22. 嫌いになってよ
俺がカレーを食べている間、彼女はちびちびとビールを飲んでいた。
頬が徐々にピンク色になっていく。ここ一ヶ月の間で、彼女は随分とアルコール慣れしていた。晩飯のたびに飲んで、セックスをして、そのまま泥のように眠る。
俺が出てから帰って来るまで、まともに飯を食べているのを見たことがない。
「最近、ちゃんと食べてるか」
「食べてるよ。たまに」
「たまにじゃなくて。朝も夜も食べているところも見たことないんだけど」
「味見してるし」
「身体壊すぞ」
「ダイエット中」
「別に太っているようには見えない」
「内臓脂肪があるの」
取り付く島もない。
「そんなことよりさ。カレー美味しかった?」
「うん。美味しかった。ごちそうさま」
「お腹いっぱいになった?」
「もちろん。昼飯ちゃんと食べたの久しぶりかもしれない。そういやカップ麺ばっか食べてたな」
「ちゃんと食べなきゃ」
「お前に言われたくないよ」
「それもそうだね」
ミイはクスクスと笑いながら、栓抜きを持って瓶ビールの
「ねぇ。サキ兄も飲もうよ」
「良いのか。店のものこんなに飲んで」
「私もバニラさんとよく飲んでるから」
「あいつ。自分の店だからって」
「この前ワイン開けちゃったの」
「そんなに滅茶苦茶にやってるなら、俺も飲もうかな」
「何が良い。黒ラベルと、シンハービールがあるけど」
「シンハービールって何だっけ」
「今わたしが飲んでるやつ。確かタイのお酒」
「じゃあそっち」
オッケーと微笑んでミイは俺にグラスを手渡した。冷たいグラスに泡が膨らんでいく。炭酸がゆっくりと舌を滑っていった。
「うまい」
「でしょう」
「昼に飲む酒は二倍増しで旨い」
「分かる」
「女子高生が知るには早すぎる」
「だから、もう女子高生じゃないって」
グラスに口をつけて、彼女は目を細めた。
「ただの未成年」
「バニラと2人で何の話をしてるんだ」
「サキ兄の話」
「やめろよ。気色悪い」
「サキ兄が、初めて東京に来た頃の話」
口元についた水滴を指で拭き取ると、グラスを揺らして遊んでいた。
「捨てられた猫みたいだったって。
初めてバニラと会ったことを思い出す。
俺は東京に来たばかりで、金もなくて、今日を生きることに必死だった。なんとか見つけた今のバイト先で、路地裏で気だるそうにタバコを吸っていた女が、バニラだった。
「きっとどっかから逃げてきたんだろーな、って一目で分かったって」
「そんなに汚かったかな」
「そう言うことじゃなくて。私のことも、同じ風に言っていた」
「どっかから逃げてきたって?」
「そう」
ミイのグラスの中身はもうほとんど空っぽになっていた。その表面に、暖色の照明がぼんやりと映っていた。
瓶を傾けてたが、それも空っぽだった。わずかな水滴が瓶の口からポトンと落ちた。
3瓶目を開ける。
「逃げた先には何があるんだろうね」
「さぁな」
「何も無くてもいっか。どうせ何があっても同じだし」
「何かあるよ、きっと」
「さっき、うちの実家閉店するって言ったじゃん」
ミイは唐突に、俺の言葉を
「お姉ちゃん、妊娠したんだ」
「妊娠?」
「姪っ子だか、甥っ子だか。来年の夏くらいに産まれるんだって」
「それは、おめでとう」
グラスに残ったビールを飲む。
生温い液体が喉を滑る。炭酸が抜けている。さっきよりも味がしない。
「傷ついた?」
ミイが俺のことを見ていた。彼女は再び同じ言葉を繰り返した。
「傷ついたでしょ」
「何が言いたいんだ」
「傷を確かめて欲しいだけ。逃げた先には何もないってことを、確かめて欲しいの」
わずかに吹く空調の風に、彼女の長い髪が揺れていた。さらさらとたなびく髪は糸のように細かった。
「あるのは、深くて、
「それで。それを確かめてどうなる」
「それだけ」
彼女は唐突に立ち上がった。
ガタンと椅子が動く。
「サキ兄」
「何だよ。酔ったのか」
「違くて」
俺の前でひざまずくと、ミイは手の甲にキスをしてきた。
「サキ兄、早くお姉ちゃんを嫌いになってよ」
「別に、もう何とも思っていないよ」
「嘘つき」
彼女は俺の指を、口の中に含んだ。くちゅくちゅと、彼女の舌が絡みつくように何度も撫でる。べっとりと唾液で指の先が濡れていく。
「やっぱり酔ってる。もうやめろ」
「酔ってないって。サキ兄は嘘だらけだよ。私にも嘘をついて、お姉ちゃんにも嘘をついて、自分にも嘘をついている」
「それは、もう嘘とは言わない」
「誰も真実を知らないから?」
「うん」
「でも、私は
ミイは俺の背中に手を回した。顔を近づけてくると、首筋の方に吸い付くようなキスをしてきた。
「ばか、お前」
「サキ兄、セックスしよう」
「ここで?」
「ここで。今しよう」
俺の膝の上にまたがって、彼女はゆっくりとスカートの中に手をやった。
「そしたら、きっとお姉ちゃんのことを忘れることができる」
下着に手をかけて、スルスルと脱ぎ始めた。
「ね」
彼女が甘い息を吐く。
伸びてくる手を、ソッと振り解いた。
「ミイ」
いや、違う。
思い出してしまったのは本当だ。
彼女の姉の話。
夏の夕暮れ。
じっとりと汗ばんだコンクリート。
ホームに電車が滑り込んでくる。
東京、大阪、福岡。もしかしたら日本じゃないところ。
どこにでも行ける。
俺が握る彼女の手は、かすかに震えている。
そこに行けば、きっと何かがある。生きていける場所がある。自分たちの居場所がきっとある。
サキくん、と幼なじみが俺の名前を呼ぶ。
けれど俺たちには、何もないことを知ってしまった。そこからは先は行き止まりで。あるのは、今までと何ひとつ変わらない世界なのだと言うことを、知ってしまった。
「ごめん」
その虚しさが、大人になったことだと言うことに気がついてしまった。
「俺、先に帰るよ」
立ち上がると、ミイはその場で
その瞳から逃げるように、俺は急いで店を出た。
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