番外編 融解

  バレンタインの時期になると、私はいつも悩んでいる。


 兄は小学校の頃から、同じクラスの女の子からも、先輩からも後輩からも沢山のチョコレートをもらっていた。どうやって作ったかも分からない豪華な手作りから、見たこともないような可愛いラッピングがされた高級そうなものまで、とにかく沢山だ。


 あんなに美味しそうで可愛いものを貰っているのなら、私のなんていらないんじゃないか。毎年、毎年思っていたけれど、でも山盛りのチョコレートを抱える兄は、後ろ手にチョコレートを隠した私を見つけると、優しく声をかけてくれていた。


 ──舞からはないの?


 その言葉に「もちろんあるよ!」と答えて、少しだけ不格好なチョコレートを渡すのが恒例行事だった。兄はもらったチョコレートを食べきれない、捨てるのも勿体ないと私に分けてくれて、「舞のは全部食べるからね」と、自分の部屋に戻っていった。私は兄がもらった甘くて美味しいチョコレートを食べて、ちょっとした優越感に浸っていた。


 でも今は、はっきりとわかる。


 兄は私からのチョコレートを受け取ることを引き換えに、楽に不用品の処理をしていただけだった。


「ねえゆかりちゃん。お兄ちゃんをチョコレート風呂に落とそうかと思うんだけど、やっぱり食べ物を粗末にするのは良くないよねぇ……」


「ええええ……食べ物を粗末にすることも良くないし、人をお風呂に落とすのも良くないよぅ、死んじゃうよぅ」


 バレンタインデーまで、あと3日。おろおろするゆかりちゃんを前に、私は大きく伸びをする。放課後の教室は、今日の日直である私とゆかりちゃんしかいない。夕日が差し込む窓の外からは、野球部のかけ声とともに、カーン、カーンとバットがボールに当たった音が規則的に聞こえてくる。


「うわー、岩井全然外さないじゃん」


「岩井くんすごいよねぇ。高校も野球が強いところに行くらしいよ」


 ゆかりちゃんの言葉は初耳だ。岩井が野球部に入っていることは知っていたけど、高校も野球の強いところに行くのか。


「岩井、野球選手目指してるのかな」


「たぶん……舞ちゃんはどこの高校行くかもう決めてる?」


「まだなんだよねぇ……」


 デスゲーム開催を阻止するために大暴れして日々を過ごしていた結果、両親は私の進学先について悩んでいる様子だった。駅やバスを利用した通学手段にすると、私が飛び込み車にはねられてしまうんじゃないかと心配している。私もどこの高校に行くか全く決めていなくて、目先の進路のことで兄への驚き提供の機会が減った分、バレンタインに大きなことをしたい。


「そうなんだぁ……舞ちゃんのお兄ちゃんが行くところは?」


「どうだろう……ゆかりちゃんが行くなら行こうかな」


「えぇぇぇ。ゆかりは無理だよぅ。数学とか苦手だし……科学もうーんってなっちゃうし……」


「出来るよ。勉強すれば大丈夫! それにゆかりちゃん私より成績ずっといいんだから、出来るって!」


「ふえええ、は、話が違うよぅ。ゆかりもっと普通のところにしか入れないよう」


 半泣きなゆかりちゃんの肩を励ますように撫でる。やって出来ないことなんて、そうそう無いはずだ。失敗してもいつか成功するはず。でもこういう、「やればできる論」が兄のデスゲーム開催に該当してしまうと、困るけれど……。


「一緒に頑張ろうね! ゆかりちゃん! 同じ制服着よう! 楽しい高校生活を送ろう!」


「ま、舞ちゃん。ほ、本気……?」


「本気だよ! ゆかりちゃん! 一緒の高校だよ!」


 デスゲームなんて、絶対開催させない。何があっても止める。私はそのままの勢いで、日直の仕事である日誌の記入を終えた。すると、鈍い音を立てて教室の後ろの扉が開いた。


「舞、迎えにきたよ」


 半年後、殺人鬼となる兄が、柔和な笑みを浮かべて立っていた。前におじいちゃんの家でゆかりちゃんに酷いことを言っていたから、変なことを言わないかちょっとだけ警戒してしまう。


「ありがとう……」


「舞ちゃん! 私手芸部のところ行ってくる!」


 ゆかりちゃんは机に置いてあった日誌を取ろうとした。


「あ、じゃあ私日直日誌職員室に出してくるね!」


 でも、私は帰るだけだし、ゆかりちゃんは部活を頑張っているみたいだから、私が出したほうがいい。ゆかりちゃんは少し視線をきょろきょろ動かしたあと、「ありがとう!」と私に手をふり、兄に会釈して去っていった。


「日直あの子と一緒なの? 出席番号違くない?」


「ゆかりちゃんと一緒の日直の子が、休みになっちゃったんだよね。風邪引いたとかで」


「ふぅん」


 兄はつまらなそうに返事をしながら教室へ入ってきて、日直日誌を手にとってぺらぺらめくり始めた。


「進路まだ決まってないの」


「まぁ、考え中みたいな、自分探しの旅の途中だから……」


「そう言ってると何も選べなくなるよ」


 ばっさりと切り捨てるような言い方に、私は思わず兄の顔を見た。兄は無表情で私を見ている。何を考えているかよく分からないけど、前まではもっと、笑顔が多かった気がする。今考えれば、取り繕っていただろう、そんな笑顔が……。


「そういえば、バレンタインが近いけど、チョコ必要?」


 私は兄から日直日誌を返してもらいながら問いかける。チョコレートでいいなら、チョコレートで驚きを仕掛けるけど、捨てられるくらいなら全然別のものにしたい。


「今年はなにか、違うの?」


「場合による! お兄ちゃんチョコ沢山貰ってるし、別のがいいのかなぁ、なんて」


「……チョコでいいよ」


 はぁ、とため息を吐きながら兄はさっさと教室を出ていく。「えー、でもいつもチョコいっぱいじゃん」と様子見しつつ尋ねれば、兄は足を止めた。


「ちゃんと貰うから、ね」


 そう言って、兄は夕日に染まった真っ赤な廊下を進んでいく。その言葉が、チョコいっぱい貰ってるという私の揶揄に対してなのか、それとも今年も不用品の処理を任せるという念押しなのか。


 むしろ全く別の意味合いが含まれている気がして、私は首を傾げながら兄の後を追った。

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