9. 夏の、夕暮れの匂い


 中華性三昧ちゅうかせいざんまいから出ると、辺りはもう真っ暗になっていた。


 少なくない出費だったが、これでミイとの関係が変わると考えると、決して高くはない。次回の指名料無料のクーポンももらった。


 家の前に立って、こわごわ扉を開ける。自分の家に帰るだけなのに、冬眠中の熊を起こすみたいに緊張している。


「おかえりー」


 帰ると、部屋がまた模様替えされていた。床の大部分を占めていた平積みの本や漫画が、なくなっている。


 ミイは今度は制服の上からエプロンを着て、再びカレーをかき回していた。


「本、クローゼットの中に入れておいたよ。汚かったから。て言うか遅かったね? 残業?」


「あぁ、うん」


「先にお風呂入っちゃって。今日はカレーうどんにした。昨日作りすぎちゃったから」


 ミイはニコッと俺に笑いかけた。


「めんつゆと出汁を入れたの。結構、美味しいよ」


「良いな」


「タオル置いといたから」


 その言葉にうなずいて脱衣所に行こうとすると、ミイにジャケットを引っ張られた。


「ねぇ、ちょっと」


 グイッと強引に引き戻される。ミイが顔を近づけていた。俺の身体をすんすんと、特に顔の方を中心に匂いをがれた。


「知らない石けんの匂い」


「気のせいだよ」


「そんなはずない。朝出かけて行った時と違う」


「友達の家行ってきたからなあ」


「そうじゃないよね」


 彼女は試すように、俺を見ていた。


「誰と寝たの?」


「え?」


「嘘つかないで。誰と寝たの」


 ミイは完全に確信を得たと言う表情をしていた。


「誰でも良いだろ」


「もしかして風俗?」


「は」


「当たりだね」


 彼女はキッチンの流しに寄りかかって、あきれたように腕を組んだ。どこで買ってきたのか、ピンクの花柄のエプロンは、シワひとつなくピンと張っていた。


「どう言うつもり?」


「いや」


「わたしのこと、追い出すつもり?」


「違う。そうじゃなくて」


 目が合わせられない。


「そうじゃなくて、する必要がないってこと」


「わたしとのセックスは嫌い?」


「好き嫌いとかじゃなくて」


「何?」


「間違ってる。俺たちのセックスは間違っている」


 誤魔化しても、結局何も解決しない。もうはっきりと言うしかない。


「もうやめようこんな関係。家なら普通に泊めてやるから、そう言うのは一切なしにしよう。俺もお前の身体にはさわらない」


「へぇ。どうして?」


「罪悪感がある。お前の身体を触ると、なんかこうモヤモヤするんだ」


 そう言うと、ミイはしばらく石のように沈黙していた。コトコトと沸騰ふっとうした鍋の火を止めて、彼女は口を開いた。


「ねぇ、見て。わたしのこと」


 エプロンのひもを解いて、彼女は制服姿のままで立っていた。エプロンが、抜けがらのように床に落ちていた。


 彼女は上目遣いで、俺のことを見ていた。


「今のわたし。お姉ちゃんみたいでしょ。この制服。薄い化粧。ミントのリップ。サラサラの長い黒髪。それから汚れのない」


 彼女は背伸びをして、唇を合わせてきた。


「心と身体」


 夏の、夕暮れの匂い。


 確か、初めてのキスはこんな味だった。雨上がり。コンクリート。西日が彼女の顔を真っ赤に照らしていた。


「やっぱり」


 彼女は俺に向かって手を伸ばしていた。


「サキ兄が逃げられるはずがないんだよ。私たちのセックスは必要なことなんだよ」


「誰のために」


「サキ兄のために」


 そう言って、彼女はスカートのすそをあげた。


 何もいていなかった。


「決して、えない傷のために」


 まとわりついたリップの匂いが、身体の奥に入っていく。

 甘くて、心を奥底からむしばんで、ドロドロに溶かしていってしまう。口の中から全身を巡ると、たちまち何も考えることができなくなる。


 そのまま、キッチンで彼女と交わる。

 心のモヤモヤなんか忘れてしまって、身体を動かす、ただのけだものになる。

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