番外編 再凍結
夏は、その日に外出していたか、ずっと家にいたかで、お風呂の億劫さのレベルが全然違ってくる。
外に出ていたら、汗をかいているから一刻も早くお風呂に入りたい。髪も身体も全部洗いたい。
でも1日中家から出ないで、エアコンの効いた部屋で過ごしていると「わざわざ暑い思いするのもな……」と、入浴が面倒になる。
とはいえ入らなかったら入らなかったで、夏は何となく嫌な感じがする。
そういうこともあって、今日は1日中、家で課題をしていた私は、自分からお風呂の順番を最後にしてほしいと宣言した。
うちでは、お風呂に入る順番はいっさい決まってない。しいていえば、すぐお風呂に入れる人順だ。
今日はお兄ちゃんがさっと入って、そのあとお母さんが入った。電車の遅延でお父さんの帰りが遅れ、今、お父さんはみんなより二時間遅れの夜ご飯の真っ最中。ほんとうは私が次に入り、お父さんが最後になる。
でも、あともう少しで来週提出の課題が終わる。私には課題を早めに終わらせて、おすわりぬいぐるみを空高く羽ばたくぬいぐるみに改造し、怪我をさせない程度に兄を襲撃する使命がある。
お風呂の順番について、お父さんは「舞がいいなら」と頷き、何の問題もなく今日の入浴順は決まった。
なのに。
「先入ったら」
リビングで数学の課題を片付けていると、いつのまにか隣に兄が立った。お風呂の順番についてお父さんに言ったとき、兄はその場にいた。でも、聞いていなかったのかもしれない。
「お父さんの後でいいよ」
「先入りなよ」
兄はその場から動かず、さっきよりそっけない調子で言う。
「なんで」
私が先に入ることで、なにかあるのか。手を止め課題から顔を上げると、真っ黒で深淵のような──不満を滲ませた兄の眼差しと視線がかち合た。
「舞は湯船浸かるでしょ」
「え……うん……」
「なら汚いじゃん」
兄は死んだような目できっぱりと言い切った。
「汚い?」
兄は一番最初にお風呂へ入る時だけ、湯船に浸かっている……ような気がする。時間的に。
2〜4番目くらいだと、シャワーだけらしく、すぐ出てくる。最後だと自分が入る前に「お風呂のお湯抜いておいていいよ」と、夏冬問わず言う。
小さい頃は、旅館に泊まりに行くと必ず家族風呂を借りて、家族一緒に入っていた。プールや海にもよく行っていたし、そもそも学校の授業で水泳もやっている。
同じ水中に誰かと入ることを汚いとは思ってそうだけど、ここまでとは思わなかった。
でも、おかしい。
そもそも兄は今日、一番にお風呂に入っている。二番目はお母さんだった。汚いもなにもない。もう入っているのだから。
「何が汚いの?」
「あれ」
兄が視線を移す。その先には、ここから少し離れたダイニングテーブルで夕食を食べるお父さんの姿があった。
今日のメニューは、豚の生姜焼きと、冷蔵庫で冷やした茄子の煮浸し、お豆腐がたくさん入った冷や汁だ。温め直した生姜焼きを頬張るお父さんは、私達に気づくと、不思議そうに首をかしげる。
「なんでもないよ。夕食、美味しかったねって話ししてただけ」
兄は無邪気な笑みを浮かべた。
さっき、死んだような目、冷え切った声で「なら汚いじゃん」と呟いていた兄はどこに行ったのか。
お父さんはジェスチャーで、自分の分を少し食べるか伝えてくる。兄は「大丈夫だよ」と、穏やかな調子で首を横に振ったけど、何一つ大丈夫じゃない。
「ほら、入ってきなよ」
兄は、お父さんに背を向けこちらを見下ろしてくる。
「お父さんの何が汚いの……?」
「ぜんぶ」
「反抗期の女子高生みたいなこと言う……」
「……」
兄は返事をせず、無言で私を見てきた。次に私が広げていたノートに目をやると、そのまま何の躊躇いもなく片付け始めた。
「えっうそ! 何!」
「お風呂入る前にちゃんとお片付けしな」
「いやいやいやいやおかしいおかしいおかしい」
強制的に片付けを始めてくる兄に抵抗していると、それまで冷蔵庫を整理していたお母さんが困った顔をした。
「舞、片付けくらい自分でしないと、お兄ちゃんにやってもらってないで」
今、確実に私が兄の凶行の被害に遭っている形だけど、傍目からは兄に片付けてもらっている妹になってしまう、というかなっている。
「待って、違うのこれ、お兄ちゃんが……」
「俺は大丈夫だけど……確かに俺がいない時、困るね」
兄は至極穏やかな顔をしていた。狂ってる。
「分かった、入る。入りますから。ごめん、お父さん! 先お風呂入っちゃって良い?」
お父さんに声をかけると、冷や汁を飲んでいたお父さんが、ジェスチャーで大丈夫と示しつつ──むせた。お母さんが助けに入るけど、兄は手伝うことはせず私に「はよ行け」と冷ややかな視線を注いでくる。
お父さんを助けに行きたいけど、どうなるか分からない。私はノートを片付け、お風呂場に向かった。
さんざん急かしてきたから、なにかお風呂に細工でもしていたのかと思ったけれど、特に何もなかった。そのままお風呂をすませた私は、髪を乾かしたあと、洗面台に立っていた。
そのまま化粧水を取って、手に広げる。
中学に入るまではなにもしなかったけど、修学旅行でゆかりちゃんがしているのを見かけてから、するようになった習慣だ。
前の人生では体質的にできなかった。どんなにいい成分であっても私の身体は戦う敵とみなしてしまうからだ。
だからか加減がよく分からない。こんな感じかな、とつけてなんとなく鏡を見ていると、ふっと横に誰か──兄が立った。
「それなに」
兄はじっと私を見る。
「え、化粧水だけど」
「なんでつけてるの」
「え……ひ、日々のため……」
前にゆかりちゃんが、「毎日の積み重ねだから」と言っていた。ゆかりちゃんは全部可愛いけど、特にほっぺたがかわいい。つるつるもちもちしてて。だから、最高に疲れるとよくいたずらしてしまう。
「ふうん」
兄は化粧水で濡れる私の手を見た。そのまま私の手首を掴むと、私の手を自分の頬にあてる。
「こういう感じでつけるの?」
「いやそうだけど自分でつけるものですけど……!?」
「つけたことないし」
そんな感じはする。化粧水や日々の手入れを一切してない。でも、兄の肌は誰より綺麗だ。黒幕補正か分からないけど。
「化粧水くさい」
兄は私の手をコットン代わりにした果てに、しっかりクレームを入れてきた。唖然としていれば、「終わった?」と私を見る。
「何が」
「それつけるの」
「はい」
「なら、こっち」
兄は私の腕を掴んだまま、リビングへ向かっていく。私はされるがまま兄の後を追う。もうお父さんはお風呂に入っているし、お母さんは寝室に行ったようで、リビングにもダイニングにも誰もいない。兄は私を連れキッチンに入ると、冷凍庫を開いて棒アイスを二本取り出した。
「食べよ」
兄はソファに座ると私から手を離し、アイスの袋を開いて一本こちらに渡してくる。受け取りながら私は兄の隣に座った。ぱりぱりと、兄が自分の棒アイスのビニールを切る音が部屋に響く。
「あ、ビニール捨ててこようか」
そう言って立ち上がろうとすると、兄は首を横に振った。
「駄目」
「な、なんで」
「アイス溶ける」
兄は私の腕を押さえつけつつ、手を繋いできた。
「捨てる間には溶けないよ」
「溶けるよ」
少しだけ兄は幼さを帯びた声で言う。
「……もしかして、お風呂急かしてきたの、アイス……一緒に食べたかったとか?」
おそるおそる問う。兄が普通じゃないことは今に始まったことじゃないけど、今日は……少し……、
「……舞はどう思うの」
「え」
「舞が、どう思うか。答えはそれでいいよ」
突然の難題が提示され、私は兄の顔を凝視する。
兄は先程の穏やかそうな顔でもない、死んだような目もしてない。黒辺誠としての雰囲気もない。
──ああ、この表情。
溶けていくアイスを食べながら考えた末に、ふっと思いついた。
答えが合っているか、間違っているか、分からない。そもそも正解なんてないかもしれない。でも自分なりに考えて言う。
すると兄は、少し嬉しそうに笑った。
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