第8話 また学校で
まだ日も出ていない時間帯である。外に居るのは新聞配達か地元のゴミ収集車、或いは日比野のようなランニングマンくらいなものだ。
軽めの3kmの道程を走り終え、只今家に辿り着いたところで、自宅の玄関に若い青年が待ち伏せているのに気が付き、歩みを止める。
退屈そうに人様の塀に寄りかかっていた青年は、日比野の視線に応じるように姿勢を上げて向き直る。
「果たし合いの申し込みか?」
「受け付けてんの?」
「してなくても勝手に来る」
顎下を伝う汗をTシャツの袖で拭う。高木は不機嫌そうに顔を顰めた。
「激しい運動は控えろって言われてなかったっけ?」
「控えたくても敵は待ってくんねえからな。コッチも常に備えとかねえと」
難儀な奴。シラケた声で呟いた後、左手に持った紙袋を突き出してきた。がさり、と軽くはない音がする。
「なに、菓子折?」
「んなわけあるか。休んでた間のノートと課題。明後日から登校だろ君」
あー、と思わず低い声が気が洩れる。態々持って来てくれるのは大変ありがたいのだが、課題だのノートだの、学校の話をされると気分が落ち込むのは、最早どうしようもない。
「このために来たのか?こんな時間に」
「この時間帯なら外に出てるっておばさんが、てゆーか君、家に居る間一歩も部屋から出ないらしいな。何してんの?ゲーム?」
「寝てる」
「ずっとぉ?」
「安静にしてろって言われたからな」
「わけわかんないよ」
「んなことよりお前、家来たのかよ。言えよ」
「言ったよ君のお母さんが。でも君出てこなかったぞ。てっきり寝たフリかと思ってたのに」
「あ?…………ああ、いや、寝たフリだ」
鳥の声がして、顔をそちらに向けると、丁度日が昇り始めた頃合だった。空が夕暮れのように赤く染まっていく。日比野はこの時間が一番好きだ。
「知り合いの名前使って乗り込んでくるヤツもいるからな。基本アポなしは断ってる」
「有名人みたいな言い方やめろ」
街並みが紅に染まる。目の前の青年の顔も紅色に染まり、彼は煩わしそうに顔を顰めた。
「じゃあ次からはメッセージ入れとくから。返事はいいからちゃんと出てよ」
「次?」
彼の表情に気を取られていた日比野は、突然振られた話に虚をつかれて呆然とする。
「そんじゃ、僕はもう帰るから。帰って寝る。せっかくの休日によくもこんな時間から走りに行けるよね。マジ理解出来ない」
「なあ、おい、次って」
「次は次でしょ」
何の未練もしがらみもなさそうな背中に必死になって声を投げる。
「なあ、ちゃんと考えてんのかよ」
意外にも、高木は日比野を振り返った。
「言っとくけどさ、友達って、なろうって言ってなるもんじゃないよ」
「じゃあどうすりゃなれんだよ?」
気分がまた沈んでくる。そりゃそう簡単になれるわけがないってことは痛いほどわかってる。生きるか死ぬかの瀬戸際だったのもあるが。それでもこちとら勇気を出してぶつかってみたんだ。当たって砕けろとはよく言うが、実際砕かれたらシャレにならない。
どこかで自転車の警笛が鳴いた。茜色だった日差しは黄金を帯びてコンクリートの道を明るみにする。自分の心境が場違いに思えるくらい、恐ろしくいつも通りの朝が始まろうとしていた。
「自分で考えろよバーカ」
普段の彼のイメージからは想像もつかないような理不尽な暴言が飛び出し、目を見張った。てっきりはぐらかされるか、適当な理由でっち上げて拒絶されるんだろうと思っていたから、怒りとか悲しみ以前の話で、あまりに意外で只々驚いた。
絶句する日比野に、高木は顔をくしゃりと歪め、幼子のように声を上げて笑った。お前、そんなして笑うのか。
「じゃ、また学校で」
今度こそ颯爽と去っていく背中を眺め、汗の滲んだ手のひらを心臓に当てた。もどかしくて焦れったい感覚がじりじりと胸の奥を刺激する。まるで雛が殻を割るのをまんじりと待つような、むかつくけれど、悪くはない気分だ。
───hate────
心電図モニターから発せられる規則的な電子音に耳を傾ける。視線の先にはカーテンの開いた窓があり、夕暮れに浸る街並みが見える。
警察の話では、二人が見つかったのは行方不明届が出されてからおよそ一ヶ月後のことだった。警察の知らせを受けて境内の見回りを行っていた神主が、山中で重なるようにして倒れている二人を発見したそうだ。
二人とも重度の栄養失調で、特に日比野は腹部に重傷を負っていたため、一時は生死をさ迷ったらしい。
否、本当なら死んでいなければおかしいのだ。発見時二人が浸かっていた血の量は人一人分の致死量を超えており、傷の具合を見る限りでは、少なくとも一晩は放置されていたはずだ。
まるで傷を放置したまま輸血したみたいだと、そんな冗談を医者は無表情で語った。
「不思議ですよね」
不思議といえば、貴方の症状も重症とはいえ栄養失調だけで済ますには血の減少が奇妙に著しい。怪我をしていた御友人よりも輸血を優先したくらいです。元々少ない方なのかとも思いましたが、四月の健康診断時では至って平均的な健康体だったようですし。
ああ、とも、ええ、とも言えず、ぎこちない笑みを浮かべる。我ながら不審に思えたが、医師は一切関心が無い様子でデスクのPCモニターを凝視している。
「ですが、悪くない不思議です」
「………というと?」
「施しようのない不思議と対峙することに比べれば、このような不思議はむしろ歓迎したいところです」
眉ひとつぴくりとも動ぜず語る医師に、高木は一瞬全てを打ち明けてしまうべきか悩んだ。表情筋が死滅し、ただ目蓋に疲労感だけを積み重ねたこの医師に、「もう心配要りませんよ」と言ってやりたくなったのだ。
此処は件の神社と同じ最寄り駅かつ、周辺では最も設備の整った病院とのことで、事が起きるごとに処置を依頼されているに違いなかった。
「警察の方は、今日も様子を見に来られるんでしたか」
「あ、ええ、はい」
青服を纏った地元警察の渋面がまざまざと蘇る。彼らが不満げな顔でいたのも当然で、高木は警察の質問の殆どに、つまり己の身分と他の班員たちと別れるまでの当日の経緯以外の全てを「わからない」「思い出せない」で押し通したのだ。結局、調書はまた後日取り直しということとなった。
もちろん、彼らがそうまでして高木に話を聞きたいのには理由がある。決して面と向かって言われた訳ではなかったが、今の状況を鑑みれば容易く検討がつく。高木には日比野を刺した容疑が掛けられているのだ。
目覚めて五日経過したにも関わらず、未だに日比野の病室すら教えてもらえないのが確たる証左である。おそらく彼が証言できない今のうちに出来るだけ喋らせ、後で口裏を合わせにくくする算段だろう。
別に、僕はそれでも構わないんだけど。
日比野が傷を負った責任を司法に当て嵌めて償う、という意味ではない。証拠となる凶器が存在しない以上、警察は高木を追い詰められないし、日比野が自分で刺したという事実も掴めない。
構うのはむしろ日比野だろう。彼はあれで道義に喧しい一面があるから、警察が高木に詰め寄っていることを知れば、きっと黙ってはいられない。おそらく一から十まで正直に話すだろう。そうするとどうなる?ただでさえ厄介そうな警察の顔が、マジで鬼になる。
この件に関して、高木は完全にお手上げ状態だ。まあ死にゃしないし。と一周回って楽観的に構えてすらいる。
「私が話をつけましょう」
「え?」
「貴方は昨日と同様に『何も思い出せない』とお答え下さい。御友人にも、目覚めたらそのように」
医師はむっすりとした表情のままキーボードを叩く。モニターに表示された診断書に「軽度の逆行性健忘」の文字が浮かび上がる。
「部屋番号を教えていませんでした。1029です。早ければ今日明日にでも目を覚ますでしょう。勿論期待のしすぎは良くありませんし、これは断言ではありませんが、時おり譫言で貴方の名前を呼んでいますから」
「えっと、つまりどういうことでしょうか?」
困惑して尋ねると、医師は漸くPCモニターから視線を背け、高木を見る。今漸く存在を知りました、とでもいいたげな驚きの色が、眼鏡越しから見て取れる。
「失礼、少し難しかったですか」
「あ、いえ、要点は概ね理解出来たんですが、そのー、理由というか、根拠とゆーか」
「根拠」
「ほら、僕ってはたから見てもアヤシイじゃないですか」
たどたどしく語る様子に、医師はニコリともしないまま両手を添えたキーボードに視線を落とした。扉越しの廊下で、誰かが通り過ぎる音を聞く。
「償い、とでも」
「え?」
一呼吸分の極自然な沈黙を挟んで、医師は答えた。
「私は無力でした。明確な打開案は幾つもありましたが、それを躊躇なく行動に移すには、見える
医師が話す間、無意識にずっと息を詰めていた。漸く吐き出した息は震えていて、まるでこれで全てが完結してしまったような錯覚さえ憶えた。
全てが通り過ぎてしまった今、こんなところで聞きたい言葉ではなかったのに。
「そんなことはないでしょう」
強く握り過ぎて白くなった拳を眺める。これが何処から来る衝動なのか。嬉しいのだか悲しいのだか、それとも憤っているのか、或いはその全てなのか。思考は雑然と散らばっていて定まりがつかない。ただ呼吸に喘ぐように言葉を吐いた。
「先生は、日比野を救ってくれたじゃないですか。貴方がいなきゃアイツはきっと死んでたんです。人ってバカみたいに簡単に死ぬけど、死んでくヤツを生かすのはバカみたいに難しいじゃないですか。同列に扱うのは、変ですよ」
何を言ってるんだ僕は。あまりにちぐはぐな論理に、声はだんだんか細くなって、しまいにフェードアウトする。今すぐなかったことにしたい。顔面がじわじわ火照ってきて、俯く顔を上げられない。
「そうですか」
医師がそう言ったのは、いたたまれない沈黙を十分に挟んだ後のことだ。そっけなく、斬り捨てるような口調だった。絶対怒ってはるやん。
「あの、すいません、僕」
「もうじき警察の方が来られる時間帯です。問診はこれでお終いですから、帰る前に一度彼の病室に立ち寄ってみて下さい」
最早用済み。と言わんばかりの鉄面皮と事務的な口調に、食い下がれるほど子供でもない。肩を丸めてすごすごと退散する背中に、医師は「お大事に」と言葉を手向けた。
見殺しにした人を死刑にする法律があれば良いのに。そしたらクラスメイト全員殺すことができるのに。なんてことを、高木はずっと考えていた。嘘偽りのない、心からの願いだったはずだ。
「なんであんなこと言ったかなぁ」
規則的な電子音が、一瞬ノイズが掛かったように乱れる。窓からベッドに目を向けると、眩しそうに顰めた黒い瞳と目が合う。
「なにやってんの」
目覚めて第一声がそれか。他にもっとあったろ。
苦笑を浮かべ、再度窓の向こうを一瞥する。先程と何ら変わりのない、日常の景色が広がっている。
「人殺しだって言ったのにさ、なんで助けたの」
規則的に戻った電子音に耳を傾ける。目覚めたばかりの日比野は些か息が苦しそうで、水をやるべきかと床頭台の上に置かれた吸い飲みを掴む。
「じっさいに、殺したわけじゃないんだろ」
浮かせた容器を取り落としかけて、慌てて台の上に戻す。「なんで」口の中の水分が一気に蒸発していた。自分のほうが飲むべきかもしれない。
自分で手を下したことは無かった。そもそも顔も、実際にイジメがあったことさえその子が死んでから漸く確信できたことだ。警察や親の言う自殺の理由がどうしても納得できず、半ば自棄になって闇雲に張り巡らした網に、まんまと獲物が掛かったのだった。その瞬間の衝撃ときたら悲惨なものだ。真相を突き止めた悦びと、気づけなかった絶望が殆ど同時に訪れた。当然その後の受験などには手がつけられなかったし、死ぬことを何度も考えた。少なくとも、真実を知っていただろうクラスメイト全員を殺した後にはそうするつもりでいた。
「べつに、だから許すってわけでもないけどな。どっちかっつうとお前のがタチが悪そうだし。つかさ、あん時はああしなきゃオレが人殺しになってんだろが。気軽に人を犯罪者にさせんな」
日比野は吸い飲みを一気に空にして、ついでに上体を起こそうとするので、そればかりはやんわりと押し止めた。重症患者なんだよお前。気付いてないかもしんないけど。
「それにお前、言ったろうが」
「なにを、」
「帰ってからって。死んだら答え聞けねえだろ。俺、ユーレイと友達になる趣味ねえし」
「まって………まさか君、あれだけ盛大に自分のことぶっ刺しておいて、死ぬつもりはなかったとか言うんじゃないだろうな?」
「実際死んでねえし」
「それは、おま……っ、ああもう」
丁度ドアがスライドする音がして、咄嗟に口を噤む。警察が面会に来たのだという看護師の知らせにより、高木は歯にものが挟まったような心地の悪さを抱えたまま立ち上がる羽目になった。
「おい、起きるなよ!看護師さんコイツのことお願いします。すいませんすぐ連絡しなくってっ、大人しく寝てろ!……全く、危なっかしくて見てられないよ」
扉が完全に閉められた後、床頭台に残された腕時計に気付いた日比野が「コッチの台詞だよ」と呟いていたことなど、彼は知る由もない。
危なっかしくて見てられない 解体屋 @kanethan917
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