第12話 底の抜けた二人

 夢を見ていた。


 夢を見るのはこれで三回目だった。きっと、普通の人は、もっと荒唐無稽で恐ろしくも楽しくもある夢を沢山見るのだろう。私が見た夢は、刻陶さんが見せてくれたものと、どこかで見たものをそのまま映したものしかない。不思議な事に、前に見て忘れてしまったものと、これが同じ内容である事を私は知っていた。最初に見たのはいつだったろう。


 古い木造の建物の中に私はいた。


 椅子に座って、本を読んでいた。


 辞書か百科事典だったか。言葉や事象の意味や仕組みをひたすらに覚えようとしていた。だが、それは読んでも読んでも、まるで途方もなく大きくて、底のない穴に投げ入れるかの様に、私の中で消えて行って、残らなかった。


 ノックの音が聞こえた。私は返事をしなかった。誰かが入って来て、私に挨拶をしても、私は返さなかった。同じページをずっと開いているだけだった。


「ねえ、それ面白い?」


 その人は私の横にしゃがんで、私の読んでいる物を覗き見た。


「人間の作った辞書を読んでるの?僕も昔読んだよ。人間と仲良くなりたくて。貴方も人間を知りたいの?」

「……」

「うーん、ご機嫌斜めだったりする?それとも、僕の事嫌い?」

「……なんで」

「うん?」

「なんで話し掛けるの」

「貴方の事が気になるから。仲良くなりたいんだ」

「……」


 その人は、毎日の様に私の部屋にやって来ては、沢山話し掛けてきた。彼が出会った人々の事、不思議な出来事、嬉しい偶然、悲しい事件、楽しい語らい。まるで私に関連しない事を、それは楽しげに、時に物悲しく話すのだった。


 私はどうせ聞いても、すぐにそれらは穴の中に落ちて行くと思っていたから、まともに聞いていなかった。当時の私は知識を欲していたけど、どこかそれを手に入れる事を諦めていた。けれど、あまりにも彼が沢山話し掛けて来るものだから、穴に落ちる列が渋滞して、私は幾つかを覚えていられる様になった。


 ある日、その人が悲しそうな顔で話した。


「ある子がね、自分の名前を忘れてしまったんだ。名付け親も殺してしまって。それから、ずっと一人でいたから、誰もその子の名前を知らない。全ての人に名前を忘れられたら、僕達、形容し難い者は消えてしまう。名前だけが、僕達を僕達足らしめるものだから」


 本当に悲しげにしていたから、私は何か言葉を掛けてやらなくてはならないと思った。


「その子はどうしたの?」

「自分の形も分からなくなっていて、周りの人の姿を真似して回っていた。でも、とても強い力を持った子だったから、自分で自分を名付けたみたいだ」

「そんな事出来るの?」

「人によるけど出来るよ。ただ、名付けた名前が悪かったのか、元々の性質なのか、やっぱり姿が定まらないんだ」

「周りの人は混乱するでしょう」

「うん。だから、なんでもいいから姿を一つに絞りなさいと言ったよ。色んな姿になれるけど、でも、目だけは変えられないみたいだ。あの瞳は星みたいで綺麗だった。貴方にも見せてあげたい」


 様々な色の混ざる、美しい目をした彼は嬉しそうに言った。


「あれ、ちゃんと会話したのはこれが初めてだね。どういう心境の変化だろう?」

「……」


 遠くを見ている様なのに、彼の話す話には、いつも誰かが登場する。私の知らない誰か。でも、聞いていると、私までその人に会った様な気になる。とても愛おしげに話すからだろうか。彼は、人が好きで、人と話すのも好きなのだろう。きっと、私もその枠の中に入っているのだろう。そうじゃなければ、こんなにも話し掛けてこないだろうから。


 私に好意は分からなかった。愛もよく分からなかった。私にとってそれは、辞書的な意味以上の何かはなかった。更に言うなら、私は私と彼以外の他人を知らなかった。


 部屋の外に出る事もなく、椅子から立ち上がる事もなく、窓の外を見る事もなく、私は唯、此処にいた。居続けるだけだった。いつから、何故此処にいるのかも興味がなかった。私は私自身の事さえも、知らなかった。


 知った所で、それは穴に落ちて行くのだ。なら、知る必要なんてない。必要はない筈なのに、私はその手から本を手放さなかったし、ノックの音を心待ちにしていた。


 彼の名前が、その目の通り黄昏であると知ったのは、彼と出会ってから数年が経過していた頃だった。


「名乗ってなかったっけ。すっかり忘れてたよ。二人きりだと、名前がなくてもお話出来るものだね」

「それで、何て名前なの」

「黄昏だよ。ある人間がね、僕を見付けてくれた時が黄昏時だったから、そう名付けてくれた」

「単純な理由だね」

「でも、分かりやすくていいだろう?この目の色もね、自分でも綺麗だと思うんだ」


 下瞼を引っ張って、彼は私にその目を見せ付ける。橙と藍と紫とが複雑に混ざり合う。それは窓の外に広がる空の色と同じだった。


 その頃、私は窓の外を見る様になった。この部屋に居続けた私は空さえも見た事がなかった。この場所には、本で書いてあるような青空はなく、いつだって夕方だった。朝日が昇る事も、月が昇る事もない。瞬く星もまた、同じく。


 私は椅子から立ち上がり、窓の向こうの曖昧な美しい黄昏を眺めるのを日課にしていた。


 だから、私は彼の名前が私の好きな光景と同じである事に嬉しさを覚えた。しかし、直ぐにそれは戸惑いに変わった。


「どうかした?」

「いいえ」

「そうだ。今日はね、贈り物を持って来たんだ」


 彼は手に持っていた封筒から、数枚の紙を取り出した。そして、それを私に手渡した。


 二つ折りになっている三枚の紙の内、一つを広げると、紙いっぱいに三文字の漢字が書かれていた。


「む……なし……?」

無食透むじきとおるって読むんだ。貴方に名前を贈ろうと思って、候補を考えて来たんだよ」


 彼は私の持つ、残りの二枚も広げて見せた。そこにも漢字が書かれていた。その一つ一つの読み方を教えてくれた。


 私は得も言われぬ感情に襲われた。初めての感覚だった。体の芯がじんと痺れて、足元がふわふわとする。驚いて、思わず足元を見たが、自分の足は変わらず地面に着いていた。


「この無食と言うのはね、貴方は何も食べないでしょう、そこから取ったんだ。透はね、透明から。貴方は底の抜けた透明な箱。何を注いでも満ちる事のない器。だからこそ、汚れを知らず、瑕瑾を知らず、害毒を知らない、永遠に美しい澄み切った者。僕は貴方のそう言う所が好きなんだ」


 もし、貴方がその為だけに私を訪ねて来るのなら、私が抱いたこの離し難い感情は、傷になるのだろうか。


 また、違う感情が私を苛む。名前の分からないそれは、私の皮膚を覆って、ひりつかせた。


「それで、二つ目のこれはね」

「要らない」

「……要らないの?」

「名前なんて要らない。必要ない。どうせ穴に落ちる」

「……忘れてしまうから不必要であるとは限らないけれど、そうだね、貴方が必要ないと言うなら、これは忘れてもいい。でも、もし、気が変わったら、その時は是非僕に名前を贈らせて欲しい」


 私は何も言わなかった。体一杯に溢れそうな感情を、彼に伝わらない様に努めるのに精一杯だった。だから、その時の彼の顔を私は知らない。きっと、がっかりしていた、悲しんでいた。私は自分にばかり目を向けていた。


 彼は徐に椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。この部屋に椅子は一脚しかなかったから、彼がどこからかもう一脚を持って来たのだ。


 誰も座っていない椅子を見ていた。木で作られた椅子。腰掛ける者は一人だけ。部屋に差し込むのは、宵闇直前の朧ろで柔らかな光。


 不意に、その椅子が暗がりに隠れてしまいそうに思えた。私は椅子から立って、もう一脚の椅子を掴んだ。確かに此処にある。なだらかな曲線を描く背凭れを撫でると、とても滑らかで、長く使われている物だと分かった。ほんのりと温かく、唯の椅子だと言うのに、彼がそこにいる様な気がした。


 頬に垂れた滴が、流れ落ち、床に染みた。


 穴はなかった。とっくに埋められていた。底はもう出来上がっていた。それは随分と前から、分かっていた。


 全てを覚えているとは言えない。だが、忘れ難い事は確かに覚えている。声を、瞳の色を、語り合った優しい時間も。


 なのに、私はそれを今の今まで忘れていて、忘れている事にさえ疑問を覚えなかった。


「それで?唯の自慢なの?お前はあの方に愛されていた訳だ。良かったね。長々と思い出してたみたいだけど、僕にはつまらない時間だったよ」


 私の中に入り込んだ鵺が、心底退屈そうに吐き捨てた。彼と同じ顔をした鵺は、唯一違う星の如き目と、彼がしない様な意地の悪い笑みを私に向けた。


「嗚呼、でも、本当にそうだったのかな?だって、この記憶を封じたのはあの方だものね。恥に思って、隠したかったのかも知れないな」

「君はそう思っていないから、私の中に入ったのだろう?」

「どうだか」

「中に入って、私に成り代わってしまえば、代わりに大切にされると思ったのだろう?」

「馬鹿馬鹿しい。背筋がぞわっとするよ」

「愛に飢えた怪物よ。君はその在処を探して回っていた。でも、肉体を解体したって見付からないと、本当は知っていたんだろう?君は初めに犯した過ちを正当化する為に、仮説を結論づけず、罪を繰り返した。殺したくない人を、思い込みで解体して殺した事から目を逸らす為に。答えを知っていたからこそ、答えを出すのを拒否した」


 彼の渋面を見て、私は口の端が上がった。


「もし、君が私の体をそのまま乗っ取ったって、君は愛されないよ。愛とはそう言うものではないから」

「……お前って本当にむかつく」


 苦虫を潰した様な、酷く憎しみの込められた一言だった。だが、今はそれも少し心地良い。


「誰に聞いたの、そんな事」

「勿論、彼だよ」


 バツの悪そうな顔である。以前の人懐っこい笑みとはまるきり違っている。こちらが素なのだろう。


「……それで、お前は僕をどうするの?殺すの?」


 興味なさげに、投げやりに問いかけて来る。


 彼にとって自分というのは、嫌悪の対象になってしまっているのだろう。何者でもなく、何者にもなれない、だから愛されないのだと。


「いいや。保留にする。君と少し話してみたいしね。此処に居てくれればそれが叶う」

「何それ、憐れみ?気持ちの悪い」

「憐れみなんかじゃないよ。私は君の事が大嫌いだし、絶対に許さないと思っている。いつか必ず償わせる」

「お前に嫌われるのは心地が良いね」

「でもね、君と私には似た部分があるから、話したら何か得られる様な気がしたんだよ」

「僕とお前に似た部分なんてないだろう」


 眉を顰めている。


 猫を被っている時から、コロコロと表情が変わるタイプで、それは人を騙したり、傷付けたりする為の演技の部分もあっただろう。だが、今話している間に見せてくれる、嫌そうな顔とはこれ程にバリエーションがあったのか、と発見がある程の、多種多様な嫌そうな顔は流石に演技ではないだろう。隠していただけで、色んな表情を持つ人だ。存外、素直な性格なのかも知れない。


「底の抜けた箱」

「箱?」

「かつて、私は底の抜けた箱だった。中に何を入れても、抜け落ちて、保持出来なかった。君も底が抜けてるだろう。だから、他者からの好意に気付かないし、幾ら詰め込んでも、詰め込んだ先から落ちて行って満たされない」

「お前のは塞がってるだろう」

「そうとも。私の底は彼が埋めてくれた。だから、そう出来た様に、君の底にぴったり嵌められる何かがどこかにあるかも知れないなと思ったんだ」

「底ね……くだらない、そんな物はないよ。散々探し回ったんだから。嗚呼、でも、そうだね」


 鵺は遠くを見上げた。床に座り、足を伸ばし、力を緩めている。落胆ではない溜息を長く吐いた。


「少しだけ、探すのにも疲れた。一休みをする為に、此処に居ても構うまい」

「おっ、それは」

「隙があれば、お前を乗っ取ろう。お前は僕が嫌いな様だが、僕の方が先にお前を嫌っているんだ。忘れるな」


 言い切ると、こちらに背を向けて、ゴロリと横たわった。片腕を枕代わりにして、寝ている。本当に寝入っている訳ではなかろうが、暫く構って欲しくないのだろう。


 私は、また、夢の続きを見た。


 彼が去って行った部屋の中で泣いていた私は、部屋に落ちていた紙を一枚拾った。そして、一度も自分で開けた事のない扉を開き、建物の廊下に出た。廊下の先には、出て行ったばかりの彼の背中が見えた。


 私は裸足のまま駆けた。走るのは初めてだった。直ぐに息が上がった。それも初めての経験だった。


 彼は後ろを追い掛けて来る私に気付き、足を止めて、待っていてくれた。追い付いた私は、息も絶え絶えに、彼に紙を渡した。


「これは」

「無食透が良い。一番、形が綺麗だから好きだ」

「そうか。これが好きなんだね。ちゃんと自分の好きが分かる様になったんだ」


 彼は嬉しそうに、そしてどこか寂しげに笑った。


「嫌いになった?」

「ならないよ、どうして?僕は嬉しいんだ。貴方が追い掛けて来てくれた事も、好きな名前を選んでくれた事も、全部嬉しいんだ」

「でも、底のない透明なのが良いのでしょう?」

「そうだね、透明は綺麗だ。でも、きっとそこに色んな物を詰めてみたら、また綺麗だと思うんだ」


 彼が平らにした掌に、ぽんともう片方の拳を乗っけた。それは、何か思い付いた時に行うサインだ。


「外に行ってみよう。きっと、色んな人に出会えるよ」

「外は出た事ない」

「だからこそ、沢山の驚きが貴方を待ってる。もし、どうしたらいいか分からなくなったら、こう唱えなさい。問うなら答え、求めるなら応じましょう。それが思し召しならば。とね」

「問うなら答え、求めるなら応じましょう。それが思し召しならば」


 小さく唱えると、胸辺りが少し温かくなった気がした。


「そうそう。これはね、おまじない。僕の名付け親が教えてくれた、全て上手くいきます様に、という祈りだよ。彼女は不思議な力が沢山使えたんだ。困ったら唱えてごらん。きっと君を守ってくれるから」

「温かくなった気がする」

「彼女の力が君にも宿ったのさ」

「その人はどんな人だったの?」

「大きくて柔らかい毛布の様な人だったよ。どんな人も受け入れて、優しく包んで暖めてしまう。天がそうしなさいと、彼女に言ったのだって。僕も天の声を聞いてみたいな」


 私は彼に手を引かれて、建物の出口へ向かった。


「どうせなら、人間の世界を見てみたい」

「いいよ、連れて行ってあげる」


 玄関を抜けた先は、薄暗いのに、目に眩しかった。黄昏の空はどこまでも広がっていて、翼の生えた者が飛んでいた。地面には石畳が敷き詰められ、その隙間から名前の分からない植物が芽を出している。真上を見上げれば、全体が見えない程の巨木が聳えている。


 近くには、白目が黒く、虹彩が虹色の、貴人の如き麗しい形容し難い者が、柔らかな笑みを浮かべてこちらを見守っていた。


 私は彼の手を掴んだまま、外へと一歩足を前に出した。




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