△▼△▼こっちを向いて!△▼△▼

異端者

『こっちを向いて!』本文

 窓の外では夜のとばりが下りようとしている。

 この季節、ほぼ定時でも日が暮れるのが早いせいか残業をしているような錯覚に陥る。

 私、里中京子さとなかきょうこは事務所の椅子に座ってぼんやりと外を見ていた。

 机の上のPCにはまだ作成途中の書類が表示されている。

 向かいの席では、川瀬真一かわせしんいちがまだ仕事をしている……が、その手つきは私とは雲泥の差だ。ピアニストが鍵盤を叩くかのようにリズミカルにキーボードとマウスを操作している。もし私が真似しようとしたら、タイプミスだらけでかえって悲惨なことになるだろう。

 これ以上は、続けていても無駄。大きなミスをする前に保存して一旦切り上げよう。

 私は作成中の書類を上書き保存すると、PCの電源を落とした。

 そして遠慮がちに声を掛けた。

「あの……私、もう帰りますので。……お疲れ様」

「ああ、お疲れ様」

 相変わらずそっけない返事。画面から目を離してこちらを見ようともしない。

 私はふうとため息を付くと、バッグを手にして席を立った。

 ――やっぱり、無理なのかな。

 やっと仕事から解放されたというのに、胸中には敗北感があった。


 元々は、それ程気になっていた訳ではなかった。

 無愛想で冴えない男――それが、率直な川瀬さんの印象だった。

 ここに就職した当時は、その場に馴染もうと必死で彼にもいろいろと話を振っていたが、いつもそっけない返事だったのでそのうちやめてしまった。

 それが、今では気になって仕方がない――きっかけは些細なことだった。


 思えば川瀬さんには妙なところがあった。

 何かあると、多くの人が彼に相談に来るのだ。一介の社員でしかない川瀬さんに課長や部長、ついには社長まで来たのには参った。そもそも、彼にそんな力があるとは到底思えなかった。……実際にこの目で見るまでは。

 ある日、書類の作成でちょっと分からないところがあって、先輩女子社員の山崎やまざきさんに聞いた時だった。

「それなら、川瀬さんに聞けば?」

「川瀬さん? あの人に?」

「そう、あの人は何でも知ってるから」

 山崎さんはそれだけ言うとさっさと自分の仕事に戻ってしまった。

 私はしばしの間途方に暮れたが、結局言われた通り川瀬さんに聞きに行くことにした。

「川瀬さん、ちょっと……」

「ああ、何?」

 彼は相変わらず画面から視線を外さずに答えてきた。どういう訳か、彼は決してこちらを見ない。社長が訪ねてきた時さえ、相手の方を向いていなかったぐらいだ。

「実はですね、この書類が――」

 彼は私からプリントアウトした書類を受け取ると、ざっと目を通した。

「これの元のデータ、あるよね?」

 まだ私は何も説明していないのに――そう言おうとしたが、それより先に彼が言った。

「この部分とこの部分、書き方がおかしい。あとここの関数の使い方が間違ってる」

 ――あ、いや……そんな……どうして。

 私はあんぐりと口を開けた。まだ何も説明していないにも関わらずこれだ。本来なら川瀬さんの業務と異なるため詳細な説明が要るはずだが、この男にはそれすら不要らしかった。

「も、元のデータなら私のパソコンにありますけど?」

 私は少しうろたえながら答えた。凄いなんてものじゃない。どうやらとんでもない人物であるかのように思えてくる。

「じゃあ、それ見せて……ざっと直してみるから」

 私はおずおずと自分のPCの前に案内した。

 何だか王様を案内する従者のような気分だった。

「あのこれがそのファイルで……」

「ちょっと座らせてもらうよ」

 彼は問題のあった書類のファイルを一目見ると、リズミカルにキーボードとマウスを操作していく。間違いがたちどころに修正されていく。

 まるでキーボードとマウスが楽器で、彼の独奏会を見ているようだった。音楽はない。彼の指の動きそのものが演奏のようで心地よかった。

 だが、その独奏会はすぐにお開きとなった。あっという間の短時間で修正し終えてしまったのだ。もし私だったら、二、三時間は悩んでいたことだろう。

「これで一通りは直ったよ」

「え! もう! ……あ、ありがとうございます!」

 私は心から深々と頭を下げた。

「こういうのも仕事のうちだからね」

 川瀬さんは何でもないことのように言った。……実際、彼にとっては何でもないことだったのかもしれない。それがまた恐ろしい。

「この書式はよく使うやつだから、後で僕の使ってるひな形を入れておくよ」

 彼はそう言うと席を立った。

 私はこうして、何かあると彼に相談するようになり、関心を持つようになった。


 それ以来、私は彼のことを観察するようになった。

 彼はぱっと見地味だけど、真面目で優秀で――多くの人に頼りにされているのが分かるような気がした。

 もっとも、彼は決して他人と目を合わせようとしなかった。他人と話している時も、ほぼいつもPCの画面を見ていて、そちらを向こうともしなかった。喋り方も愛想が良いとは程遠く、どこか淡々としていて業務的だった。

 これだけ優秀なのに出世しないのはそれが原因なのではないか――私はひそかにそう思うようになった。


 ある日、山崎さんと昼食に外に出た時、それとなく川瀬さんのことを聞いてみた。

 古ぼけたファミリーレストランでのことだった。

「ああ、あの人は優秀だから」

「でも、全然個人的なことを話したがらないですよね?」

「あの人は昔っからそう。あんまり無愛想だから最初は誰かのコネで入って来たんじゃないかとまで言われてたわ」

 山崎さんはそこまで言うとコーヒーを一口飲んだ。

「けど、すぐに普通の人の何倍もの仕事を効率よくこなすようになって、誰もそんなことを言わなくなったわ」

 私はサラダを食べながらそれを聞いていた。

「それから、逆にこんな噂も立ったわ。実は大手企業のエリート社員だったのが、何かの間違いで転職してきたとか……あと、元エリート官僚だとかの噂もあったわ……」

 私はサラダを食べる手を止めて聞いた。

「……それで? 結局川瀬さんは何だったんです?」

「……それが、分からないのよ。本人に聞けば分かるのかもしれないけど、みんな仕事のことでしか話さないから……なんて言うか、あの人には聞き辛くて」

 結局、川瀬さんのことは何も分からなかったらしかった。


 そして、何一つ分からないまま現在に至る。

 帰路に就いた私の胸中には、まだモヤモヤとした感情が渦巻いている。外の空気は寒く、駅までの徒歩すら面倒に思えてくる。

 一見すると無愛想で冴えない男、川瀬さんを見ていると何だか落ち着かない。

 いつか自分の方を見て喋ってくれたら、私の目を見て話してくれたら――そんなことを考えずにはいられなかった。

 でも、彼はずっとPCの画面を見ていて、誰かと自分から接しようとはしない。過去に何か原因があるのかもしれないが、それを話してくれないのなら知りようがない。

 いや、一応はPCから離れる時もある。トイレに行く時と、コーヒーを飲みに休憩に行く時。しかし、どちらも話すタイミングとして適切だとは思えなかった。

 そもそも、自分はなぜこうまで川瀬さんを気になるのだろう。

 彼より容姿の良い男に言い寄られたことも何度かあった。……あったが、全て断ってきた。

 何というか、誰かと一緒になっても幸せになる自分というのが想像できなかったからだ。最初は仲が良くても、徐々に険悪になって破綻する――そんな未来しか想像できなかった。


 ――じゃあ、川瀬さんは自分を幸せにしてくれるのだろうか?


 分からなかった。ただ、どことなく惹かれている自分が居る。

 駅のホームに着くと、待っている人々がたくさん居た。

 このどこを見ても人の顔のある場所で、彼はどうやり過ごすのだろうか。いや、彼は自動車通勤だから大丈夫か。

 電車が来ると、ほとんど機械的な動作で乗り込む。空席はないので吊り革を握って立つ。

 画面しか見ない彼に、自分を見てもらう方法はないものだろうか……。

 その時、私の目に車内の電光掲示板が映った。


 ――ああ、があったか!


 翌朝、出勤すると彼は既に席に着いて仕事をしていた。

 挨拶をすると相変わらずそっけない返事が返ってくる。相変わらずこちらを見ようともしない。

 午後になると、彼がコーヒーを飲んで休憩するために席を立った。

 私はすぐに彼のPCに向かうと、その壁紙を用意していた物に入れ替えた。

 あと数分で彼は戻ってくる。


 PCを見て、どんな反応をしてくれるだろう。

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