33. 傘
俺の話を聞いたバニラは、しばらく何も言わなかった。
タバコはすっかり短くなっていて、フィルター部分がチリチリと焦げ始めていた。
「その後は、どうなったの?」
「その後すぐに、アユムは高校を辞めました」
彼女の父の葬式に出ることはできなかった。
アユムにも会うことはできなかった。
連絡をしても返信が来ることはなかった。辛くなって連絡をすることも、やめてしまった。
どんな言葉をかけて良いのか、もう分からなくなってしまった。
「あいつが結婚するって言うのを聞いたのは、それからしばらく経ってからでした」
「相手は」
「俺たちより20くらい歳上の人です。名前は知りません。珍しく外車がとまっていたんですよ。あいつの家の前に」
最初は母親の再婚相手かと思っていた。
それは違うらしいと、近所ですぐに噂になった。
「アユムが働いていたバイト先のオーナーらしいんです。まぁ、俺は働いてることも知らなかったんですが」
「それで18かそこらで結婚?」
「代わりにあいつの父親が残した借金はチャラに。売られるはずだった彼女の家もそのままに」
「それで、お金目当てだって見られちゃったのか」
「みんなそう噂していました。金目当てだって」
アユムの結婚によって、彼女たちの家は守られた。それは確かな事実だった。
「俺も、それはどうでも良いです。その男は、俺にできないことをやったんです」
逃げようと言って逃げられなかった。最後まで手を引っ張ることができなかった。途中で帰ってきてしまった。
何もかもを失わせてしまった。何も与えることができなかった。
「それが悔しくて情けなくて。もう見るのも辛かったんです。俺があいつの何もかもを奪ったくせに何もできなかった」
飛び交う噂にも耐え切れなかった。
あんな年上の男と結婚してと非難して、金目当ての結婚だと陰口を叩いた。
みんな、アユムのことを、何も知らないくせに。
「でも俺は
「うん」
「できなかったと今も言い訳をし続けている。できなかったわけじゃないんです。しようとしなかっただけです」
バニラは何も言わずにうなずいた。ポケットに手を突っ込みながら、白い息を吐いていた。
「それが全部です」
言葉にしてしまうと、なんてちっぽけな話なんだろうと思う。どうにかできることは、いくらでもあったはずなのに。結局、俺は何もしなかった。
ただ逃げて、逃げ続けた。
「それなのに、まだ未練があるんですよ、俺」
「それは認めるんだ」
「認めますよ、もう。俺はまだ、アユムのことが好きなんです」
手を引いて一緒に逃げようと言った日から。いや、それよりずっと前から。彼女のことを忘れた日なんてなかった。
幸せにしたいと思ったのは本当だ。
「それが分かっただけでも、良かったのかな」
俺がそう言うと、バニラは立ち上がって、雨雲の様子を見た。どこまで見ても灰色で覆い尽くされている。
「雨、上がりそうにないね」
「そうですね。夜までずっと雨だって」
視線をおろして、彼女は何か考え込んでいる様子だった。俺の方を振り向いて、バニラはおもむろに口を開いた。
「ねえ。サキくん、私と付き合ってみる?」
「は?」
「私と、一緒になってみる?」
頭が真っ白になる。
何を言われているのか、理解に時間がかかる。
バニラはじっと俺のことを見ていた。
「どうして。何ですか急に」
「何となく。別に良いかなって思って」
「良いかなって」
「だってアユムちゃんは人妻でしょ。ミイちゃんと一緒にいると、アユムちゃんのことを思い出しちゃう。八方
「理由が。理由ない」
「理由?」
「バニラさんが、俺と付き合う理由」
彼女は首をかしげると、ゆっくりと近づいてきた。
髪の先から垂れたしずくが、ポタポタと彼女の胸元を濡らしていた。
「誰かと一緒にいるのに、理由なんて必要かな」
俺のすぐ近くに立つと、彼女は背伸びをした。
唇を寄せてきた。するりとした手が頬を撫でる。視界と嗅覚が、一瞬で持っていかれる。
唇が当たったのは、
「初めて見た時と同じ」
手が離れていく。
「ずぶ濡れの子猫みたい」
静かな声でささやいた。
「ほらね。理由なんて必要ない」
「からかってるんですか」
「
「かわいそう?」
「可哀想だよ。だってずっと辛そうな顔をしている。ミイちゃんが倒れるのも、何となく分かる」
目を細めると、彼女はくるりと
「と言うわけで帰るわ」
「いや大雨。傘とか。借りてきましょうか」
「必要ないよ。家ここから近いし」
彼女は雨の中に、身体をさらけ出した。頭から靴の先まで、だんだんと濡れていく。そのことを気にする様子もなく、彼女は言葉を続けた。
「傘は必要な人に渡してあげて」
「何が言いたいんですか」
「例えば、ほら」
病院の窓に彼女は視線を送っていた。
「ミイちゃんとか」
「あいつに渡せるものなんて、何一つないです」
「自分の気持ち、言ってあげれば良いんじゃない。正直に」
彼女は自分のコートのポケットを、ポンポンと叩いた。
「ミイちゃんによろしくね。ちゃんと伝えることは伝えるんだよ。困ったことがあったら連絡して。絶対だよ」
自分のズボンのポケットを見ると、彼女のラインのI Dが書かれていた。
唇が触れたおでこが、冷たい水滴で濡れている。鼻の奥では、マルボロの残り香がくすぶっていた。
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