第7話 まぬけづら




 頭が痛い。息をするたび肺がざらざらと鳴いて煩わしい。熱にうかされたように熱く、鉛のように重い。

 濡れた土色の皮膚、爪は白く脆い。錆びた鉄の中に埋もれるような、己の体に閉じ込められたような歯痒さ、閉塞感。恐怖。叫ぶことも叶わない。気が狂いそうになる。

 まだ狂わぬのか。それとももう鬼になったか。

 否、はじめから私は鬼であったか。


 歪な顔をしていた。目蓋の腫物は生きるにつれて肥大し、眼を押し潰した。手足は牛のように鈍く、声もまともに通らない。

 腹を痛め産み落とした子が私であったこと。母には申し訳が立たない。されどこの醜きを捨てず、今の際まで生かしてくださったこと、愛してくださったこと、得難く、有難く思う。

 いまだ正気を損なわぬのも、あの方の声にゆり起こされるが故であろう。

 皆の目もあろうに、日に二度、母は私に朝と夕とを教えに来て下さる。此方の応えは許されぬが、会いたいと咽ぶその声に幾度救われたか知れぬ。

 なればこそ、私はあの方のため、この村のために鬼であらねばならない。鬼とあり、御子様の糧とならねば、母の息災は得られぬのだ。

 禍なる私が、あの方へ御恩返しが叶う唯一の術である。この痛み苦しみ恐ろしさ、すべては母の為と思わば、耐え得ぬことはない。


 頭が痛い。皮膚が熱い。体が重い。鼻の穴がひりひひとして、下を向くと血が垂れる。両の目、口、耳からも滴り落ちる。

 斯様に熱くあるのに、腹の奥が冷えていく。

 私はこのまま、ひとりで死ぬのか。

 誰の手もとらず、母の御姿を見ることも叶わず、ひとりで、冷たい沼の底に沈むのか。










「死にたくないって言わないのね」


 つまんないわ。御子が言う。怯え逃げ惑うさまを見たいのに。

 頭が痛い。吐き気がする。

 大きく重厚な扉の奥には、青白く濁った沼がある。ごつごつと硬い地面に跪き、沼を覗くと、血を被ったように赤い顔の自分がいる。流石にゾッとして首を引っ込める、手のひらをひっくり返したり頬を撫でさすったりするが、赤く変色していることはなく、血で濡れていることもない。カンベンしろよまじで。

 耳の後ろで、クスクスと笑い声がする。水面には高木の首筋に刃を添えた日比野の姿がある。


「特別に願いを聞いたげる。何がいい?興が向いたら叶えてあげる」


 いやそれ絶対叶えないやつだろ。「いいよ〜……やっぱや〜めた!」つって首落とすヤツだろ。マジキレそうなんだけど。

 ぐわん、ぐわん、と脳髄を掻き回すような痛みに思考は狂い、水面の己に問い掛ける。

 今さら、この期に及んで、願いとか。


「そいつ、……日比野は、ちゃんと帰れるんだろうね」


 水面越しに日比野を睨む。彼はニタリと唇を吊り上げた。


「うらやましいのね。アンタを殺して、ひとりだけ助かるコイツが」


 うらやましい?のぼせた頭で意味を考える。まるで初めて聞く言葉のように思えた。

 どうしてだろう。自殺志願者のつもりはないんだけど。その口調で話すお前が斬新すぎてそれどころじゃなかったかもしんない。


「安心しなよ。動いてるのは私だけど、コイツもちゃんと起きてるよ。そっちのが楽しいでしょ。殺す気のない奴が人を殺すとね、気が狂って死んじゃうの」


 水面の赤ら顔が能面のようになる。

 スンゲェ嫌なこと聞いちゃった。黙って殺しといてくれりゃ良いのに。クッソ頭イテエ。

 ぐらぐらと揺れる頭を抱える。ぷつ、と首に当てられていた刃が皮膚を滑り、温かい血がとろりと滴る。


「僕さ、人を殺したんだ」


 聞こえてるんだろうか。御子は馬鹿にした目で笑ってる。その顔すっごいムカつくね。こんなの話しても意味ないって?うるさいなぁ。


「自殺した友達の話したじゃん。そのイジメの首謀者」


 頭が痛い。気持ちが悪い。胃がひっくり返りそうだ。体が熱い。なんでこんなカミングアウトしてんだ。ああ、そう、日比野を守らなきゃ。


「多分ね。知らないけど、加担したのは違いない」


 高木は天国も地獄も信じていなかった。単純にそういう家に生まれたのだ。けれど友達の家は違った。先祖の代からの信者で、彼等は、地獄行きは免れないと宣った。

 無意味なことはわかっている。高木の友達は、優しい子だ。きっと悲しむはずだ。高木のことを嫌いになるはずだ。

 それでも何もせずにはいられなかった。たとえ信じていなくても、諦観と、僅かな失望を帯びた眼で手を合わせる大人達を見るのは耐え難かった。こんなのは間違ってる。たったひとつの失点で、それまでの正しさすべてが否定される理由がない。もしもそれがまかり通るのなら、その公式は不正解だ。

 君は間違ってなかったよ。ただそれだけを伝えたかった。

 だけど、結局僕はあの子を苦しめただけだったろうな。


「思ってたほどスッキリしなかったけど、後悔もしてない。まあ、憂さ晴らしにはなったかな。そんくらい。つまんないよ」


 日比野の罪悪感を少しでも減らせたらと口を開いたはずが、気付けば罪の告白なんてのをしている。頭が痛い。殆ど口先だけで喋っている。終着点はどこなんだ。


「残りの連中も、帰ったら殺すつもりだったんだ、けど、良かったよ、ここに来たのはサイアクだったけど、君がいてくれて良かった。ひとりじゃ、やめどきがわかんなくってさ」


 天国も地獄も信じてなかった。信仰心なんて欠片もなかった。けれど、今はちょっとだけ違う。あったら良いな、くらいは思ってる。だってそうじゃないと、優しい人が可哀想だ。


「なぁ、日比野。悪いんだけどさ、君、僕のために、人殺しになってくれよ」


 あの子はきっと天国だ。地獄に行くなんて許さない。けど、やっぱり会えないのは寂しいな。

 寂しいけど、しょうがないよなあ。


「お前は、恵まれた奴だと思ってた」


 水面越しに、血を垂らした黒い眼が高木を見つめている。


「嘘が得意で、作り笑いも上手で、そんだけ器用なら、そりゃ人生イージーモードだろうなって思ってた」

「………ひ、びの、?」


 首筋に当てられていた刃は、気付けば彼の脇でだらりと地面を向いている。


「………日比野、血が出てるよ」


 自身の首筋から滴る感触を忘れて呟く高木に、日比野は泣きそうに眉を歪め、唇の端を吊り上げた。


「よかった」


 刀はふわりと布切れの如く軽やかに宙を滑り、持ち主の腹部を貫いた。

 苦悶の表情を浮かべ、脂汗を滲ませながら三白眼は此方を凝視する。刀を握る手はぶるぶる震え、やがてずるりと刃を引き抜く。迸る血が頭上に降り注ぐ。指先からずり落ちた刀は硬い地面に落ちる。


「っ、…………は、はっ、まぬけづら」


 覆い被さるように倒れ込んでくる体を受け止める。見ると、満足気な笑みを浮かべ、目を閉じている。

 現実味のない夢を見ている心地がした。けれど滴る血は熱く、高木の下半身を濡らしていく。

 重なる胸から音がした。大丈夫。まだ生きてる。だけど、どんどん弱くなっていく。どうしよう。どうすれば。


「馬鹿ね。殺す前に狂っちゃったら意味ないのに」


 背中からズズと這い出た少女は、つまらなそうに日比野を睨んだ。


「もう良いよ。みんな母様に食べられてしまえ」


 少女の姿が煙のようにたち消える。影が差した。頭上を見る。蛇だ。真っ白な鱗、赤い眼の、神々しいまでに美しく、巨大な蛇が沼から鎌首を伸ばして自分達を見下し、シュルシュルと鳴いた。呼応するように鱗がぬらぬらと蠢く。よく見ると、それはひとつひとつが人の顔だった。どれも死に際の顔で、溶け混ざるように体を折り重ねている。此方を見つけ、助けを求めるように崩れかかった腕を伸ばす。夥しい数の、そのうちの一つに覚えがあった。


「ゆうちゃん」


 たすけて、シロちゃん。面はたしかにそう言った。たしかに聞こえた。

 ああ、もちろんだ。手を伸ばす。けれどどういうわけか、両手はくたばりかけの少年を大事に抱えている。

 たすけなきゃ。どうしよう。たすけなきゃ。

 頭の中はそれで一杯だ。呼吸は荒く、それでも酸欠状態の脳はついに痛みを放棄した。

 鬼を、殺さなくては。殺せば助けてくれる。そういう約束だ。

 なにしろ時間がなかった。血は流れ続けている。友達が悲鳴をあげている。高木は日比野を横たわらせ、彼の血で濡れそぼった刀を掴んだ。


 コイツに出来たんだ。僕に出来ないわけがない。蛇が鳴く。せせら笑いのようにも聞こえる。真っ赤に濡れた腹部に切っ先を当てる。


 本当にこれで良いのか。わからない。とにかく何か。何かしないと。早く。間に合わなくなる前に。


「つまり蛇野郎をぶっ倒しゃいいってことか?」


 驚くほど鮮明に声は響いた。声の主は自身の血溜まりに倒れていて、そんなこと言えるはずもないのに。


 無茶言うなよ。そんな状況でもないのに笑みが零れる。そんなこと出来るわけないだろ。

 自然と視線が持ち上がり、シュルシュルと嗤う怪物を見る。怪物の一部となり今にも溶け崩れそうな友達を見る。自身を求める手に、自然と手が伸びる。その手に、かつて自分が贈り物に選んだブレスレットがかかっているのが見えて、動きが止まる。あの子がそれをしているわけがない。たったあと数日を、友達は待ってくれなかったのだ。

 これは、まやかしか。

 脱力したように両手を下ろす。だが、どうすればいい。まやかしならば、尚更倒すことなんか出来ない。再び日比野の台詞が蘇る「本殿にあんのは御神体だ」

 そうか、御神体。動かない御神体なら、僕でも──

 周囲を見回すが、それらしきものはない。強いてあげるなら青く濁った沼くらいだ。


 まさかアレのこと?冗談だろやっぱ死ぬしかねえ。

 潔過ぎる覚悟を決め、刀を握り直したとき、ふと刀身に彫られた蛇の模様に目が止まる。

 途端、少女の姿がフラッシュバックする。赤い眼。白い髪。血塗れたように、真っ赤な着物。


「………君は、人間だったの?」


 何故そうしようと思い至ったのか、我がことだというのに、高木にはサッパリわからない。ただ、地獄に齎された一本の蜘蛛の糸のように、突然降って沸いた根拠のない救いにとりすがった。

 刀の柄を握りしめたまま、切っ先を地面に着ける。

 間違っていたらどうする。だけど──傾けた刀身の峰に足を乗せたとき、甲高い悲鳴が轟いた。


「やめて!!!」


 霧が晴れる。曖昧な予感が確信に変わる。高木は僅かの躊躇いを捨て、足先に力を込める。体重を掛ける。


「ぎゃあああああああぁあああああっ!!!」


 幼い断末魔に全身が総毛立つ。頭上の影が濃くなる。見上げもしないのに、大きく開いた口が自身を丸飲みにする光景が見える。錯覚で人は死ねるのだろうか。思い込みで死ねることは知っているけれど。



「あぁ゙あああ゙っ!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺す殺す殺す殺殺殺殺殺ごっ、が」


 ────バキンッ!

 瞬間、頭上の影が煙のように霧散する。

 ただ一点に負荷を与えただけなのに、刀身は砂の城のようにボロボロと崩れ、跡には柄のみが残った。衝動のままそれを沼に投げ捨てる。


「………はっ、……はぁっ、はあっ、はあ……はっ、」


 気付けば地面に這いつくばっていた。

 血の臭いが酷い。振り向くと、血溜まりに横たわる日比野が見える。

 両手で地面を這い、血を跳ね上げて彼の横に着く。力の抜けた足を叱咤するよりも、こちらの方が早かった。

 血はまだ溢れている。両手で塞ぐが、どんどん溢れて止まらない。顔に触れる。冷たい。胸に耳を当てる。わからない。自分の呼吸の音が、心臓の音がうるさ過ぎて、聞き取れない。

 医者じゃなくて良かった。打つ手のない状況で半ば放心状態に陥りながら、ぼんやりと現実逃避する。

 医者だったら、流れる血の量でもう無理だって気づいてしまったかもしれない。


 名前を呼ぶべきだ。口を開いたが、喉が詰まって上手くいかない。こんなにも血が溢れているのに、此方が絶望してしまうくらい血を流しているのに、コイツときたら笑いながら眠ってやがる。


「ゆうちゃん」


 無意識に唇から零れたのは、彼の名前ではなかった。


「ゆうちゃん、たすけて、日比野をたすけて」


 言うべくもないが、友達は神でも仏でもない。祈りを叶える道理などない。けれども長い間神の類を信じなかった高木には、他に祈る先が見つからなかった。


「おねがいだよ、ゆうちゃん、コイツ、いいヤツなんだ、バカだけど、いいヤツだよ……ゆうちゃん、たすけて」


 血は止まらなかった。

 視界がぼやけて日比野の顔が朧になる。ぼたぼたと滴る涙が役立たずの手の甲に落ちて血が濁る。これだから。これだから馬鹿とは友達になりたくなかったんだ。勝手に庇って、勝手にいなくなりやがる。


「だめだよシロちゃん」


 懐かしい声。いつだったか、随分昔に言われた台詞を思い出していた。


「自分がやりたくないことを、人にやらせちゃだめだよ」


 ああ。君の言う通りだね。コイツには酷いことを頼んでしまった。これじゃあ君をいじめた連中と何も変わらないじゃないか。


「僕、必ず地獄に行くよ。絶対、地獄に行くから、だからっ…………たのむよぉ……っ」


 凍えていく体に縋り付き、みっともなく咽び泣く。すっかり出尽くしてしまったのか、最早血が流れることもなかった。

 全身から力が抜けていく。全てを諦めた途端、体は神経を失ったように動かなくなった。日比野。動かない唇で名前を呼んだ。「あーあ」どこか気の抜けた、落胆の声を聞く。


「シロちゃんの友達は、自分だけだと思ったのになぁ」


 重たく閉じた瞼の先で見つけた姿に、また涙が溢れて血濡れた頬を伝う。幻だとわかっていても嬉しい。僕の中の君は過去じゃなかった。







 ​───forever alone────







 気の狂う者がいた。

 声を荒らげて意味のわからぬ戯言をのたまい、それだけなら良かったが、ときに叫声を上げて仲間の首を絞めることもあった。

 村人たちは彼等を鬼に憑かれたといって恐れたが、村の神主の手には負えず、かといって外の者を頼れば、村が狂人の集まりだと流布されるやもしれぬ。

 いっそ、家畜のように殺してしまえたなら良かったが、産土神は何があっても同族殺しはいけないとしている。危ないからと仲間を殺しては、きっと祟がおきるだろう。

 村人たちは鬼に憑かれた仲間を堅固な牢に閉じ込め、飢えで死ぬか、自ら首を掻き毟って死ぬのを待つよりほかなかった。


 あるとき、奇異な子供が生まれた。

 白木の皮のように色のない肌に、真っ赤な血色の瞳。丸坊主であった頭は、長ずれば老耆のような白髪を生やした。

 同じ人とは到底思えぬ、これこそ鬼に違いない。

 長らく人に取り憑いてきた鬼が、とうとう人の胎を借りて形を得たのだ。きっとそうに違いないと、村の誰もが、腹を痛めて産んだ母親でさえそう言った。


 これに鬼を斬らせよう。

 誰が言い出したかはわからない。気がつけば皆口々にそう言っていた。

 これは鬼なのだから、仲間では無いのだから村人を殺しても構わない。寧ろ、鬼とは人を殺すものだ。理にかなっているではないか。

 薄ら笑みさえ浮かべそう宣う人々は、最早正気を失っていた。










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