28. 雨降りそうだね


 ミイとの生活は、その後も何一つ進展することなく続いていた。バイトして、飯を食べて、セックスをして眠る生活。


 まだ寒さが厳しい2月の中旬。空にはどんよりとした灰色の雲が浮かんでいた。


 バイト先の裏口で、例のごとくタバコを吸っているバニラとはち合わせた。


「や、サキくん」


「おはようございます」


「なんか、雨降りそうだね」


 狭い路地の間から見える雲を見て、彼女は煙を吐き出した。


「天気予報だと、夕方から雨らしいです」


「そっかあ。じゃあ、夜はお客さん少ないかな。仕込み少なくしておいて正解だった」


「通りもあんまり人いないですし。寒いから、みんな外に出たがらないんですよ」


「確かに。サキくんも相変わらず元気ないしね」


 彼女はクスクスと笑いながら言った。


「君のファム・ファタールちゃんはすこぶる元気だよ。生き生きしている」


「はあ」


「いや、うらやましいよ。きっと今までのところが余程狭かったんだろうね」


 彼女は何かを考えるように目を閉じて、再びタバコを吸った。


 路地を抜ける風に、フリルのついたスカートがひらひらと揺れていた。


「それに引き換えサキくんが、相変わらず苦しんでいるように見えるのが残念だけど。また何かあった?」


「何かあったわけじゃないんですが。俺、もうあいつのこと、どうしたら良いか分からないです」


「付き合うって言う選択肢はないの」


「前にも言ったけど、無いです」


「それ、伝えた?」


「伝えました。何度も」


「じゃあ、仕方がないね」


 彼女は肩をすくめた。


「ミイちゃんの気持ちは、石のように固くて重い。君じゃ動かせない」


「あいつが何にこだわっているのか分からないです」


「それはサキくんでしょ」


「俺に何があるんでしょうね」


「そう言う悩み? 嫌だな、中高生じゃあるまいし。特別な何かを持っている人間なんて一握りだよ。そうじゃなくても、好きになる人はなってくれるもんだよ」


「逆に言えば、俺じゃなくても良かったと」


「ミイちゃんは君じゃなきゃダメだと思ってるよ。それは間違いない」


「意地になってるような」


「それはお互い様でしょ」


 バニラはふっとおかしそうに吹き出した。


「愛しちゃえば良いんだよ。恋人として。恋愛対象として」


「それでダメだったら?」


「それはその時よ。それこそ普通の恋人みたいじゃない。今のみだらな関係を続けているよりは、ずっと良いと思うけど」


「もっとも。何も言い返せない」


「無理にとは言わないけどね。あんま納得してなさそうな感じだし」


「納得してない訳ではないですが」


「嫌いなの? ミイちゃんのこと?」


「そう言うことでもなくて」


「なくて?」


「いや、何でもないんです。何て言ったら良いのか分からない」


「そう言うところなんだよね」


 彼女は困ったように眉を下げた。


「サキくんは問題を複雑化し過ぎだよ。ミイちゃんのこと。自分のこと。あと故郷の幼なじみちゃんのこと。全部が蜘蛛くもの巣みたいに絡み合っている」


 バニラの言う通りだった。

 ただその3つの問題を引き離して考えることは、どうにもできそうになかった。

 

 夏の夕暮れの匂い。

 俺はミイとセックスしている時、彼女の姉のことを思い出している。


「やっぱり最低ですね、俺」


「この話、やめた方が良さそうだね。悪い方向に考えがいってる」


「あの。全然話変わるんですけど、バニラさんは夢とか目標とかあるんですか」


「なに急に。あるよ、一応」


「聞いても良いですか」


「自分の店持ちたいから、いろいろ勉強してる」


「意外とちゃんとしてる」


「意外とって何よ」


 お腹の方に、軽い右ストレートが飛んできた。


「まぁ、良く言われるんだけど」


「うらやましいです」


「夢があることが?」


「確固とした目標があることが。未来が見えてそうなところが。単純にひがみでしかないんですが」


「ひがみだね、確かに。気持ちは分かるけど」


「俺もミイも、将来どうこうしたいとかが無いんですよ。ただ飯食って、セックスしてる」


「十分だと思うけど、生き物としてまっとう」


「でも後ろを向くと、空っぽの穴が空いているんです。それがどんどん大きく広がっていっている」


「穴ねえ。広がりきったらどうなるの?」


「分かりません、それが怖い」


 飲み込まれていくような感覚。自分の感情がコントロールできなくなるのが怖い。


「だから何とかして、ミイに現実的に生きる手段を身につけさせたい。頑張っているフリでも何でも、何かをすることをさせてやりたいんです。例えば俺がいなくなっても」


「言っちゃあれだけど現実逃避だよ、それ」


「現実に立つための前向きな現実逃避、です」


「だから夢があるべきだと」


「そうです」


 バニラは大きくため息をついて「ひねくれてるね」とこぼした。


「やっぱりそれってひがみだよ。青く見える隣の芝」


「俺たちは荒地ですから」


「芝生が欲しいってことね」


「例えるなら」


「夢とか偉そうに言っているけれど、私の夢って、要はお金を稼ぐ手段だからね」


 短いタバコの最後の一口を吸い終わると、彼女は携帯灰皿に焦げたフィルターをしまった。


「限られた選択肢から、自分ができそうなものを選んでいるだけ。スーパーに並んでいる食べ物みたいなもの。買えそうなもので今日食べたいものを、パッケージで選んで買ってるだけ」


「でもみんなそうやって暮らしている」


「みんなじゃない。例外もいるよ。スーパーとかコンビニに並んでいるものだけが食べ物じゃないから」


 空から雨粒が落ちてきた。

 コンクリートの地面に水滴が散らばるように広がった。


「ミイちゃんは分からない。もしかしたら、今のままの方が正しいのかもしれない」


「俺はどうすれば良いんでしょうか」


「結局ミイちゃんに任せるのが一番じゃないのかな」


「あいつは何もしたくないって」


「いずれ見つけるよ。て言うか別に見つけなくても良いんだよ」


 何かあるって保証もないからね、とバニラは大きく背伸びをすると、気だるそうに自分の前髪を直した。


「むしろ私が心配なのは、サキくんの方かな。何とかしないと、取り返しのつかないことになるよ、きっと」


「取り返し」


「取り返しのつかないくらい、自分を傷つけてしまうよ」


「それはそれで構わないです」


「また。そう言うところ」


 バニラは肩を落とした。

 今更、自分が傷ついたところで、大した問題にはならない。もともと壊れかかっているのだから、1つや2つ増えても気にするほどでもない。


「君が傷ついて、傷つく人はいるんだから」


 顔を上げると、バニラは立ち上がって俺のことを見つめていた。視線が合うと、彼女は大きなため息をついた。


「サキくんは故郷に置き忘れているものを、早く取りに行くべきなのかもしれないね」


 それが何か、バニラは言わなかった。思い出させるのを気を使っていると言うのは、遠慮がちな様子で分かった。


「多分、捨ててきたと言う方が正しいです」


「どちらにせよ、だよ」


 バニラは心配そうな顔で俺のお腹をツンツンとつつくと、自分の店に帰って行った。

 

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