31. どこへでも


 アユムが泣いている姿を見たのは、小学校の時以来だった。


 家から少し離れたバス停のベンチで、夏の真っ青な空を見上げて、彼女はほうけたように座っていた。その頬には涙が垂れていて、汗と混じって、静かに制服のスカートに落ちていた。


「もうダメかもしれない」


 俺が隣に座ると、彼女はこぼすように言った。


「もう、私たちの家族は元には戻らないのかもしれない」


 破裂寸前の風船。

 彼女の表情はそんな感じで、普段は弱音を吐かない彼女が、涙を流しながら何度も言葉をつまらせていた。


「家を売ることになった」「お父さんが」「またお酒を飲んで」「変なところからお金借りちゃったらしくて」「どうにもならないのは分かり切っていて」「お母さんの体調も良くなくて」「高校辞めるって言ったら」「殴られて」「お父さんは」「ごめんって謝ってきたけど」「許せなくて」


 彼女は目を閉じて、再び涙をこぼした。


「どうしたら良いのか分からない」


 湿気をまとった風が、肌に触れた。シャツの下は嫌な感じで汗ばんでいる。


「私はまだ子どもだから。それがこんなにも歯がゆい」


 彼女は強く自分の拳を握っていた。


「良いことなんか何一つないよ。逃げたい。こんな場所から早く逃げたい。早く大人になりたい」


 アユムのことをずっと見てきた。


 この2年間、彼女はいろいろなことを我慢していた。


 そんな彼女をこれ以上、放っておくことはできなかった。 


「逃げよう」


 彼女の望みを叶えてやりたいと思った。


「どこか遠くへ逃げよう」


「どこかって、どこへ」


「どこにでも。嫌なこと全部忘れて」


 アユムはそっと目を伏せて、地面に目をやった。


「無理だよ」


「バイトで貯めた金あるし。手つけてないんだ。しばらくなら暮らせる」


「でも、ミイとお母さんはどうするの」


「落ち着いたら、迎えに行こう。とりあえず2人で逃げよう」


「見捨てるってこと?」


「全部は背負えない」


 彼女の母親は俺たちのことを止めるだろう。ミイはまだ小学生で、連れ回すのは無理だった。


「俺はアユムに幸せになってほしい」


 それが俺にできる唯一のことだった。好きな人が目の前でこれ以上、傷つくのはもう嫌だった。


「一緒に逃げよう。そこで幸せになろう」


 自分が無茶なことを言っているのは分かっていた。まだ高校生の俺たちが暮らすには、たくさんのハードルがある。将来の見通しがあるわけでもない。


 それでも今よりはずっと良いはずだ。

 沈みかかっていた太陽が、バス停の看板に反射した。まばゆい光が俺の視界を何度もよぎった。


「本当に」


 アユムは息を吐き出した。

 身体の奥底から出てきたような、深い呼吸だった。 


「逃げても良いのかな」


「良いよ、アユムはもう十分我慢した」


「間違ったことをしていると思う。すごく自分勝手な選択だと思う。家族にも、サキくんにも迷惑をかけていることは分かっている」


 彼女は顔を上げて、俺のことを見た。頬が赤く火照っている。


「でもサキくんが言ってくれるなら、私は幸せになれる気がする」


「うん」


「私と一緒に逃げてくれる?」


「もちろん」


 手を伸ばす。

 目をこすって涙をふくと、彼女は俺の手を取った。


「ありがとう」


「どこに行きたい?」


「とりあえず駅に」


「着替えはある?」


「ないけど。どっかで買う。サキくんは?」


「俺も適当にどっかで買うよ」


「おばさんとかに言わなくて良いの」


「後からライン送る。多分、察してくれると思う」


「そっか」


「そしたら早く行こう。電車来ちゃうから」


 自転車のカゴに彼女の荷物を入れる。アユムは荷台にまたがると、背中に手を回した。


 駅までの坂を下っていく。ゆるやかな坂を下って行けば、もう駅が見えてくる。


「ねぇ、この自転車どうするの」


「駅前で捨てる」


「もったいない。高校入ったときに買ったやつでしょ」


「時間がないから。次の電車逃すと1時間後だし」


「全部捨てちゃうんだ」


「うん、捨てる」


 彼女の手に力が入る。背中にほっぺたが当たったのが分かった。


「本当に駆け落ちしちゃうんだ、私たち」


「怖いか」


「すごく悪いことをしている気がする。心臓がばくばく言ってる」


「俺も。めちゃくちゃ緊張している」


「大丈夫かな、私たち」


「大丈夫だよ、二人なら」


「そうだよね」


 向かってくる風が心地良かった。


「大丈夫だよね、きっと」


 自転車を近くのショッピングモールで捨てて、リサイクルショップで服を買った。学生だと言うことがバレないようにトイレで着替えた。


 日が暮れていく。

 西日がホームのコンクリートを照らしていた。


 ベンチに座って、電車が来るのを待った。アユムは帽子を目深にかぶって、線路の先を見つめていた。


「東京、大阪、福岡」


 つぶやくように彼女は言った。


「私たち、どこにでも行けるんだね」


「どこが良い?」


「どこでも良い。遠くなら」


 電車がホームに滑り込んでくる。ブレーキのキキキと甲高い音がした。


「サキくんとなら、どこへでも」


 彼女の手を引いて、電車に乗り込む。ほとんど人は乗っていなくて、古ぼけた電車は、ゆっくりと動き出した。


 電車がトンネルに入った。

 真っ暗闇にわずかな光が浮かんだ。その光の束の中で、俺の肩に頭を預けるアユムの姿が映った。


 窓に映る彼女は、幸せそうな顔をしていた。何年かぶりに見る、穏やかで安心した彼女の顔だった。


 その顔を見た時、俺は彼女の手を引いて良かったのだと、心の底から思った。

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