21. お触りしても良いよ
コスプレ喫茶でのミイのバイトは、順調な
アポリネールの事務所に行くと、バニラがウハウハ言いながら売上金を数えていた。
「ミイちゃんが来てくれる日が、売り上げ5割増なんだけど。こりゃ金の女神だね。夜も来てもらおうかしら」
「ふざけないでください。どんだけ働かせる気ですか」
「それは冗談としてさ。でもやっぱり若さって強いね。明らかに固定ファンっぽい客もいるし、ミイちゃん大人気だよ。すごいすごい」
バニラの言った事は事実だった。
喫茶店でのバイトが無い日に、コスプレ喫茶の裏で皿洗いを手伝わされているが、ミイの姿を見ようと来ている客は多いように見えた。
中には
「本当にここでバイト先で、大丈夫だったんだろうか」
「何、サキくん
「いやそうじゃなくて、心配しているんですよ。ミイをどこともしれない男の目にさらすのが嫌なんです」
「ははぁ。いやらしい君が言うと説得力があるな」
「そういうことじゃなくて」
「大丈夫。変な客は追い出すし、いざとなったら警察呼ぶから。お触り禁止なの。看板にも大きく書いてあるでしょ」
バニラは売上げ金を金庫にしまいながら、呑気な調子で言った。
アポリネールはお触り禁止だ。目で楽しむ健全な店。ましてやミイが担当しているのは昼の時間帯で、言ってみればただのカレー屋だ。
それでも不安なものは不安だった。
「それを嫉妬と言わずに、なんと呼ぶ」
「嫉妬じゃなくて、心配です」
「一時的な同居人なんでしょ。良いじゃん、男ができたって」
「そういうことでもなくて」
「だから、それ嫉妬だよ」
バニラはからかうように笑った。
否定しようとするとサッと事務所の扉が開いて、ミイがひょっこり顔を出した。頭にフリルのついたカチューシャをつけた彼女は、俺のことを見るとパアッと笑顔を浮かべた。
「あ、サキ兄待っててくれたんだ」
「だべってただけだよ。もう帰る」
「そうなんだ」
「恥ずかしがっちゃて。もう」
「恥ずかしがってないです」
バニラは呆れたように「やれやれ」と棚の書類を整理し始めた。
「ミイ、もう仕事終わったのか」
「うん、最後のお客さん今帰ったところ。バニラさん、お皿も洗っておきました」
「ありがとう。やっぱりミイちゃんは気が利くね」
「無理言って、働かせてもらっているので、このくらい当然です」
「本当に助かってるよ。じゃあ、もう上がって良いよ。彼氏だって待ってるし」
「はい。ありがとうございます」
「ミイちゃんの方がよっぽど素直だね」
そう言ったバニラは何かを思い出したのか、ハッと息をつくと慌てたように立ち上がった。
「そうだ。今日、銀行に行かなきゃいけないんだった。忘れてたー。ミイちゃん一時間くらい留守番できる?」
「あ、はい。もちろん」
「あぶねー、窓口しまるところだった。ついでに買い物もしてきちゃうから、結構遅れるかもしれない。ごめんね。その辺の酒とおつまみ食べちゃっても良いからさ」
そう言って、バタバタと上着を羽織って、バニラは事務所から出て行った。
俺とミイは2人きりになった。
彼女は俺の顔をジッと見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「サキ兄、お昼食べた?」
「いや、まだだけど」
「カレー食べる?」
「あぁ、うん」
俺がうなずくと、ミイはニコッと笑った。
「座ってて。今作るから」
鍋に火を入れるチチチと言う音が、静かな店内に響く。
キッチンに立ったミイが、腕まくりをして静かに手を動かす。
アポリネールのカレーは水を使わず、トマトの水分だけを使う。塩に
せっかく作るなら本格的に、とバニラはわざわざインドまで行って、スパイスを
「どうぞ」
立ち上る香りが、食欲をそそる。
エプロンのしわを伸ばして、ミイは俺の前に座った。
「食べてみて」
スプーンを手に取る。
匂いが食欲をそそる。
ピリと舌を覚ますような辛み。口の中に広がる強い風味は、家で食べるものとは違っていた。お腹の奥がじんわりと温かくなっていく。
「美味しい」
「良かった」
ミイはホッとしたように微笑んだ。
「自分で作ったのは初めて」
「そうなのか?」
「うん。仕込みはやってるけど、作ってるのはバニラさんだから」
「旨いぞ。バニラのやつと大差ない」
「私なんか、まだまだ」
ミイは照れ臭そうに、首を横に振った。
「ようやくメニューちゃんと覚えたくらいだから。接客も全然だし」
「バイト楽しいか?」
「うん、すごく」
彼女はニコニコと笑いながら、俺が食べる姿を見ていた。
「昔、お姉ちゃんと一緒にお店手伝ってたこと思い出した」
「最近はもうやってなかったのか?」
「うちの店、もうすぐたたむの。お客さんもいなくて、
「へぇ」
その事実に、思っていたよりショックを受けていない自分がいる。
あの店は、彼女たちの父親が亡くなって、すっかり火が消えてしまっていた。彼女たち家族が厨房に立つことはなくなった。だから俺にとっては、あの場所はもう存在していないも同然だった。
「色々変わってるんだな」
「うん、サキ兄がいない間に」
彼女は続けて何かを言おうとした。言いかけたあとで、口を閉じた。ひと呼吸おいた後、ミイは
「ねぇ」
「なんだ」
「お触り禁止だけど、サキ兄ならお触りしても良いよ」
「ばか、お前も冗談が過ぎる」
「本気なのに」
ミイは残念そうに頬を膨らませた。
そう言うのが何より、彼女の危ういところだ。ミイは近くにあった冷蔵庫から、瓶ビールを取り出すと、グラスに注いで飲み始めた。
「つまんないの」
ミイはあっという間に、一瓶飲み干してしてしまった。
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