・月夜の一幕

 「やっぱり夜に出歩くなんて危険じゃないですか?」

 月明かりに照らされた黒髪の少年は、キョロキョロと見回しながらポツリと声を漏らした。明らかに緊張に満ちたその言葉に、少し前を舞うように歩いていた黒髪の少女が堪えきれないと言わんばかりに笑い出す。

 「キミは男のくせに夜道を怖がりすぎじゃないかい?真夜中の山林ならまだしも、今はまだ夜の序章で、そのうえここは街中じゃないか」

 自分たちと同様に、月明かりに浮かび上がる辺りの家々を指さしながら、少女が言う。

 「それが普通の家だったら俺もここまで何も言いませんよ。ですけどね……」

 少年は少女の指さした家に近づくと、ためらいもなくその壁を押した。普通ならばびくともしないであろうその壁は、しかし少年の小さな力にすら負けて、大きな音を立てながら崩れ落ちてしまった。砂埃をもうもうとあげながら崩壊する壁を一瞥し、少年は少女の方へ向き直る。

 「どこからどう見ても廃墟じゃないですか!夜の廃墟を平然と歩ける方がどう考えてもおかしいですよ!」

 悲鳴のように叫ぶ少年に、少女はまた、おかしそうに笑った。

 「そうだね、この辺りは先の災害で壊滅的な被害を受けた地域だ。元々ここに住んでいた人たちはとうにこの地を去り、少し先の新しい土地に新たな街を造っている。ここに残っているのは、ただの残骸だ。キミが怖がるのも無理はない」

 崩れ落ちた家の屋根にそっと手を這わす少女。少年はそんな少女を横目で見ながら、周囲を睨むように見渡した。廃墟には彼ら二人以外の気配はなく、静かな夜の沈黙が辺りを覆っていた。

 「そういう意味じゃないですよ。別に今更幽霊が怖いなんて言わないですから」

 少し警戒を緩めた少年が、少女の言葉を否定する。

 「怖いのは生身の人間の方です。こんな夜中に町外れの廃墟に来るのは、物好きか悪党ぐらいでしょう?気を抜いて先手を取られれば、簡単にやられてしまうかもしれない。……ただでさえあなたの美しい容姿は人目を引くんですから」

 最後の一言は独り言のような声量だったが、少女にはしっかり聞こえていたようだ。いたずらっぽい笑みを浮かべる少女。月光を反射して輝くワンピースが、少女の動きに合わせてふんわりはためいた。

 「心配してくれているのかい?それは光栄だね。それにしても、キミが私をそんな風に見ていてくれてるとは。いやぁ、少し照れるね」

 「……少しも照れている素振りを見せずに言わないでくれませんか。それとそれ以上言わないでください……」

 少女からそっと顔を背ける少年。その頬は少し赤みがかっていた。

 「いやいや、しっかり照れているよ。確かめてみるかい?」

 そう言うと少女は、少年の右手をとった。そしてそのまま何のためらいもなく、自分の左胸に押し当てる。少年は驚きを隠せないまま硬直した。

 そのまま数秒、あるいは数分が経っただろうか。伏し目がちに少年の手を解放し、少女は静かに口を開く。

 「……ほら、聞こえたかい?キミに容姿を褒められてから、私の鼓動は確かに波打つ速度を上げたよ」

 「俺の鼓動はあなたの行動のせいで更に加速しましたよ……」

 頬の赤らみを更に増しながら、少年は深くため息をついた。一気に緊張がほぐれたと言ってもいいかもしれない。

 「……そういうこと、気軽に他人にしちゃいけませんよ」

 少年の呻くような言葉に、少女は静かに頬を緩めた。

 「大丈夫、キミにしかしないよ。こんなことは、ね」

 これだけのことをしておきながら平然と追加爆弾を落としていく少女に、少年は再び深いため息をついた。夜風が少年の頬を冷ますように、優しく凪いだ。

 「キミのことを、私は信用しているからね」

 「……本当に、あなたって人は……」

 ワンピースの裾をはためかせながら、気まぐれな少女は舞うように歩みを進める。その後ろを、少年は頭を掻きながら静かについて行くのだった。


 「ところで、どうしてわざわざ夜中に廃墟に来ようと思ったんですか?」

 瓦礫に足を取られないように気をつけながら、少年は前を歩く少女に問いかける。

 「ん?……ああ、理由か。理由は特にないよ。ただふと、来たくなっただけ」

 足下の悪さを全く感じさせないまま、少女はその足取りを止めることなくそう答えた。

 「それにしては、さっきから迷いなく足を進めてますよね。まるでどこか目的地があるかのように……」

 少年の言葉に、振り返った少女は少し驚きを含んだ表情を見せる。

 「キミは変なところで勘が鋭いね。そう、来たくなったのはたまたまだけれど、目的地は決まってるんだ」

 ほら、と少女はすっと指を指した。その指す方向を見た少年の視界に映ったのは、大きな建造物だった。逆光で細かいところまでは見えないが、少年はその形に見覚えがあった。

 「……ホール、ですか?」

 「そう、この街にあったホールだ。災害時、避難所として人々の命を護り、耐え抜いた数少ない建物さ」

 少年はもう一度ホールを見た。所々欠けたり崩れたりしているが、周りの建物と比べるとその丈夫さは歴然だ。

 「人々を護った、最後の砦、か・・・・・・」

 「何か思うことでもあるのかい?」

 呟くような小さな声だったが、少女にはしっかり聞こえていたらしい。

 「いえ、大丈夫です」

 少し心配そうに顔色をうかがう少女に、少年は偽りの表情を貼り付ける。少女は何か言いたげだったが、何を感じたのかそれ以上少年の心に踏み込んでくることはなかった。

 「・・・・・・行こうか。ここの道をまっすぐ行けば、ホールの入り口にまでたどり着ける」

 少女はそう言うと、少年に背を向けて歩き始めた。素っ気なく感じる少女の行動が、今の少年にはありがたかった。

 二人は無言で歩みを続ける。夜の闇が全ての音を吸い込んでしまったかのように、ただひたすら静かな時間だった。


 「そこの辺り崩れているから気をつけるんだよ」

 「はい、ありがとうございます」

 瓦礫に埋もれた入り口を抜け、少年と少女はゆっくりとホールの中に足を踏み入れていた。月明かりの届かないホールの中を、持ってきていた懐中電灯の小さな明かり一つで進んでいく。

 「外見と比べて、内装はかなり綺麗ですね。崩れているのも一部で、頑丈そうです」

 「そうだろう、街の住民もかなり丈夫だと言っていた。中に入ってもほぼ何もないそうだが、入ることは今でも可能だろうとのことだったよ」

 ここに来る前、二人は今日の寝床を求めて街の宿を取っていた。少年が荷物を置いているその間に、少女はここの話を誰かから聞いたのだろう。

 「ほぼ何もないってことは、今日ここへ来た目的はその『残っている何か』ということですか?」

 「察しがいいね、その通りだよ」

 廊下の突き当たりにまでたどり着いた二人。その先にある赤錆びた扉を、少女はぐっと力を込めて押した。軋みながらもゆっくりと扉が開く。そこからあふれ出てきたのは夜の闇ではなく、眩いばかりの月光だった。

 「月の光・・・・・・?それにあれは・・・・・・ピアノ?」

 想像と違った光景に、思わず目を瞬かせる少年。そんな少年を尻目に、少女は扉から手を離して部屋の中へ足を踏み入れた。

 「このホールの一番大きな部屋は、天井の一部がガラス張りで出来ている。そこからは日光や月光、星の光なんかが、とても綺麗に入り込むのだそうだよ」

 月明かりを一身に受けながら、少女はそっとピアノの元へ歩み寄る。広いホールにぽつんと残されたピアノは、ほこりで多少くすみつつもその存在感をはっきりと際立てていた。

 そっと持ち上げられた鍵盤蓋。少し黄ばんだ鍵盤に、少女の指が下ろされる。ぽーん、と優しい音がホールに響き渡った。

 「うん、良い音色だ。わざわざここまで来たかいがあったよ」

 「ということは、このピアノが目的だったんですね?」

 「そうさ。こんな幻想的なピアノ、そうそうないだろう?」

 その辺に座りたまえ、という少女の言葉に、少年はそっとその場に座った。少女はそのままピアノの椅子に座ると、そっと鍵盤に指を這わせた。

 「何かリクエストは?」

 「俺はピアノはからっきしなので、あなたのおすすめを」

 「ふふっ、了解した」

 ピアノの優しい音色が、ゆっくり聞こえだした。少女の小さい指が踊るのに合わせて、久々の出番を与えられたピアノが音をひとつひとつ紡いでいく。何の曲か分からなかったが、心を洗われるかのような澄んだ旋律に、少年は心を奪われた。

 急遽行われた観客一人だけの演奏会は、月明かりに照らされながら夜更けまで続いた。


 「どうだったかな、私の演奏は。……って、聞くまでもなさそうだね」

 少女の微笑に、少年は何度も頷く。何度もアンコールを求めたり名残惜しそうにホールを後にした姿を見れば、少年の感想など誰でも一目瞭然だろう。

 「そんなに気に入ったのなら、また機会があれば弾いてあげよう。もっとも、行き先などない旅だからいつになるか約束は出来ないけどね」

 「その時が来ることを楽しみにしてますよ」

 瞳を輝かせながらそう言う少年に、少女はそっと優しい笑みを浮かべる。行きとはうって変わって柔らかい雰囲気に包まれた帰り道だった。

 しかしその空気も、一瞬で緊迫したものに変わることになる。

 「おやおや、こんな夜更けに逢い引きかいお二人さん」

 物陰からヌッと顔を覗かせたのは、薄汚れた服を着た大男だった。下卑た笑みを浮かべたその姿から、一目でろくでもない者だということが分かる。少女を庇って素早く身構える少年に、大男は指を鳴らした。その音に合わせて、暗闇から同じような身なりの男たちが次々に現れる。

 「今ちょっと女の人手を探しててなぁ。ちょっと協力してくれよお嬢ちゃん。終わったらちゃんと坊ちゃんのとこへ届けてやるからよぉ」

 「やなこった!淑女に頼み事をしたかったら、もう少しその下品な笑みを抑えたまえ」

 ニヤニヤと醜い笑みを浮かべる男たちに、少女が嫌悪感を隠そうともせず舌を出す。その姿も男たちの嗜虐心をそそるのか、より一層下卑た笑みが濃くなる。

 「そう言うなってお嬢ちゃん。俺たちゃ暴力って奴は嫌いだからさぁ、素直に手伝ってくれよぉ。お嬢ちゃんだってそっちの坊ちゃんの痛々しい顔なんて見たくないだろう?」

 どうやら何が何でも少女を逃がす気はないようだ。いつの間にか周囲を完全に包囲されており、ネズミ一匹逃げ出す隙もない。

 これから予定されている快楽の宴に、早くも男たちの興奮が高まっていく。彼らの下品なはやしたてに、しかし少女はいたって涼しい顔を浮かべていた。絶体絶命の状況下で平然としている少女にリーダーらしき大男のみが訝しげな眼差しを向けるが、その真意に気づくには、圧倒的に時間が足りなかった。

 「……こんな連中相手に、キミの手を汚させたくはないのだけれどね」

 「むしろこんな手、こういうときにでも使い潰してください」

 刹那、大男が弾かれたように後方へ吹き飛んだ。呻き声を上げる暇すらなく廃墟の壁に叩きつけられた大男は、あっけなく意識を刈り取られている。

 取り巻きの男たちが油を差し忘れた機械のようにゆっくりと大男が立っていた場所を見る。そこにはさっきまで少女の隣にいた少年が、右手で掌底を放った状態で残心している姿があった。よく見ると右肩から先が漆黒の光沢を帯びている。ドクンドクンと脈打つように流れる赤黒い筋は普通の血管のようにも見えたが、それは紛れもなく金属製の腕だった。

 「な、な、なんなんだお前ッ!?」

 さっきまでの余裕はどこへやら、男たちは皆猛獣でも相手にしているかのように腰が引けていた。ガクガクと指さす手を震えさせながら、取り巻きの男の一人が叫ぶ。

 だがそれに対する返答は、情け容赦ない一言で済まされた。

 「お前らごときに言う必要性を感じない」

 

 それから先は、一方的な蹂躙だった。漆黒の軌跡が月光の元を奔るたび、冗談のように男たちが吹き飛んでいく。数分も経てば、立っているのは少年と少女の二人だけになっていた。

 廃墟に再び静寂が訪れる。最後に投げ飛ばした男の間抜けな気絶顔を一瞥し、少年は服の埃を払った。

 「ふむ……やはりキミの力は凄いね。いくらおつむの弱いはぐれ盗賊とはいえ、この短時間で全員をもれなく戦闘不能にするとは大したものだ」

 少女の賞賛に、しかし少年はどこか寂しそうな顔を浮かべた。

 「……止めてください。こんな力、災いを招くだけで持ってたって良いことなんか一つもないです」

 「……それは、護れなかった妹さんを思っての言葉かい?」

 少年は答えない、それが何よりの証拠だった。

 「……やはりまだ、教えてはくれないんだね」

 「……はい。すみません」

 「……そうか」

 少年は唇を噛み、少女から目を背け俯く。そこには後悔や罪悪感といった負の感情が、ありありと浮かんでいた。自分のすべてを否定してしまいそうな、そんな表情だ。

 そんな少年に、少女はまっすぐに向き合った。

 

「何も知らないくせに」


 そんな言葉をぶつけられてもおかしくない状態だったが、目を背けることはできなかったのだ。

 「詳しくは知らないが、確かにキミは大切な妹さんを護りきれなかった。それだけの力を持っていながら、未熟だったキミは大切なもの一つすら護れなかった。そのことを悔やみ、その力を憎むのは分かる。だけどね……」

 少年の背中に、柔らかい何かが触れる。人肌に暖かいそれの正体は言わずもがな、少女だ。少女は何か大切なものを優しく包み込むように、驚きに目を見開く少年をそっと抱き寄せた。

 「少なくとも私は今、キミに護られたのだよ。過去の悲劇を乗り越えたキミは、もう未熟者なんかじゃない。失ったものは取り戻せないけれど、これからキミが出会う大切なものは、きっと守り通せる」

 少年の身体が、静かに固まった。

 「それでもまだ、自分に自信がないというのなら、私がキミに護られる第一号になろう。私はそう簡単には死なない。少なくともキミより先に死ぬことは、絶対にないさ」

 身体の前に回された少女の手に、暖かな水滴が一粒落ちる。負の感情を浮かべていた時とは違う理由で、少年の身体は小刻みに震えていた。少女はもう一度優しく少年を抱き寄せると、そっと身を離した。

 「さあ、帰ろうか。月夜の一幕もこれにて終幕、だけど私たちの旅は終幕にはまだ早いのだからね」

 ニッと悪戯そうな笑顔を向ける少女。彼女はそのまま少年に背を向けて歩き出した。月光を吸い込んだ黒髪が、ふんわりと闇に踊る。

 思わず口元に笑みが浮かんだ。そのまま袖で素早く目元を拭い、少年は先を行く少女に向かって足を大きく踏み出した。

 「はい、帰りましょう」

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