第3話 調子に乗りやがって。





 問題を先送りにすることは、必ずしも悪いこととは限らない。


 テストで解けない問題に当たったときにどうするか?

 後回しにして、簡単な問題を優先する。そういうことだ。


 この場合、原因の究明は後回し、帰路に着く方法を最優先で見つけ出す。


 どうやって見つけるか?


 虱潰しである。






 ひとまず、一旦雑木林に入る。50mほど進んだところで、タブレット画面をタップする。


 圏外。知ってた。


 ものは試しに再起動してみる。


 圏外。ですよね。


 次に、互いの荷物を確認する。道無き道を進むのだから、役立ちそうな道具があれば共有したい。


 高木の所持品は、タブレット、二回分のバッテリー、腕時計、ミネラルウォーター500mm、絆創膏と消毒液が入った応急セット、筆記具、パンフレットに行程予定表などの紙、とそれを挟んだクリアファイルとバインダー、開封済みの袋の飴、財布。


 日比野の所持品は、開封済みのサイダー500mm、テーピング、シャーペンと消しゴム、二、三枚分隙間の空いた板ガム、財布、石四つ。


 なんで石。幼稚園児かよ。今日の思い出に拾っちゃったのかよ。

 つかマジでタブレット持ってないのコイツ。信じらんねえ。


 息を吐き出し突っ込みを堪える。今言ったってしょうがない。

 手首に巻いていた腕時計を外し、日比野の前にぶら下げる。


「なんだよ?」

「横のツマミあるでしょ」

「はぁ?ああ」

「反時計回りに回してみて」

「………」


 日比野が摘みをいじると、文字盤から光が飛び出し、日比野の目を直射した。


「ヴォッッ!?」

「ライト機能付きなんだ」

「お前、殺すわ」

「あんまり遠くまでは照らせないけど、ないよりはマシでしょ」


 言いつつ、自身はタブレットのライト機能を点け、胸ポケットに差し込む。これで両手は自由に使える。横目に見ると、日比野がばっちいものでも触れるような手つきで腕時計を眺め回している。


「……壊さないでね?大切なものだからさ」

「………貸すなよ、んなもん」


 文句を垂れつつ、日比野はじっと文字盤を覗き込む。中では三本の針が今も延々ぐるぐると回り続けている。


「なんか、すっげぇイヤ」

「我慢して」


 僕だって時刻無限大タブレットとか触りたくもねえよ。圏外なのに着信鳴ったらどうしようとか思ってるよ。

 ついつい思考が嫌な方に引っ張られてしまう。考えないようにしていたのに。首を振って邪念を払う。


「とにかく、手分けして帰り道を探そう」

「は?」

「君はこの林を真っ直ぐに進んで。僕は神社に戻って誰か」

「まてまてまてまてまてまて」


 珍しく焦った様子で遮るので、高木は一瞬何か化け物でも──幽霊とか異形とか──出たのかと身構えたが、日比野が睨んでいるのはどう見ても自分である。


「どうかした?」

「お、ま……っ、ホンットバカ!」

「………は?」


 威勢のいい罵声だ。思わず素の表情になる高木にも気づかず、日比野は三白眼をくわりと見開き轟々吼える。


「なんでこうなっちまったのかも、誰が関わってるのかもわかんねえんだぞ?二手に別れるのは悪手だってわかるだろうが!」

「それは、……そ、そうかな?」

「『そうかな?』じゃねえ!とにかく別れるのはナシだ。常にお互いの状況がわかる距離にいろ。いいな?」


 日比野の吠え声が止む頃には、高木も意味を理解して薄らと笑みを浮かべる。


 なにが、いいな?だ。調子に乗りやがって。こっちは自分から離れればワンチャン帰れるかもしれないから誘導してやってるのに。察し悪いな。


 とはいえ、万一喧嘩になったとして、コイツに勝てる気がしない。


 小耳に挟んだ程度ながら、暴力沙汰の噂は、それなりに高木をビビらせていた。


「そう、それじゃ、君の案に従うよ」

「当たり前だ」


 従順に頷く高木を興味なさげに一瞥すると、自身の荷を掴むような自然な動作で此方のショルダーバッグのヒモを掴んでくる。おいまて、まさかまた引っぱってくんじゃないだろうな。

 全くその通りであった。


 とにかく一旦この木々を抜けてみようという話になり、二人は雑木林の中をひたすら真っ直ぐに進む。バッテリー節約のため、日比野が時計片手に先導し、高木が後ろ手に牽かれる格好である。迷子ヒモかよ。

 信用されてないな。まあお互い様か。




 そうして、直進を続けてかれこれ一時間。日比野が足を止めた。


「お前さ、今なに考えてる?」

「多分、君と同じこと」


 生温い風が頬を撫ぜる。空をも覆い隠さんばかりに鬱蒼と生い茂る木々は、延々ざわざわと木の葉を擦れ合うばかりで、一向に途切れる気配がない。


「非常識なことを言うけれど、この林に終わりはないんじゃないかと思う。僕はこういう怪奇的なのに詳しくはないんだけど、よくあるホラーの王道で考えるなら、このまま歩き続けていても、そのうち鳥居の前に戻るか、永遠に同じ景色が続く。と思う」

「じゃあどうする」

「……そうだね、とりあえず、現実うしろを見てみよう」


 二人が同時に背後を振り返る。そこには約一時間ほど前に通り抜けた鳥居門が聳え立っていた。


 帰れるのか?


 ふと過ぎる疑問に、じくりと毛穴から滲むような恐怖が垂れる。

 日比野がチラリと横目で見遣る。


「少し時間いるか?」

「…………いや、大丈夫。多少は慣れてきた」

「そうか」


 落ち着け落ち着け。とにかく、出来ること、わかることから一つずつ。しっかりしろ。


「……………入るしかない」

「あからさまに誘われてるけどな」

「かなり強引にね。だけど他に道がないんだから、しょうがない」

「入って、そっからどうする」

「誰か大人の人を……て思ってたんだけど、この状況で普通の人が出てきてもさ、近づきたくないよね」

「まあ九分九厘敵だろな」

「とにかく、原因を調べてみよう。パッと出しで思いつく方法じゃ、解決しないってわかったんだ。一旦原因を探ってみて、そこから何か帰る方法が分かるかもしれないし」

「原因がなかったら?」

「そのときはまた別の方法を考える」


 最後投げやり気味な返答に、日比野は鼻を鳴らした。「まあ、そうだな」



 原因は、十中八九あのガキだ。おかしな出来事はみんなあのガキに触れられてから起きた。

 多分、というか間違いなく、普通の子供じゃない。会話による説得や、脅しや拷問が通じる相手とも思えない。あれは多分人間じゃない。幽霊とか化け物とか、そういう類いのものだ。


 どうにかしてあのガキモドキから要求を聞き出すか、あるいは見つけだす必要がある。向こうの望みが此方に叶えられるシロモノかどうか、上手く出し抜けるかはその後だ。


「で、いい加減離してくれる?外ならまだしも、流石に敷地内ではぐれたりはしないでしょ」


 苦笑を浮かべ、冗談めかして言った高木に、日比野はむっすりと黙り込んだまま睨む。


「……あー、日比野さん?」

「俺の言ったこと覚えてるか」

「え、うん」


 高木は明後日のほうを見た。


「……『常に、お互いの状況がわかる距離に』、だっけ?」

「そうだ。お前ぼんやりしてるとこあるからな。絶対に忘れるなよ」


 そんなことないだろ?


 ようやく役目を終えた迷子ヒモを肩に掛け直し、鳥居の向こう側を伺い見る。

 見る、とはいえ、林の中と同様、夜が濃く、時計に付属のささやかなライトでは脇の鳥居に生えた苔を確かめるのが精一杯だ。


 耳をすませる。木の葉の擦れ合う音がする。それ以外には何もない。虫の音や、鶏の羽ばたきさえ聞こえない。

 まるで自分たち以外はみんな死んでしまったような静けさが、二人の周囲に満ちていた。


「行こう」

「おう」


 本当にこれで正しいのか。迷いは背中についてまわる。そいつを一思いに断ち切るように、二人は再び境内の中へと足を踏み入れた。








 赤い着物の少女が土を捏ねている。

 水と土と何かの根を混ぜ、ぐちゃぐちゃと捏ね回している。高木は傍に寝っ転がって、その様をぼうっと眺めていた。


「できた」


 少女の手が、器の中から泥まみれの根を掴む。


「召し上がれ」


 土と、錆びた鉄のような臭いを嗅ぎながら、高木はそれを口に入れた。




 ──dislike──




「おい!しっかりしろ!!」


 ぐったりとして動かない高木を背負い、日比野は廊下を疾駆する。



 クソックソッ、クソッ!!


 角を直角に曲がり、速度を緩めないまま後ろを一瞥する。角からぬるりと現れたのは、法衣を纏った老人、というよりも乾涸びた骸骨だ。銅色の錫杖を持ち、一度歩くごとにそいつを床板に打ちつけシャン、シャンッ、と音を鳴らして歩いている。

 そう、歩いている。にも関わらず、一向に振り切ることが出来ない。人ひとりを抱えているとはいえ、ほぼ全速力を維持している日比野に対し、そいつは紐で繋がれたように一定の距離から離れない。


 ちくしょう、あんなホネ野郎、ぶん殴っちまえば一発なのに。


 恐怖や焦りよりも、反撃できないことへの苛立ちで腸が煮えくり返る。


 何故反撃出来ないと解るのか。無論、試した後だからである。




 十分程前の出来事を遡る。


 境内の中は、はじめに来た時とは随分様相を変えていた。

 まず社務所がない。順路に敷かれていた石畳もなく、小さな池や花などが植わっていた庭もない。代わりに、空き地のスペースがやけに広くある。奥に見える拝殿は小さく、そのうえ少し傾いていた。脇にあったはずの参道も消え、誰かが繰り返し雑草を踏みしめてできた隘路が山の中に続いている。

 全体的に草やら枝やらが自由闊達に生い茂っており、端的にいうと、荒れ果てていた。

 まるで昔の、生物の流転だとか、栄枯盛衰だとかを美としていた頃のあり様のような。


 拝殿から、元参道、現隘路とは反対の方へ行った先の奥に、堂のような、屋敷のような建物がある。大雑把に様相の変わらぬパンフレットによれば、私有地とある。

「探してるのは実物じゃなくて説明書だからね」と、本殿でも祭具殿でもなく、おそらく神主だか宮司だかの自宅だろうそこに侵入しようと言いだしたのは高木である。


 玄関チャイムと思しきボタンを押す高木を尻目に、如何にも昔の住宅らしい、防御力ゼロのガラスの玄関扉を蹴破ったのは日比野である。


「どうして?」

「こっちのが早い」


 堂々と玄関に侵入し、土足のまま廊下に上がる日比野に、後から追いついて来た高木は、眉を寄せて葛藤した後、続けて上がり框に足を掛けた。


 夜の帳は深く、屋敷の隅々に暗幕を掛け、そこに横たわる静寂は、鼓動の音さえ咎められている心地がする。じくじくと染みるような寒気があった。


「……誰もいない?」

「ああ……いや、」


 高木の問いに、日比野が肯定しようとした矢先、シャン……と何処からか、甲高い鈴の音が響く。


「なあ、なんか今音が」聞こえなかったか、と振り向いた先には、廊下に上がったところでぴたりと動気を止めた人影がある。ライトを翳すと、どこか驚いた表情の高木が、徐々に目蓋を降ろしながら、床に崩れ落ちていった。


「おい」


 シャン、鈴の音が響く。


「お前、なにした?」


 気絶した高木の向こう側に、茶褐色の法衣を纏った老人がいる。いや黄ばんだ頭巾から覗く相貌は、老人というより、乾涸びた骸骨だ。

 両目のあたりには、ぽっかりと穴が空いており、それが生きた人間でないことは明らかだった。



 流石日に三度喧嘩を吹っ掛けられているだけあって、日比野の反応は速かった。

 パーカーのポケットからペットボトルのキャップ程の大きさの石を取り出し、骸に向かって投擲する。


 これを見せたとき、高木はなんでだかさっぱりわからんような顔をしていたが、日比野からすれば、この状況で無防備を貫く高木のほうこそなんでなのかわからん。


 標的に実体さえあれば、石は見事に骸の眉間に命中していた。

 玄関を抜けた先の地面で、カン、コッ、カン、と転がていく音を聞く。

 ……すり抜けた?


 法衣の骸骨は、日比野にには見向きもしなかった。ひれ伏したままピクリとも動かない高木を見下ろし、錫杖を高く掲げる。

 舌打ちを零し、重心を低くする。足に力を溜め、床板がミシリ、と悲鳴をあげるほど強く踏み込み、跳躍する。

 開いた瞳孔で骸骨を捉え、獲物を捕らえる猫の如き鋭敏な動きで的確に喉元に掴みかかる。


 しかし、指先は骸骨の首筋を通り過ぎる。掲げられていた錫杖も、薄汚れた法衣さえ、ホログラムに飛び込んだように感触がなく、必然、的を失くした両足はダンッ!と板の間に着地する。


 シャン、と鈴の音が響く。その中に微かな呻き声が混ざる。高く掲げられた石突きが、高木の首筋を刺し貫くように打ち据える。苦悶の声が日比野を責める。


 どうしろっていうんだよ。


 どうやら、骸骨は本当に日比野のことなど眼中にないらしい。再びゆっくりと錫杖を掲げる姿に、考えるよりも先に、日比野は骸骨の背に突っ込み、そのままひれ伏す高木を担いで走り出していた。






 ふざけんなよ。なんで向こうは触れんのにこっちは触れねえんだ。不公平すぎるだろ。


 廊下を全力で駆け抜けながら、日比野は胸中で散々悪態を吐いた。


 殴られたことも蹴られたことも、死なない程度の怪我なら人より多く経験している自信がある。そしてその度に利子をつけてお返ししてきた。折るのにも捻るのにも躊躇はない。しかし、触れられないのでは意味が無い。

 反撃できないのなら、逃げる以外に方法はない。なのに逃げられない。どういう原理か、骸骨は延々背後にピッタリ寄り添って距離を詰めてくる。

 原理などないのかもしれない。


 クソッ、クソ………ッ、ちくしょう!!!


 どうにもおさまらず、背負い投げの要領で、高木を床に叩きつける。


「……ァ、…ッ」

「おい高木!高木獅郎!!おきろ!!!やられっぱなしでのんきに寝てんじゃねえっ、喧嘩売ってくるやつから逃げんじゃねえ!へらへら笑って流してんじゃねえよ!!!」


 胸倉を掴み上半身を揺さぶって吼えたてる。

 断続的に響く鈴の音など既に日比野の耳には聞こえちゃいない。フラッシュバックする嫌悪やら嫉妬やら憎悪やらがごちゃまぜになって、全身が燃えるように熱い。


「一発殴るやつは次も殴ってくんだよ、いっぺん調子乗ったやつは二度でも三度でも繰り返すんだよっ、手前で始末しねえと終わらねえんだよ!!!」


 渾身の力を込めて、気絶している額に頭突きする。すっかり頭に血が上った日比野には、最早現状の危機に手が追いつかない。只荒々しく、咽ぶように息を吐いた。鈴の音が近くにある。


 気がつくと、柔い手のひらが頭を這っている。頭部の輪郭を確かめるように、髪筋に沿って滑り降りては、また頭の上にゆっくりと重ねられる。


 頭から冷水を浴びせられたようだった。これほどの激情をもってしても、彼の心は凪いだままで、ただ美しく、日比野に応えてはくれなかった。


「いいなぁ、お前。汚いもんなんかひとつもなくってさ。ずるいよなぁ、」


 俺もお前になりたかったよ。


 吐き出した欲望は、なんて浅ましくて穢らしいんだろう。だけど心の底からそう願ってしまう。心の底から、憎んでしまう。

 お前も不幸になればいいのに。


 不意に腕を引かれ、硬い床に手を着く。背後で、何かがバキリと割れる音を聞いた。


「…………は?」


 振り向いた日比野の数センチ先で、法衣の骸骨がカエルのようにひっくり返って上半身を床下にめり込ませている。


 そいつの頭を掴んでいた高木の手がゆっくりと持ち上がる。手の甲からぱら、と木片が零れ落ちる。

 何か。何か変だ。


「たかぎ」


 知らず震えた呼び声に、しかし彼は口を噤んだまま、ただ無表情で此方を見返した。





 ──hate──





 パチリ、目蓋を開く。途端、脳味噌がぐわんと揺れ、激しい痛みが駆け抜ける。


「……………ッ???」

「起きたか、カス」


 はい、カス頂戴しました。

 胸ポケットのライトは消えていた。視界は一面真っ暗だが、たった一言で知らない奴じゃないと安堵出来るんだから口の悪さも案外捨てたもんじゃない。

 それにしても頭が揺れる。平衡感覚がぐらぐらして、視界がチカチカする。

 何か酷い夢を見た気がするが、夢というだけあって、何一つ思い出せない。ただびっしょりと汗をかいて気持ちが悪い。そして夢見のせいか、頭が痛い。身体が重い。吐き気がすごい。

 襲い来る苦渋にピシリと硬まっていると、右隣から深々と溜め息を吐かれる。おはようお前。近いよお前。


「血は出てない。たんこぶもない。中が傷ついてたらわかんねえが……まあ、陥没とかしてねえし、大丈夫だろ」


 陥没って。基準おかしいだろ。

 波のように押したり引いたりを繰り返す吐き気に、気持ち悪、と呟くと、「脳震盪だな。ほっときゃ治る」と返される。やたら慣れてんなオイ。


 背中には畳の感触がある。声の方とは反対に手を伸ばせば、ざらざらとした壁の感触がある。屋敷の中の、何処かの一室にいるようだ。日比野のさほど緊張していない様子からして、おそらく今は安全だ。




「……なんかあった?」


 言ってから、かなりマヌケな質問だと思う。日比野もそう思ったのか、唸るような声で返される。


「坊さんみたいなカッコの、変なやつが襲ってきた」

「変なやつ?」

「多分人間じゃない。つか、間違いなく人間じゃねえ。そんで、お前がそいつにやられて、俺がお前を抱えて逃げた」

「そ、それは、それは」


 高木はつっかえつっかえ礼を言う。どうも大変ご迷惑を。

 捨てていきゃ良かったのに。


 思ったよりもお人好しなんだろうか。普通そこまでの危機に瀕していたら、誰だって我が身を優先するだろうに。どうやらコイツは本当に僕を見捨てる気がないらしい。


 参った。これじゃ本当にただのお荷物だ。


 仰向けになったまま額を押さえ、ぐるぐる揺れる頭をどうにか働かせようとするも、詮無いことばかりが次々と降って沸いては零れ落ちていく。こりゃダメだな。

 何やら、じっと見られているような気がする。しかしこうも暗くては確証がない。日比野の顔があるだろうところを凝視し始めると、一呼吸分の沈黙の後、日比野は口を開いた。


「それと、迷った」

「まよ、……は?」


 立ち上がる気配がする。のそのそと遠ざかる足音がして、スパンっ、と何かが開く。振り返る影に、ふらつく頭で這いずるように音の方へ向かう。


 開かれたのは、扉のようだ。指先が床を横切る溝に触れて、そうだと気付く。首を伸ばして、扉の外を見る。なんとなくの陰影から、目の前が壁であり、おそらく廊下が左右に伸びているのだろうな、というところまではわかる。が、それだけだ。


「まっくろ」

「トリ目かよ。ライト照らせ」

「危なくない?」

「大丈夫だ。この辺にはいねえ」


 胸ポケットから取り出したタブレットを操作し、ライト機能を起動する。掴んだ手を最大限伸ばし、廊下の先を見る。


 板張りの廊下は、しんと静まり返っている。鳥居をくぐるときでさえ木の葉が擦れる音くらいは聞こえていたのに、今はそれも聞こえず、本当に何も生きていないような錯覚に襲われる。或いは、水底に沈んでいるような。

 廊下の先は、延々と、ただ終わりなく廊下が続いている。とはいえ、見える範囲は限られているが、少なくともタブレットのライトが照らしきる約五十メートル先までは、そのように見える。


「……まっくろ」

「基本的にはどこまで行ってもこんなカンジだ。たまにココみてえに部屋があったり、道が曲がってたりもするが、大概一本道で終わりがねえ」

「おわりがない?」

「感覚的にはさっきの林ん中みてえだが、こっちはマジで終わりがねえ。何回か逆走も試したが、玄関に辿り着けなかった」

「つまり、」高木はライトをうつ伏せにし、気まずげに日比野の声がするほうを見た。「家の中からも出られなくなったの?」


「そういうことだな」

「まじか……よく逃げられたね」

「……え、ああ……」


 僕だったら絶対途中で追いつかれてたな。

 感心して言った言葉に、しかし何故かイマイチ切れの悪い反応が返ってくる。


 なんだ、照れ屋か?


 ライトを翳すと、渋い面した三白眼がいる。


「何その顔?」

「お前がライトぶつけるからだろが」

「あ、そっか」


 日比野は面倒臭そうにぼりぼりと頭を掻き、「で、どうする」と高木を睨む。


 事態は着々と悪いほうへ進んでいる。


 だが、それを口にしたところで恐怖が加算されるだけだろう。


「変化があるということは、着実に進んでいるということだ。相手が人にしろそうでないにしろ、僕達の行動範囲をこの家の中に限定したということは、この中に次の手がかりがあるってことだ。だから進もう。とにかく歩き続けて、此処から出る手がかりを見つけよう」


 廊下の先を見据える高木に、日比野が言う。


「閉じ込めるだけが目的だったら?」


 ふ、と息を吐き出して答える。


「そんときは壁を壊そう」


 きっかり一呼吸分の間が空いて、クツリ、クッ、クッ、と苦しげな音を聞く。


「……日比野?」

「……っ、な、……んだっ、……それ、」

「え、それ笑ってる?」

「ちが、ははっ、……なんだよ、爪楊枝のくせにっ」

「つ、……はあ゙!?」


 思わず、らしくもなく大声を上げる高木に、日比野はますます苦しげに息をふるわせた。背中を曲げている姿が容易に想像出来る。


「しっ、失礼だぞ、おいっ、日比野!」

「はははっ、……っ、かった、わかった。そんときゃ俺がやってやる」

「ちょ、………は?」

「俺が壁を壊してやるよ」


 ああ、コイツなら出来るだろうな。などと考えてしまうのもシャクで、「もういいっ、さっさと行くぞ!」と不満を足音に乗せて板張りの廊下を踏んづけた。



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