32. 影
乗った列車で行けるところまで行った。
地元の駅を出る時間が遅かったからか、もうあたりは真っ暗になっていた。どこか泊まるところがないかと探して、俺たちは小さなビジネスホテルにたどり着いた。
アユムの身体を初めて抱いたのも、その時だった。
彼女も俺も初めての経験で、ぎこちないセックスをした。気がつくと二人とも髪もボサボサで、汗だらけになっていて、なんだかおかしくなって大声で笑った。
「お母さん心配してないかな」
暗闇にぼんやりと浮かんだ時計の文字盤を見ながら、彼女がポツリとこぼした。
「大丈夫だよ。俺が連れてったってことは、たぶん伝わっているはずだから」
「悪いことしちゃった。怒るだろうな」
「怒らないよ。優しいから」
「お父さんも」
そこで少し言葉を詰まらせた。
「本当はね」
寝返りをうった彼女は、俺の方を向いた。彼女の素肌が俺の脚に触れた。
「本当はね。嫌いなわけじゃないんだ。ただどう接して良いのか分からなくて。自分がきつい言葉を言っちゃったのも分かっている」
「うん」
「家族だから。やっぱり離れると心配になるね」
「帰りたい?」
「ううん。このまま一緒が良い。私がいない方が、あの家は上手く回る気がする」
「そうかな」
「それに今はすごく自由だから」
「良かった」
彼女が俺の胸に頭を置いた。
キスをして抱きしめると、彼女は安心したように目を閉じた。
ふうと息を吐いた後で、彼女は申し訳なさそうに言った。
「ミイ、置いてきちゃったな」
「悪いことしたな」
「今ごろ、すごく怒ってそう」
「今度会ったときに謝らないと」
「いつになるかな」
「落ち着いたら、早めに連絡しよう」
「うん」
彼女はうなずくと、吹き出すように笑った。
「駆け落ちしたなんて言ったら、ミイ絶対に許してくれなさそう」
くすくすとおかしそうに声を漏らすと、彼女は目を閉じた。そのまま俺たちは眠りについて、朝の早い電車でさらに遠くへ進むことにした、
「もう少しで電車くるね」
「ちょっと戻って新幹線乗った方が速いけど、どうする?」
「節約しようか。ゆっくり行こう」
楽しそうに言って、彼女は俺の手を握った。
駅前を歩いていた時、俺たちのすぐ横を中年の警官がすれ違った。
「八条アユムさん?」
改札に入ろうとしたところで、後ろから声をかけられた。振り返ると警官がじっと俺たちのことを見ていた。その顔を見て、アユムは何かに気がついてハッと息をのんだ。
「やば。あの警官、お父さんの知り合いだ」
向こうもアユムのことに気がついたのか、俺たちの方に向かって歩いてきていた。
「逃げよう」
まさかこんなところで。
彼女の手を引いて走り出す。
ちょうど電車がホームに入ってきたところだった。今ならまだ間にあう。
「待て。待ちなさい」
警官が叫びながら追ってくる。
それでもこっちの方が速い。
もう一歩踏み出して、ドアが閉まれば逃げ切れる。
「君のお父さんが」
でも、できなかった。
その警官が何かを叫ぶと、アユムの脚が止まった。
「え?」
固まったように動かない彼女に、もう一度警官は言葉を叫んだ。
動けない。
電車のドアが音を立てて閉まった。
「今、なんて」
俺たちを置いて、空っぽの電車が走り始める。
これでどこにも行けない。心に大きな穴ができている。それがどんどん広がっていく。
もう元には戻らない。
「今、なんて言ったの」
追いついてきた警官が同じ言葉を繰り返す。じんじんと頭に響く。
アユムの手からだらんと力が抜ける。唇が震えている。まばたきすらせず、真っ直ぐ遠くの方を向いていた。
「お父さんが死んだ?」
セミの声がやたらうるさかった。
コンクリートの地面に、ポタポタと彼女の涙が落ちていく。それも太陽の熱ですぐに乾いていく。
何と声をかけて良いのか分からない。
今でも分からない。
もし一緒に逃げようなんて言っていなかったら、彼女の父親は死なずに済んだだろうか。彼女たちは普通の家族に戻れただろうか。アユムが罪悪感を抱えて生きることもなかっただろうか。
俺たちはずっと恋人のままでいられただろうか。
答えは分からなかった。
全てはもう過ぎ去ったことで。全てはどうしようもなく取り返しのつかないことだった。
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