかった。
遊直は開かれた窓に駆け寄る。窓のサイズは縦が六十センチ程で、下半分に柵が設けられているが、五歳位の子供なら簡単に登ってしまうだろう。
下を見下ろすと、小さな子供がてくてくとアパートの敷地から出て行こうとしていた。靴も履かずに、裸足である。怪我をしている様子はない。その子は、先程見付けた子供と同じ服装をしている。
「ちょっと待ってください! 危ないから止まって!」
大きな声で呼び掛けるが、止まる気配はない。遊直は慌てて、部屋を飛び出し、階段を駆け降りる。道に出て、左右を見渡すが、子供の姿はない。
曲がり角までは遠く、この短い時間の内に小さな子供の足で辿り着けはしないだろう。道に姿が見えないなら、どこかの敷地に入った可能性が高い。
「ねぇ、貴方、どうかしたのかい」
きょろきょろとまわりを見渡していると、近くの家から高齢の女性が話し掛けてきた。
「すいません、このアパートから小さな女の子が出て行ったのを見ませんでしたか?」
「いいや、見てないよ。急に大きな声が聞こえたから、見に来たんだけどね、アパートから出て来たのは貴方だけだよ。お子さんでも見失ったのかい?」
「私の子供ではないのですが、目を離した隙に外に出てしまって」
「そりゃ大変だ。ちょいと、あんた! アパートから子供がいなくなったって。小さい子供だって。探すの手伝って頂戴」
女性が家の中にいた、夫と思わしき人物に呼び掛けると、おたおたした様子の男性が現れる。紺色の上着を着ていた。
「あのアパートに小さい子供なんていないだろう」
「ここらは老人ばっかで。子供なんか、佐伯さんちの涼君が小学三年生だったかしら。くらいしかいないわねぇ。後は」
「紬ちゃんだよ、高校生だったか」
「そうだそうだ。可哀想な子でね。声も小さくて……いや、そんな事より探しに行くよ」
「嗚呼、そうだ」
「お願いします」
高齢の夫婦は真摯にいなくなった子供を探してくれた。しかし、子供はなんの痕跡も残さず、文字通り跡形もなく消えてしまった。
日が暮れ、辺りが暗くなる頃、三人はアパートの前に集まり、後の事は警察に任せる事に決めて解散した。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「いいのよぉ、子供がいなくなるなんて大変だもの。でも、こんなにも見つからないなんて、もしかして誘拐とかかしら」
「警察には連絡したぞ。辺りを探してくれるそうだ」
「貴方も不安だろうけど心を強く持ってね。きっとどっかで疲れて寝ちゃったとかよ。ひょっこり出て来るわよ。無事に見つかるからね、諦めないで」
「ありがとうございます」
女性が遊直の背中をさする。夫婦はいなくなった子供は、遊直の子であると勘違いしているようだったが、事態を複雑化させてしまう気がして訂正を言い出すことが出来なかった。
夫婦は励ましの言葉を残して、家へと帰って行った。
遊直は駆け付けた警察に事情を説明する。既に最寄りの交番に、アパートの一件が特補の担当になった事が伝わっており、細かい説明は省いて問題がなかった。
交番勤務の短髪が似合う青年は、遊直の話を聞いて不思議そうな顔をして言った。
「私もあのアパートの聞き込みに行ったんですよ。大家さんにも話聞きましたけど、そんな小さな子供は住んでいなかった筈ですよ」
女の子は、あの家に迷い込んだ様子ではなかった。あの部屋に慣れているように見えた。
「高校生がいたでしょう。その子と姉妹とかは」
「もしそうだとしたら、出生届が出されていない子供である可能性があります。こちらでも、もう一度確認しますが、特補の人が来ているって事は、その子が形容し難い者である可能性もありますよね」
「ええ。不思議な雰囲気の子でしたから、その可能性はあります。ですが、あのアパートで何が起きたのか、私達はまだ分かりません。分からない以上、あの子を保護する必要があります」
「それは勿論。私にはどういった者であるか、まだ理解しきれていませんが、子供の姿をしている存在が酷い目に遭うのは見たくありません。周辺の警官にも特徴を伝えて、見つけ次第保護するように指示します」
「お願いします。しかし、お願いしておいて、申し訳ないのですが、もし形容し難い者であった場合、深入りはしないでください。彼らは私達の道理と同じ物を持っているとは限らないのです」
「分かりました。気を付けます」
頼り甲斐のありそうな青年は敬礼をして去って行った。遊直は静かに礼をして、彼を見送った。
そして、ポケットから携帯電話を取り出す。数回のタッチで目的の操作まで行くが、最後の通話ボタンにタッチが出来ない。気の重さが指まで伝っている。
肺の中の息を全部吐き出し、思い切りタッチして、耳元にあてる。聞き慣れた呼び出し音の後、低く無機質な大きな声が脳天に直接届いた。
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