23. これってお金かかるやつじゃ


 西日が目に痛い。


 わずかな日陰と、行き交う人たちの足元だけを見ながら、地下鉄の出口へ歩いていく。


 ミイはちゃんと帰れるだろうか。俺が逃げたことに傷ついただろう。きっとそうだ。


 でも、そうしないとダメだ。


 彼女と交わると、否応なく昔のことを思い出す。塞がりかけていた傷口が、どんどんと開いていく。5年かけて閉じ込めていたはずのものが、ほつれた糸を解くように、あっさりとき出しにされていく。


 それは間違っていることのような気がする。


「どーん!」


 鬱々うつうつとした思考をめちゃくちゃにぶっ壊す、大きなお尻がぶつかってきた。倒れかかった俺にからかうような声で、誰かが笑っていた。


「おにーさん。どーしたアル?」


「リンスーさん」


「リンスーで良いアル。呼びかけても返事をしないから、別人かと思ったネ」


 ふん、と楽しそうに、この間中華性三昧でお世話になったリンスーは言った。


「どうかネ。今、客がいないのでサービス中だけど来るアル?」


「こんな真っ昼間から客引きですか」


「うちはマッサージ店だからネ。たまに女の子がちんちんを触ったりめたりするだけで、健全な店だからネ」


「全く健全じゃない」


「最近あんまり客がいないネ。性の開放は心の平和だと言うのに、世間様は軽んじすぎネ。もっと股間に素直になるべキ」


「はぁ」


「と言うわけで来るよネ」


「今日はやめときます」


 ミイと喧嘩したばかりで、風俗に行くような気分ではない。


 するとリンスーは首を傾げて、心配するような顔をしてきた。2つに分けたお団子頭には、良くわからない猫のような生き物の飾りが突き刺さっていた。


 その飾りがゴツンと胸の方にぶつかってきた。


「どうしテ?」


「どうしてって」


「この前3発も出したのニ。どうしたアル? 病気?」


「街中でそんなこと言わないでください。病気とかじゃないです。ただ、元気がないだけで」


「悩みゴト?」


「そんな感じです」


「ふム」


 リンスーはあごに手を当てて考え始めた。「困ったアルね」と言っていたが、顔をあげるとポンと手をうった。


「じゃあ、私がとっておきの方法を教えてあげるアル」


「とっておきの方法?」


「そうと決まれば早く来るアル」


「いや、俺は良いって。何も決まってないし」


「とっておきのとっておきだヨ」

 

 半ば強引に俺の手を引っ張って、リンスーは俺を中華性三昧に連れ込んでいった。この前と同じ部屋に入ると、彼女はコートを脱いで、この前と同じチャイナドレスに着替えた。


「俺、金持ってないんだけど」


「構わないアル。どうせ暇なのデ。リンスーちゃんはこれでも義理堅いアル」


 リンスーは部屋の隅にあるプラスチックのカラーボックスから、長い黒いひものようなものを取り出した。


「うちの祖父から教わった、心を落ち着ける方法ネ。これやればスッキリ」


 その紐を俺の顔に持ってくると、ぐるぐると目隠しのように巻き始めた。


「ちょっと」


「何カ?」


「何も見えないんだけど」


「それで良いアル。心を落ち着ける一番の方法は暗闇アル」


 紐の両端を引っ張って、彼女は目隠しをきつく結んだ。


 何も見えなくなった。

 部屋の空調のジジジという低い音が、耳に響く。ベッドに腰掛ける。弾力のない平たいマット。 


「この街はチカチカと眩しすぎるアルね。だから誰も膨れ上がっていく影に、気がつかないアル」


「影?」


「足元にある影」


 深呼吸しテ、と彼女は言葉を続けた。


 深く息を吸い込むと、リンスーは俺のシャツのボタンに手をかけた。


「おい」


「ティンツー」


「なんて」


「がんばっテ、と」


 するすると服が脱がされていく。シャツ、下着、パンツ。全部取られて、俺は全裸になった。


「なぁ、これってお金かかるやつだよな」


「違うヨ」


「金、本当にないんだけど」


「それは今度で良いネ」


 結局払わせる気なのか。


 リンスーが身体を動かして、ミイがさっきキスをした首筋に、舌を滑らせた。


「痛いのは、ココ?」


 その箇所に強く吸い付いてくる。


「う」


 痛みと同時に、妙な感覚がかきたてられる。触れられた箇所が変に熱い。


 何も見えないからか、肌に触れるものがより敏感に感じる。


「ここだネ」


 衣ずれの音がした。

 今度は服ではなく、生温かい肌が触れてきた。柔らかな膨らみが膝の辺りにある。


「口を開いテ」


 あ、と口を開いた。


 口の中に細い指が入ってくる。

 苦い粉のようなものが舌にこすり付けられた。唾液だえきと一緒に飲み込むと、頭の片隅から身体全体が熱くなってくる。


「なんだこれ」


「喋っテ」


「いやだ。熱い」


「大丈夫。安心して」


 苦味と共に、身体の奥からふつふつと、懐かしい匂いのようなものが立ち上ってくる。あるはずもないのに、照りつける太陽を感じる。


「だいじょうぶ」


 リンスーの声が輪郭りんかくを失って、ぼんやりと遠くなっていく。 


 目の奥でチカチカと、制服姿の黒髪の女の子が見える。パリッとアイロンを当てられたワイシャツと、チェックのスカートの赤。


「何か見える?」


「うん」


「言って」


「あゆむ」


「誰?」


「八条アユム」


「どんな関係?」


「俺の幼なじみ」


 舌の表面に溜まった唾液だえきを飲み下して、繰り返す。


「恋人。何よりも大事な人」


 制服を着た彼女が、俺の横をすれ違う。

 チャイムの音が鳴った。あと少しで授業が始まる。席につく。彼女の席は後方の窓際で、俺はちょうど真ん中くらい。


 彼女は気だるげに黒板を見ていた。その頬には真っ白なガーゼがり付いていた。

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