夜とナイフ・短編集

ホシカワ

夜とナイフ

さて、これから皆さんに語るのは私が経験した小さな出来事です。長い人生から見ればほんの数十分、それだけの出来事です。


また、それは単なる「不思議な出来事」というわけではありません。そして「怖い話」というわけでもないのです。まあとにかく、ちょっと聞いてください。




ある晩、私は眠れなかったのでベランダに出ていました。それはよくあることなんです。何かと不安を感じる世の中ですから。


それで、ベランダに出た私は、赤色のゴムスリッパの「グニュ」という音を聞きながら静かな夜を眺めていました。


その日は見事な満月でしたので、私の後ろには影ができていました。ええ、私の住んでいたところは田舎でして、月の光が良く差し込んだのです。


それでなんとなく星を見ていました。感傷に浸りたい気分だったのかもしれません。


しかし、私は星について詳しくありませんので、見ていても途中で飽きるわけです。そういう時は山々を目でなぞったり、あるいはなにかの音に耳をすましてみたり、はたまたスケールの大きいことを考えてみたり。


とにかくそういうことをして過ごしていました。その夜も。


それで、私が車の音に飽きてふと目の前の道路を見ました。その道路は近くの住民しか使わないようなもので、道幅は狭くカーブは多いので、普段は静かなものです。


私が道路を見た時、1人の男性が歩いていました。なぜ男性とわかったのか、なんてその時は知りませんでした。いや、今でもその理由はぼんやりとしか分かっていません。


男性の話に戻りましょう。その男性は私の家の駐車場の前の道路で立ち止まりました。何をしているのだろうと思いました。夜中の12時ごろでしたから、非常に不思議に思ったわけです。


男性はそわそわしているようでした。それは宿題を忘れた子供、入試結果を待つ受験生、子供の誕生直前の父親と、どう例えたら良いか分からない様子を感じました。


しかし私はその男性から直感的に、特別に暗いものを感じました。それはバラバラに壊れた人間のような。なぜ感じたのかは今でも全く分かりません。この時は確かにそういう受け入れ難いものを感じたのです。


私が興味と嫌悪を持ってその男性を見ていると、誰かが歩いて来る音が聞こえました。


男性も同様に聞き取ったようで、その方向、足音のする方を向いて、落ち着きのなさというか、興奮した様子はさらに高まり始めました。それはチャンスが訪れた時のギャンブル好きのようでした。


やがてベランダから見える範囲に、足音の主が姿を現しました。


その人は早足に歩き、どうやら例の男性の横を早く通り抜けたいようでした。


しかし、その人、仮にAとしましょう、Aがちょうど例の男性を通り過ぎようとした時、男性が襲いかかりました。Aにです。


男性は刃物を持っていたようで、満月の眩しい光が刃物を照らしました。そして、男性がその刃物を「グサッ」と一突き。Aの腹に刺さっていました。しかし驚いたことにAも男性も声を全く出しませんでした。


まるでその2人が存在しないかのようにさえ思える静けさでした。


私は声も出せずに、頭の中にあることといえば「早くこんなことは忘れて寝てしまおう」ということでした。


どうせ朝になれば、隣人が発見して、警察が出動して、捜査が進行して、やがてAを刺した犯人は逮捕されるだろうと思っていました。


しかし翌朝になっても警察は出動せず、近所の人の話にも全く姿がありません。私は怖く思い、昨夜の事は夢のようなものだったとすることにしました。あまりにも不可解で、謎だらけで、私は考えたくもありませんでした。


私は昨夜のことを気にしないように努めながら、黙って朝食を食べていました。そうやって、関係の無い事だ、忘れてしまおう、と固く決心をして家を出ました。


それから数日間はあの夜のことを思い出す日々が続きましたが、一か月も過ぎると、男がAを刺していた現場を見ても何とも思わないようになりました。


しかし、あの夜のことを忘れてしまったわけではありません。元来、好奇心が強い私は、あの夜の恐怖が薄れるにしたがって、もう一度あの男を見たいという願いが増してきたのです。


それは危険で恐ろしい事だと分かっていながら、他方で私の抑えがたい欲求はできものの様に腫れ上がっていたのです。


自分の身の大切さから、もうあの夜の事は忘れようと心から思っていても、私の、危険を顧みず自分の中の常識さえも土足で踏み潰すような好奇心は、ついに訪れさせてしまったのでしょう。そうです、「夜」をです。


その日、私はあの現場にいました。あの男がAを刺した場所です。


もちろん恐怖は感じていました。しかし、あの夜のような嫌悪は浮かんで来ませんでした。張り込む記者のつもりで待っていました。ポケットにナイフを忍ばせて。


すると、遠くから足音が響いてきました。音の大きさはあの夜と変わらないはずなのに、やけに響いて聞こえました。私だけだったのかもしれません。


足音が近づいてきました。音の主は曲がり角から、液体のように体を動かしながら私のいる道に入ってきました。


この時、初めて嫌悪を感じました。相手はあの男だったのです。それは背格好もそうでしたが、なによりも相手の雰囲気がそれでした。


そして、もう一つ、私が感じたことは、「私はその男を知っている」という事でした。もちろんあの夜に知ったという意味ではなく、ずっと前から知っていました。その男はとても仲の良い友達だと思いました。


私が嫌悪と友情を感じつつその男に近づくと、男もゆっくりとこちらに近づいてきました。どこかそわそわしながら。


そこで私が親しく言葉を掛けようとすると、男は突然、私に襲い掛かろうとしてきました。それはそれは楽しそうな顔をして。


その時、友情など忘れて、私の嫌悪は極限まで高まりました。取り返しのつかないほどでした。もはやそれは憎悪でした。


私は非常に素早くポケットのナイフを取り出して男の首に向けて「ブンッ」と振りました。ナイフは異常なほどに深く入って、男は空気を「コヒュー」と漏らしていました。


しかし、なんと男は血を流しませんでした。ただの一滴も。


ただ、男はひどく驚いて、私を恐れた目で見た後に、元来た道に駆けて行きました。その日は新月でしたから男の姿は夜の闇に埋もれてすぐに見えなくなりました。


その後は家に帰ってベッドに直行すると、数秒の内に眠りに落ちました。全てが悪い冗談のように感じられました。


翌朝、起きて手に取った新聞には、あの男が私の知らない殺人事件の犯人として捕まえられたことが一面に出ていました。あの男は健康体で、首の深い切り傷など無かったそうです。


おそらく二回目の夜のことが関係しているのかと思いましたが、根拠はありません。あの時の男は人間ではありませんでした。首を切られて血を流さない人間なんていませんからね。つまり逮捕された男とあの男は同一人物ではあるけれど、等しくはないのでしょう。ではどう関係しているのかと聞かれたら返答に窮します。そして私はもうあの男に友情を感じたりしないでしょう。


ところで、これは単なる空想ですが、私が見たあんな男は最初から存在していなかったのかもしれません。つまり私の妄想や幻覚、はたまた夢かもしれないという事です。


しかし、あの男の正体が何にしても、私には、あの男が再び現れる気がしてならないのです。確信というほどではありませんがどうにもそのきらいが在るような気がするのです。これは内面の問題かもしれません。


さて、これで私の話は終わりです。みなさん、聞いて頂きありがとうございました。

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