第13話 誰そ彼過ぎて、彼は誰時

「本当にありがとうございました」


 絵里さんが頭を下げたので、私も慌てて頭を下げた。


「いいえ、こちらこそ。本当にお世話になりまして。ご心配もお掛けしてしまい……」

「全部探偵さんのお陰です。こんなにもしてくださって、何とお礼を申し上げたら良いか。夫も娘も、解決して、ほっとしています」


 事件の数日後、私は佐原家を訪れていた。冬野君の同行はない。


 平日なので、見違える様に顔色が良くなった絵里さんが、お一人でいらっしゃった。


 私も事前に連絡はしたのだが、事件直後の遊直さんと刻陶さんの事情説明のお陰で、彼女は今回の件の大まかな流れを知っていた。鵺の事、賀田さんの事、刻陶さんの事、あまりに現実味のないものばかりではあるが、刻陶さんが部品になる所を間近で目撃していたらしく、そういうものなのだと、理解は出来なくとも受け入れた様だ。


「最初、説明された時はいまいち分からなかったのですけど、あの方、刻陶さんとお話したら、急に納得出来てしまって」

「それはどうしてですか?」

「何でしょう。音としては違うのですが、時計の鐘の音とあの方の声が酷く似ている気がして。話していると、昔の事を沢山思い出すんです」


 絵里さんはリビングの一角を見る。そこには、茶色いアンティークの振り子時計が壁に掛けられていて、規則正しく、時を刻んでいる。あの中に、刻陶さんはいるのだろう。


「私にとってあの時計は、昔とは違って、怖い物になってしまっていました。でも、もう怖くありません。理屈だけでは無く、感覚としてもそうと分かります。あの方は、私達家族を傷付ける事はしないと」

「ええ、きっと、そうです」


 視線を動かす。以前訪れた時には、骨壷が置かれていた場所には、二つの遺影と位牌が置かれて、その傍らには幾つかの仏具と和菓子が添えられていた。遺影に収められた顔はどちらも見た事がある顔だ。


 絵里さんが私の視線に気付いたのか、説明してくれた。


「漸く、それも飾れたんです。顔を見ると、どうしても悲しくなってしまって。でも、今は、私達を見守っていて欲しいと、兄さんが守ってくれた分もちゃんと生きている所を見せなくてはと思って、置いてます」

「素敵ですね」

「失ってから大切さに気付くってよく言いますけど、本当に、兄さんもお母さんも私の為に色んな事をしてくれていたと今更になって気付くんです」

「私も後になってから、支えられていた事に気付いた事があります」

「ふふ、皆さんそうなのね。だから、今度は私が家族にそうして行こうと。そうしたら、なんだか許してくれる様な、喜んでくれる様な気がして」


 少し涙ぐみながらも、絵里さんは笑顔を浮かべた。立て続けに起きた、大きな喪失と得体の知れない恐怖を乗り越えて、彼女は初めて会った時より逞しく成長している様に見えた。愛情深い彼女がいるなら、きっとこの家は大丈夫なのだろう。同じく家族思いの娘に、優しく見守る存在が何人もいるのだから。


 音が鳴る。ゴーン、ゴーンと福音の如く、慈愛溢れる鐘の音。


 私達二人は思わず、壁を見上げ、そして、タイミングが合った事に微笑み合った。


 私は線香を上げさせて貰い、その後に帰宅する事にした。絵里さんは感謝の言葉と、私の体を心配する言葉を掛けてくれた。感謝するのはこちらも同じであるし、体は特に問題がなかった。今回は二回も気絶しているので、逆にお世話になっている事が多く、申し訳ない位だった。


 玄関先で別れると、私は冬の夕暮れに包まれた。空を見上げると、遠くに茜色があった。逆方向は薄闇に覆われ始めていて、儚く、曖昧な美しいその光景を、私は感慨深く眺めていた。そして、同時に昨日の事を思い出していた。






「あ、起きたね」


 聞き覚えのある声がした。


 目を開けると、見覚えのある天井があった。古く暗い木造。蛍光灯すらなく、光源は開かれた窓から差し込む柔らかな薄暮の光と、机の上の古めかしいステンドグラス風の卓上ライトだけだ。そうか、此処は冠水の町。甘言楼だ。


 私は部屋の中央に置かれた簡素なベッドの上に横たわっていた。


 声の元に目を向けると、宵闇の様な髪に、黄昏の瞳を持つ美しい人が、ライトの側にある椅子に座っていた。こちらを見て、「気分はどう?」と目を細めながら訊いて来た。


 私は戸惑った。彼を何と呼ぶべきなのだろう。しかし、逡巡は一瞬で、私の口は最も親しんだ音を発した。


「冬野君」


 冬野君は少し驚いた様に、目を見開いたが、すぐに「そうだよ。」と弾んだ声で答えた。


 私が起き上がろうとすると、彼はこちらに近付き、背中を支えてくれた。補助された私は難なく起き上がる。着替えさせられたのか、見覚えのない青い楽な格好をしていた。


「覚えてる?貴方は鵺を飲み込んでしまったんだよ」


 傍らの机の上に置かれていた水差しから、グラスに水を注いでいる。氷が入っているのか、カラカラと澄んだ音が部屋に響く。


 グラスの七割程まで注ぐと、それを私に渡した。


 口を付けると、やはりよく冷えていた。渇いた喉に丁度良く、私は一気に飲み干した。冬野君が手を差し出して来たが、謝絶する。


「あの後、貴方を藪の園に連れて行ったんだ。知ってる?形容し難い者達の為の病院だよ。そこで診て貰ったんだけど、摘出するのは難しいって言われてしまった。貴方と馴染み始めてるんだって。もしかして、貴方はあの子を受け入れたのかな」

「受け入れた訳じゃない」

「そう?まあ、でも、体そのものに問題はないのだって」


 もう一つのグラスに水を注ぎ、彼は美味しそうにそれを飲んだ。私は空になった自分のグラスを眺めていた。シンプルな円柱型だ。座りながら、手元を見るのは、実に懐かしい気分にさせた。


 薄藍の影を帯びたグラスは透明で、底がある。水を注げば、当然の如く満ち、飲み干せば空になる。光を透かせば、反射する光も、色を帯びた影も、きっと綺麗だろう。


「ねぇ、冬野君」

「なんだい」

「何故、私は昔の事を忘れていたのだろう」

「人間の世界に行きたいと言ったから、形容し難い者である時の記憶は邪魔になると思ったんだ。真っ新な状態で、何の劣等感も偏見も先入観もなく、あの探偵事務所で沢山の人と関係を結んでいけば良いと。余計なお世話だった様だけどね」

「うん、本当に」

「ごめん」

「もういいさ、思い出したから。でも、何故思い出せたのだろう」

「それはあの子のせいだよ。貴方の記憶を封じた箱を、僕は貴方の中に隠していたのだけど、あの子が体内に入った時に壊したのだろう。ほら、あの子って、仕舞われた物を壊したがる癖があるから」


 彼は腕を組んで「いや、中にある物を見ずにはいられない性質と言った方がいいのかな。」と、いつかと同じく楽しげに話す。


 この人にとっては、私が憎む程の悪辣な性質も、他の大勢と変わらない愛おしいものなのだろう。多くを平等に愛す人なのだ。だから、自分だけに目を向けて欲しいと思う者にとっては、生殺しにされてる様な心地になるのだろう。


 コンコンと扉をノックされる。私が「どうぞ。」と声を掛けると、冬野君が笑顔を浮かべながら「遊直かな。」と呟いた。


 中に入って来たのは、その通り遊直さんだった。今日はスーツではなく、白いシャツに細身のデニム、羽織っているのはロイヤルブルーのチェスターコートと、ラフな出立ちをしていた。シンプルな服装も、彼女が着ると、途端に格好良くなる。それでも、腰には変わらず警棒を提げていた。


「おや、起きた様ですね。気分が悪かったり、お腹に違和感があったりしませんか?」


 そう言って、遊直さんは手に持っていた小さめの花束を渡してくれた。オレンジや白色の花が多い。名前が分かるのはガーベラ位だが、全体的にこじんまりとしていて可愛らしかった。


 鼻を近付けると、芳しい花の香りと青々しい葉の香りがした。


 冬野君が席を立ち、キッチンの方へ向かった。


 遊直さんはもう一脚の椅子に腰掛けた。


「ないですよ。こうしてベッドにいるのが不思議な位です」

「それは重畳。でも、今暫くは安静にしてください。クジリは、問題なければ散歩等しても良いと、寧ろ体力が落ちない様に動けと言っていましたが」

「くじり?」

「嗚呼、失礼。貴方を診た医者の名前です。体調に問題なければ、明日にでも会いに行ってあげてください。面白……心配してましたから」

「その人、お医者さんなんですよね?」

「お花、貸して。花瓶に移すから」

「ありがとう、お願いするよ」


 冬野君が水を入れた花瓶を持って来てくれた。私は貰った花束を手渡した。彼は手際良く、ちゃちゃっと移し替えた物を、窓際の机に置いた。


 暗い部屋の中でも、色鮮やかな花々があるだけで、雰囲気ががらりと変わる。


「しかし、驚きました。フユノさんから連絡を受けて駆け付けたら、鵺はアナタの中に入って行くし、アナタは形容し難い者でしたし、助手さんの正体は冷たく昏い御子で、ドッキリにでも掛かっているのかと」

「え、冬野君ってあの冷たく昏い御子なの?」

「え、知らなかったのかい。冬野に黄昏だから、そのまんまだったろう?」

「アナタ方、どういうご関係かしら?」


 遊直さんの問いに、私達は黙ってしまった。改めて問われると、どう言う関係なのだろう。単純に上司部下とはもう言えないだろう。冬野君を見ると、彼は椅子に座りながら、目を瞑り、腕組みをして口を真一文字に結んでいた。


 それぞれの顔を見ていた遊直さんは、沈黙に耐え切れなかったのか、「それはさておき。」と言葉を置いてから、別の話題を出してくれた。


「時計の形容し難い者の件ですが、無事解決しています。佐原家に問題はありませんし、コクトウさんとも話しましたが、鵺の影響もなくなっていましたので、時計の部品となる彼の意思を尊重し、現在は佐原家でかつての様に時を刻み続けて貰っています」

「それは良かった。あの後、どうなったろうと思っていたんです。そうですか、部品になれたんですね」

「彼も佐原家の皆さんもアナタに感謝していましたよ。心配もしてましたけど」

「帰ったら、挨拶に行かなくては。佐原さん達には、心配ばかり掛けてしまった」

「でも、無事解決したのはアナタの功績です。今日は様子見と、この報告の為に来たんです」

「わざわざありがとうございます。もしかして、その格好、今日お休みだったりしますか?」

「ええ、そうです。でも、お気になさらず。アナタの事があろうとなかろうと、冠水の町に来る予定でしたから」


 相変わらず、顔は布で隠れていて見えないが、それでも分かる位ニコニコとしながら、遊直さんは立ち上がった。


「あまり長居しても悪いですから、そろそろお暇します。後日、私か、別の特補の人間が、事件の事を根掘り葉掘り訊きに来ます」

「分かりました。覚悟しておきます」

「昏いから気を付けてね」

「お気遣いありがとう、冷たく昏い御子」


 颯爽とやって来て、颯爽と帰って行った。後腐れなく、さっぱりとした気風の良さは見習い所だ。


 報告をしに来てくれて、正直とても助かった。刻陶さんは正常化したと分かっていたが、佐原さん達が時計をどの様にするかについては、事件が終わった後に説得をしようと考えていた。円満に終わる様、事後処理もしてくれていた事に頭が上がらない。


「そういえば、浪々が謝ってたよ。助けになれずに申し訳ないって。でも、どうか許してあげてね」

「許すも何も、浪々には世話になったから責める気なんてないよ」

「それは良かった。鵺はあの子の名付け親だから、逆らえないんだよ」

「そう言う力関係があったのか。じゃあ、私も君に逆らえないのかな」


 何気なくそう言うと、冬野君は少し私から視線を外した。揺らぐ瞳は、何かの思惑がありそうだった。だが、不思議と彼を悪く思う気持ちは湧かなかった。


「そうかもしれない」


 苦し紛れに言うと、またこちらを見た。


「うん、自分でも不思議な事なのだけど、僕は貴方をずっと手元に置いておきたかったのかも。だからこそ、決して消えない繋がりとして、名前を与えたのかも知れない」

「今も?」

「今もだよ。そうじゃなきゃ、全部投げ出して助手になんかならない」

「もしかして、あの探偵事務所も君の作ったものだったりする?」

「いいや、知り合いの物だよ。その人に君を任すつもりだったけど、死んでしまった。だから、僕がサポートに回ろうと決めたんだ。貴方が律儀に守ってくれた、仕事内容の引継書を書いたのも僕だよ」

「至る所に君の手が入ってるのだね」

「嫌になったかい」

「嫌というか、何と言うか」


 何と言えばいいのだろう。嫌と言うよりかは、恥ずかしい気持ちがある。がむしゃらに頑張って泳いでいた海が、実は安全に配慮された足の着くプールだった様な。可愛がっていた部下が、実は社長の息子で、次期社長になる事が決定していた様な。その努力や健闘は無駄にはならないが、端から見れば、空回りした滑稽なものだったのかも知れない。


「……貴方のしてきた事は、一つ残らず貴方を形作る為に必要な事だったよ。遊直も言っていたろう。貴方の功績だと」

「分かってても、気恥ずかしいものだ」

「そうかい?羽ばたく練習をする雛の様で可愛らしかったけど。ハラハラもしたけどね」

「それが恥ずかしいのさ」

「そんなものか。嗚呼、ところで……」


 言い掛けて、彼は止めた。口にするのを躊躇っている。唇を内側に仕舞い、顎に手を当てる。うーんと唸りながら、沈思黙考する事一分。彼は漸く唇を開いた。


「貴方はあの探偵事務所に戻るつもりはあるのかな」


 意外な問い掛けだった。私は自分の戻る場所は他にないと、いちいち思考する必要もない程に信じていた。寧ろ、私をその場所に置いた彼が、それについて疑問を覚えている事に疑問を抱いた。


「あるとも。当然だ」

「そうか。それは良かった。えっとね、うん……よし、言おう」


 口籠っていたが、決心がついたのか、ぎこちなく笑みを浮かべながら、口を開いた。


「そこに僕はいるだろうか」


 そうか。言い淀む理由はそこだったのか。


「私は」


 何と答えよう。口を開いては閉じるの繰り返しだ。纏まらない。どう言えば良いのだろう。言葉達を喉元に留め置いて、思案していた。


「私は君に感謝してる」


 放たれたのは、純粋な言葉。留め置かれなかった真心からの言葉だった。


「君の正体がなんであれ、君が私を助けてくれていたのは事実だから。お茶も美味しいし、事務所はいつも綺麗だし、私の仕事の穴を指摘してくれる。君がいてくれると、それだけで力が湧いて来るんだ。いつもありがとう」

「どういたしまして」

「でも、もしこれらが心配からの行動であるなら、助手は必要ない。もう大丈夫だ。私は一人で歩けるよ」


 私の言葉に冬野君は困った様に笑った。からからに乾いた低い声が、諦めの色を帯びる。


「不要なのだね」

「そういう事じゃない。私は、もう一人前に歩いて行くつもりだから、保護者は必要ないと言ったんだ」


 彼がいなければ、きっと私は始まらず。彼がいなければ、きっと私は探偵になっていない。一言では言い表せない程沢山の出来事があったが、こんなにも勘違いをさせる程に、人間味を得られたのは、彼のお陰なのだ。不要等とは言わない。本音を言えば、また手伝って欲しい。美味しいお茶は飲みたいし、沢山お話もしたい。でも、いつまでも揺り籠に揺られている訳にはいかない。だから、成すべきは別れではなく、前進である。


「私は巣立って行くんだ。君から」


 冬野君は私を見て何も言わなかった。その表情は、複雑に感情が溶け合った色をしていた。彼は手元のガラスのグラスに目を落とした。透明な器。底のある、満ちる器。


 そして、何か大きな物を飲み込んだ後にする様に、ふっと息を吐いた。


「漸く、理解したよ。そうか、巣立ちか。嗚呼、これが寂しさか。これが喜びで、これが愛おしさ。不安もある。でも、それでも、君自身に君を託す事が、僕に出来る最後で最大のお世話なのだろうね」


 冬野君は泣きそうな顔をしながら笑っていた。椅子から立ち上がり彼は窓際に近付く。窓の外は相変わらずの色合いだ。窓を背にして、此処の空と同じ色をした目で、真っ直ぐと私を見た。


「僕は君を遠くから見守ろう、あの時計の様に。でも、何かあったら、会いに来て欲しい」

「分かった」

「それともう一つ、お願いがあるんだ。僕を冬野君って呼び続けて」

「分かった」

「約束だよ」

「分かった」

「本当に?」

「分かったってば、冬野君!」


 そう返すと、今日一番の屈託のない笑顔を浮かべた。それを見た私の視界は滲んだ。


 もしかしたら、ずっと君と一緒にいた方が良かったかも知れない。昔の様に、部屋に訪れる彼を待っていた方が良かったかも知れない。


 されど、私の底は埋められ、器は満ち行く。ならば、己の思うままに、成すがままに、器を満たして行こう。入れる物を求めて、遠くにも行こう。沢山の人と会おう。そうすれば、そうする程に、私の器は美しい色を放つだろう。


 そうして、誇れる程になれば、いつか見せに行く。そして、語らうのだ。かつて君が私にした様に、私は出会った人々を紹介しよう、手にした物達を披露しよう。あの部屋で、あの事務所で、貰って来た恩を少しずつ返して行こう。


 だから、これは終着ではない。自立であって、別離ではないのだ。


「あの子の事も宜しくね」

「うん、任せておいてくれ。どうにも出来なくなったら、特補にでも連絡するさ」

「うん、それがいい。それじゃあ、さようならだ」

「……うん。さようなら。また、会おう」

「あ……うん!また、会おう!」


 私は部屋を出た。甘言楼の廊下は、右に進めば玄関から出られる。暗闇の廊下を越え、光漏れる玄関を抜けると、花の匂いがふわりとした。


「何時でもお越しください。在りし日の無垢なる君。洋々たる大海へ漕ぎ出す者よ」


 曖昧な空に溶ける、麗しき貴人が一瞬見えた。


 気が付くと、私は事務所の中にいた。電気もついておらず、勿論冬野君もいない。


 しんとした事務所は、海の底に沈んでいる様だ。重く暗く、静かで、何もせずに唯ぼんやりと漂っていたい気にもさせた。


 ふと光が差し込んだ。ビルの隙間をかい潜る様に、私の元へ届く。暗晦の世界が次第に光によって薄まって行く。


 暁闇。夜明け。彼は誰時。


 陽が昇る。昇ったら、沈む。そして、曖昧な境界の世界、黄昏時になる。それすら過ぎれば、宵闇がやってくる。そうしたら、月が昇り、誰かが願う星も瞬く。次第に、陽がまた昇り始める。払暁、白と藍の中で、誰とも分からない顔に問い掛ける。


 暮れては草臥れて、明けては目覚める。巡り続けた先に、繰り返しの果てに、私達は何処に行き着くのだろう。蹉跌を引き摺り、嗟歎を越えて、歓喜の朝が来る事を希い、また、夜露に濡れ、あてどなく彷徨い続ける。


 きっと、その繰り返しの中でこそ、輝くものがあるのだろう。


「問うなら答え、求めるなら応じましょう。それが思し召しならば」


 天に委ねる祈りの言葉。だが、それは同時に、目の前の誰かを受け入れる言葉であり、誰かへと応える言葉だ。


 恨みも嫉みも、不寛容も不理解も、大いなる河の内では実に瑣末な礫。これは不文律の雲海に差す光。暗路を歩む者への餞。昏き胸裡に灯る火。


 全て上手く行きます様に。


 私は、独り立ち尽くしたまま、目に染みる、昇る陽を眺め続けた。





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