10. 臆病者だから


 セックスをして、シャワーを浴びて、カレーうどんを食べた。


 外はすでに真っ暗で、胃の中は空っぽだった。ミイが作ったカレーうどんは、甘辛く、鰹節かつおぶしの優しい味がした。腹が減っていたので、あっという間になくなった。


「くたくた」


 気だるそうに、ミイはベッドに横になった。リンスーの店で空っぽにされたからか、快楽はいつもより緩慢かんまんだった。普段より長いセックスは、互いの体力を消耗しょうもうさせていた。


「風俗どうだったの?」


 枕に頭を下ろして横目で俺を見ながら、ミイは言った。 


「それ聞くのかよ」


「行ったことないから、気になる」


「普通だよ」


「普通って?」


「普通に抜いて終わり」


 ふーん、と彼女は寝返りをうった。ミイは俺のTシャツを着ていた。


「そう言うとこって、本番するの?」


「するとこもあるけど、今日のは違うよ」


「満足できるの」


「できる」


「変なの」


 まゆをひそめた彼女は、何かを確かめるように自分の身体をジッと見ていた。


「わたしでも働けるかな?」


「無理だな。胸が小さいから」


「ひっどー」


「冗談。そうじゃなくても、やめとけよ」


「だってお金ないし。サキ兄は、私のこと追い出そうとするし」


「追い出さないって」


「それに、やることないしさ」


 枕元にあった本を彼女は寝転びながら、パラパラとめくっていた。


「今日もずっと本読んでた」


「珍しいな。何の本だ?」


「分かんない。あったやつ」


 そう言った彼女が持っていたのはアラスカの観光ガイドブックだった。極寒の地。氷と熊のための大地。ずっと昔に買ったものだ。


「全然知らないところだから、面白い。わたしもアラスカ行ってみたいな。氷河が途方もなく大きいんだって。カリブーも見てみたい」


「行けるよ。こんなほこりっぽい街よりも、ずっと良い」


「ねぇ。サキ兄は、何で東京に来たの」


 前から気になってたの、と彼女は聞いてきた。


「どうして?」 


「理由は特にないよ」


 初めて、ここに来た時のことを思い出す。高校を卒業したばかりだった。夜行バスで早朝の新宿駅前についた。抱いていた感情は、歓喜でも興奮でもなかった。


 ただ焦燥しょうそうだけがあった。


「遠くにいければどこでも良かった」


 立ち止まっていたら、故郷に置いてきたものが追いかけてくるような気がした。早くちゃんと生きなきゃいけないと思った。普通に歩く多くの人々と同じように、見てくれだけでも何でもないように生きなければとあせっていた。


 働くところと住むところが決まるまでは、漫画喫茶か公園で寝ていた。働き始めるようになってからは、なるべく仕事で時間を埋めるようになっていた。


 いろいろなことを考えないようにするために。


「とりあえず、仕事があればどこでも良いかなと」


「それだけ? 東京タワー見たいとかじゃなくて?」


「まさか」


「じゃあ、単純に私たちのことを忘れようとしたんだね」


 うなずくことも、否定することもできない。


「ミイは何で東京に来たんだ」


「わたしはね」


 彼女はむくりと起き上がると、ベッドの上から俺を見下ろしながら、言った。


「サキ兄がここにいるから来たの」


「それだけ?」


「それだけだよ。だってサキ兄しか、私には頼れる人がいないから」


 無邪気な笑顔で彼女はいった。


「それ以外に特に理由はなし」


「よりによって、こんな何も無い場所に来ちゃうなんてな」


「そうかな。人だってたくさんいるし、お店だっていっぱいあるじゃん」


「あるように見えて無いんだよ。みんな幽霊だ」


 誰とも繋がっていなければ、死んでいるのと変わりない。


「お金貯めたら、こんなところ早く出て行った方が良い。アラスカでも何でも。どこへでも行ける」


「行けるかな」


「行けるよ。まだ全然若いんだし」


「でもね」


 彼女はかすれた声で言った。心細げで頼りない声だった。


「どうせ私はどこにも行けないって。自分の影が離してくれないの」


「影?」


「自分の影。逃げてきた方向から、ずっと付いてきている」


 俺も同じだよと、言いかけて止める。


「お姉ちゃんが言っていた言葉を覚えている」


 ミイは深く息を吐き出した。


「私たちを拒むものは、私たち自身の意志でしか無いんだって」


 おおよそ障害などと呼べるものはなく、全ては意志の問題だと。確かに彼女は言っていた。


 嫌な言葉だ。

 ミイは背中から手を回して、俺に抱きついてきた。


「でも無理なの。私、臆病者だから」


 その姿はさっきまで自分の姉をかたってセックスしていた女とは、まるで別人のようだった。


 触れた手は冷たく、寂しそうに震えていた。多分、ミイは泣いていたのだろう。何と声をかけて良いのか分からなくて、後ろを振り返ることができなかった。

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