30. 大丈夫
タクシーでバニラの馴染みの病院に運ばれたミイは、点滴と精神安定剤を飲んで眠りについていた。
気難しそうな顔をした中年の医者は、ずっと
「貧血ひどいね。彼女、ちゃんとご飯食べてる?」
分かりません、と言うと医者は肩をすくめた。
「一応、薬は出しておくけれど。生活改善しないと、彼女のためにも良くないよ」
そうします、とうなずく。
「彼女の親御さんは?」
俺が首を横に振ると、医者は深いため息をついた。
「あまり無理はさせないようにね」
お礼を言って診察室を出る。待合室のソファに座っていたバニラが、手をあげて俺に合図をした。
「どうだった」
「貧血だ、と」
「そっか大事はないんだね。とりあえず良かった」
「すいません。頼ってしまって」
「良いんだよ」
彼女はメイド服の上にコートを
「本当にごめんなさい」
「いやいや」
バニラは困ったように微笑んだ。
「そんなひどい顔をして謝らないでよ。こっちが申し訳なくなっちゃう」
「バニラさんがいなかったら、俺はミイのことを殺していたかもしれない」
「そんな別に。死ぬようなやつじゃないんでしょ」
「そうじゃなくて」
動かなかった自分の手を思い出す。
あの時、俺はミイのことを見ていてなかった。
「ついこの間、ゾンビの話をミイとしていて」
「ゾンビって。あの映画とかに出てくるゾンビ?」
「そのゾンビです。もしあいつがゾンビだったらどうするかって例え話。殺さなきゃいけない状況になったらどうするか」
「サキくんは何て答えたの」
「殺さないって。でも実際は違う」
倒れたミイを見て、何もできなかった。何もしようとしなかった。ただ立ちすくんで、彼女の苦しみに心を寄せることさえしなかった。
「逃げているんですよ、俺。あいつのこと見殺しにして、殺すでも殺さないでもなく、ただ逃げたんです」
彼女のことを考えないようにした。自分にとってどうしようもないことを、見続けることはできなかった。
怖くて動けなかった。
それなのに嫌いになることもできなかった。突き放すこともしなかった。ただ一緒にいて、身体を寄せてくる彼女に甘えていた。
「その結果がこれです」
惨めで最悪の結末。
「すいません、変な話して」
「深刻に考えすぎだよ、サキくんは」
「そうかもしれないですね。あの、もう大丈夫です。後は自分でなんとかします。俺が招いたことなんで」
「大丈夫、ね」
バニラが俺の肩をつついた。不満そうな顔をしていた。彼女の髪はまだ濡れていた。
「ちょっと付いてきて」
立ち上がると、彼女は何も言わずに、病院の敷地の外にある喫煙所に歩いて行った。プレハブの屋根の下には誰もいなかった。
タバコに火をつけた。
「吸う?」
「いや、俺は」
「そりゃそっか。私もタバコ嫌いなんだよね」
マルボロの箱をコートのポケットの中に突っ込んだ。
「臭くなるし金かかるし」
「嫌いなんですか? じゃあどうして」
「中学の頃からの友達のさ。部屋にあったんだ」
午後の診療時間は終わって、病院の前はガランとしていた。ヘッドライトをつけて横切る車以外は、人の姿はなかった。
「良く笑う子だったな。周りに気を使うのが上手で、気を使いすぎるくらい良いやつで。おっとりしてて、ちょっとぼんやりし過ぎかなーっていう所はあったんだけど。大学4年で内定取れたって嬉しそうに話していて」
そこまで言って、彼女は煙を吐き出した。
プレハブの屋根を、大きな雨粒が叩いていた。
「大丈夫って言うのが口癖でさ。仕事休みがちだって聞いて、心配して連絡しても「大丈夫だから」って」
彼女は目を閉じると、静かにうつむいた。
「そいつ全然大丈夫じゃなかったんだよね」
雨の音が耳に響く。
「最期はハンガーラックで首
綺麗なままの箱がポツンと置かれていたらしい。一本だけ、火が付けられた形跡があった。その一本も、ほとんど減っていなかった。
「何だろうね。ストレス溜まってたから吸おうと思ったのかね。そんな奴じゃないのに。そんなことをしても意味なんかないのに」
タバコはもちろん、酒も飲まないような人だった。美味しくもなかっただろうと、バニラは瞳を揺らした。
「何しているんだよバカ。だっせーって思って。他に何かなかったのか。ムカついてそれだけもらってきた。腹が立ったよ、その子と、あと自分に」
タバコの先でチリチリと赤い火が灯った。
「だから大丈夫って言う言葉を、私は信用しない。あれ、自分を安心させるために言っているんだよ。本当はもう無理なのに「大丈夫」って言って、全部を誤魔化している」
「俺は、そんなこと」
「大丈夫じゃないよ。どう見ても」
「でも俺がしっかりしないといけないから」
「じゃあ、なおさらだよ」
彼女の瞳は、病院の方を向いていた。
「サキくんは大丈夫じゃない。それを認めないと、多分君はどこにもいけない。誰かのことを好きになることはできないし、嫌いになることもできない」
影のことを思い出す。
郷里から追ってきた影は、今、街灯の明かりに照らされてべっとりと俺の足元に張り付いていた。
「自分じゃもうどうしようもないなら、誰かに頼らないとダメだよ」
頭の中で糸が
「君だけじゃなくて、ミイちゃんのためにも」
あれは夏の夕暮れだった。
自転車のハンドルを握る、手の熱さ。
「逃げようって言ったんです」
解きほぐすように一つずつ思い出していく。5年かけて忘れようとしたものを、ゆっくりひきづり出していく。
「全部捨てて、家族も見捨てて逃げようって」
「それで?」
「それだけです。結局は逃げきれなかった訳なんですが」
安っぽい固いベンチに座る。
雨に濡れたベンチの表面は、たくさんの水滴がついていた。背中がぐっしょりと濡れた。
そんなことも、もうどうでも良かった。
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