24. 回想
「アユム」
放課後になって、誰とも目を合わせることなくサッと教室を出て行こうとした彼女を呼び止める。
「サキくん」
振り向いたアユムは困ったように
「ごめんね。ちょっと用事があって、私急いでいて」
「ちょっと、こっち」
その手を引っ張って、人気のない階段の踊り場に連れていく。
「どうしたの。急に」
「ほっぺた。どうした」
「これ? 階段で転んじゃって」
「嘘は無しで」
アユムは目を伏せた。落ちつかなげに自分の髪に触れて、諦めたようにこぼした。
「最近、お父さん疲れちゃってるみたいで」
「暴力はありえないって。警察とか、どっかに相談した方が良い」
「怪我は大したことないし。かすり傷」
「でも」
「わざとじゃないって。すぐに謝ってくれたし」
どこかムキになったように彼女は言った。
「うちのお父さんの性格、サキくんなら分かるでしょ。すごく自分に厳しいの。だから本当は罪悪感でいっぱいで、それを抑えようとするので精一杯になっている」
高校2年の夏。
おおよそ青春の真っ盛りと言われる季節。
アユムの家は例の借金の問題を抱えていた。採算のつかなくなった例の店を潰したものの、膨れ上がった借金は彼女たちの家をじりじりと締め付けていた。
その問題に対して、高校生である俺たちができることは限られていた。
「部活やめて、バイト始めようかなって思って」
階段に横並びになって彼女の話を聞いた。
窓の外、ケヤキの木に張り付いたセミの声がうるさかった。
「そしたら怒られた。『お前はそんなこと気にしなくて良い』って。腹が立って無茶苦茶に言い返したらこんなことに。まぁ要は
「痛む?」
「もう痛くないよ。ちょっと
「陸上、やめるのか」
「うん。もう良いかなって思って。特に未練はないし」
「せっかく才能あると思ったのに」
「あはは、そう言ってくれると嬉しいな。でもインハイ行ける訳じゃないし。地区大会で成績残せるか残せないか。第一、プロになりたいわけでもない」
彼女はすらりと伸びた脚をポンポンと叩いた。日焼けして、小麦色に染まった肌。
「そろそろちゃんと現実に向き合わないといけない」
現実っていうのも変だけど、とアユムは真っ白なガーゼを隠すように手で覆った。
「私たちは家族だから」
「うん」
「今はそんなに良い家族じゃないかもしれないけれど。でもそんなに悪い家族でもないから」
「俺もさ何か手伝うよ。バイトしていくらか金貯まったし」
「やめてよ。サキくんが稼いだお金は、自分のために使って」
「アユムのために使いたい」
「強情だなあ。じゃあ、今度お昼ご飯おごって」
彼女は微笑みながら、俺の頬を指で突いた。
「美味しいやつ」
「もちろん。何食べたい?」
「ピザ屋さん。商店街の」
「あそこか。もちろん」
「そう。あ、そうだ。せっかくだからミイも連れて行きたいな。クアトロ・フォルマッジ食べてみたいんだって。生意気」
「もちろん良いよ。ミイは元気か?」
「うん相変わらず。この前何言われたか知らないけれど、クラスの男子をボコボコにしちゃって、お母さんが学校まで謝りに行く羽目になって」
「元気だな」
「サキ兄と遊びたいって、そればっかだよ」
「たまには相手しないとダメだなあ」
「本当。だいぶ好かれているよ。油断していると、サキくんのこと取られちゃいそう」
「まさか」
「いやいや。まだまだ子どもだけど、ミイは大人になったら、私なんかよりずっと美人になる」
「そうかな。それでもきっと、アユムの方が綺麗だと思うよ」
「やめてよ、こんなところで。照れ臭い」
冗談めかして笑って、彼女はぽんと俺の肩を叩いた。
ホコリっぽい階段の方には、誰も来なかった。もう学校内からは誰もいなくなっているみたいに感じた。彼女は「ふ」と息をつくと、ひとりごとのように小さな声で言った。
「私たちを拒むものは、私たち自身の意志でしか無いんだって」
「何?」
「わかんない。何だっけ。倫理の教科書に載ってた。良い言葉だなあって」
彼女は目を細めて、ぼんやりとした様子で言った。その瞳が何を見ているか、俺には分からなかった。
「サキくん、もしどこにでも行けるとしたら、どこに行きたい」
「うーん。考えたことないな」
「私はね。アメリカ、かな」
「なんで」
「とりあえず行ったことない場所を言ってみた。いやヨーロッパもアフリカも行ったことないんだけど。景色が広いところが良いかな。自分の身長の何倍も大きい木があって、澄んだ湖に真っ青な空が写っているの。
「トナカイ?」
「鹿でも良いけど。とりあえず」
「どこへでも行けるよ。大人になったら」
「そうだね」
彼女は嬉しそうに笑った。
「いつか行きたいね」
そう言った彼女は、小さくうなずいた。
それから、ちらりと階段に誰もいないことを確認して、彼女は俺の方にゆっくり身体を動かした。
「サキくん」
「何?」
「好きだよ」
唇が触れる。
温かくて、ふわりと柔らかい。
視界に窓からの西日が過ぎる。
セミの声が遠ざかっていく。
鼻にまとわりつくのは、夏の夕暮れの匂い。
「いっ」
目が覚める。
信じられないくらい汗をかいていた。頭がガンガンと痛くて、下半身が熱い。自分の呼吸が荒くなっていたことに気がつく。
目隠しがずれていた。
座った俺の前でリンスーがひざまずいていた。その顔がベトベトに、粘り気のある液体で濡れている。
俺と目を合わせて、リンスーは首を傾げた。
「少しは悩み晴れたアル?」
「最低で最悪な気分になった。何飲ませたんだ」
「コムギコ」
「ちくしょう」
罪悪感でいっぱいになった。
無茶苦茶に文句を言ってやりたかったが、悪気もなくリンスーはニッコリと笑っていた。
「素敵なこと思い出したアル?」
微笑みかける彼女に、全部を見透かされている様な気がした。
「そうかもしれない」
俺が見ていたのは、かけがえなく大事な夢だった。それを思い出したのは、本当に久しぶりで、幸福な気持ちになれたのは間違いなかった。
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