34. 失恋
病室に戻ると、ミイは静かな寝息を立てていた。点滴のチューブがやる気なく腕の方に
「アユムとのこと、バニラさんに言ったよ」
ベッドの脇の丸椅子に腰掛けて、ぼんやりとつぶやく。
「何か不思議なもんだな。口にしてみると、自分のことを外側から見ているような気になる。誰か知らないやつの話を物語として、話しているみたいだった」
天井の空調の音と、ミイの穏やかな呼吸だけが聞こえていた。
雨に濡れた靴の感触が、ぬるぬるして気持ち悪かった。
「それで。自分がどれだけ間違ったことをしていたか、分かった気がする」
私を
身勝手な罪悪感なのかもしれない。ありもしない罰に
「お前は何で、俺のことを恨まないんだ」
ミイはどうして、よりにもよって俺なんかのところに来てしまったのだろうか。彼女にとって、俺はぬぐい切れないトラウマそのもののはずなのに。
どうして、そこまで俺に
「誰もサキ兄のこと、
声がして顔を上げると、ミイは目を開けていた。青白い顔が、何度かまばたきをした。自分の額を、彼女はトントンと人差し指で叩いた。
「おでこ」
「おでこ?」
「バニラさんの、口紅」
サッと手をやる。
手でこすったが、何もなかった。
ミイは表情を変えずに言った。
「嘘だよ。あの人口紅してないじゃん」
「どうして」
「おでこで良かった」
ゆっくりとした動作で、彼女は寝返りをうった。
「バニラさんに取られるところだった。連絡先とかもらってないよね」
反射的に、ポケットのバニラの連絡先に手をやる。
ミイは何も言わなかった。
何か言われる前に、口を開いた。
「具合どうだ」
「落ち着いた。やっぱり薬は効くね」
ミイは「ほ」と息をついた。
「向こういた頃も飲んでたんだけど、切らしてからやめてた」
「いつからだ」
「中学上がってから」
ミイはぼんやりと眠たげな様子だった。
「小学校の頃は何ともなかったの。でも中学上がってから。お姉ちゃんが結婚したくらいかな」
最初の発作は学校に行く途中だったと、彼女はため息をついた。
「何だろうね。中学生になると急に、変に浮ついちゃってさ。陰口とかいろいろ。小学校の時はそんなことなかったのに、そう言うのが大多数になって。みんな人が変わったみたいで」
「うん」
「通学路で交通事故があったの。パトカーが来てて、赤いサイレンを見たら、お父さんのこと思い出して。気分が悪くなって」
そのまま、一人でうずくまっていたらしい。
気がついたら、救急車で運ばれて今みたいに点滴を受けていた。
「それから人の目が気になるようになった。皆が自分の噂をしているような気がした。実際そうだったし。クラスで浮くようになって。前までは力でどうにかしていたものが、そう言うのもできなくなって」
小刻みに呼吸をしていた。
透明な管から垂れる液体が、定期的に彼女に向かって流れていた。
「自分の周りが、全部嫌なものでできている気がした」
影、と彼女は言った。
他の人の顔が、形を失って真っ黒なものに見えるようになった。
「高校行ったら、変わるかなって思ったら。そんなことなくて。中学から同じだったやつが私の噂流してて。それで全部が台無しになったから。東京に来たの」
「そんな学校、無理して行く必要はないよ」
「この前と言ってることが違うよ」
「気が変わった」
「それは良かった」
彼女は頬を緩ませると、自分の頭を俺の方を向かせた。ボサボサの髪。瞳がどんよりと
「さっきの話の続きしても良いよ。
「もう良いよ、今度で」
「言って。何か決めたんでしょ」
見透かすように彼女は言った。
「俺からアユムに電話するよ」
「できるの」
「やるよ。それで迎えに来てもらう。俺とお前との関係はもうおしまいにしよう」
「精神安定剤飲んでいる女は嫌い?」
「違う」
これ以上、ミイと一緒にいてはいけない。
俺はやっぱり関わるべきではなかった。俺と一緒にいても、彼女はダメになって行くだけだ。
「お前と一緒に暮らすことはできないよ」
沈黙があった。
しばらくしてミイの身体が動いた。布団のシーツがするりと動く。ゆっくりと慎重に身体を起き上がらせた彼女は、静かな声で言った。
「そっか」
穏やかな顔とは裏腹に、彼女の声は弱々しかった。
「これを失恋って言うんだね」
彼女は涙を流していた。
涙は頬を真っ直ぐに流れて、シーツを
「サキ兄の気持ち、ようやく分かったよ」
俺の方も見ずに、彼女は言った。
枕に頭を下ろして、ミイは再び目を閉じた。
こぼれ落ちた涙の
何も言うことができなかった。
彼女が再び眠り始めたのを確認して、俺は病室から出た。外に出るとまだ雨が降っていた。さっきと同じ喫煙所の青いベンチに腰掛ける。
スマホを取り出して、連絡先の一覧を呼び出す。
彼女の名前がある。
随分と長い間、使われていなかった彼女の番号。それも画面上ではただの文字列に過ぎない。ホコリかぶることなく、ただそこにある。
八条アユム。幼なじみ。昔の恋人。
「もしもし」
数回のコールの後で、彼女の声が聞こえた。
「サキくん?」
電話の向こうの彼女は、どこか嬉しそうに声をあげた。
「サキくんなの?」
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