29. もっと自分たちのこと
予報通り午後はどしゃぶりの雨になっていた。
滝のような雨の中を傘をさした人たちが通り過ぎる。雨宿りをしている客が多くなって、店はやや混雑し始めていた。
「サキくん、ちょっとホール忙しいから手伝ってきてくれる?」
マスターに声をかけられて、自分で作ったサンドウィッチを客の元へ運んだ。キッチンへと帰る途中で、ふと外にいる人と目が合った。ガラス窓の向こうから誰かがこっちに手を振っている。
ミイだった。
傘を持った彼女は、ニコニコと嬉しそうに笑っていた。
「あいつ」
バニラから店先で会うなと言われたのに。
口をパクパクと動かして、彼女は俺に合図をしていた。「もうすぐバイト終わるよね」と言っているように見える。
俺がうなずくと、ミイは納得したように立ち止まった。どうやら俺の帰りまで、あそこで待つつもりらしい。
終業時間までは、おおよそ15分くらい。小さな屋根があるとは言え、冷たい雨が降り注ぐ外は、おそらく寒いだろう。俺を待つ背中が
再び厨房に戻ってトーストを焼く。できるだけ早く帰ってあげたいが、時間になるまではここから離れられない。
「おや、パトカー」
俺の横で、コーヒーをドリップしていたマスターが声をあげた。
サイレンの音が店のすぐそこを、横切るのが見えた。
「なんかあったのかね」
そうなんですかね、と適当に
すぐに嫌な予感が胸をよぎって、持っていた卵を置いて、外の様子をのぞく。
傘をさしていたミイの姿が見当たらない。
「ミイ」
心臓が凍る。
パトカーの音が遠ざかっていく。サイレンの音が耳の奥で、キンキンと反響している。
気がついた時には店の外に出ていた。
彼女は水浸しの地面でうずくまっていた。
「おい、ミイ」
渋谷の時と同じだ。パトカーを見ると現れる発作。
もうすでに過呼吸になっていて、身体をブルブルと震わせていた。
浅い呼吸を繰り返している。血の気の引いた顔は、生きているとは思えないくらい真っ青だった。
「ミイ、大丈夫か」
背中をさすりながら、大きな声で呼びかける。彼女は反応しなかった。目の焦点が合っていない。この前の時よりずっとひどい。降りしきる雨で、身体がぐっしょりと濡れていく。
「動けないんだな。辛いんだな」
震える身体は応えない。
もう救急車を呼ぶべきだ。ちゃんとした病院で診てもらわないとダメだ。
「待ってろ」
「サキ兄」
スマホを手に取ると、ミイが俺を止めた。
恐ろしく冷たい彼女の手に触れる。
「大丈夫。大丈夫だから。わたし」
「でも」
「病院は」
子どものように彼女は涙を流していた。
「嫌だ」
なぜか手が動いてくれない。迷っている場合じゃないのに、
この選択がミイにとって正しいのか分からない。
俺はまた、間違ったことをしているんじゃないだろうか。
雨粒が痛い。
風が冷たい。
頭も手も凍りついた様に動かない。
「サキくん」
その声で我に返る。誰かが俺たちに傘を差し出していた。振り返ると、心配そうな顔をしたバニラが立っていた。
「バニラさん」
「待ってね。救急車呼ぶから」
バニラがポケットからスマホを取り出す。電話をしようとしたその時、ミイが再び声をあげた。
「だめ」
必死に絞り出したような声だった。
「ミイちゃん?」
「だめです。お願いです」
「そんなに辛そうなのに何を我慢しているの。お金のことならどうにかするから」
「違う。お姉ちゃんたち来ちゃう」
ミイは大きな涙をこぼした。
こぼれ落ちる涙は、雨と混じってぼたぼた地面に垂れた。
「ここにいられなくなっちゃう」
切実に「お願いです」とミイは声を出した。
彼女は再びヒュウヒュウと浅い呼吸を始めた。震えが一層ひどくなっていく。
「ミイ」
握る手がどんどん冷たくなっていく。
「サキくん」
「俺、どうすれば」
「しっかりして」
スマホを持ったまま、バニラが俺に言った。
「私は君たちに何があったかを、全部知っている訳じゃないけれど」
雨は一層強くなっていた。
水たまりが靴を濡らしていく。
通行人が群がり始めているのが分かった。
「でも今は、そういうこと忘れた方が良いと思う」
彼女は地面に
「決めて。何が大事か」
持ってきた傘を俺たちの上にかざした。
「ミイちゃん、聞こえる?」
優しく彼女の背中をさすった。震える彼女をいたわるように、ゆっくりと。バニラの服はぐっしょりと濡れ始めていた。
「もっと自分たちのこと大事にしなきゃダメだよ」
ミイは泣き止まなかった。
昔、夏祭りの夜に、ミイが迷子になったことがあった。アユムと俺で迎えに行った時、彼女は人目もはばからずに、大きな声で泣いていた。
怖かったよ、と何度も言っていた。アユムはそんな彼女に「大げさだなぁ」と言いながらも、やはり安心したようにミイを抱きしめていた。
「ミイちゃん、息、吐いて。ゆっくり」
バニラは静かな声で、彼女に声をかけた。スウと時間をかけて、ミイが息を吐き出していく。
「ゆっくり。ゆっくりだからね」
何年経っても変わっていない。
俺はその横に立って、遠巻きにただ見ているだけだ。
息を吐き出すのを繰り返すうちに、ミイの呼吸はだんだんと落ち着いていった。
「決まった?」
バニラが顔を上げて、俺に問いかけた。そこでようやく、口が動いてくれた。
「病院、連れていきます」
コクリとうなずいて、彼女は電話を手にとった。
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