第5話 大丈夫だよ




 薄ぼんやりと明滅する視界で、日比野が去り際に残した言葉を反芻する。


「信じる」と、日比野は言った。


「好きにしろよ……お前、要領いいからな。上手くやるだろ………信じるよ」


 なんか怒ってたなアイツ。


 ぐわんぐわんと揺らぐ頭を無理に起こし、遠ざかっていく足音とは反対の方向を睨む。


 誰も、何もいない。


 さっきの女と逆パターンだこれ。てことは霊感うんぬんは関係なかったのか。


 日比野が嘘を吐いた、或いは錯乱していた。等とは思わない。

 それほど混乱した様子は見えなかったし、殆ど同じタイミングで頭が痛み出したのも偶然とは思えない。


 何かがいるんだ。すぐそこに。


 頭痛はますます酷くなる。ドクドクと血液が流れる振動だけで意識が飛びそうだ。心臓吐きそう。


 何が要領いいだ。立つことも出来ないのに。どう上手くやるんだよ。


 そもそも逃げ切ることさえ考えていなかった。

 ただ巻き込んでしまった日比野さえ無事であればいいと、嘘を吐いた。

 我ながらかなり雑な嘘を吐いたと思った。あれは、気付いていただろう。なのに「信じる」だもんなぁ。


「これだからお人好しは」


 笑みが零れる。高木の友人も、よく他人のことで怒るやつだった。きっと出会っていたら気があっただろう。


 心臓の真上を刺突されたような衝撃が駆け抜け、地べたに背を着ける。続けて気道に衝撃。身体が痙攣する。息ができない。身構える暇もない。高木はあっさりと意識を手放した。





 ──dislike──





 たった一つの跫音と、擦り切れるような呼吸音が鳴り響く。走っても走っても蝋燭の火が灯り、追い越すたびに跡を引く。振り向き、引き返したくなる衝動を振り切るように、強く地面を蹴りつける。


 俺、何やってんだろ。


 足が止まる。膝に手をつき、肩で息をする。


『ちゃんと追いつくから』


 あんなん絶対嘘じゃん。映画とかドラマで大概瀕死になるやつじゃん。


『頼む』


「……はは、」


 乾いた笑いが洩れる。声は次第に大きくなって、仄かな陰影を写す洞穴を揺らした。


 嘘だ。嘘に決まってる。あんなの、信じるほうが馬鹿だ。

 なのにあの目を見たら、従わなければならないと思ってしまった。信じなければいけないと、思ってしまった。そうしないと、自分が悪者になってしまうような。自分自身に責められるような。


 覚悟を灯した瞳というのだろうか。真っ黒な眼に蝋燭の火がちろちろと写り込む様は、後悔だとか憎悪だとか、そういう嫌な感情ぜんぶを煮詰めた鍋に、気休め程度の理想を散りばめたようだった。


 チクショウ、やっぱアイツ嫌いだ。


 慢心があったのは否めない。ガイコツ法衣野郎は見た目弱っちいし、それに武器の殺傷性が低い。高木は見た目骨野郎に負けず劣らず爪楊枝だが、流石に殺られることはないだろうと。

 だが今冷静になって考えてみれば、高木のあの突発的な苦しみようは妙だ。もしかしたら、あの骨野郎がもたらしたものかもしれない。神職っぽいナリしてるだけあって、何か呪術的な攻撃を仕掛けていたのかもしれない。だとしたら、勝てる見込みは逆転する。プロボクサーにメリケンサック持たせたなみのヤバさがある。


 日比野は無言で踵を返した。

 もし悪い想像通りなら今更戻っても無駄だろうが、せめて骨くらいは拾ったらあという所存である。


「ばあ」

「…………………………………」

「あれすべった?」


 振り返った正面に、高木がいた。わりかしピンピンしている。

 純粋な怒りを込めて睨むと、彼は気まずげに頬を搔いた。


「ごめんね、嫌なことさせちゃって」

「その通りだバカヤロウ」

「へ、ぃイ゙ッダア゙!!?」

「反省しろ」


 頭を思い切り叩くと、高木はしばしきょとんとした顔をした後、表情を崩すように笑った。


「な、に、笑ってやがるっ」

「わーごめんごめん!無事で良かったなぁって思っただけです!」


 言いつつ、気を抜くとすぐに唇を弛める高木に、日比野は気持ち悪いだのなんだのと散々悪態吐いて背を向けた。





 外に出ると、空に月が輝いている。星は無く、代わりに馬鹿みたいに大きな満月が地上を照らしていた。

 バタンと背後で扉が閉まる音がして、見ると小さな社殿がその両扉を硬く閉ざして佇んでいる。周囲には夥しい数の彼岸花が咲き乱れている。光沢のある真紅がぼんやりと月明かりに照らされ、まるで炎のようだ。


「花木社?あの家と繋がってたんか?」

「さあ、よくわかんないけど。でもこれだけ明るいならライトは必要なさそうだね」

「つか、お前荷物どうした?」


 道中は背を向けていた為気付かなかったが、高木は鞄を持っていなかった。よく見ると、胸ポケットに差していたタブレットもない。驚いて尋ねると、高木は思い出したように肩を竦めて言った。


「捨ててきちゃった」

「はあ!?」

「邪魔だったからさ。そんなに大事なものもなかったしね。そんなことよりさ」


 高木は唇に人差し指を当て、声を潜めた。


「わかるかい?気配がする」

「気配?」

「目を閉じて。きっと君には見えないから、そっちのが早い」


 日比野は眉を顰めたが、この期に及んでふざけている理由もないだろう。高木の腕をがっちり掴んで目蓋を閉じる。


 かさかさと、木の葉の擦れる音がする。枯れ葉が地面をからからと音を立てて回る。ひゅうひゅうと唸る隙間風は、後ろの社からだ。高木は、俄に戸惑っている。突然腕を掴まれたからだろうか。日比野よりも少し体温が低い。


「五人、いるか?」

「よくわかったね。此処からは三人しか見えない。人と言っていいのかわからないけど。ら残り二人は何処にいる?」

「社の後ろだ、草の揺れが不自然だ、あと木の後ろ、一本だけ風が当たってない」


 流石だね。高木が舌を巻く。日比野は少しだけ得意な気分になった。


 本気で相手を潰そうと思う喧嘩において、または自分より強い奴と喧嘩する場合において、目潰しは基本中の基本である。初手の手といっていい。こないだだって出会い頭から砂をかけられ、目が使えないまま喧嘩を吹っかけられた。

 視覚は、そりゃあったほうが良いに決まってるが、見えないからといってお目こぼし貰えるような状況に立った試しもないので、いざって時には対応できる。出来るってことを身をもって知っている。耳や歯の激痛や、手足もどちらか一本動けば最悪逃げることが出来る。機会がないので誰にも言わなかったが、実は結構自慢に思っていたのだ。


「全員向かってきたら敵わない。ここは一気に駆け抜けて突破しよう」

「いや、やる」

「へ?」


 やるって何を?高木がそう問う前に、日比野は走り出していた。まずは前方。石碑の影に隠れてるやつからだ。


 連中、おそらく異形の存在は、知能というのがないらしかった。一人を相手してる隙に背後から飛びかかるという常識は備わっているものの、わざわざ大きく草を揺らしたり、致命傷にならないところに噛み付いてきたりする。掴んだ感じ、異形の歯や爪は普通の人と違って異様に硬く鋭利に尖っていた。特に歯はサメみたいにぜんぶギザギザしてる。試しに手を突っ込んだら奥にも歯があった。二枚歯というやつ。気持ち悪くてぞわぞわしたのでみんな折ってやった。最後に、棒立ちしている高木のすぐ後ろに来ていた異形の顔面を殴り潰して、終了である。


「……………すごいね?」


 耳の横で風を切った拳にちろりと目をやり、高木は唇を強ばらせた。心做しか顔色が悪いようにも見える。もとから悪かった気もするが。


「強いんだね、きみ」

「まあな」

「まあなっ、て」

「慣れてっからな、こんくらいヨユーだわ」


 スッキリした気分で背を伸ばす日比野をまじまじと見つめ、それから強ばりを解くように深く息を吐く。


「やっぱり、きみをつれて来るべきじゃなかったな」


 振り返ると、そこには誰もいない。吹きつける風が月明かりに燃える彼岸花を揺らした。





 宝物庫は参道を上へ登って行った先にある。花木社や、他の摂社よりもさらに上、殆ど山の頂上にあると、終わりのない迷路をさ迷っていたとき、気まずい間をもたすようにパンフレットを取り出した高木が、心底後悔した様子で嘆いていたのを日比野は覚えていた。


 平屋の一軒家のような、大きな建物だった。ただ家屋にありがちな縁側や窓はない。地面から中ほどまでを石壁でぐるりと囲い、その上は白い塗り壁、屋根はきっちり三角で、屋根瓦が鱗のように並んでいる。

 目にして最初に見つけた黒塗りの一枚扉を、錠が掛かっているかも、扉の素材が何であるかも確かめず、全力で蹴りを入れる。

 くぐもったような金属音が扉の向こうで間延びする。どうやら鉄らしい。普通なら骨折か捻挫ものだが、日比野の靴は中に鉄板が仕込まれてるから問題ない。少ない小遣いはたいて買ったおよそ一万円のスニーカー安全靴だが。今この場においては粗悪なマスターキーである。力任せに、八つ当たりというより最早狂った勢いで蹴りつける。

 やがて反響音とは別にバキン、と何かが割れる音がする。扉を壁に繋ぐ蝶番が壊れたようだ。そして同時に、微かな悲鳴を聞いた。

 一瞬動きを止め、助走をつけて扉に体当たりする。バキンッ、ともう一つの蝶番が外れ、扉が倒れる。


 室の中に月明かりが射し込む。人かと目を見張ったのは、赤い着物の掛かった衣紋掛けだった。到底振り回せるとは思えない薙刀が三本と、祭で巫女が振っている神楽鈴。日比野には用途のわからんものまで整然と並べられている。最奥に、小さな棺のような、大きな衣装箱のような白木の箱がある。人の姿はない。しかし、日比野の耳はその奥で息を飲む音を確かに聞いた。


 荒れた呼吸を整えながら、ずかずかと影を広げ、木箱に手を掛ける。やけに心臓が騒いでいた。さっきの騒動なんか喧嘩のうちにも入らないし、此処に来るまでの石段も日比野にとってはちょっとしたリフレッシュみたいなものだったのに、どうにも気味の悪い息苦しさが肺に絡みつく。

 それでも木箱を開く手つきは慎重で、知らぬ者が見れば、神に祈りを捧げていると勘違いしたことだろう。中を覗き込む目は鬼かヤクザのように血走っていたが。


「…………よお」


 箱の中で胎児のように体を丸め、両手で口を押さえて横たわっていた彼が、涙で薄く膜を張った瞳を大きく見開き、ニタリと笑う日比野を見上げていた。決壊した涙が眦を伝い落ちる。


「………ふ、」

「あ゙?」

「…………ざっっっけんなよおまえぇえええっ!!!」


 怒号、というよりも殆ど慟哭に近い。日比野はキィンッと響く耳鳴りに目を細めた。



「普通に開けろよ!!!なんで蹴んの!?その手は飾りなの!?バカなの!?バカだよおまえ!ばか!!」


 ヒステリーのように叫びながら両の拳で叩いてくるが、動転しているのか元から弱いのか、全く痛くない。日比野からすれば幼児か?と疑うほどの威力である。幼児と接したことないけど。

 それにしても、ここまで取り乱す高木はレアだ。お前泣けたんか。しげしげと眺めつつ答える。


「だって開かなかったし」

「外開きなんだよばああああか!!!」


 再びキィインッと耳鳴りがする。お前声帯のほうが攻撃力あるぞ。

 一方的に怒られることには全く納得いかないが、スコールか滝の如き勢いで喚き散らす高木に、日比野が不満を洩らす余地はなく、ただひたすら聞き役に達したのだった。

 暫くそうして叫び続けた後、すっかり枯れきった声で「無事で良かったよ」と呟き項垂れるので、日比野は自分が怒るチャンスを完全に逃してしまった。遺憾である。


「……あー時計な、返すか?」

「いや、いいよ。持ってて」

「そうか」

「壊れたら一生かけて弁償してもらうから」

「こえーよ返させろよ」


 日比野の功績によっていくらか開放的になった室内だが、探し物をするには未だ光が足りない。高木が室内を照らすべくタブレットを取り出した。


「、なに?」

「なにが?」

「いやこっちガン見するじゃんと思って」

「今さらだろ」

「そう、え?」

「つかここ何しに来たんだっけ?」

「剣だよ実物の。探そうとしたら君が来たんだ」


 君も探してよ、という高木に日比野もライトをつけ室内を巡る。見かけ通りと言うべきか、中は学校の体育館ほどの広さがあり、そこに品物のように丁寧に並べ置かれたなんらかの貴重な物たちは、一つ一つ調べて回れば半日は掛かるだろう。


「剣ってあれだよな。フツーの」

「フツーの。まあ、うん、フツーの」

「日本刀的な?」

「うん。まあ、いや西洋的なのかもしれないけど、多分日本刀的なのだと思う」

「思うって、画像とか見てねえのかよ?」

「うるさいなぁ、とにかく剣だよ。デカい刃物」

「こんなん?」

「そんなん。は?いや刃先向けんな」


 刃渡り八十センチほどの抜き身の太刀を見せると、高木は憤慨した様子で顔を背け、けれど恐る恐る覗き込んでくる。


「………なんか、現役ってカンジだね?」

「んだそれ、つかこれで合ってんのかよ」


 確かめた壁には刀掛けがあり、他にも二振りの刀が刃を剥き出しにして飾られている。日比野が手に取ったのは、とりわけ一番刃の長い刀だ。


「ちょっと待って、たしか、刃の側面に蛇の絵が彫られてるってあったような……っ、だから刃先向けんなって!側面っつったろが!」


 光を当てると、確かに薄らと蛇のような文様が見える。


「っしゃ当たり」

「……使ってないから、もっと錆びたりとかしてるもんだと思ってた」

「そりゃ、保管されてんなら管理もされてんだろ」

「めっちゃ斬れそう」

「まあ、刀だからな」

「そうだよね、刀だもんね」

「………………で?」

「え?」


 日比野はすう、と眼を研ぎ澄ませた。


「お前、今嘘考えてたな」

「まさか、説明する順番を考えてたんだ」

「言っとくけど、次嘘吐いたら殺すからな」

「次って、いやそれ持って言うと説得力増すね?」


 刀よりも鋭い眼光に、高木は明後日の方向に視線をやった後、へらりと笑って両手を打ち鳴らした。


「取り敢えず、現場に着いてから話そっか」

「現場?」

「儀式するとこ。今は舞殿って専用の舞台があるらしいんだけど、多分、僕達が行くべきなのはそこじゃなくて、実際に鬼の首を切ってたとこだ」


 つまり元処刑場に行くわけか。薄ら寒さを覚える日比野は、自身が手に持つ刀が実際に処刑に使われていたものだという自覚が足りない。


「それってどこだよ」

「本殿の地下。実際に神が居るとされているところだ」

「山降りんの?」

「うん。ただ戻らずにまっすぐ行くよ」


 参道は、宝物庫で終点ではなかった。宝物庫を出て裏手側に回ると、聳える広葉樹林の隙間を縫うように道が伸びている。蛇行した道は舗装されておらず、参道というより山道だ。



「この先の麓に本殿があって、そっから地下の泉に繋がってる。位置的には、多分」


 高木の指先が宙をかき混ぜ、下を向く。


「真下か」

「エレベーターとか、あればいいのにね」


 この状況で密室に入りたがるお前の神経がわからん。


「どうやって知った」

「え?ああ、書いてたんだよ。パンフレットに」

「そうか」


 刀はどちらが持つかという話になった。というより日比野がどうするともちかけたのだが。

 高木は「君が持っていて」と言いつけ、日比野が傍に架かっていた鞘を見つけ刀身を納めても、決して触れようとしなかった。


「言ってなかったけど、鬼を斬るのは君に任せたいんだ」

「そりゃ俺もそのつもりだけどな。むしろ、」


 お前にそんなこと出来るわけない。口をついて出そうになった言葉を、日比野は寸でで堰き止めた。


「どうしたの?」


 一際強い風が吹いた。髪を乱した高木の背後には、やけに大きな月があった。


「お前は、高木獅郎だよな?」


 我ながら突拍子もない言葉だと思ったが、高木はちゃかすでも気味悪がるでもなく、ただじっと日比野を見詰めた。


「手、出して」

「は?」


 刀を持たないほうの手を掴まれ、強く握られる。


「いっ、いてえいてえ何すんだおめ!?」

「大丈夫だよ」

「はぁっ?」


 あたたかい。そんで硬い。何故か抱き締められた。身長差のせいもあって、顔面が胸板にあたる。お前硬い。


「僕が絶対に君を助けるから。日比野大和は安心して高木獅郎を信じていいんだよ」


 肉づきが悪いせいか、薄っぺらい胸板から伝わる熱は胎内のように温かい。トクン、トクン、と脈打つ心臓が、子守唄のように頭を揺らす。

ぶるり、と体が震える。強ばりが解けていく。やさしい海に溺れるみたいだ。

 熱が完全に同化しきらないうちに、高木は身体を離した。


「行こう」


 人の気も知らないで。呑気にカッコつけたこと言ってんじゃねえよ。と、余程言ってやりたがったのだが、熱にのぼせた頭では口撃する力も出ず、ただ「おう」とのみ応え、包まれた手を握り返した。


「っ、いたいたいたいたいたいたいたいたい!!」

「バァーーーーカ」

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