13. 何でもないよ

 

 服屋から出て大通りに戻ると、ミイは「ごめんね」と申し訳なさそうに言って俺の手を握った。


「変なこと言っちゃって。本当にごめん」


「気にしてないよ。とりあえず飯食おう。何か食べたいものあるか」


「ドーナッツ食べたい」


「オッケー」


「なんかさ。動揺しちゃって。本当にごめん」


 彼女は疲れたように息をはいた。駅の方に向かって、来た道を引き返していく。


「学校は嫌いか?」


「嫌い。一緒にいるだけで、息が詰まるような人と一緒にいなきゃいけないから」


 友達もいないから、と彼女はぼんやりと言った。


「息ができなくて、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる」


「その気持ちは、分かるよ」


「だから外にいる方が良い。この街は臭いけど、呼吸をするのは自由だから」


 彼女はそう言って、目を細めた。

 ショーウィンドウに俺たちの姿があった。


 ガラスに映ったミイと目があった。制服から着替えた彼女は、少し背が伸びたような気さえした。ミイが、フッと笑って俺のことを見た。


「ね。東京の人ってどこでキスするの?」


「したことないから。少なくとも街中ではあんまりしない。て言うか、なんだよ、急に」


「サキ兄とキスしたい」


 彼女は俺の方に身体を寄せた。


「今日はとってもカッコ良くて、優しいから」


「それ、気のせいだよ」


「ううん。私、やっぱり逃げてきて良かった」


 ミイは頬を緩ませて、ゆっくりと歩を進めた。

 今の彼女はいつもよりほがらかな顔をしている。ちゃんと年相応に見える。


 そう考えると毎晩の性行為はやっぱり、間違っていたのだと気がつかされる。あんなことをしなくても、俺たちは一緒にいられる。


 余計なことを思い出さずに済む。

 こうやって手を繋いで歩いているだけの方がずっと、正しい関係に思える。


「サキ兄、信号青だよ」


 彼女が俺の手を引く。


 渡ろうとすると遠くの方から、サイレンの音がした。

 見ると、赤灯せきとうを光らせたパトカーが、交差点に入ろうとしているところだった。人の波がストップして、後ろと前からギュッと身体が押された。


 パトカーがゆっくりと右折していく。


 赤灯が去って、人の波が再び動き始める。


 彼女の腕を引こうとして、歩こうとするが、手応えがなかった。


「ミイ?」


 振り返ると、彼女は俺のすぐ後ろで、言葉もなく立ちすくんでいた。


「どうした」


 彼女の瞳は、焦点が合っていなかった。

 ゆらゆらと不安定に揺れている。目はまばたもせずに見開かれていた。


 後ろから歩いてきた若い男が彼女を、突き飛ばした。


「あっ」


 驚いたような声を上げたミイは、道路の真ん中で膝をついて倒れた。


「おい」


 俺の横を通り過ぎた男が、チッと大きく舌打ちして去っていた。


 慌ててミイの元へ駆け寄る。地面に四つんいになった彼女は、浅い呼吸を繰り返していた。


「ミイ、どうした」


「だ、大丈夫」


 その言葉とは裏腹に、彼女は起き上がることができないようだった。糸が切れたみたいに、その場でぺたんと座り込んでしまった。


「問題ないよ。平気」


「そんなことないだろ、こんなに震えて」 


「本当に、全然平気」


 手を差し出して、ミイの身体を支える。その手をつかむと、彼女は顔を上げて俺の方を見た。


 彼女は涙を流していた。


「なんで」


 ハッと息をついて、ミイは自分の顔を隠した。


「ごめん」


「謝ることないって。本当に大丈夫か」


「何でもないよ」


 手を握って、震える背中をさする。


 ミイの手は驚くほどに冷たかった。その冷たさは、ひつぎの中に収まった死体を想像させた。彼女の身体を起き上がらせようとしたが、地面に張り付いたように重かった。


 足元の影が、濃く長く伸びていた。彼女の膝がガクガク震えている。


「立てないや」


 彼女の震えは止まなかった。


「何で」


「何でもないよ」


「おかしいだろ」


「思い出しちゃって。お父さんのこと」


 引きつった笑顔で言った。

 そこでようやくミイに何が起こったかに気がついた。


 彼女たちの父親が亡くなった時、ミイはまだ小学生だった。


「パトカーか。さっきの」


「ごめん」


「何で謝るんだよ」


「本当にごめん」


 こぼすように言った彼女は、再びうつむいた。


「ミイ」


 過呼吸がひどくなっていく。

 彼女は地面に張り付いたようにうずくまっていた。何度も息を吐いて、涙をポタポタとこぼしていた。


 たくさんの人が俺たちのすぐそばを通り過ぎていった。

 遠くの方から、カメラのシャッター音がした。誰かがスマホをかざして、俺たちの姿を撮っていた。


「やめろよ」


 声を上げると、人がサアッと離れていった。


 横断歩道で膝をつく俺たちを、遠くから無言で奇異きいの目がいくつものぞいていた。


 それはまるで、人ではない怪物になったみたいだった。

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