デスゲーム漫画の黒幕殺人鬼に殺される主人公に転生した

 大学三年生の夏、午後に目を覚ますと、アイドルが自殺を図ったというネットニュースを見た。


 果崎あかり。名前と流行りのアイドル、ということは知ってる。なにかのドラマで見た気がするし、ネットのトレンドにのっていたのも見たことがある。


 芸能人たちが「そんな」「こんなことあっていいわけない」「相談してほしかった」と悲しむコメントをSNSで発信して、ファンも動揺しているらしい。


 人が自ら死に近づいたとき、関係者は口々に言う。


 相談が欲しかったと。


 でも相談をしたとて、何になるのだろうか。


 漠然とした腑に落ちなさを抱えながら画面をスクロールしていれば、コメントをしている同期たちは、そのアイドルと仲が良かった形跡もなければ、むしろ当てこすりのような呟きをしていた──なんて炎上系配信者に取り上げられていた。


 過眠により重たい頭を枕に預けながら、皆に好かれて応援されているアイドルだって死にたくなるのだから、僕だって死んでいいだろうと思ったのが二十分前のこと。


 それからベッドのそば、昨日洗濯しようと思い適当に椅子にかけていた服を着て、家を出たのが十分前。 


 僕はバイト先そばの歩道橋へ向かっていく。


 退屈だし、頑張ることにも飽きた。


 そもそも頑張って好転する人生じゃない。


 頑張ってまで生きている意味を感じない人生だった。


 小学校中学校高校、それも2年生の夏ぐらいまでは、耐えられる退屈だった。でも、みんな将来のことを考え始めて、安定を考えるなら公務員だとか、あの大学は就職が強いとか、この学部だと詰むとか、そういう未来の話が増え始めてから少しずつ少しずつ、僕は皆から離れて逸れていった。


 普通に憧れながらなんとか大学生になって、大学に入ってからやっぱり浮き彫りになって、それでもお前は恵まれているほうだと自分に言い聞かせながら生きてきたけど、やっぱり駄目だった。


 生まれも育ちも気質も、すべてが世界と迎合できない。


 一番近い家族とすら無理だった。


 僕は言葉を気にしすぎて、家族は気にしなすぎる、のだと思う。


 結局どちらが普通に近いか分からない。結局、どちらも普通から遠いのだ。


 高校以降は人を家に呼べなくなって、ドラマや映画で恋人を実家に連れていく映像を見るたび諦観が浮かぶ。そんな家。


 虐待はない。育児放棄もない。目立った貧しさはないけれど裕福なわけでもなく、どこかズレている。


 帰りたいとは思えない、安心もできない。


 公園や駅のホームのベンチのほうが安心して、学校のほうが眠れる。ただ、家には帰る。


 母親は僕に微笑みかけるけど、本当に困ったとき頼れない。ペット感覚で僕を育てていて、遊びたいときに遊んでほしくて、大変なことがあったら僕に助けてもらうことを望む。


 嫌なことをやめてと言ってもやめないけど、僕を大好きと言う。それでいて母親の中では僕が常に間違っていて、すごく子供だと思っている。


 いい意味でも悪い意味でも行き当たりばったり。それを止める父親はいない。


 求められてきた役割は、いい息子じゃなく幼いお姫様の彼氏。


 それが染みついている。


 気を使いすぎると言われ続けてきたけれど、好きなように生きるなんて分からない。みんなの言う「自分の自由に」「思うままに生きる」「好きなように」が出来たらどんなに幸せだっただろう。


 子供の時代に、子供らしくいられなかった人間は、少しだけ大人びていて、それでいて大人になりきることが出来ないらしい。


 殻を無理やり破られた蛹。生体となっても飛べない。蝶であっても蛾であっても。


 自分の得体のしれない生きづらさを解決したくて心理学の本を読み得たものは、自分はもう手遅れで、どうにもならないという結論だった。


 せめて、誰かが欲しい。そういう辛さを共有できる誰かが。


 でも、無理らしい。


 まずは自分を愛そう。


 自分を愛せないと他人も愛せない。


 そんな優しい抱擁言葉にがんじがらめにされて、どこにも行けなくなっていく。


 自分が愛せない分、他人を愛しては駄目ですか。


 そう思えど愛せる他人もいなくて、愛される他人はたくさんいて、結局僕が選り好みしているだけで、どうにもならない。


 結局僕はどうにもならない。


 誰にも理解されないし、誰かを理解することだって出来ない。なのに、気持ちが悪いくらいに喜怒哀楽が機能していて、古今東西あらゆる事象に反応しては、生きにくさを加速させる。


 死刑になりたい。ずっと思う。死刑になりたい。死刑になるようなことなんてしたくないし、する勇気もないけど死刑になりたい。どうにかして死刑になりたい。


 なのに多分きっと、死が突然目の前に迫ったら、僕はきっと怖いと思う。


 だから心なんていらなかった。


 つくづく思う。感情なんていらなかった。


 人からどう見られるか、自分がどう見るか、なにも気にせず最善手を選べて、機械的に動けていればどれほど良かったのだろう。なにもかも疲れた。


 人と一緒にいられないのに、どうして空虚を感じるんだろう。人に興味が出てしまうんだろう。


 報われない努力を続けて、勝手に無駄な夢を見て、手遅れになっていくほかないのに。


 ハッピーエンドなんか絶対にありはしない人生に、せめて意味がほしかった。


 そんな我がままを抱えながら、生まれつきどうにもならない、どうやったって無価値なクズが生まれてきてしまったことを許される瞬間が、誰かと繋がれる瞬間が、ひとつだけある。


 誰かの為に死ぬ時だ。


 僕は、一段一段、階段を上っていく。


 半年前、この先の横断歩道で、女子大生がダンプカーに轢かれた。即死だった。


 たまたま同じ大学、同じバイト先の子だった。


 たいして面白い話なんて出来やしないのに、初対面の相手なら問題ない中途半端さが僕にはあって、給料に惹かれ選んだのが、今まさに見えてきたファーストフード店。


 接客だし、少しは人とどうにかなれるんじゃないかと思ったけど、理不尽に怒り出す客や、店に来る家族を見るたび結局僕は駄目なんだと思い知った。


 それでも、バイトは少しだけ楽しかった。


 店にいたのは、皆にシフトを頼めず自爆的にワンオペをする店長と、必要最低限しゃべらないおじさんと、少し思想の強いおばさんと、アイドルヲタク──轢かれた女子大生。 


 みんな生きづらそうで、少しずつ駄目だった。だから居心地が良かった。


 所詮、金の繋がり。


 でもこの客大変だったねとか、新しいメニューやりづらいねとか、マイナスなことで同調してたけど、話をしているとまるでこれから先、少しくらいは理解者ができて、ちゃんと幸せになれるような錯覚がした。


 そうした中で、女子大生が死んだ。


 事故現場はもともと見通しが悪いと評判の横断歩道だ。


 信号を作ろうと署名活動があって、僕も名前を書いた。信号無視のバイクのせいで小学生が転んで、思想の強いおばさんが手当てをしたり、お年寄りが転んで店長が救急車を呼んだりと危険の多い場所だった。


 このままだと大きな事故が起きるんじゃないか。


 ずっとそう言われていた。


 でもそのままだった。放置。


 そして女子大生が轢かれた。


 彼女は、ただのバイト先の仲間。正直連絡先も分からない。おじさんがスマホじゃなかったから、トークアプリのグループはなくシフトの交代は思想の強いおばさんが仕切っていた。


 アイドルヲタクで、女の子のアイドルを応援し、ライブにいったり握手会に行っていた女の子。


 大学で、友達がいない。だから欠席できないと言っていた。


 お盆の後、ご当地土産を買ってきていたから地方出身。


 それしか知らない。


 ああ、たしか、自殺未遂をはかっていたアイドルが好きだったはずだ。


 生きていたらショックだっただろう。そうして色々考えていて、特に何も知らない人間の死に勝手にショックを受けている自分に気付いた。


 僕が死ねば良かったのにとも思った。でも正義感とか優しさじゃない。


 多分、おじさんが死んでもおばさんが死んでも店長が死んでも思う。


 僕が死ねば良かったのに。死んでもいいやつだから。


「あー」


 なんとなく声を出す。もう一週間くらい出してないから、自分で自分はこんな声なのかと少し驚いた。僕は歩道橋の階段を上りながら、バイト先の前の横断歩道を見る。


 花束はない。


 事故直後は花束やジュースがあったけど、三か月ほど経ったころ皆すっかり忘れたようで見向きもしなくなった。


 同じように事故直後は信号を作ろうという話になったけど、今、動きは見られない。


 最善手。裏技。ショートカット。


 なにかを動かすことに最も有効的なのは、人の死だ。


 人が死ねば、皆動く。


 逆を言えば、誰かが死ななくては、ものごとは動かない。


 話し合いなんて意味がない。生きている以上、限界を訴えても見過ごされる。


 生きているから。まだ大丈夫。


 まだ我慢できるはず。いけるいける。みんな忙しくて、みんな疲れてるから。はみ出したりはぐれたりする人間が、道からいなくなれば気にするけど、ぎりぎりのところを歩いているうちは、手を伸ばす気力がない。自分に何かできることがあったんじゃないかなんて考えるのは、せいぜい一週間。コンビニのレジ横にあるいつなくなっても分からない焼き菓子のほうが、消費期限はずっと長い。


 自殺を図ったアイドルだってそうだろう。炎上をしていたが、批判していた人間は死ぬなんて思って攻撃してないし、死んだとしても自分のせいでなんて決して思わない。


 気が滅入ってたんだな、不幸が重なったんだな。それで終わり。


 だから見るからに気が滅入っていて不幸が重なっている僕が死ねば、なおさらだろう。


 無駄な死だ。なんの意味もない。


 でも事故現場の近くの歩道橋で飛び降りたら、あの横断歩道に注目が集まるかもしれない。


 本当は、こんな方法じゃなくて署名を集めたほうがいいのは分かる。でも、そこまでして信号が出来て欲しいわけでもない。


 なにかの為に死んだと、なんで生まれてきたか分からないこの人生に意味が欲しい。


 僕は階段をのぼりきり、歩道橋の中央に向かう。


 靴底から伝わる橋の感触がやけに柔らかい。格子状の手すりは日差しの熱を帯びて生ぬるかった。ざらついているが、嫌な感じはしない。


 思えば触れたことがなかった。手すりが必要な小さい頃は、身長的に、ここに届かない。手すりに手が届くようになった今、捕まることはない。


 でも今飛び降りに便利な台になった。


 僕は格子と橋の接合部に足をかけ、手すりによじ登る。力をいれたことのない部分に力を加え、膝を使って手すりの上に立つ。


 今、歩道橋の下を走る車から、僕はどう見えているのだろう。そもそも見えているのだろうか。風はない。白線がどこまでも伸びている。空が青い。風の音が聞こえる。


 自由だなと思った。閉塞的に感じ濁っていた視界が、やけに澄んだ気がする。気が楽だ。思考も同じ。霧が晴れてる。今日は晴れていた。雨上がりの匂いがする。


 ああ、もしかして普通の人はこんな感覚なのかもしれない。


「こんなものか」


 意図せず声になったのは、ずっと読んでいた漫画の、黒幕の台詞だった。


 すべて持っているのに退屈に耐えかね、デスゲームの果てに自分の首を切った殺人鬼。


 サイコパスだからその考えは分からない。


 でも、人に共感できなくても、感情なんてなくても死にたくなるのがこの世界かと、目を閉じて飛ぶ。


 温かい暗闇と、痛み。


 そのあと、そこまで苦しくない冷たさが全身に広がる。


 もう、生まれたくない。


 人間は疲れる。


 生き物は嫌だ。


 それでももし、次、生まれ変わるのなら、どうか感情のないものにしてください。







「ひろし、どうしたの? 入学式始まっちゃうよ?」


 鬱陶しいほどの桜の花弁が舞う通学路、黒髪ショートカットの女の子が、こちらを手招きしている。真新しい制服に身を包み、快活そうな雰囲気を持つ彼女は、徳川明日加とくがわあすか、僕の幼馴染。


 明るく男勝りで、小学生の頃は男子生徒に混ざりドッジボールで遊んでいて、中学に入ってからは女子バスケットボール部に入って、4番選手として活躍していた。成績は中の上で、数学は得意だけど英語と国語が苦手。暗記科目は高得点なものの応用問題では一切得点できず、平均よりちょっと上に落ち着く、一芸型。


 文化祭や体育祭などイベントごとが好きで、行事には積極的に参加するものの1軍には入らず、それでいて1軍のギャルっぽい女子とも地味な図書委員の女の子とも仲良くできる、元気枠。


 そんな明日加と幼馴染かつ、小学校から中学校に至るまで同じクラスだった僕は、どこまでも彼女と対照的な存在だった。


 勉強もスポーツも、大きな苦手はないけど得意なものもない。特徴がない。


 好みも同じだ。好きなものもなければ嫌いなものもなく、内申点のために一応放送委員会や図書委員会に入ったけど、それだけだ。ほかの委員がお気に入りのCDや本を熱く語る様子を眺めていただけ。


 部活は帰宅部。かといって放課後にすることもなく、ゲームセンターに行ったり図書館で勉強したり、何となくで過ごしていた。


「ごめん、ちょっとぼーっとしてて」


 僕は小走りで明日加へ向かっていく。確かに並んで歩いていたはずなのに、彼女はずっと先にいた。


「昨日寝れなかった?」


「いや、なんか普通にぼーっとしてた」


「え~緊張してるの~?」


 いたずらっぽくはにかむ明日加のスカートには、イルカのキーホルダーが揺れている。おそらくポケットに収納されているスマホに繋がれているそれは、小学校のころに校外学習で行った水族館で買ったものだ。


 遊園地や海沿いのお土産屋さんで見かけるような、そこじゃなくても買える、種類だけ豊富なラメ入りプラスチックの既製品。


 一方イルカは、ショーが始まりさえすれば、それまで水槽をゆっくり眺めていた人々を一気に集める、人気者。


 明日加と同じだと思う。


 そして明日加がイルカなら、僕はクラゲだ。


 水槽の中から出ることなく、海にいたとしても半透明で浮いているだけのクラゲ。種類によっては深海に住むクラゲもいるらしい。イルカは深海では暮らさない。そんなところも似ている。


 でも、こうして一緒に高校へ向かっているのは、イルカとクラゲが水族館という共通のコミュニティに強制収容されているように、僕と明日加の家が近いからだ。


 個々を構成する要素も住む世界も違うのに、家が近いから一緒にいるなんて、まるで物語の世界みたいに思う。それに明日加の特徴を並べれば並べるほど、物語の登場人物みたいだ。


 平凡で地味な男と、個性的な美少女。


 物語の世界ならば何かしら起承転結があるだろうけど、ここは現実。なにもない。それに高校まで同じ場所に進学することになったけど、きっと大学、就職で離れ離れになるだろう。


 明日加はきっとハッピーエンドを迎えるけど、僕はこの先、なんとなく生きるか死ぬかで、幸せとは無縁な気がする。


「小学校からずっとひろしと一緒だしさ、高校でもまた同じクラスだったりして」


「さすがにないんじゃないかな。結構クラス多いらしいし、岬中は僕と明日加だけだし、同じ中学が固まらないようにしそう」


 明日加は僕をひろしと名前で呼ぶ。僕も彼女を明日加と呼んでいるけど、高校では徳川さんのほうがいいかもしれない。


 小学校のころは誰だって当たり前だった互いを名前で呼ぶ習慣は、いろんな小学校の出身者が集まったからか、中学でほぼ消えていた。それでもからかわれることは無かったけど、高校はどうなるか分からない。


 でも、「これから徳川って呼ぶ」って言っても明日加にからわかれそうな気がする。切り替え方に悩んでいれば、ふいに明日加が隣にいないことに気づいた。振り返れば、明日加は桜の木をじっと眺めている。 


「どうしたの」


「蛹がある」


 明日加の視線の先には、桜のつぼみの一角を占拠するように蛹がくるまっていた。まるで桜に守られているみたいだ。見入っているとどこからか雀が飛んできた。


 桜に雀、まるで和室に飾られる日本画のような組み合わせだと思っていると、雀は蛹を鋭利な嘴でつついた。蛹はあっという間に地面に落ちるが、雀は蛹を気に留めることなくまわりの桜のつぼみを啄み、適当に散らしながらまた飛び立っていく。


「うわ……」


 明日加は懐からポケットティッシュを取り出すと、一枚とって蛹を取り、そのまま桜の木の下に沿える。


「なにしてるの」


「蛹、多分死んじゃってるわけでもないから、埋めても羽化しなくなりそうで……とりあえず応急処置」


 そう言って、明日加は「行こうか」と立ち上がる。蛹は中途半端に触れられれば羽化出来なくなる。それに成体になれたとしても、飛べない不完全な成長を遂げる。


 だから多分、意味がない。そう思いながらも口に出さず、明日加の隣を歩いていれば、高校が見えてきた。もうかなり新入生が集まっているらしい。そして、もうグループが出来上がっている。さっき水族館のことを考えていたから、水槽みたいだなと思う。貝は貝、海老は海老、魚は魚で似たような種で分けられるのと同じように、皆大体雰囲気が同じ人間と群れをなす。そして群れの中でも目立つ存在──巨大水槽の中でメインとなる存在は、どこにでもいる。


「あの人でしょ? 入試の成績一番だったのって」


「顔見てあれ、普通にかっこよくない?」


「っていうか作文コンクールとか、美術のコンクールで名前見たことある。すごいよね、漫画の人じゃん」


 女子たちがスマホ片手に一人の男子生徒に注目している。そしてその男子生徒は、すでに1軍っぽい目立つ男子たちの中心になっていた。


「名前なんだっけ」


「黒辺誠くんだよ」


 黒辺誠。そう聞いて、視界のものすべてが停止したような錯覚に陥る。吹雪くように舞っていた桜も、一枚一枚意思を持って止まっているように見える。


 そんな異常な空間で、その男子生徒──黒辺誠だけが動き、ゆっくりとこちらに振り返る。何の興味もなさそうに。見つめていればいいのだろうと言いたげに。


 全てを飲み込む暗い海の底のような、深淵の目。目が合った瞬間、景色が漫画調に代わり、血で真っ赤に見えた。


 後ずさっている間にも、桜の代わりに血しぶきが舞い、頭に映像が流れ込んでくる。


 真っ赤な学校の廊下。月の光を受けて鋭く光るのは、包丁。その中央で静かに笑う、黒辺誠。その目は酷く虚ろで光がない。


 彼は興奮しながら命を奪う過程や己の退屈について語った末に、一直線にこちらへ駆けてくる。ああ駄目だと武器を構え、そばにいた女子生徒を庇うが間に合わない。


 黒辺誠の持つ包丁の切っ先が眼前に迫る。月光を反射したそれは、一瞬にして僕の心臓に突き刺された。赤い血が噴水のように吹き出る。


「ひろしくん!」


 悲痛な叫びが廊下に響く。膝から力が抜けると同時に、肉が潰れる音がした。隣をみると、女子生徒が黒辺誠にわき腹を刺されていた。


 僕は女子生徒に手を伸ばすが、どうにもならない。意識が薄れていく。赤が広がる。生ぬるい沼のそこから、冷たい水の底へ堕ちていく。


 濁っていく視界のなか、静かに目を閉じる黒辺誠の姿だけがはっきりとしている。


「ひろし?」


 呼びかけられてはっとする。道の先に立つ黒辺誠という男の制服は、しみもしわも汚れもない。周りの景色も、血の赤なんてどこにもなく、桜の淡い色みが広がっている。


 さっきの映像は、いったい何だったんだろう。


「何でもないよ。だいじょ……」


 早く明日加を安心させなければ。僕は彼女の顔を見て――僕は息をのむ。


 ああ。駄目だ。


 徳川明日加。僕──田中ひろしの、幼馴染。


 快活で、皆の人気者。まるで物語の登場人物のよう──なんてものじゃない。


 彼女は、「さよなら天国おはよう地獄」という漫画の登場人物。


 夏休み、黒辺誠により開催されるデスゲームで殺される、被害者。


 そして僕は、最終的に誰も守れず、最後の最後で殺される主人公──田中ひろしだ。


 さようなら天国おはよう地獄──通称「さよ獄」は、デスゲーム漫画だ。青年向け週刊誌と、その週刊誌のアプリで連載され、最初は知る人ぞ知る作品でカルト的人気を得て、最終的に大ヒットを記録した。


 舞台はとある高校。肝試しに集まった1年生のクラスが、夏休み最後の3日間ネットが遮断された学校に閉じ込められ、デスゲームに巻き込まれるというサスペンスだ。


『おはようございます。地獄の時間です』


 そんなアナウンスを皮きりに謎の主催者から突如提示されるデスゲーム。当然クラスメイトたちは戸惑い、そんなものに関わりたくないと逃げようとするが、そうした動きをあざ笑うようにクラスの学級委員長の惨殺死体が発見される。


 生き伸びる手段は出題される課題を突破するか、一人ひとつ渡された武器で誰かを殺し、最後の一人になるか。


 あらかじめ誰か一人を殺しておけば、次の課題がクリアできずとも免除される。課題に自信がなければ誰かを殺せばいいし、誰かを殺すことに自信がなければ、課題をクリアするか、課題の間に誰かを蹴落とせばいい。


 そうした過酷な状況の中、毎週誰かが死に先の読めない展開は、多くの読者を熱中させた。


 なおかつ、デスゲームに巻き込まれる生徒たちは一部主要人物をのぞいて、本当に身近にいそうなキャラクターばかり。


 現実、ネット問わず、あのキャラは誰かに似ている。このキャラは自分と境遇が同じだ。自分だったらどうするかと共感しながら、はたまた他人事だと楽しみながら読み、先の展開を予想していくファンが多かった。


 そこで、黒幕に続き最も注目されていたのが、主人公の田中ひろしだ。いい意味でも悪い意味でも等身大の善人であり常人の彼は、デスゲームに巻き込まれると「殺し合いなんて出来るわけないよ」「おかしいよ」と、自分の置かれた状況にただただ戸惑う。


 誰も殺せない、誰も殺させない、できれば皆で生き延びたい。


 善の指針で行動する田中ひろしは、頭は悪くないのでデスゲームの課題はクリアしていけるが、当然課題に失敗した人間は死んでいく。第三者からのトラップに気付けても、しかけた人間は自業自得で死ぬし、もしもトラップに引っかかっていたら、というひろしのもしもを再現するように、周囲の人間は死んでいく。


 主人公として、殺戮場面のカメラ役にならなければいけない面もあるだろうが、周りはデスゲームの餌食になっていくのだ。


 そしてひろしは、善意からミッションの抜け道を見つけ出しみんなで助かろうとするが、みんなで助かってしまえば物語にならない。ひろしの善意で人が死ぬこともある。普通は心を病む状況だが、ひろしは一貫して「殺し合いなんて出来るわけないよ」「おかしいよ」を繰り返す。


 それでも最終的に主人公補正により、ヒロインである姫ヶ崎ゆりあとともに、物語終盤、最後の二人として生き残り、姫ヶ崎を殺せず二人で生き延びる道を探そうとするが──当然、相手は殺したくないです。生き残りたいです。なんて甘い考えは許されない。


 脱出をはかろうとする二人の前にデスゲームの主催者であり、黒幕が現れる。それが、物語の冒頭で惨殺されたと思われていた学級委員長──黒辺誠だ。 


 完璧な容姿、完璧な頭脳、完璧な身体能力を持つ皆の人気者である彼の本性は、共感性に欠けた生粋のサイコパス。


 幼いころから優秀だった半面、生き物を殺すことに惹かれていた彼は、虫から始まり、ネズミやハムスターと段階を踏み殺傷対象を大きくしていき、やがて一つ年下の義妹を事故に見せかけるなど、エスカレートしていった。


 そして最終的に中学三年の冬、白猫が車に轢かれるさまを見たことを決定打として、人を殺す構想を練り、ただ殺すだけでは退屈かつ、普通の人間がどうやって殺意を抱くか、どんなふうに人を殺すのかに関心を抱きはじめ、とうとう高校1年生の夏休み、8月の最後にデスゲームを開催するのだ。


 そして主人公である田中ひろし、ヒロインである姫ヶ崎ゆりあを圧倒的な力でねじ伏せ容易く殺し、すべて終わった後、首を切って自殺する。


 最終的に主人公がヒロインとともに殺され、黒幕が自殺する衝撃的な展開は、ネットのトレンドに数日わたってのぼり、大きな影響をもたらした。連載終了後発売されたコミックスは即日完売が相次ぎ、また発売日当日には実写映画化も発表され、元々SNSを一切せずカルト的人気を得ていた漫画家が次回作はおろか漫画活動はさよ獄のみと出版社を経由し発表したことから、さらに話題となり、その素性についてニュースで取り上げられるほどだった。


 そんな話題性抜群のさよ獄の漫画家からひろしは、「善意や優しさが必ずしも最良の結果をもたらすとは限らない」「善良な人間が人の感情に聡いかは別の話」と言われており、ほぼ公認の鈍感気質である。


 ヒロインは姫ヶ崎で、ひろしは姫ヶ崎に恋をしているが、ひろしを慕う幼馴染の好意には全く気付かない。


 不憫だ。可哀そう。幼馴染=負けヒロインだから。


 ネットで同情され、時に励まされる第二ヒロイン、それが徳川明日加だ。彼女は幼少期、不審者に襲われたところを田中ひろしに助けてもらったことがあり、ひろしに恋をする。しかしひろしは幼馴染としか見ておらず、デスゲーム開催中、明日加はひろしを守ろうとしひろしと一緒に行動しようとするが、ひろしはひろしでほかに命の危機に瀕した人間や、ヒロインの姫ヶ崎が気になり明日加を放置してしまう。


 にもかかわらず、明日加はひろしを庇い、最後には死んでいく。


 長年大切に抱えていた初恋をその命とともに散らすのだ。彼女の死に際、回想場面が挿入されるが、ほかの人物は過去の未練や思い出である一方、彼女の回想は「田中ひろしとしたいこと」だ。小学校の頃に一緒に行った水族館に行きたい。海に行きたい。彼と結婚したい。


 幸せを想像し、田中ひろしに抱えられながら死んでいく夢を見るが、実際は冷たく暗い理科室の中、魚が泳ぐ水槽のそばで一人命を落とす。ひろしは他者にさらわれた姫ヶ崎を助けに行っていて、明日加を看取るのは、名も知れぬ魚たちだ。


 明日加の人生については、王子を想いながらも最終的には泡になり死んでいく人魚姫をモチーフにしているのではと考察がされていた。


 報われない、人魚姫。


 報われない、徳川明日加。


 幸せを望んでいるのに、手が届かない。


 さよ獄で、僕は誰にも共感できなかった。皆が「この人物が助かってほしい」と望む中、僕は誰にも何も思えなかった。徳川明日加に対しても、何も思っていなかった。


 でも、想いが報われず孤独に死んでいく彼女に対しては、違った。


 徳川明日加は可愛らしく明るい女の子で、僕とは全然違う。次元が同じだったとしても世界が違う。


 それでも、どうしたって報われない、孤独を抱えているところに、重なれそうなものを感じた。


 付き合いたいとか、話し相手になってほしいとかじゃない。形容しがたい、同情とも共感でもない、重なりがあるような気がした。


 そんなものは、無いだろうに。


「徳川、明日加」


 僕は彼女の名前を呼ぶ。


「え、何突然、どうしたの?」


 明日加は目に見えて動揺した。突然フルネームを呼ばれたら、驚くのも無理はない。


『ここはデスゲーム漫画の世界で君はこの夏死ぬんだよ』


 そう続けても、きっと君は理解出来ないだろう。だから言わない。


 それに、言ってしまえば、計画を知られたと黒辺誠が僕らを殺す。間違いなく、殺す。


「なんでもない」


 僕は返す。いつの間にか黒辺誠の姿は消えていた。


 田中ひろしと徳川明日加の交流は互いが五歳のころにさかのぼる。徳川明日加の住んでいた家の隣に、田中ひろしが引っ越してきたことがきっかけだ。


 徳川明日加は幼いころからスポーツが得意で、明るい性格だった。


 しかしスポーツが得意すぎるあまり、彼女に敵うものは一人もいない。


 孤独と戦い自分を高める個人競技ならまだしも、彼女が望み得意とするのはバスケットボールという集団行動が必須なもの。


 彼女に敵う存在もいなければ彼女に並べる仲間もいない。


 明日加ちゃんを混ぜると明日加ちゃんのチームが必ず勝つ。


 物語の中盤、挿入された回想。吹き出しに囲われたポップ体によるインスタントな決別宣言。


 子供はいい意味でも悪い意味でも、都合がいい。一方的に勝つことは好きだけど、自分が負け続けることは耐えられない。


 明日加を混ぜれば必ず勝てるが、対照的に明日加がいなければ負けが確定し、皆で遊ぶ前に明日加の取り合いで勝敗が決まるようになってしまう。


 そんなことを続けていれば普通に飽きる。皆で遊ぶ楽しい日々を取り戻すための最短ルートは、徳川明日加の排除だった。


 そんな明日加のもとに現れたのが、田中ひろしという未熟者。彼は平凡、至らない人間が喉から手が出るほど欲する「普通」を持っているが、慣れない新天地で四苦八苦することになっているぶん、普段より能力は下がる。


 そこを、明日加が補った。パズルピースのようにぴったりと。突出しすぎた才能に、凡才が機能すると誰が予想できただろうか。


 田中ひろしというハンデが生まれたことで、徳川明日加は子供たちの遊びの場に回帰した。


 日常生活でも同様だった。


 幼稚園生は遊びの時だけ一緒にいる、なんて要領のいい関係性は築けない。徳川明日加も同じで、遊びの場で田中ひろしをリードするように、彼の日常生活もリードすることで輪に戻った。


 田中ひろしが物を忘れれば貸してやり、田中ひろしが転べば手当をする。同い年の姉と弟。そんな二人を見守るみんな。


 田中ひろしと徳川明日加の関係は、周囲から見ても本人から見てもそう称するのが最も正しかった。


 二人が十歳になるまでは。


 小学校に上がって、徳川明日加は近所のバスケットボールクラブに入った。幼稚園生のころと異なり、強ければ強いほど人気は高まり欲しがられる。


 自室には、地区大会優勝のトロフィーや最優秀選手として選ばれた賞状が、マイボールを入れたバッグには、バスケットボールや彼女のユニフォームを模したフェルトのキーホルダーが、手首や腕にはチームの結束を示したミサンガが、周囲の彼女への期待や好意は、試合会場の歓声だけでなく目に見える形でも示されていた。


 しかし、どんなに自分が交通安全に気を付けていても、前方不注意や飲酒により交通事故に遭うことがあるように、徳川明日加のような、誰かを意図的に傷つけようとしない、悪意を持たずとも、攻撃を受ける機会は訪れる。


 徳川明日加のいるチームに負け優勝が出来ず、バスケットボールの道を諦めた子供の親が、公園で開かれた小規模な大会を終え、公衆トイレで一人になった彼女を狙ったのだ。


 公衆トイレは危険が多いとされ、チームの保護者達は注意をはらっていた。


 しかし、保護者達が警戒するのは男だけ。


 子供を狙うのは、性的ないやがらせを目的とした男。


 徳川明日加と同じような子供を持つであろう世代の女は、子供を守ることはあっても攻撃なんてしない。


 そんな思い込みが隙を生み、徳川明日加は責め立てられた。


『人の夢を壊して楽しいのか』


『対して才能もないくせに調子に乗って』


『お前は絶対に幸せになれない』


 その声は、男子トイレに響くほどの激しさだった。


 明日加の男子トイレにいた田中ひろしは、その声を聞きつけ、女子トイレに向かい徳川明日加を助ける。不審者用のブザーを押し、周囲の大人たちに助けを求めながら外からは絶対開けられないトイレのドアを何度も叩き、明日加を助けた。


  個室でヒステリックに叫ぶ大人、それも自分と親と同じ世代に詰められる恐怖にさいなまれているとき現れた田中ひろしは、徳川明日加にとってまさしくヒーローだったのだろう。


 それまで自分が守るべき、と定義していた曖昧な存在が、男の子に変わり、徳川明日加の中で田中ひろしは特別になっていった。


 でも、僕は徳川明日加を助けていない。


 そもそも、明日加は襲われていない。


 僕は田中ひろしの精神性を持たず、歩道橋で飛び降り他者との交流の面で欠けている僕のまま、今に至るまで生きていた。


 漫画で徳川明日加が襲撃された大会の記憶は、今の僕にもある。大会の後、漫画では田中ひろしがジュースを差し入れしていて、徳川明日加はそれを飲みトイレに行った、のだと思う。


 しかし僕はジュースの差し入れなんてしていない。


 明日加のバスケの試合に誘われ、家族に連れ出されるかたちで向かったことはあっても、積極的に関わろうとはしていなかった。相手は徳川明日加。住む世界が違う。僕が差し入れなんてしなくても、徳川明日加のもとへは何でも集まってくる。


 当日、僕らは普通に帰った。明日加はトイレに行っていない。僕は助けてないし、もし明日加が襲撃にあっていたのなら、僕は助けられなかった。


 つまり僕の必要性は、田中ひろしと異なり幼稚園のころで消えている。




『将来、必要とされる社会の一員になれるよう、一生懸命に学び、悔いのない充実した三年間を過ごしたいです』


 あれから体育館に集められ、今まさに入学式が行われている。新入生代表として壇上に立つのは黒辺誠だ。入試成績トップ、中学では生徒会長を勤め上げた彼は、在校生や教師も注目する中、堂々と新入生代表の挨拶をしている。


 教師たちは緊張なんて微塵も感じさせない黒辺誠に感心しているが、そもそも緊張なんて、するはずないだろう。彼は僕らを人として見ていない。いや、人として見るという概念すらない。同じ世界の生き物と認識しているだろうが、だから生きていたほうがいいとか、死んだほうがいいとか、そういう思考すら持ち得ていないのだ。


 ただ、そこにある何か。


 道の先に立てば遮蔽物で、後ろにあるのなら景色。


 黒辺誠は今、職員、在校生、新入生と三通りの人種を前にしているが、それは第三者の視点というだけに過ぎない。彼にとっては、体育館の床に引かれたバスケのコートラインも、壁を囲う紅白幕も、今語りかけているマイクも、すべて人々と同じ、どうでもいい『何か』だ。


 紅白幕が一か所だけほつれていても誰も気に留めないように、生徒たちのうち一人が倒れたところで彼が心を動かすことはない。


「彼女とかいるのかな」


「いないわけなくない?」


「でも同中いないっぽいよね。高校離れてるならさ……」


 黒辺誠の本質を知らない女子生徒たちは、彼に注目し、心惹かれている様子だ。あとで声かけに行こう、なんて彼の挨拶を聞き流しながら、ひっそりと作戦会議をたてている。


 しかし、僕の前方に立つ徳川明日加だけは、盛り上がる女子たちと話しながらも、ぼんやりと黒辺誠を眺めていた。 


 明日加は教室に向かって早々、中学が異なる女子たちを束ね、もうグループを形成している。中学でもそうだった。あっという間にクラスに馴染み、本人はバスケ部に入ることが決定しているにもかかわらず、女子たちみんなで新入生向けの部活見学会に向かっていた。


 一方の僕はといえば、教室に向かい、特に誰とも話をすることなく今に至る。同じクラスで話をしたのは誰か問われれば明日加だし、そのうち誰とも話さない日が来るだろう。


 元々僕と明日加は、一緒に学校に行く習慣も帰る習慣がない。今日のような入学式や始業式など、少し特別だけど文化祭や体育祭のようなイベント感のない日に、なんとなく一緒に行く。それが僕と明日加だ。


 そこは、田中ひろしと徳川明日加と、同じ。


 僕は明日加のスカートから飛び出すように繋がれているイルカのストラップを見る。


 田中ひろしは、明日加と同じイルカのストラップを持っていた。明日加が水色で、田中ひろしが青。それは勉強机に適当に置かれていて、とはいえしまわれることもなく、ただ在る。


 僕はクラゲを選んでいた。机に出すことはなく、引き出しの一番下に入れている。


 そういうところにも主人公である田中ひろしと、僕で違いが出ている。同じようにデスゲームが開かれない未来もあるかもしれない。


 そう思えたら、どんなにいいんだろう。


 入学式を終え、教室に戻る道すがら、僕は集団から逸れトイレの個室に入った。


 スマホを取り出し、ニュースサイトを開く。


 デスゲームの黒幕である黒辺誠は、 幼少期から命の喪失に強い関心を持っていたが、それが顕著になったのは中学三年生の冬に、白猫が乗用車に撥ねられるのを見たことだ。


 白い毛が赤く染まり、先ほどまで動いていたものが見るも無残になったさまを見て興奮したのはもちろんのこと、生きていた時は猫を気にしていなかった人々が、死にゆく瞬間、突如猫に注目し取り囲んでいたところを見て、人間だったらどうなるのだろうとデスゲームを開くことを思いついたらしい。


 そうした心の動きについて、月曜日の駅のホームを観察していたり、そういう周期を計算して調べることもあったんじゃないか、と漫画家はインタビューで答えていた。


 とはいえ、その本質を想像し行動することには、危険が伴う。


 黒辺誠の精神性について漫画家は明言を避けていた。彼を肯定するような発言をすることは殺人の肯定に繋がりかねないし、さよ獄がカルト的人気を誇るのと同じように、黒辺誠も同種の関心が向いていた。うかつに批判的なコメントをすれば彼を崇拝するファンの逆鱗に触れる。田中ひろしへのコメントが無難な最適解だったのだろう。それですら、ひろしではなく黒辺誠について言ってほしいと要望が集まっていたし、そもそも田中ひろしへの所感は編集者を通して発表されたものかつ、連載終了記念として出版社に頼まれ組まれたインタビューだ。


 だから、黒辺誠については予測ができない。物語の展開を知っていても、勝てる気がしない。


 そもそも勝てるはずもないのだ。相手は常軌を逸している。天才だ。僕は凡人以下で普通になれないことは共通していても、対極にいる。


『わき見運転か トラックが女子中学生と接触』


 徳川明日加が保護者に詰められなかったり、僕がクラゲのストラップを持っているように、漫画で発生する事象が変わるのならば、黒辺誠の周囲もなにか変更があるのかもしれない。


 そう思って、デスゲームを開くに至ったきっかけとして最有力候補である事故について調べた。


 ふつうは猫が大通りで派手に轢かれてもニュースにはならない。法的解釈をすれば猫を殺すことは器物破損だ。とはいえ、空き缶をつぶす動画を投稿しても炎上することはないけど、猫をつぶす動画は炎上する。どこまでも曖昧な善悪に僕らは支配されていて、だからこそ、一縷の望みを託した。


 SNSならば、猫が轢かれていて可哀そう、程度の呟きくらいは分かるだろうと。


 結果だけ言えば大豊作だった。


 同時に、最悪の未来も確定した。


 大通りで事故が起きたニュースについて呟く人間はたくさんいた。当たり前だ。


 轢かれたのは猫じゃなく人間だったのだから。


 そして過失を起こしたのは乗用車より殺傷性の高いトラックだった。


 乗用車に轢かれた猫は死んだけれど、トラックに撥ねられた女子中学生は近くのゴミ捨て場に投げ出されたことで、奇跡的に一命を取り留め、軽傷で済んだらしい。


 その女子中学生の名前は──黒辺舞。


 黒辺誠の、義妹。


 周りに冷たくプライドの高い彼女は、長い黒髪の美人で、黒辺誠と雰囲気が似ているが血が繋がっていない。だからなのか黒辺誠に兄を超えた感情を抱いており、彼にだけ心を開いていた。


 しかし、黒辺誠は他者からの好意を利用することはあっても感謝したり、応えようとはしない。それどころか自分に対して必要以上に干渉してくる義妹を疎ましく感じ、幼いころから池に突き落したり、あえて助け、周囲から「妹思いの兄」として評価を集めていた。


 そんな黒辺誠の狡猾さに影響されてか、黒辺舞の排他的な性格は加速し、友達はいないが教室の空気を支配する女王として君臨していたという。いじめを行うことはないが、彼女が忌まわしく思う、邪魔だと思った存在は周囲の目につき、勝手な解釈のもと排除される。小学校が一緒だろうと、地元に根ざした寺の子供だろうと変わらない。災禍そのもの。


 だが、自分の教室の支配者にすぎない。弱肉強食の頂点には至れない。


 最終的に黒辺誠の偽装死体の道具として殺されるが、母親と父親が旅行に出かけ兄と二人で過ごせると浮かれた彼女は、凶行の果て誰に助けを求めることもできず死んでいった。


 つまり物語の都合上、黒辺舞は夏、デスゲーム開催前日の8月28日までは命の保証がなされているはずの存在だ。


 でも、そうでないのは徳川明日加の事件が起きなかった──いい意味での変化があるように、悪い意味での変化もあるということだ。


 猫は偶発的に起きた事故だが、黒辺誠は人為的に事故を起こし、義妹を殺そうとした。


 間違いなく、漫画の時より悪化している。


 僕はニュースサイトを開いていたタブを閉じ、履歴を消去する。万が一にでもこんなことを調べていると知られたら、黒辺誠に殺されかねない。


 僕は入念に痕跡を消してから、個室を出た、その時だった。


「あ、同じクラスの」


 声をかけられ顔を上げる。確かに聞き覚えがあったのに、無警戒に目を合わせたことに後悔した。


「黒辺、誠──」


 目の前に、黒辺誠がいた。


 ここは教室から離れたトイレだ。わざわざ来る必要がない。だからこそ選んだ。呼び捨てにしてしまった。初歩的なミスに背筋が凍る。彼は誰にも共感しない。しかし不愉快という感情は持っている。


「ご、ごめん、呼び捨てにしちゃって、新入生のあいさつで、聞いたままで覚えてて……」


 僕はすぐに謝罪した。黒辺誠は「気にしないで」と笑みを浮かべる。


「俺のほうも、ごめん。君の名前知らなくて、名前聞いてもいい」


「田中、ひろし……」


「田中くん」


「あ、田中で、大丈夫。中学みんなそうだったし」


「分かった。俺も黒辺でいいよ」


 ──よろしくね。


 淀みない声だ。まだ学級委員長は決まってないけど、クラスをまとめる優等生であることが、一言で分かるくらい。


「よ、よろしく」


 僕はそのまま去ろうとする。しかし、黒辺誠は「手」と呟いた。


「え」


「洗い忘れてる」


 用は足してない。純粋に不衛生であることの指摘だ。にもかかわらず、手洗い目的以外でここへ来たことを見透かされている気がして、僕は動揺を隠すように手を洗う。黒辺誠は僕を一瞥した後、隣で手を洗い始めた。


「ちょっと汚いもの触っちゃって、手洗いに来たんだ。入学式だからかもしれないけど、どこも混んでて……でも良かった、丁度いいところ見つかって。穴場だね、ここ」


 黒辺誠が微笑む。先ほどと変わらない笑顔だった。


「うん」


 汚いものとは、いったいなんのことか。聞けるはずもない。


「じゃあ、これで」


 僕はその場を後にする。なるべく、黒辺誠から逃げていると悟られないように。廊下の曲がり角にさしかかったところで、振り返る。黒辺誠はいない。まだ手を洗っているのだろう。僕は階段を登っていく。


 黒辺誠は、8月29日、30日、31日の3日間、デスゲームという名の惨劇を繰り広げる。


 このままいけば、クラスメイトは全員黒辺誠によって殺される。


「ひろし?」


 前方に、明日加がいた。


「どうしたの」


「どうしたのって、教室にひろしがいないからどこか迷ってるのかと思って探してたんだよ?」


 どこに行ってたの? と明日加が心配そうに僕に駆け寄ってきた。


 明日加にとって、僕の必要性はない。でも、徳川明日加は田中ひろしを必要としている。そして得られぬまま殺される。


  黒辺誠に。


「ごめん」


 僕は徳川明日加に謝った。普段からきちんと謝罪はしているけど、別の意味合いを含めていることを察してか、明日加は不思議そうに首をかしげた。


「別に、そんな謝んなくていいよ」


「そう、かな」


「うん、だってほら、私たち幼馴染だし!」


 死に際の回想には彼女の独白があった。


 幼馴染だし、という定義をすることで、田中ひろしのそばにいようとしたこと。


 でも本当は、違う関係でいたかったこと。


 なのに幼馴染と強調していたのは、ただただ、今の関係を崩すことが怖かったからだと。


 そうして、報われることのない初恋と心中するように一人で死んでいった。


 可哀そう。


 死んでいく彼女を見て、感じた。報われてほしいと。


「明日加」


 僕の目の前に立つ彼女をまっすぐ見据える。


 死ぬ前、もう、生まれたくないと思っていた。それでももし、次、生まれ変わってしまったのなら、感情の持たないものになりたかった。


 でも、僕はこうして田中ひろしとして、生まれた。


 ならばすることはひとつ。


「僕は、君が好きだよ」


 徳川明日加を、孤独にしない。










 徳川明日加と付き合うことになった。


 僕は田中ひろしの持ちうる明るさ、ひたむきさは持ち得ていない。でも黒辺誠がサイコパスという特性を持ち生まれたことが、この世界の確定事項であり、この世界をさよ獄の世界とする重要な素因のひとつであるように、徳川明日加が田中ひろしに恋をしているという事実はどうあったって変わらないらしい。彼女は僕の交際の申し出に了承した。


「もっと、授業とかすると思ってたけど……校内見学とか、あるんだね」


 午前中、ほかの学年が授業を受け、ほどよく静かな廊下を明日加と歩く。入学2日目、僕らは1時間目と2時間目に渡り、校内を見て回ることになった。50分ずつ、要するに100分校内に放逐される。


「うん。広いから……この教室に集まってくださいって言われても迷う生徒はいるだろうし、誰か一緒に行く相手がいればいいけど、まだ、入学して2日目だからね」


 僕は当たり障りなく返事をする。散策はグループを作っても一人で行っても良かった。散策だけを目的とするだけなら一人だけど、黒辺誠の動向、もしくは明日加の動向、どちらかは把握しておきたかった。黒辺誠の衝動性が漫画より悪化している以上、デスゲームを待たずしても、誰かに大怪我をさせる程度のことはしてもおかしくないからだ。


 安牌は黒辺誠の形成するコミュニティに入ることだった。彼は入学2日目ながら男子生徒の中心にいて、彼のもとに集まることは不自然ではない。なによりトイレで会ったことが機能する。顔見知りとして寄っていく、一人が嫌、というていでいれば自然と行動を共にできる。


 それに明日加は女の子だ。


 僕が死ぬ前、男女の差をなくそうだとか、色々社会の取り組みがあったけど学校の中は治外法権。平等があるとするならば、女子とばかり話す男子も男子とばかり話す女子も目立ち避けられる、ということだけ。多様性という言葉が機能する場であったなら、9月に絶望する人間はもっと少ない。


 だから、明日加を誘うことは出来ないし、しない。明日加の友達作りの邪魔もしたくない。


 でも、廊下を一人で歩いていると明日加が追ってきて、今に至る。


「あ、あの子、同じクラスの子……かな?」


 明日加が思案顔で廊下の先を歩く二人組の女子生徒を見る。


 池田まゆ、元村エリだ。


 ほかのクラスの生徒たちは別の時間に行うらしく、散策する姿を見かけるのは同じクラスの生徒しかいない。二人はこちらに歩いてきていて、明日加を見て彼女と同じように思案顔をする。そして僕に目を向け、さらに悩むような表情に変わった。


 僕はさよ獄の知識からクラスメイトの顔は全員分かっているけれど、向こうは昨日の今日で顔を覚えるなんて無理だろう。女子として目立つ明日加を認識できたとしても、僕のことは見覚えなんてないはずだ。


 そして、得体のしれない僕のせいで、僕と共にいる明日加が同じクラスなのか分からなくなってしまったのだろう。


 結局二人は明日加に声をかけることなく、すれ違った。


「いいの?」


 僕は明日加に問う。


「何が?」


「女子と、いなくて」


「一人で回りたかった?」


 明日加が僕を試すように見る。


「いや、女子って、グループ作ったりするから、こういう時間に仲良くなったりとか、あると思って。僕に気を遣って、明日加が……グループのこととか、あったらなって」


 明日加は、別に今日休んだとしても、コミュニティ形成に躓くことなんてないだろう。僕ではないのだから。それでもこうして、誰かが誰かとペアを組んだり集まる時間の中、明日加が僕のもとにくることに忌避感がある。


 孤独にしないというのは、田中ひろしを欲する徳川明日加に、そのまま田中ひろしを捧げるというだけで、僕が彼女を独占したいとか、彼女の生活に干渉したいわけではない。


「まぁ、グループは出来るだろうけど、案外、入学式最初の集まりって、違くない?」


「違う?」


「うん。最初に話をした子と合うってあんまりないじゃん? ひろしはそういうの無いかもだけど、ペア決めの時ひとりになるのが嫌だから、とか、トイレひとりで行きたくないとか、そういう打算で集まる子もいるしね」


「ああ、トイレ……」


 思えば女子が連れだってトイレに行くのを見る。でも、明日加は誘われて行くことはあっても誘って行くことはない。


「怖いんだよね。トイレ」


 明日加が呟く。


「それは……ホラー的な……?」


 問いかけると、明日加は「違うよ」と笑った。少し恥ずかしくなる。


「手洗い場の前でさ、ほかのクラスの子たちが集まってたりするの、それで見られたりするんだよ。でも誰かと一緒だと、大丈夫だから……なんていうの? 群れみたいな感じ」


 ──イワシみたいな。


 明日加は続ける。小学校の頃の、校外学習で行った水族館について指しているのが分かった。


「大きい魚に、食べられないようにするためか」


「それ」


 巨大な水槽を泳ぐイワシの群れ。脅威から襲われないよう大きく見せているらしい。


 でも、絶対的な強者の前では無力だった。たくさんのイワシは、大きな口を開けた魚に一瞬にして丸のみにされていった。その様子を、明日加と見た。


「あ、黒辺くんだ。すごいね、皆に囲まれて」


 明日加が校庭を指す。体育を行う生徒たちから離れた位置に、黒辺誠と男子生徒たちがいた。黒辺誠はにこやかに男子生徒たちと話をしながら歩いている。今から約4ヶ月後、惨劇を引き起こすような人間には見えない。


 強者は畏怖され避けられるものだが、本当に恐ろしいものは無害を装い群れに紛れ込み、捕食の機会を虎視眈々と窺うものなのだろう。


 明日加の目にも、黒辺誠は無害に見えている──いや、魅力的に見えているのだろう。


 明日加に「田中ひろしに恋をする」という特性がなければ、惹かれていたはずだ。


 黒辺誠はサイコパスであることをのぞけば容姿端麗、成績優秀、品行方正と長所を示す四字熟語で構成されており、誠実でありながら真面目過ぎず柔軟性を兼ね備え、欠点がない。


「人に好かれる人だからね」


 心の底から思っての言葉だった。


 人当たりの良さはサイコパスゆえの「表面上魅力的にふるまうことが出来る」という特性ゆえもあるだろうが、女子が好みそうな要素をすべて持っていることは確かだ。


 でも、耐えがたい退屈に苛まれ、デスゲームという惨劇を引き起こす。


 僕は窓の外の景色を眺める。小高い山に、青々とした緑が見える。


 最寄駅から徒歩10分、その最寄り駅は快速も特急も停まる好アクセス。周囲は緑化の保存と推進のため自治体の予算が大幅にさかれており、発展性とは対照的に景色はよくのどか。近隣は高級住宅街に囲まれ、同区内にセキュリティ企業、総合電機メーカー、ネットワークサービス事業を行う本社が建つ。


 入学案内パンフレットには、「各企業と協力した新しい授業」なんて明るく書かれていたが、ようするに各企業から出資を受け、商品化に向けた試験運用としての箱庭的側面を持つこの英領高等学校は、デスゲームを開催するにうってつけの場所だった。


 だから黒辺誠に利用されたのだ。


 外部からの通信阻害および傍受を許さないセキュリティは、内部から通報を遮断する障壁となり、どんな地震や強風、飛来物にも負けない強化ガラスは、生徒を閉じ込める檻になる。


 生徒がのびのび教室で授業を受け、近隣住民に迷惑がかからないよう配慮された防音設備によって、どんなに泣き叫び助けを求めようと、その声は誰にも届かない。


「ひろしは良かったの? 私と回っても」


 明日加が問いかけてくる。


「うん。誰かと約束してたわけじゃないし」


「良かった」


 明日加はほっとした顔をする。どこか含みのあるような声音と表情が気になった。


「なんで?」


「だって、私部活あるから、朝は一緒に行けないし、帰りも、一緒にいられないじゃん。土日とかもさ、部活あるし」


 部活、と明日加は強調するが、別に今に始まったことではない。明日加は小学校の頃はクラブチームで、中学に入ってからは部活でバスケをしていた。休みの日、大きなスポーツバッグに、さらにボストンバッグを抱え遠征に向かう姿を見かけたのは一度や二度ではないし、僕の家族用にと、明日加が遠征先で買ったクッキーや饅頭の箱詰めを持ってきたのだって、数えきれないほどある。


「うん」


「付き合ってる、わけだしさ、一緒に回りたいなと思って」


 明日加は照れたように頬を染め、僕をちらりと見た後視線をそらす。漫画で見たことのない表情に、指をプリントで切ってしまったときのような、鮮やかな痛みを覚えた。


 徳川明日加と、田中ひろしは付き合っている。理由は、徳川明日加が田中ひろしが好きで、田中ひろしは徳川明日加に告白をしたから。


 徳川明日加が、僕を好きじゃなくても。


 僕が徳川明日加を助けることをしなくても。


 田中ひろしに恋をして彼を庇うのが、徳川明日加に与えられた役割だから。


 徳川明日加は田中ひろしに恋をする。


 僕は徳川明日加に与えられた設定を利用している。しかしそれはあくまで、徳川明日加を孤独にさせないため。


 そして僕の行動により設定が覆されなかったのと同じように、黒辺誠がデスゲームを開くことが覆されることはないだろう。確定事項だ。


「そうだね」


 僕は田中ひろしの笑顔を真似した。そして、さよ獄での徳川明日加の最後を思い出しながら、彼女に手を差し出した。


『小さい頃みたいに、手をつなぎたかったな』


 徳川明日加は少し驚いたように目を丸くしてから、おそるおそる、田中ひろし──僕の手を取る。


 デスゲーム開催まで、あと4ヶ月。


 どうせ殺されるならば、徳川明日加の走馬灯が少しでも優しいものであってほしい。


 だから僕は、彼女の望むように田中ひろしとして存在する。


 交際については二人だけの秘密にしよう、と、明日加と約束をした。


 理由は黒辺誠になにかしらの影響を与え、デスゲーム開催を前にして新たな悲劇を生まないためだ。


 何が原因かはわからないが、黒辺誠は妹をトラック事故に遭わせている。池に突き落すよりずっと死亡率が高いし、なにより目撃されるリスクも大きい。


 地域情報を掲載した物件サイトやマップレビューで調べたところ、黒辺誠が義妹を突き落した池のある公園は利用客が少なく、夜間、残業帰りの社会人がショートカットに使う程度、日中はほとんど人の目がないことで、小さい子を遊ばせられないとあった。


 そんな場所と大通り。


 どちらが殺人に適しているかなんて考えるまでもない。にもかかわらず黒辺誠は大通りでの凶行に至った。理路整然と論理的に思考し人を騙すことが可能な知能指数と、サイコパス──常人とは考えられない衝動性が重なっての行動だろう。


 黒辺誠の行動は漫画より悪化している。デスゲームが始まる8月29日を前にして、実験的に同級生を殺す可能性は否定できない。二人のうち一人を殺し、残したほうの反応を見るため、僕か明日加を狙うかもしれない。実際、漫画の作中、池田まゆと元村エリが憂き目にあっていた。


 それに彼は、クラスメイト全員を殺すことを目標としていたわけではない。


 永遠に続く退屈に見切りをつけただけ。


「黒辺くん、すごい綺麗だね……」


 入学式から二週間後に行われた調理実習の時間。池田まゆが感激したような声を上げる。視線の先にいるのは黒辺誠だ。黒のエプロンを身に着けた彼は、包丁を片手に「そんなことないよ」と謙遜する。


 この高校では5月の末からオーストラリアで海外学習を行う。それにあたって、家庭科ではその国の文化を料理から学ぼうと、フィッシュアンドチップスを作ることになった。


 本場の人間に怒られるような説明の仕方をするならば、白身魚のフライと、フライドポテトだ。調理工程としては、白身魚に衣をつけて揚げる。ジャガイモは切って素揚げ。調理実習は途中休憩込みで100分ほどだが、そこまで時間を要するものではない。だからか魚をさばく工程も追加されていた。


 調理班は家庭科教師により、四人一組で無造作に振り分けられており、調理経験の有無が考慮されていない。挙句、魚をさばく──グロテスクなものへの耐性のあるなしによって、いろんな場所から「違う」「なにこれ」「無理だ」と、混乱の声が響いているが、黒辺誠は気に留めることなく、そのまま標本にでもできそうな一匹の鱈を簡単にさばいていた。


「お料理好きなの?」


 元村エリが問う。黒辺誠、池田まゆ、元村エリ──そして僕。なんの因果か僕はデスゲームの主催者、ゲームの過程で実験的に殺される犠牲者たちとフィッシュアンドチップスを作ることになった。


「妹が料理が好きで、その影響かな」


 黒辺誠がにこやかに話す。


 嘘をついているようには全く見えないが、嘘だった。


 黒辺誠は命を奪うことに余念がないゆえに、彼は自宅の縁側の下に解剖後の虫を置いている。自分より小型の生き物への残虐性は往々にしてエスカレートする。解剖対象が虫から魚にいってもおかしくない。黒辺誠の妹である黒辺舞は、彼に兄を越えた執着を持っている。愛する彼の為に料理を作ることもあるだろうが、黒辺誠が黒辺舞から影響を受けることは絶対にない。


『じゃあ、死体は……? 一番最初に、黒辺だって放送のあった死体は誰の……⁉』


 漫画で、田中ひろしが黒辺誠に発した台詞だ。


『妹』


 表情一つ変えず、黒辺誠は言っていた。


『どうして⁉ た、大切な家族じゃ……』


『妹は、能力に問題はなかった。客観的に見て、欠点らしいものは、身内以外と付き合おうとしない、とかかな』


 今思えば、黒辺誠の返事は答えになっていなかった。


 田中ひろしは家族という定義のもと大切さを問いていたけど、黒辺誠が言及していたのは有用性のみ。家族と大切は繋がらない。


『俺を優先するようにしたのは俺だったけど、欲してほしくはなかった。でも、どんどん酷くなってて、最近、ずっと煩かった』


 耳障りな蠅を殺したような報告だった。


「妹いるんだ」


 そんなこと知る由もない池田まゆが盛り上がる。


「うん」


「え~、黒辺くんに似てる?」


「どうだろう。似てるって言われたことはないし、性格もだいぶ違うからな……」


 黒辺誠は返答に悩むようにふるまっている。自分に似ている存在なんて欲していないだろうし、そもそも人間の姿かたちに関心なんてない。


「写真とかないの?」


「あんまり写真撮らないんだよね……妹、身体壊しがちで、冬に入院したりして、一緒に出かけるのって祖父の家に行くとかだから」


 黒辺誠が包丁を手に視線を落とす。興味がないから撮らないのだろうが、もっともらしい説明を受けた元村エリは、しまった、と感情のままの表情を出した。


 黒辺舞に病弱な設定は無かったはずだ。


 隠れて、毒を盛っている? デスゲームの死体偽装をするため、弱らせているのだろうか。


 それとも本当に病弱なのか。


「田中は兄弟いる?」


 黒辺誠が僕を見た。元村エリとの会話に飽きたらしい。


「いない」


 田中ひろしに兄弟姉妹はいない。家族構成はテンプレート的な、問題のない父親と母親。


 手に入れることが難しい、普通の家族。


「そっか」


 黒辺誠はクラスメイトとの会話に完全に飽きたらしい。簡単に終わらせてきた。すると先ほどの過ちの空気を変えようとしてか、元村エリが僕に顔を向けた。


「ほしい?」


 面倒だなと思った。欲しいと思ったところで手に入らない。そして姉や妹など姉妹を口に出せばからかいの対象になる。兄や弟が欲しいといったところで、空想の話に終わる。


 それに、家族といってもいろんな事情があるものなのに。


 でも、こういう話を面倒だと思わない人間のほうが多くて、揚げ足取りのように気にする僕のほうに落ち度があるのだ。これが普通のコミュニケーションだから。


「ほしいと思ったことはあるよ」


「お兄ちゃんがいいとか黒辺くんみたいに妹とか、ある?」


「いや……兄弟や姉妹が欲しいというより、何かあったとき、近くにいざるをえない理由のある人が欲しかったのかも。強制的にっていうか」


 僕にすすんで近づこうとする人間はいない。ただ、兄弟姉妹であれば少なからず関係性に名前がついていて、僕のそばにいる理由を持っている。


 名前がついている関係性は羨ましい。「恋人だからそばにいていい」「友人だから話しかけてもいい」と許しが見えるから。


 だからといって、なんでもしていいわけじゃないし、それらに苦しめられている人間もいるだろうけど。


「なんか、むずかしいね……」


 それまで黙っていた池田まゆが呟く。元村エリが「ね」と同調した。


「兄弟姉妹だから、近くにいなきゃいけない義務なんてないけどさ」


 黒辺誠が呟く。


「まぁ、各々家庭事情あるからね、田中が兄弟姉妹のあるなし選んでるわけじゃないし、選べないじゃん。田中の両親が、弟妹どうにかしてやりたくて、どうにもできなかった結果かもしれないし」


 そうして、元村エリを見た。


 なんだこの状況は。今僕は、殺人鬼にフォローされているのか。


 元村エリは「あ……」と僕を見る。何か言おうとしているが、黒辺誠が「衣の準備しなきゃね」と準備をはじめ、池田まゆが追随して話は終わった。


  魚をさばいたことで、黒辺誠は後の作業を免除された。


 元村エリと池田まゆが爪を切っていなかったこと、ささやかながらお揃いのネイルをして切ることに抵抗を見せていたことから、僕が衣をつける係を担った。


 二人はこちらの家庭事情に触れたこともあり申し訳なさそうにしていたが、個人的には助かった。思い出しても今世に役立てられない記憶のなかには、料理も含まれている。


 ようするに最後の仕上げの工程に関わりたくない。ましてや黒辺誠の手前、デメリットはあれどメリットがない。


 元村エリと池田まゆが白身魚とじゃがいもを揚げている間、僕は黒辺誠と洗い物をしていた。


「さっきはありがとう」


 僕が洗い終わった食器を布巾で拭う黒辺誠に声をかけた。彼は「なにが?」と、なんてことのない顔をする。彼は意図して「フォローしたつもりはない委員長」を演じている。ここで「さっきは助けてくれて~」と話を繋げれば、しつこいと邪魔に思われるため、僕は「なんでもない」と話を終える。


 相手は殺人鬼とはいえ、「のちの」がつく。今はまだ殺していない。だから礼を言うのは筋だ。


 どうせ後々殺されるだろうけど。


 心の中で付け足す。


 本当はそんな未来を変えられたらいいな、とも思う。生きていたいわけでもないけど、デスゲームが開かれるべきとも思わないし、大量殺人なんてないほうがいい。


 しかし、田中ひろしは主人公であっても、僕は違う。主人公の資質も精神性もない。


 世の中には一人一人が人生の主人公なんて綺麗ごとがあるけど、僕が主人公の物語なんて誰も読みたくないし、僕の人生において誰かを無理やり脇役にしてしまうのも、抵抗がある。


 でも、一人一人が人生の主人公なんて言いだせる人生。


 きっと自分を肯定できて、周りにも肯定されているのだろう。他人の人生に介入し、いい影響を与えることが出来ると慢心可能な人生、勝ち組だ。まさしく主人公の人生。


 ただ、そういう人間は、さよ獄で──デスゲームで真っ先に殺される。


 僕は調理実習を行う別の班に視線を向けた。


「わりー、少し焦がしちまった!」


 そう言って快活に笑う、背の高い男子生徒──堂山英雄。


 高身長で細身ながら鍛えられた体躯を持ち、明朗快活な見た目と中身で「誰より主人公してる」と、評判のキャラクターだった。初回から主要人物感満載で登場していて、田中ひろしより先に「人の命で遊ぶなんて間違ってるだろ!」と憤り、「こんなこと始めたやつを俺は絶対許さない!」「必ず犯人を暴いてやる!」と意気込んでいたが、2話目で殺された。


 犯人はモブとして描写されるような、前の人生の僕みたいな男子生徒だった。殺した理由は、「ずっと嫌いだった」というもの。殺人を強いられる、という状況はデスゲームの一側面に過ぎない。


 生き残るためという大義名分を得られる、そうした面もデスゲームにはある。


 正直、堂山英雄の退場は気が晴れたし、さよ獄に興味を抱くきっかけになった。


 どんな人間であろうと、誰かを殺す可能性がある。誰かの死因になる可能性がある。自分だけじゃないと思えた。


 ただ、都合がいいかもしれないけど、徳川明日加は誰も殺してほしくないし、誰にも殺されてほしくない。誰の死因にも関わらないでほしい。


「え! 徳川完璧じゃね? すご!」


 長谷の底抜けに明るい声に、反射的に視線を向ける。


 振り返ると明日加が衣をつけた白身魚を揚げ終えたところだった。べたべたのペンキのようにべったりしていたであろう衣が、こんがりとしたきつね色に染まっていて、見た目からでもサクサクしていそうなのが分かる。料理番組や外食でみる、揚げたてのフライ。皮付きのジャガイモも、表面が結晶化したひび割れが見える。


「なんでこんな綺麗にいくの? 俺いっつも焦がして見た目終わるんだけど」


「なんでって言われても……」


 明日加は戸惑っている。彼女は小学校のころから調理実習をなんなくこなしていたし、バレンタインデーではほかのクラスの女子生徒がチョコレートを溶かしてもう一度固め、上からキラキラした装飾を施したものを分配する中、ココアのクッキーを焼いていた。そして今感動している長谷と同じように何故料理が出来るのか質問されていたが、「バスケのクラブチームで作りあうことがあって」とか「合宿で自分たちでやることもあるし」と話をしていた。


 でも、実際の理由は違う。漫画で、「ひろしのお嫁さんになりたい」と、料理を練習していた回想があった。元々料理が得意ではなく、包丁で指を切った経験から忌避感すら抱いていたが、田中ひろしに恋をして、彼のために克服したのだ。


「っていうか長谷って自分で料理するの?」


「するする。ポトフ、肉じゃが、カレー、コロッケのディナールーティーンで生きてるから」


「モデルの動画みたいに言ってんじゃねえよ、つうか何その順番、意味あんの?」


「肉じゃがはカレーになるじゃん。ポトフ肉じゃがにしたら手遅れになるけど」


「意味わかんねー」


 げらげらとほかの男子生徒が笑う。長谷はいわゆるクラスのおちゃらけキャラだ。


 さよ獄において課題がクリアできずダイジェストに殺される人物で、誰かに殺されたり殺したりはなかった。料理をする印象もない。


「焦げる……火力強いとか?」


 明日加は周りの男子生徒に構わず長谷の問いかけに答える。


「弱火じっくり派なんですよ。こー見えて。腹弱いから」


「そっか……じゃあ、なんだろ……」


「なんかさ、色白っぽい表面の部分だけトーストみたいになるか、見た目終わるかの二択っていうか」


「あ、じゃあ二度揚げはどう?」


「二度揚げ?」


「うん。少し揚げて取り出して、余熱で中まで火が通るの待ってから、今度は火力を揚げて色をつけるの。今回それでしたから」


「なる! 天才!」


「そんなことないよ」


 明日加は謙遜している。二度揚げ。知らなかった。そういう工程もあるのかと明日加を見ていると、ふいに焦げ臭い臭いがした。視線を向ければ、元村エリと池田まゆが険しい顔で揚げ物をしている鍋を見ていた。


 中には、真っ黒な塊がいくつかある。


「ごめんなさい……タイマー、止まってたっぽくて……」


 池田まゆが今にも死にそうな顔でそばにあったタイマーを指す。どうやら故障らしい。


「お、お昼、皆のぶん買うから……」


 元村エリが続けた。今日は調理実習があることで、お昼を買う、持ってこなくても良かった。


「俺は大丈夫」


 黒辺誠が即答する。


「今日、調理実習ってこと忘れて、弁当持ってきてたから」


 そう言って、黒辺誠はバンダナに包まれた弁当を見せる。調理実習の料理と一緒に食べるつもりだったようだ。


「だから田中だけでいいよ」


 黒辺誠は続けたけど、僕は首を横に振った。


「僕もいいや」


「田中くんもお弁当持ってきたの?」


 池田まゆが問う。


「いや、食欲ない。今日も、調理実習どうしようかなって思ってたから」


 僕は適当に誤魔化す。二人は「ごめんね」とただただ居心地が悪そうにしている。でも、調理実習で食事をするのも、二人に食事を買ってもらうことも、面倒だった。


 そもそも、食事に楽しみだという感覚がない。前の人生からだ。


 母親は僕にメニューを見せて「どれがいい」と聞くけど、僕が選ぶと「ええ、それは良くないんじゃない?」「こっちのほうがおいしそう」「こんなの?」と、店員が横にいようと大きな声で言う。「お母さんが選んで」と選べば、「好きに選んでいいんだよ?」と不思議顔だった。


 それでも食事を残すのは勿体ないこと、という感性はあって、自分の食べきれなくなった分の処理を僕に任せていた。


 だから僕は、母親が許容するメニューと、母親の残飯整理の二つを考慮してメニューを選ぶのが癖になっていた。だから、食べたいものを問われても、ない。好きな食べ物もない。


 そして給食も起因していると思う。


 食べ終えた後一緒に遊びに行く友達もいないし、話しながら食べているわけでもないのに、僕は周りと比べ食べることが遅かった。


 正しい箸の持ち方が身についていなくて、箸で食べ物を掴むことがうまくいかなかったこと、それを何気なく担任に指摘されてから、周りの視線がこちらにきていないときに食べすすめるようにしていた。だから食べるのが遅くて、咀嚼していればもっと遅くなる。


 ほぼ飲み込む状態だったけどそういう姿も見られたくなく、給食の時間は制限時間以内に脱出しなくてはならない迷路にいるみたいだった。


 でも今、箸はきちんと持てる。


 この人生の両親が教えてくれた記憶もある。前の記憶を得るまでは、何気なくしていた食事だけど、思い出してからは食事への価値が自分のなかで下がった。


 一緒にいたい誰かと食べれば違うのかもしれないけど、作りたい誰かも作ってもらう誰かもいなかった。


 だから、田中ひろしのために料理を作りたい徳川明日加の感情が分からない。彼女に報われてほしい、彼女のために田中ひろしを引き渡す。作ってと言われたら、勉強すると思う。でも、たぶんずっと分からない。自分が作ったものが──いや、自分の行動が誰かの喜びに繋がるなんて、想像できないから。


 


 調理実習を終えた昼の休憩中、僕は校内を散策しながらスマホを見ていた。


「田中」


 かけられた声に心臓が止まるような錯覚がした。振り返ると、黒辺誠がいた。右手には弁当を包んだバンダナ、左手にはジャムパンがある。


「ど、どうしたの」


「焦がしたのほかの班にもバレてたみたい。貰ったんだけど、俺弁当あるからあげる」


 そう言って黒辺誠は僕にジャムパンを渡す。


「ありがとう……」


「全然」


 そう言って黒辺誠は僕に並走する。どこに行くつもりか分からないが、方向が一緒なのだろうか。突然去るのも不自然な気がして一緒に歩く。


「調理実習好きじゃないの?」


 黒辺誠が問いかけてきた。


「え」


「元村たちが焦がしたとき、反応薄かったから」


「あぁ……まぁ」


 僕は言葉を濁す。


「人がべたべた触ったもの食べたくないって人もいるだろうし、田中がどうか分からないけど」


「僕は……食べられればいいっていうか、好きな食べ物とかないから……面倒だなとは思う」


「あはは、ちょっと気持ちわかる。面倒だよね。俺も、メニュー選ぶ時、本当になんでもいいってなるから」


 だろうなと思う。黒辺誠が興味を抱くのは、命の取捨だ。


「それで……妹さんに?」


「うん。身体弱いから家でできる趣味として、料理にハマったっぽくて。頼んだわけじゃないんだけど……助かってるんだよね」


「そっか」


「……あ、じゃあ俺はここで」


 黒辺誠は曲がり角を曲がっていく。どこかで一人で食べるのだろう。


 黒辺舞が病弱。


 ただ単に設定上の病弱なのか、サイコパスゆえに病的な虚言壁で適当を言っているのか、代理ミュンヒハウゼン症候群に近いものか。分からない。


 僕は手元のスマホで学会のホームページにあるPDFファイルを開く。


 子供を対象とした場合が多い、その周囲による疾患。


 曲解覚悟で特徴を簡素化すると、健気に看病するいい人、という同情や注目をひく為、自分がある程度支配できる存在を弱らせるというものだ。たとえば親が作為的に子供に毒を盛り、虚弱体質に見せかけたびたび入院させては、看護師や医者、周りの保護者から「よく頑張ってる」といった称賛に満たされ、同じことを繰り返す。


 厄介なところは、褒められたい、認められたいという感情が原動力であり、弱らせている対象を傷つけたいといった攻撃的な感情を伴わない場合が多いことだ。


 ただ、黒辺誠は分からない。同情を引き自らの立ち位置を有利なものとする利己性と、妹を傷つけたいという攻撃性の両方を満たす為の可能性もある。


 スマホから顔を上げ、僕は黒辺誠の向かった先とは反対方向へ歩き出す、その時だった。


「あっ」


 誰かとぶつかりそうになり、寸前のところで一歩下がる。明日加だった。


「ごめん」


 僕はすぐに謝る。彼女は「私のほうこそごめんね、大丈夫だった?」と心配そうな顔で僕を見た。


「大丈夫だよ」


「でも、なんかすごく暗い顔してたから……」


 黒辺誠とデスゲームについて考えていたから。なんて言えるはずもない。「テストのこと考えてて」と簡単に答える。


「テストってまだ先じゃない? オーストラリアの前だけど……」


「うん、そうかも」


 黒辺誠と会話をした直後だからか、うまく返事が出来ない。


「ひろし今時間ある?」


「うん、どうしたの? なにかあった?」


「ちょっと来てほしい」


 明日加は周囲を少し確認するそぶりを見せた。僕はそのまま、目的地を言わず歩き出した彼女の後を追った。


 到着したのは、普段授業を受ける本校舎と渡り廊下で繋がっている、科学室や美術室など特別授業が行われる特別棟の広場だった。人の気配がなく、本校舎から流れる昼の放送だけが微かに聞こえる。


「調理実習、何も食べてなかったでしょ」


 二人で渡り廊下そばの段差に腰掛けていると、明日加はラップに包んだポテトと半分の白身魚のフライを僕に見せた。


「あ……」


 どうやら半分取っておいてくれたらしい。


「ありがとう……でも、明日加はお腹すかないの? 部活もあるのに」


「部活のあと、お菓子とか食べるし、それにバレンタインくらいしかひろしに作ったりしなかったな~なんて思って。ほら、彼女になったわけだし? まぁ調理実習だから私だけが作ったわけじゃないけどね」


 いたずらっぽく明日加が笑う。


「長谷褒めてたじゃん」


「え、見てたの?」


 意外そうに明日加が聞き返す。


「長谷声大きいから、聞こえるよ」


「明るいよね長谷、小学校の頃の……名前出てこない、3年の頃の隣のクラスの先生いたじゃん……」


「小島?」


「そう! 小島先生くらい声大きいよね」


 明日加は微笑む。懐かしいなと思う。田中ひろしとして生まれて僕として生きているから、小学校中学校とおそらく田中ひろしらしい過ごし方はしてないけど。


「あ、ほら食べたほうがいいよ。ゆっくり食べれなくなっちゃう」


「あ、うん」


 僕は白身魚のフライを食べる。


「時間たってるから、ふにゃっとしてるかもだけど」


 ラップに包んでいたぶん、水分で柔らかくなっているけれど、ところどころ揚げたての名残がある。


「おいしい」


「そう? 良かった。実は衣にちょっと塩と胡椒混ぜてるんだよね」


「隠し味ってこと」


「うん。お母さんがやってるから」


 明日加はどこかほっとした顔をしている。


 ──ゆっくり食べれなくなっちゃう。


 昼休憩のうちに食べたほうがいいと誰かに伝えるとき、たぶん、「終わっちゃう」といった言い方をする人間のほうが多い。前の人生、小学校で同じ人が連続して担任になることはなかった。給食の時、六年間、六人の教師から急かされ続けたけど、「休み時間が終わるよ」


「授業始まっちゃうよ」だった。


 ──ゆっくり食べられなくなっちゃう。


 明日加と話しながら、明日加の言葉が頭の中で繰り返される。ゆっくり食べても、問題ないとしてくれてるみたいだ。


 もう箸の持ち方は覚えてるし、飲み込むように食べることもない。だから、もう速度なんて関係ない。明日加はただ、田中ひろしに言葉をかけただけだ。


「ありがとう」


 僕は徳川明日加にお礼を言う。


「そんなしんみりお礼言われることじゃないけど? やめてよ、調理実習のだし、半分こだし」


「嬉しかったから」


「なに? やだ! そういうのもっとちゃんとしてるの作ってるときに言ってよ」


 明日加は手をぶんぶん横に振る。


「ちゃんとしてるのってなに?」


「え……フルコースとか?」


「フルコース……?」


 思案の果てに突拍子もない答えが飛び出してきた。


「フィッシュアンドチップスも、ちゃんとしてるでしょ」


「えぇ~調理実習だもん」


 明日加の謎のこだわりに、戸惑っていれば、彼女は「決めた!」と僕を改めて見る。


「デートの時、私お弁当作ってくるから、そのとき、ありがとうって言って」


「いつでも言うよ」


 そういうと明日加は「やだ!」とふざけながら笑う。やけに子供っぽい振る舞いにおかしくなりながら、僕は彼女と過ごした。






 夏休みが始まるまで、行事は4つある。中間テストと、体育祭、オーストラリアのホームステイ、そして期末テストだ。


 体育祭は、高校進学のときのパンフレットに文化祭とならぶ学生生活の二代行事として取り扱われていたけれど、直近に中間テストもあり栄嶺高校ではそこまで重要視されていない。体育祭委員として運営に関わるならまだしも、一般生徒は体育祭近くの体育が、種目であるリレーや騎馬戦になる程度だった。


 そして四月現在、体育祭の練習をするにはまだ早いが、しばらくすれば体育祭の練習になるので迂闊に何かを始められない、なんてカリキュラム都合と行事都合が直撃した体育は、バスケットボールが行われていた。


 男子と女子は分かれているけど、体育館はバスケットゴールが4つあり、壇上側では男子が後方側では女子の試合が同時展開されている。


 そして明日加は水の中を自由に泳ぎ、なおかつ舞うように飛ぶイルカのように、縦横無尽にコートを駆けていた。ドリブルをしながら走っているのが嘘みたいだ。それに男女問わずほかの生徒がドリブルをした後、ゴール近くで立ち止まりシュートをする一方、明日加はゴール下まで加速したまま流れるようにボールを投げるし、ボールは吸い込まれるようにリングに入っていく。ショーを見ているみたいだし、実際、明日加とほかの女子生徒の実力に差がありすぎる。味方の女子たちも分かっているのか、自分にボールが来るとすぐに明日加に回していて、体育の授業というより徳川明日加のバスケットショーとして垂れ幕でも下げているほうが最もらしい。


 そして男子側も男子側で一方的な試合が繰り広げられている。


「黒辺と堂山一緒のチームにしたの誰だよ」


「先生じゃん? 四月だし適当にチーム組ますとぼっち出るから」


「これ十分適当に組んでるだろ。どうにかなんねえのこれ? 黒辺助っ人に貰えない?」


「まず黒辺たちに勝たないと黒辺貰えないだろ」


「無理じゃん」


 同じクラスの男子たちが呆れながら言う。男子たちはサッカー部だ。一定数のコミュ力と運動神経を持たないと、サッカー部には入れない。いわば精鋭。帰宅部の僕から見ても一方的な試合が繰り広げられていると分かるのだから、彼らから見ればなおさら一方的だと分かるのだろう。


「つか堂山がこえーわ。ブロックの勢いどうなってんだよ。あんなん反則だろ」


「体育で怪我したくねえ」


 堂山は鍛えているのか体質なのか、運動部でもないのにがっしりとしているし、筋肉だなというのが傍目に見て分かる体格をしていた。歩いているだけでも圧を感じる。


「黒辺ーごめーん!」


 不思議に思っているとコートラインを大きく超え、真横に長谷が吹っ飛んできた。


 どうやら相手チームを避けるにあたって走っていたが、勢い余ったらしい。それでもなんとか黒辺誠にパスをして、自分は壁に衝突している。


「いってて」


 長谷は帰宅部でバイトをしている。怪我レベルまで全力を出す必要はないのに。


「保健室行く?」


 僕は長谷に声をかける。


「大丈夫、大丈夫、いけるいける」


 長谷はそれまで着ていたジャージを脱ぎ、腰にまき始めた。コートの中では長谷からボールを受け取った黒辺誠がドリブルをして、自分の陣地から相手のゴールへ軽く駆けている。


「えっと田中……くん?」


「うん」


 長谷はおそるおそる問いかけてくる。多分漫画なら田中ひろしはすぐ名前を覚えてもらっていただろうが、僕だから曖昧そうだ。田中ひろしは、明るいとまでは言えないけど僕より性格は暗くない。だから覚えている限りで田中ひろしっぽく話をしようとしたら、明日加に「高校デビュー?」と言われて、なんだかものすごく変な顔をされたのでやめた。


 田中ひろしとして生まれたから、田中ひろしの模倣が可能だと思ったけど、どうやら駄目らしい。田中ひろしっぽいものどころか、暗い人間の演じるさよ獄の田中ひろし物真似になるのかもしれない。


「ありがと、俺長谷! じゃ!」


 長谷は簡潔に言って試合に復帰する。知ってる、とは言わなかった。


 自分が目立つ自覚がないようだ。声が大きくて、クラスでいつも笑っているから、多分さよ獄の知識がなくても長谷の名前を知らない人間は少なそうなのに。


 でも不思議だ。長谷は声が大きいし、下手すれば堂山より大きい。廊下で長谷の笑い声が聞こえることなんて、一度や二度じゃない。


 でも、堂山のような圧を感じない。押し付けがましさもない。視界になじむ。


「黒辺パス!」


 ぼんやり試合を眺めていると、堂山の声が響く。黒辺誠が徹底的にマークされていた。しかし黒辺誠はそのままの位置でシュートフォームに移行する。


「黒辺パス!」


 ゴール近くにいる堂山の声が繰り返されるが、黒辺はそのままシュートを打った。明日加でも狙わないような、スリーポイントシュートラインからかなり遠い位置で放たれたボールは、まるで予定調和であるかのように弧を描き、リングにかすることなくゴールにおさまった。


 しん、と一度静まり返った後、「すっげー!」と男子たちの声が響く。女子たちは声を発さず、黒辺誠に見惚れている。


 黒辺誠は中学での表彰経験や、新入生代表挨拶に選ばれたことからも、優秀な人間として有名だった。英語教師が黒辺誠を指名し、難題をつきつけ間違えさせたうえで解法を教える──なんて授業の進め方をしようとしたときも、黒辺誠は平然と最適解を示してみせた。


 だから、黒辺誠は一目置かれるどころか、入学早々圧倒的な立ち位置にいた。


 けれど決定打はこれだったんだな、と思う。さよ獄に描写されていないだけで。


 性格がよくて優しいという要素で注目が集まることはない。


 皆、能力に惹かれる。才能に惹かれる。結果だ。地道にこつこつ、なんていうけれど結局派手なものが勝つ。地道に頑張っていても、それが当たり前にされるしそれが報われるとも限らない。


 なのに何にもなれないものも、何も持ってないことも許されない。派手で華やかで明るいものにならないと大切にされない。


「ありがとー! 黒辺! 助かった! めっちゃごめん! 痛かったよな」


 長谷が言う。


「ううん、それより長谷、壁とかぶつかってたけど大丈夫だった?」


「まじでロケットになったかと思った」


「あはは」


 黒辺誠が笑っている。楽しくないだろうけど、周囲も笑っているから合わせている。


 でも、黒辺誠が心から笑うのは、許されないことをしているときだけだ。




 体育を終えた僕は、廊下に立っていた。


 栄嶺高等学校は、教育重点校──いわば生徒が一定の学力をもち、学校側も発展的な教育の場を受けられる設備を整えた高校として国の指定を受けている。


 そのため、周辺の状況に加えほかの高校より広かったり、最新の設備があったりするけど、その代償として教室と教室の距離があったり、移動が大変だったりする。


 そして僕らの教室から男子更衣室は近いものの女子更衣室は遠い。男子は男子更衣室で、女子は教室で着替えることになり、僕は廊下でほかの男子たちと一緒に女子の着替えを待っていた。体育が終わっても黒辺誠の話題性は相変わらずで、さながらヒーローとして男子たちに囲まれている。


 僕はそっと群れから離れ、スマホを取り出す。


『虹月丘連続殺傷事件』


 今から一年前、黒辺誠の住んでいた地域で発生していた連続通り魔の事件だ。被害者は少女から女子大生とすべて女性。犯行中、第三者に発見された場合をのぞき、被害者は手首や足首、頭部に顔の一部を切り取られるなど。残虐な犯行で地域を震撼させた。


 犯人は、黒辺誠とは無関係の男。さよ獄の漫画では語られていない、無から湧き出た殺人鬼。


 さよ獄とは別にもともといたのか、さよ獄でもいたが描写されていないのか、なにも分からない。


 しかし、黒辺誠と関係している。


 僕は空色中学──黒辺誠の出身中学を入力し、刺傷と物騒なワードを追加で入れる。


『女子大生刺傷 虹月および星見伏連続通り魔の関連性』


 ヒットしたネットニュースの文字列を目でなぞる。


 タイトル通り、女子大生が男により切りつけられた事件だ。そして、連続通り魔の犯人による最後の事件でもある。


 被害者は野島さやか、21歳。教育実習生として黒辺誠の中学──空色中学で研修中、参加していた生徒会での朗読会が中止となり、学校から帰宅となったところを襲われたらしい。ニュースサイトに掲載されている公式配信には、犯人が逮捕される様子とともに野次馬が映っているが、そこに黒辺誠の姿がある。


『空色中学 朗読会』


 続けて検索すると、幼稚園のホームページのブログがヒットする。


 空色中学生徒会による朗読会は、毎年の恒例行事らしい。去年以外はすべて幼稚園で行われていた様子だった。


 そしてネットニュースを読むに、朗読会は学校で行われている。


 おそらく理由は、近隣で通り魔事件が多発しているからだ。事件が起きている中、中学校の生徒の身も幼稚園生の身も危ない。


 その采配は正しく、近くで女子大生が襲われた。


 僕は次にSNSサイトを開き、空色中学の生徒を調べていく。ネットで個人が特定されるようなことを書かないなんてプリントが定期的に配られているけど、どんなに危険性を訴えたところで書く人間は書く。


『野島やば』


 在校生による鍵アカウントとの会話だ。鍵アカウントは発言こそ公開されないものの、話をしている相手が公開アカウントであれば話の内容は予測できる。おそらく鍵アカウントが誰、と言ったのだろう。『教育実習生だよ』と返事が続く。


『男子にえこひいきしてたり、会長の妹が作ったもの勝手にとってくビデオ流れて途中退場してった』


『じゃあ教師になれない?』


『やらかしても先生になれるんだ』


 おそらく、鍵アカウントと野島さやかの進退について話をしている。ここから分かるのは、野島さやかが朗読会で帰宅するようなトラブルに見舞われ、意図せず早期帰宅を余儀なくされたことだ。


 そして通り魔に狙われた。


 生徒会長は、黒辺誠。会長の妹は、黒辺舞。通り魔を焚き付け連続通り魔を起こしたか、野島さやかが邪魔になって殺させようとしたか。


 もしくは、ただ殺戮の衝動か。


 黒辺誠には、殺戮への極めて強い欲求がある。慢性的な退屈感や日常への閉塞感はサイコパスの傾向として見られるものだが、殺戮欲求および人の命を奪うこととサイコパスであるかは別問題だ。


 猟奇殺人や大量殺人を行う者をサイコパスだと称する人間は多いが、実際のところサイコパスの素因を持つ者が、良心の欠如による行動の多彩化、衝動性による実行性のため殺戮を行いやすいだけで、サイコパスが必ずしも殺戮に興味を抱くかは異なる。


 たとえば、人を騙すことに強い関心を持つサイコパスは、周囲の人間関係を壊すだけにとどまり人の命を奪うことに興味を抱かない場合もあるし、支配を好む人間は共感性の薄さから合理的な判断を求められる現場で、法や倫理に守られた形で活躍している場合もある。知能指数が低ければ、問題を起こす暴力的な人間として扱われ、人生が始まりすぐ法の下、生涯の大半を懲役の消化で終えることもあるだろう。全員が全員、四肢や五感に不便なく生まれてくるわけではない。


 しかし、黒辺誠の場合は異なる。


 元来の知能指数の高さ、身体能力、すべてにおいて完璧な状態で生まれた。家庭内の経済状況、教育への投資状況、両親の彼への思想、周囲の環境、人間ひとりが育つ上で、なにも、問題はない。むしろ恵まれている。


 そのうえで、サイコパスの素因が重なった。


 人間が一生を始めるにあたって最高の環境で、惨劇を作り出す彼が完成した。


 どうにかならなかったのかと思う。それだけ持っていたら、一つくらい諦めてもいいだろうに。大量殺人なんてせず、普通に生きればいいのに。


 でも、普通に生きられない僕が言うのもおかしいかと考え直していると、スマホに通知が入った。


 明日加からだ。


『今日一緒に帰らない?』


 帰りのホームルームが終わり、僕はいつも以上に淡々と支度を終えた。


「あのさ、体育祭のことなんだけど」


 すでに明日加は教室を出ている。僕も教室を出ようとすると、堂山が勢いよく立ち上がった。


「帰宅部組で、今のうちに練習はじめとかない?」


 それまで放課後の始まりにどことなく浮きたっていた皆が、しんと静まり返る。


「え」


「体育だけじゃ足りないと思ってさ、テストもあるし、先にちょっとずつやるのどうかと思って」


 誰とも分からぬ疑問の声に、堂山が答えた。


 堂山は体育祭委員だ。ついでに応援団も兼任している。本来体育祭委員と応援団は別の人がするのが好ましいらしいけど、クラスで誰も立候補する人間がいなくて、堂山が「俺やりたい」と手を上げた。2軍3軍あたりだったらクラスから失笑されるような行動だが、堂山は、声や体躯もあってか、いわゆる1軍カーストトップ組。やる気に満ち溢れていても引かれない。頭も悪くなく、馬鹿にされたりいじられる所もないから強者であることに変わりはない。


 正直、漫画で見る分には問題ないが同じクラスにいるという難しさは感じていた。


 黒辺誠は教室を支配できるが、する気はない。クラスをこうしたいという方向性を持つこともない。


 一方、堂山英雄は教室を支配できる素質を持った上で、クラスをこうしたいという方向性を持つ。それが、僕には苦しい。


 これから先体育祭に向けて練習させられるのか。


 辟易していると、凛とした声が響いた。


「ごめん、今日は妹の病院に付き添わなきゃだから」


「えぇ、黒辺がいないと始まらないだろ!」


 堂山の言う通りだ。うちのクラスは、運動部が少ないわけじゃないけれど、体育祭に熱意を持ち取り組みそう、かつ運動神経のいい生徒は限られている。いわば堂山と黒辺誠ありきだった。


「そんなことないし、ほかの皆に失礼だよ。俺がいなくてもどうにかなるし」


 黒辺誠は謙遜しつつも堂山を牽制した。堂山が鬱陶しいのか、それともクラスの皆を慮る人間を演じているのかどちらかは分からないし、しいて言えば気分かもしれない。


「そんなことない! お前しかいないんだって!」


 堂山は悪気がない。というか直球すぎるくらい正論だった。体育祭で、うちのクラスの頼みの綱は黒辺誠。夏にクラスメイト全員皆殺しにしようとそれだけは確実だった。


「体育祭は、みんなで頑張るものだよ。でも妹には、俺しかいないから」


 黒辺誠は堂山英雄の返事を待たずして教室を出ていく。


「ねぇ、黒辺くんの妹さんって……」


 女子の一人が確信めいた響きを持ちながら切り出す。するとそれまで黙っていた池田まゆが躊躇いがちに口を開いた。


「調理実習の時、入院したことあるみたいなこと言ってて……身体、弱いみたいなことも……」


「堂山、謝ったほうがいいんじゃねえの」


 サッカー部の男子たちが言う。


「え」


「ジジババでもねえしさ、入院って、結構悪いってことだろ。さっきしつこかっただろ」


「でも、俺、知らなくて……それに入院って言ったって怪我とかかもしれないし……」


「怪我だって治んねえ怪我かもしれねえだろ。足だったら歩けねえとか、色々あんだよこっちは。お前帰宅部だから分からねえだろうけど」


 サッカー部の男子たちは吐き捨てるように続けると、教室をぞろぞろと出ていく。


 黒辺誠が出ないなら出ない。堂山に協力もしたくない──そんな主張をうっすらとにじませながら、ほかのクラスメイト達も去っていく。僕も堂山に恨みはないながら、それとなく追従した。存在感の薄さが役に立った。ほっとしながら、僕は学校を出て、裏門に回っていく。


 住宅街のそばの公園で、陰に潜むように明日加が立っていた。


「ごめん、ちょっと色々あって」


「何かあったの?」


「堂山が帰宅部で今のうち体育祭の練習しない? って言って……黒辺が妹の病院行くからって抜けて……便乗してきた」


「あぁ、妹さんいるって調理実習の時に話してたね」


「聞いてたんだ」


 黒辺誠は女子から「声もかっこいいよね」と褒められていたけど、長谷ほど声は大きくない。だから明日加が会話の内容を知っていることは意外だった。


「まあね」


 明日加は短く返す。


「そういえば明日加、体育、お疲れ様」


「ありがと~。普段の部活より疲れた」


 明日加と一緒に公園を出る。みんなが使う通学路より一本奥まった場所だから、生徒の姿はない。


「なんか、一方的な試合だったね」


「私そんなやりすぎてた?」


「いや、みんな明日加に頼りすぎっていうかさ、明日加にパス回しておけばいいって感じだったから」


 言いながら批判的だったと反省する。


 前もこんなことがあった。明日加と僕が小学校6年生の頃だろうか。彼女は地元の新聞に取り上げられることとなった。学校があるから届いたプリントに記入する形だったけど「バスケをどうして続けているか」の返事に苦悩していた彼女に、僕は「楽しいからでいいんじゃない?」と言ってしまった。今思えば、馬鹿なことを言ったと思う。明日加みたいに才能がある人間は周囲から奉仕を望まれる。


 応援してくれるみんながいるから頑張ってます。


 みんなのためです。


 たとえ応援してくれる人間が一人もいなくて、むしろ中傷される機会のほうがずっと多くても、みんなに感謝しなくてはいけない。だから最適解は「みんなが応援してくれるから」だった。実際明日加から言われた。「こういうのって応援してくれるからって言わなきゃいけないんだよ」と。


『でも応援してもらえなくても続けていいんじゃない』


 僕は僕の人生を思い出さなくても、卑屈さがにじみ出ていた。


 明日加はその言葉を受け、黙った。当たり前だ。こんな僕の言葉で助かる人間なんていない。駄目だった。ようするに僕は失敗した。


 田中ひろしだったら、徳川明日加に寄り添った言葉で彼女のインタビューの相談にのっていて、きっともっといいインタビュー記事が出来ていたはずなのに。過去の自分の行いを思い出して無性に死にたくなる。


「ごめん」


 僕は明日加に謝罪する


「なにが」


「明日加のチーム、ディスったから」


「ディスったの? ひどーい」


 明日加はからかうように言う。ありがたいなと思った。フォローしてくれている。


 他人から気を遣われるのは、配慮されている立場なのに勝手に息が詰まる。でも彼女の気遣いは、呼吸がしやすい。




「あ、ねえ」


 歩いていると、それまで前を見ながら話をしていた明日加が、何か思い出したようにこちらに振り向いた。


「ん?」


「私のどこが好き?」


「え……?」


「だって告白してくれたじゃん」


 明日加が得意げに笑う。教室やクラブ、部員たちの前では無邪気だけど、僕には──田中ひろしには、こうしてお姉さんっぽいような笑みの時もあれば、妹みたいな表情をしている気がする。


「ね、私のどこが好きなの?」


「え……せ、世話焼きなところ?」


「何それ、ひろしはお世話してくれる人は誰でも好きになるってこと?」


 本当は、ゆっくりでいいって言ってくれたところ、だけどそれは田中ひろしっぽくない。そんな薄暗い好意を向けられても嬉しくないだろう。僕なんかに好きだと思われたり褒められたりして嬉しい人間なんていない。


「じゃあ、子供みたいなところ……」


「ロリコン」


「えっ」


 明日加が足を止め、じと……と音がしそうなほどの軽蔑の目を向けてくる。


「ま、待って、考える」


「そんなに悩むくらい好きなところないんだ……ただ、彼女が欲しかっただけとか……? 身近にいた手に入りそうな女、捕まえただけなんだ……」


「そ、そういうわけじゃなくて、て、手に入りそうなんて思ってないし!」


「じゃあバスケが得意ところとかさ、即答してもいいわけじゃん」


「だってバスケが得意な人はいっぱいいるし、バスケが得意な人が好きなら女子バスケ部全員好きってことになるよ……?」


「ひろし女バス全員好きなの⁉」


「明日加が言ったんでしょ、バスケが得意なところって」


「だって私って言えばバスケじゃない?」


「明日加がバスケが得意なだけで明日加は明日加だよ」


「得意なだけってなに……?」


「そういう意味じゃなくて……」


 焦っていると、明日加がふいに僕をじっと見つめてきた。そして、堪えきれなくなったようにくすくす笑い始める。


「え、明日加?」


 やがて明日加は「なんでもない、あはは」と肩を震わせ、また歩き出した。


「私はね、ひろしのそういうところが好きなんだ」


「そういうところってなに」


「ふふ、どこでしょう~」


 明日加は僕を置いてどんどん進んでいってしまい、僕は慌てて追いかける。


 やけに楽しそうな明日加に戸惑いつつも、嬉しかった。


 明日加が楽しそうで、僕は嬉しい。


 ──こういう時間が、ずっと続けば、僕はまともになれるのかな。


 泡のように浮かぶ浅はかな期待を殺す。


 徳川明日加が田中ひろしを好き、という設定がなければ、こうはならなかった。


 誤解しないよう自分を戒めつつ、限りある時間の中、僕は明日加と帰宅した。


 体育祭が近づき練習の重要性が高まる中、比例するように悪天候が増えていた。堂山が目に見えて焦っていて、最近では朝練習をしようと話をしているらしい。


 晴れていたらどうなっていたことだろう。


 古文の授業を教室で受けながら、雨粒を纏う窓に視線を移す。


 この時期に降る雨の名前は色々あるらしい。春雨なんてストレートなものから、桜雨に花時雨、催花雨と、春に咲く花にちなんだもの。


 そこから派生して、古文の授業では女の子を花に例える慣用句についての話があった。


 花も恥じらう、両手に花、とか。


「しかしながら、落花流水という言葉があるように、男を花で例えることもありますから。結局のところ、好きな女を花で例えた人間が、たまたま昔は多かっただけかもしれませんね」


 投げやりながらそう教師はしめくくり、授業が終わった。僕は自分の席に座ったまま、教室を眺める。


 流水。


 昔の言葉は、水が流れていく様子を示したものが多い気がする。流れない水は腐敗していくばかりだし、腐った水の描写をする詩人は極めて少ないだろうから当然だけど。


 それに流れる水に何かを浮かべれば、近づいたり離れたりするさまを気持ちや人間関係にもたとえられる。万能だ。人は水なしに生きられないし、いつだって必要なもの。イメージもしやすい。世界中、どこでも繋がれる。


「まさに高嶺の花って感じだよね」


「ね~」


 傍の座席で、元村エリが、ショートヘアの女子生徒と話をしている。ひそひそ声で、周囲に聞こえないよう気を配っているが、僕という存在を認識していないらしくこちらにはよく聞こえる。田中ひろしと違い、僕はどこまでも透明人間だ。


 存在感がない、いてもいなくても同じ。そんな特性を生かして、僕は教室の観察を続ける。


 入学式と比べ、教室の人間関係は流水のごとく絶え間なく、くっついたり離れたり移り変わっていた。


『案外、入学式最初の集まりって、違くない?』


 明日加の言う通りだった。特に女子生徒たちが顕著だ。勉強や移動教室で一人にならないため、いじめられないため──いわば自分を守るための相手を知ったうえでの人間関係は消失し、再構築が行われている。


 元村エリと池田まゆも例に漏れない。


 関係解消の果て、それぞれ気を知ったうえで一緒にいる相手を見つけていた。それでいて、互いを認識しようとしない。お互い授業で必要があれば話をするけど、それ以外はぱったりと交流を断じている。ほかの皆も同じ。


 前からこういう空気が苦手だった。


 みんなは、一時的にでも一緒にいる相手、そしてその後に気の知れた相手を見つけられるけど、僕にはその能力がない。


 それに。


「でも、羨ましいよ。顔が良ければ協調性なくてもクールビューティーとか言われるんだから」


「本当だよ。こっちが挨拶しても、どうも、みたいな感じで迷惑そうにしてくるし、あれ私がやったら許されないもん」


 元村エリと女子は密やかに盛り上がりながら、自分たちの前方にいる女子生徒を見る。


 姫ヶ崎ゆりあ。


 一匹狼、クールビューティーという言葉で紹介されることの多かった、さよ獄のヒロイン。


 誰に対してもそっけなく、女子からはああいう形で距離を置かれ、男子生徒からは羨望の眼差しを集めるが、人嫌いというわけでもなく人付き合いが苦手なだけだ。


 資産家の両親のもと厳しく躾けられた彼女は、他者との交流は甘えに繋がると考えており、融資を狙い自分に近づく人間たちもいたことで、心を閉ざしていた。


 そしてデスゲームに巻き込まれ、田中ひろしにより何度も命を救われたことから、徐々に心を開いていく。最初は「あの」「ねぇ」と名前も名字も呼ばなかったのが「田中くん」に変わり、最初こそ助けてもらった田中ひろしの邪魔はしないものの、無視したり静観することが多かったが、漫画の後半、田中ひろしが窮地に立たされた時に彼を助け、「ひろしくん」と呼び方を変えた場面は、多くの読者がさよ獄の好きなシーンとして上げる名場面のひとつだ。


 田中ひろしは、姫ヶ崎ゆりあに一目惚れをしていたらしい。


 一目惚れ。良くわからない感覚だ。男は視覚の発達が女性より優位だから、目で恋をするというけど、女性のほうが色彩を認識する能力が高い、と研究されているような記事を見たことがある。それにアイドルヲタクは男女それぞれいる。


 僕は姫ヶ崎ゆりあを見る。思うことがない。あることをのぞいて。


「姫ヶ崎」


 もくもくと自習をしている姫ヶ崎ゆりあに声をかけるのは──黒辺誠だ。


「黒辺くん、どうしたの?」


「先週出された作文の課題、姫ヶ崎はどうしたのかなと思って」


「どうしたって……きちんとやったわ」


「あはは、どんな題材を選んだか気になったってことだよ」


 冷ややかな姫ヶ崎に反し、黒辺誠はにこやかに話をしている。


 姫ヶ崎に関心を持ち、話しかけに行く男子生徒は同じクラスだけではなく、学級委員会繋がりで2年生、3年生の先輩たちもやってくるけど、姫ヶ崎は距離を取り、壁を作り上げ、向けられる好意を徹底的に拒否していた。


 理由は姫ヶ崎の性格もあれど、女子としての処世術らしい。ネットで読んだ。向けられる好意は潰すくらいにしておかないと、変な人間が勘違いしたり、期待するらしい。


 とはいえ徹底しすぎると逆上されるため、さじ加減が必要で、いい塩梅を狙わなくてはいけない──というところまで見たけど最終的に「オスは皆死ねばいい」と強い主張が視界に入り、悪いことをする人間が悪いじゃ駄目なのかと、色々思考が止まらなくなって読むのをやめた。


「黒辺くんも姫ヶ崎ゆりあが好きなのかな」


「最近話してるよね」


 元村エリたちの話し声に、棘がまざる。


 僕が姫ヶ崎に思うことこそ──姫ヶ崎ゆりあと黒辺誠の関係性についてだ。


 最近、二人がよく話をしているのを目にする。お互い先生から能力を買われたことで、学級委員になることを強いられた、というのもあるだろうが、どちらかといえば黒辺誠が近づいているように見える。その距離の詰め方も、自然だ。ほかの男子生徒は人間と人間の関わりを欲し、拒絶されている。黒辺誠もまだ受け入れられては無いだろうが、黒辺誠が一枚上手であり、主導権を握っているように見える。


 姫ヶ崎ゆりあと、黒辺誠。


 漠然と、ペットと人間という言葉が浮かぶ。実際黒辺誠に恋愛はおろか性愛の感情はないだろう。


 何を目的として姫ヶ崎ゆりあに近づいているのだろうか。


 デスゲームに参加させるため……?


「未来科学にしたわ」


「あ、じゃあ俺と一緒だ。姫ヶ崎も科学好きなの?」


「環境問題は受験の時にしたから、日常を題材にするのは、受験対策で、嫌というほどしたし、消去法よ」


「あぁ懐かしいな。結局受験で出たの、大気汚染問題だったよね」


 黒辺誠が言い、僕はぐっと喉が詰まるような錯覚がした。


 作文──いや、文章を書くことが、嫌いだ。元々じゃない。


 田中ひろしとして生きるようになってから。


 中学校三年生の冬のこと、高校受験対策の授業が始まり小論文を書く授業があった。テーマは好きなものについて、という風変わりなものだった。


 本来受験の小論文は社会問題や国際問題、環境にまつわることだが、ある種テンプレート化されており、対策されつくされている。それを憂いた高校側が本来の生徒の能力を知りたいと、あえて自己紹介的なテーマを出したらしい。もはや暗記レベルで小論文を頭に入れた生徒は大混乱に陥り、合格確実と言われていた生徒が軒並み落ちる──なんてことが起きたのが僕らの前の代で起きた。


 そのため、好きなもの、とシンプルなテーマで小論文を書くことになったけど、僕にはこれといって好きなものがなかった。適当に古文や歴史など、受験ウケがよさそうなものを選ぼうとしてみたけれど、明日加がバスケを選ぶさまを見て、やめた。


 そして選んだ題材は、好きなものではなく他人の好きなものについてだった。いわゆる、女の子らしいものが好きな女の子と、女の子らしいものが好きじゃない女の子について。


 結論は女の子らしいものが好きじゃなくても、別に誰も困らないのだから好きでいい、というものだったけど、教師から女の子らしいという表現はどうなのか、差別的だと言われた。


 フリルやピンクを好まない明日加みたいな女の子もいて、でもフリルやピンクを好む女の子もいるし、フリルやピンクの女の子らしさに憧れる男もいる──それを伝えたかったけれど、教師はフリルやピンクを女の子らしいとすること自体アウトらしかった。


 色々伝えたいことを言ってみたけど、どうにもならなくて、どうしたら伝わるか色々考えていたら何も浮かばなくなって結局題材ごと捨てた。


 昔の思い出に囚われていると、「やばい!」と長谷の声が響いた。自然と視線が向く。クラスの皆もそうだった。長谷の声は大きいし響く。でも、嫌な注目の集め方じゃない。馬鹿やってるなぁ、というのんびりした感じだ。見下してるというより、のんびり構えられている。本人にとっては、緊急性があるだろうけど。


「お前のやばいは聞き飽きたわ、なんだよ今度、あれか、お前の好きなコンポタ味のポテチでも出たんか」


「違うって! 堂山! 大怪我! 体育倉庫の下敷きになったって……!」


 その言葉に、しん、と皆が静まり返る。


「……いつ?」


 しかし一人だけ、すぐに反応を示した生徒がいた。まるで、知っていたかのように。


 黒辺誠だった。


 堂山は体育祭に向けた練習の準備をしようとして、休憩時間、体育倉庫に向かい、試合の得点を表示する電子スコアボードの下敷きになったらしい。


 制限時間も表示できる高性能タイプで、ファウルなど違反の回数も計測可能、つまりシンプルな日めくりカレンダーのような得点表ではない分、重量も凄まじいもので、鍛え上げた堂山とはいえ人間の半身の機能を一瞬にして奪ってしまった。


 入院期間は最短半年。クラスメイトの反応はといえば当初は驚き、だんだんと怪我の状態が知れてくると、直前の黒辺誠とのやり取りもあり、妹を軽んじた罰ではないかと言うものが出始め、日が過ぎると話題にすらならなくなった。


 もはや堂山は僕以上に空気だ。それに拍車をかけたのが、黒辺誠本人の反応だった。


 黒辺誠は練習に参加できない分、堂山に練習方法を助言していたらしい。その結果事故を招いてしまったのだと暗い顔をしていた。クラスメイトは彼を励まし、堂山本人も黒辺誠が気に病むことを望まず、クラス全員が参加しているトークアプリの部屋で、気にしてないこと、黒辺誠を責める人間が出ないよう釘をさしていた。


 でも、僕は知っている。


 堂山の事故の状況は、話を聞けば聞くほど、さよ獄で黒辺誠が仕掛けたトラップの再現だった。


 漫画では電子得点スコアボード一台の倒壊ではなく、折り重なったアナログ式のスコアボードが犠牲者に降りかかった。被害者は元村エリ。堂山ではない。そして即死だった。死因は頭部外傷。詳細は簡単に説明できるけれど決して説明してはならないありさまだった。


 黒辺誠は、デスゲームでクラスメイト全員を死に導いた。


 しかし、何人殺すかにこだわっていない。その時、その瞬間、クラスに存在している人間をデスゲームに参加させたいだけで、わざわざ取っておくことはしない。


 デスゲームが始まるまでに邪魔な人間がいれば容赦なく排除する。


 痛いほど分かった。


「黒辺さ、今日遅れそうなんだけど勉強会行ってもいい? 補習入っちゃって……」


「全然問題ないよ、姫ヶ崎も大丈夫だよね?」


「どうして私に聞くのよ、黒辺くんのおうちでしょう?」


 放課後の教室で、黒辺誠の座席に集う生徒たち。彼と話をしているのは、長谷と姫ヶ崎だ。テストが近くなり、連日黒辺誠の家で勉強会が行われている。参加メンバーは日によって違うみたいだけど、長谷と姫ヶ崎は大体いる──姫ヶ崎に関しては毎回参加しているようだった。


 姫ヶ崎は、田中ひろしに幾度となく助けてもらったことから、感謝をフックにして信頼関係を築いていく。一方、黒辺誠は会話のみで親交を深めているようで、二人の仲は急速に近くなっている気がする。


 姫ヶ崎を次の標的にしているのだろうか。


 黒辺誠の目的が分からない。デスゲームを開くにあたって、姫ヶ崎の家の資金をあてにしている?


 しかし黒辺誠のデスゲーム資金は、学校にある職員用パソコンを使い、教師しか利用できないサーバーにアクセス、周辺企業にフィッシング詐欺を働き意図的に送金させたものだ。本来職員用パソコンも教師しか利用できないサーバーも生徒は使えないが、黒辺誠を信頼する教師は多く、また手伝いとしてほかの生徒に見せられないようなファイルの整理をさせ、善意──偽りに違いないが、黒辺誠の見せかけの善意を利用する人間もいた。


 その結果、黒辺誠は多くの資金を集め、デスゲームを開いた。大胆な犯行だが、黒辺誠が自分で選んだ結末を思えば、犯行の発覚は視野に入れており、デスゲームを開く邪魔にすらならなければそれで良かったのだろう。


 どうせ、死ぬ。


 引き返す気がなかったからこそ、後戻りできない道を選んだ。


 退屈を紛らわす、一瞬を求めて。


「ひろし」


 黒辺誠と姫ヶ崎を眺めていると、こつん、と机を指先でつつかれた。明日加だ。教室で話しかけてくることは、初めてだった。みんなの前で、田中ひろしの名前を呼ぶこともだ。


「どうしたの……?」


 色々な意味でどうしたのか。問いかければ、明日加は僕を見下ろすように見つめる。


「な、なに」


「テスト前で部活休みになったからさ、二人で勉強しようよ」


「いいけど……」


「じゃあ、行こ」


 そう言って明日加は僕の鞄を掴む。あまりに大胆な行動にどきっとして、「あ、明日加」と思わず声が上ずり、しまったと気付く。明日加を名前で呼んでしまった。周囲の様子を慌てて窺うけれど、みな黒辺誠と姫ヶ崎に注目していて、僕の発言には気付いていないようだった。


「誰も見てないから大丈夫だよ」


 明日加が試すように言う。どことなく不機嫌そうな気がして、何か不快なことを言ったのか、それとも不快な態度を取っていたのかとより焦りを覚える。


「……それに、みんな姫ヶ崎さんのこと見てるしね」


 流すように視線を動かす明日加の眼差しは、昏く、冷たかった。




 明日加が勉強場所に指定したのは、高校のそば、公民館の自習室だった。


 環境問題、エコのポスターが張り巡らされているその場所は、「まずはこの場所から! 日没でないのなら照明なんていらない!」と主張するように薄暗い。冷房がなく雨が入り込まない程度に開かれた窓に、鬱陶しすぎない湿度と雨の匂いがする室内で明日加は呟いた。


「体育祭やらなそうだよね」


「うん」


 雨により、体育祭が延期になり、振替日も雨になった。二度あることは三度あるというが、次に雨が降れば、今年の体育祭は中止になる。


 堂山がいなくなったことや、体育祭が少なからず起因していたことで、うちのクラスの体育祭への熱意や盛り上がりは地の底にまで落ちていた。それに拍車をかけるように雨が続いていることで、皆、体育祭より後のテストを見越している。なにより黒辺誠の勉強会が、そこまで近づいていないテストの存在感を強め、体育祭の重要性を薄めていた。


「明日加はどう、体育祭、やりたい?」


「私はあんまり興味ないかも。中学の頃はひとりひとり鉢巻きとか巻いてたけど、高校はそういうの無いじゃん」


 誰が何組か、クラス対抗種目での識別用の鉢巻きは、小学校と中学校とあった。鉢巻きは出席番号がふられており、好きな人と交換すると両想いになれる、なんて言われていた。


 鉢巻き交換をしあえる段階で十分両想いだろうと思うが、田中ひろしと徳川明日加は漫画の中で互いの鉢巻きを交換し合ったうえで田中ひろしは姫ヶ崎を選び徳川明日加は一人で死んでいる。


 田中ひろしの鈍感性は本当に酷いもので、鉢巻き交換の意味を知らなかった。


 徳川明日加の言うことをなんとなく聞いただけにすぎない。徳川明日加の走馬灯回想でそのあたりの場面が取り上げられていた。徳川明日加は田中ひろしと鉢巻きを交換した後、『鉢巻き交換の意味って知ってる?』と一縷の望みをもって問いかけたが、田中ひろしは『全然知らない、教えて?』と無邪気に答えたのだ。鈍感さは度を過ぎれば凶器になる。想いは口にしなければ伝わらないというが、口にしたところで伝わらない場合も無限にあるのだ。


 徳川明日加はその後、田中ひろしに意味を伝えることはしなかった。自分の気持ちを伝え、関係が壊れることを恐れたのだ。


 姫ヶ崎ゆりあと出会う前、中学生の田中ひろしであれば、押せばどうにかなりそうだったが、高校の夏、すべてが手遅れになった。


 徳川明日加は命がけの初恋を守り抜いた果てに、科学室の水槽を眺めながら「鉢巻き交換の意味は」と、呟き、息絶える。


 最期まで好きだと、言うことはなかった。


 幼馴染の関係に甘んじた自業自得という読者の声もあったが、読者は徳川明日加の末路を知っている。しかし徳川明日加視点だと自分の人生が高校一年生の夏に終わる想像なんて出来るはずもなく、未来を見ていた。自分の気持ちを打ち明けられずとも無理はない。


「交換してって、言えば良かったかも。こうして、一緒にいられるって分かってたら」


 明日加が僕を見る。


 僕と明日加は、漫画と異なり鉢巻き交換をしていない。


「そっか」


「っていうか、ひろし、私のこと好きなら鉢巻き交換しないって誘ってよ」


「自分だって誘わなかったのに?」


「だってやだって言われたら嫌だもん」


「僕だって嫌だよ、断られたら、勝手に傷つく」


 僕は視線をそらす。田中ひろしっぽくない言い方だった。


 壁には私語厳禁という張り紙も環境問題の啓蒙ポスターと並んでいるが、部屋には僕と明日加しかない。遠くに見える受付は電気がついているが、誰もいない。


 さらに奥の事務室には施設を管理している初老の男性の姿が見えるものの、饅頭を食べながら地域広報を読んでいた。こちらに関心がないのがありありとわかる。


「ねぇ、夏休みどこか行かない?」


「え」


「二年になったら、大学選びとかで忙しくなるだろうしさ、三年生は受験でしょ? だから今のうち、どこか行きたい」


「あぁ……」


 確かに明日加の言う通りだ。二年生になれば大学受験に向けて色々忙しくなる。高校の夏を満喫出来るのは今のうちだ。


 色々な意味で。


 僕らは、生きていけないから。二年生になることはない。黒辺誠のデスゲームにより、死ぬ。二年生の夏どころか、九月を迎えることも出来ない。


「明日加は行きたいところある?」


「え~っとね、夏ってところがいい。夏祭りに、花火大会! あと、海とか!」


「じゃあ、全部行こう」


「え、いいの?」


「もちろん。明日加が行きたいところ、全部行こう」


 僕は微笑む。けれど、明日加はなぜか不満げな顔をした。


「明日加……?」


「ね、ひろしの行きたいところないの?」


 じっと、試すような目で見つめられる。またこの瞳だ。いつもきらきらしている浅瀬のような明日加の目が、陰りを帯び、深い海の底を覗き込んでいるような、そんな気持ちになる瞳。


「明日加の行きたいところがいいと思う」


「どうでもいいってこと」


「違うよ。明日加に楽しんでもらいたいから」


「私はひろしがいるならどこでもいいもん」


 だろうなと思う。徳川明日加は田中ひろしのことが好きなのだから。命をかけて守るほどの愛だ。


 でも僕は違う。僕単体では、明日加を楽しませることが出来ない。


「ずっと……黙ったままでも?」


 意地の悪い質問だと、言いながら思う。どうして聞いたか分からない。衝動的だった。声にした瞬間しまったと思ったが、もう取り返しがつかない。


 しかし明日加は「もちろん」と即答した。


「一緒にいたいんだよ。話がしたかったら話すし。一人で行きたくないから誘うんじゃないもん。っていうかひろしさぁ、わりといつも黙ってるじゃん。小さいころから。今更だよ」


 ふてくされるように明日加は言う。


 なんだか、ほっとした。自分でも不思議なくらい。


 その理由を、いつものように考えて考えて、答えを導き出してしまえばすべてが終わる気がして、思考を止めた。


 僕はしばらく黙った後、壁に張られている海の環境保全ポスターを差す。


「水族館……とか、どう」


 僕は徳川明日加の走馬灯を思い出す。彼女は小学校の頃に行った水族館で、デートがしたいと願っていた。


 限りある時間、僕は出来る限り、彼女の想いに沿いたい。


 明日加の望みを叶えて、生きたい。


 黒辺誠がデスゲームにおいて使用していた武器は、一本の包丁だった。


 ほかの生徒は極限まで殺傷性を高めたモデルガンや、斧にサーベル、チェーンソーまで用意されていたのに、接近戦しか許されないハンデを自らすすんで負った。


 それはひとえに、黒辺誠が退屈だったからだ。なにをしても自分の予想通りになる。停滞気味の毎日に飽きた。しかしながら堂山のように自分の思い通りにならないことは嫌う。


 気分屋というより、どこまでも自分の望むように場の状況を支配したい、サイコパスの習性。


 そんな黒辺誠は一本の包丁を持ちながらも、多彩な手段で人を殺した。包丁で人を刺すのは、一度で飽きたからだ。


 流しに顔を沈めて、階段から蹴落として、コンセントケーブルで絞め殺して、漫画の世界の彼は殺しにおいても完璧だった。


 ちなみに義妹である黒辺舞は、自らの手で首を絞めて殺した。


 理由は、首を絞めて殺したことがなかったから。それだけ。ドラマの殺人鬼は、殺す上で血の赤が好きとか、温度が失われる瞬間に焦がれたとか、常軌を逸した愉しみ方を述べる。でも黒辺誠は違う。新しいことをしてみたい、昨日食べたものと同じものを食べたくない、そんな日常に根ざした感覚を持ちながら、そのベクトルが常人のそれとは異なる。


 完全で完璧な異常者だった。


「この応用問題は、正しい解法だと時間を取られるから、こっちの答えを出してからのほうがいいと思う。先生の求めてる解き方は違うけど、途中式は得点に関わらないから」


 放課後の清掃前、正しすぎない優等生の顔で黒辺誠が姫ヶ崎に勉強を教えている。


「ありがとう黒辺くん……先生よりずっと分かりやすいわ」


「そんなことないよ。俺はただ、解ければ何でもいいってスタンスでいるから。理解できないものは捨てちゃってるしさ」


「捨てるだなんてとんでもない! 黒辺くんは良く理解してると思う」


「そうかな、だといいけどね」


 黒辺誠は姫ヶ崎の称賛に笑みを浮かべる。


 姫ヶ崎ゆりあは黒辺誠への好意を隠さなくなった。男子生徒とお昼を食べる黒辺誠の元へ向かったり、来館者増員を目的とした図書館でのイベントに誘ったりしているらしい。


 二人の仲の進展は、今流行っている人気俳優と若手女優主演の恋愛ドラマよりずっとクラスメイトの関心を集めている。


「なぁ、これ黒辺の妹に渡しといてくれん?」


 今日は勉強会に行かないらしい男子生徒が黒辺誠に声をかけた。手には紙袋を下げている。


「どうしたの?」


「この間、お菓子作ってくれたじゃん? それのお礼」


「これ動画で見たやつ! 駅の地下街のでしょ!」


 周りの女子が「いいな~!」と自分のことのようにはしゃいでいる。


「あんなん選べるセンスあったんだ」


「彼女がやばいんじゃなかったっけ? サプライズ無いと大ギレって」


「別れたらしいよ。今あいつソロ」


「あぁ~無理もないよな。後遺症だ。可哀そうに。南無」


 周囲の男子生徒が話す。


 黒辺誠の妹──黒辺舞。


 病弱とされる彼女は、勉強会でお菓子を作ったりと、クラスの面々をもてなしているらしい。黒辺誠への執着心が強くほかに対して当たりがきつい、とされているが兄の手前、けなげな妹としてふるまっているのかもしれない。


「別れたのさ、彼女に付き合いきれんかったのもあるけど、好きな人出来たかららしい」


「姫ヶ崎? 池田? 徳川?」


 クラスで注目を集める女子として名前が上がるのは、大体三人だ。美人の姫ヶ崎ゆりあ、女の子らしい可愛さを持つ池田まゆ、そして明日加だ。姫ヶ崎は言わずもがな、池田まゆは将来ニュース番組の天気予報コーナーで名物になりそうな可愛さだと評判で、明日加は──彼女にするなら徳川だと言われている。姫ヶ崎は手がかかりそうできつそう、池田まゆはアイドルっぽい雰囲気もあり手が届かなそう、でも明日加は親しみやすさがありながら可愛さと綺麗さを持っていて、現実みのある彼女感があるらしい。


「あいつ、黒辺の妹が、好きらしい」


 男子生徒の一人が声をひそめる。


「本気⁉」


「顔可愛いし、適度にちゃんとしてる感じがいいんだって。黒辺の妹だしさ、もっとしっかりしてそうなイメージあるじゃん。でも、元気すぎず、暗すぎずみたいな」


「長谷ライバル到来じゃん」


「長谷も好きなの?」


「ふつーに言ってた。黒辺の妹みたいな彼女ほしいって」


「黒辺が義理の兄ってハードル高くね? めちゃくちゃ比べられるしクラスメイトにお兄さんとか言うのキツ」


「でも、やべー義兄だったら黒辺のがいいだろ。優しいし」


「確かに」


 納得しているが、実際のところ「やべー義兄」そのものだ。黒辺誠は。


 人を殺せるのだから。


「お菓子ありがとね、悪いけど鞄に入れてもいいかな。落としちゃったら嫌で」


「大丈夫、妹ちゃんによろしく」


 黒辺誠はお菓子を差し入れした男子生徒とやり取りを終え、「じゃあ続きは家でしようか」とほかの生徒を伴い教室を出ていく。


 眺めていると視界をさえぎるように明日加が来た。


「ね、ひろし」


 僕の名前を呼ぶ。ここ最近、明日加が僕の席に来るようになった。


「今度図書館行かない?」


 明日加の手には図書館のイベントに関するチラシがあった。


 クラスメイトの「なぜ?」という視線が集まってきている気がして、僕は声をひそめた。


「行かない」


「なんで?」


「ほかの人が、行くらしいから……」


 明日加の望みとはいえ、図書館のイベントは黒辺誠と姫ヶ崎ゆりあが行くかもしれないイベントだ。参加して、明日加がデスゲームを待たずして黒辺誠に殺されるのは嫌だ。


「ほかの人と行くんじゃないの」


「違う。姫ヶ崎と……黒辺が行くらしいから、見られたくない」


「ふぅん」


 明日加は「じゃあ違う場所ならいい?」と目をすがめる。


「もちろん」


「なら私の部屋ね」


「えっ」


 ごく、と息を飲む。やけに響いた気がして、背中に汗が伝った。気付かれてないか不安を覚え、明日加から視線を落とす。


「嘘」


 僕を見下ろすように眺めながら明日加は続けた。


 彼女はそのまま「ひろしに予定あるなら、私は部活しとく」と教室を出て行く。


 明日加の部屋には、小学生以来入ってない。漫画の田中ひろしは入っていただろうけど、中学に入学したあたりで明日加の部屋というか女の子の部屋に入る、というのが無理になった。女の子の部屋といっても明日加以外の女の子との交流なんてないけど。


 別になにか悪いことをするつもりじゃないけど、でも、部屋に呼ばれることに戸惑った。そんなつもりないだろうけど。そういった想像が一瞬でもよぎったからこそ、返事が出来なかったし、それを悟らせて傷つけることが怖かった。


 そして、激しい空虚に襲われた。


 最近いつもこうだ。明日加と話をしたあと、無性に苦しくなる。自分の欠落や至らなさを思い知るみたいな、絶望とも言い難い苦しさだ。


 日に日にデスゲームの開催が迫っているが故のものだろうか。帰るため教室を出て廊下を歩いていると、「田中じゃん」と声をかけられ足を止めた。長谷だ。


「どうしたの」


「なにも? いるなと思って声かけたんだけど、急ぎ?」


「いや……急いでない」


 こういうところが、僕は駄目なんだろうなと思う。


 普通にただ声をかける、という選択肢がない。僕なんかに声をかけているということは何か用があるんだろうという前提で対応してしまい、結果的に相手に気を遣わせてしまう。


「そっか、なら一緒に帰ろ」


 長谷は自然と言う。僕には絶対できない芸当だ。羨ましい。こういうフランクさが欲しい。そうしたら、まともになれたと思う。


 明日加にも、ちゃんとできた。さっきだって普通に「分かった」と言って、普通に部屋で勉強をすればいいのに、何故あんな。


 鬱々としてきた僕は、長谷に意識を向ける。


「勉強会、今日はいいの?」


「今日はバイトなんだよ。行きたかったんだけどなー……っつうか田中って勉強会来たことないよな?」


「うん」


「なんで?」


 デスゲーム前に殺されたくないから、とはいえない。死んでもいいけど、明日加の走馬灯を寂しくないものにするまでは死ねないし、死にたくはない。


「勉強は、一人派……だから」


「あぁ~集中したい感じか。俺もわりとそうだった」


「長谷が?」


 素直に驚いてしまい、失礼すぎたとハッとする。長谷は「案外直球だなお前」と苦笑した。


「意外かもだけど俺結構ソロ派よ」


「かもじゃなく、意外……だと思う。いつも、クラスの中心にいるし」


「置いてもらってるだけだよ。いようと思っていれねーしな」


 ふはは、と長谷は笑う。


「つうか死にそうな顔してたけど、どしたん」


 かと思えば真面目な顔で問いかけてきた。


「死にそうな顔?」


「うん。なんか、寂しそうな、切なそうな顔してたから」


 寂しい。


 僕には無いはずだ。だってずっと一人だったわけだし。


「寂しくはないかな……僕もソロ派だから」


「本当にぃ……?」


 長谷は疑いの目で僕を見る。


「うん。なんていうんだろ、なんか……特定の人と話をしたあと、ちょっと、自己嫌悪っぽいというか、空っぽな感じする、だけ」


 長谷と接することに慣れてないからか、なんなのか、僕はそのまま言った。


「自己嫌悪ってあれ? あんなこと言わなきゃよかった! みたいな一人反省会?」


「それは別でやる」


「やるんかーい」


 きゃっきゃと長谷がはしゃいでいる。明るい。僕相手でもここまで明るくできるのは才能だと思う。


「名探偵長谷くんの推理聞きたい?」


「……うん」


「本当に⁉」


「う、うん」


「なら今の間はなに?」


「いや自分から聞きたいって言ってきたんじゃん」


「それもそうか、ふはははは」


 前の人生でも田中ひろしとしても、明るい人間に目をつけられることは多々あったし、正直不快だった。でも長谷に対して不快さはない。今まさに、うざ絡みとやらをされているはずなのに。


「恋しい……じゃないでしょうか」


 長谷が言う。


「恋しい?」


「そうです。名探偵長谷くん、実は人の心研究大学客員助教授サポーターをしてるので、分かります」


「知ってる難しい単語全部並べてるとかじゃないよね」


「バレた?」


 ふははは、と長谷はまた笑う。


「人の気持ち大学院ぼっち専攻パリ部門の長谷くんとしてはね、一人と孤独は違うという定義なんですよ」


「一人と孤独は違う」


「はい。一人焼肉とか、一人カラオケとか、一人で部屋でじっとしてるのが好きな人はたくさんいらっしゃるじゃないですか。大人数が嫌いなパターンとか、うるさいのが無理とか諸説ありますけど」


 僕だ。一人で、部屋でじっとしているのが好きだ。


「でもそういう人が皆、孤独が好きかどうかは別の話なんですね」


「別……」


「おん。孤独は、もう、書いて字のごとく、孤独です。無が好き。物語の人物も、何にも関わりたくない状態だと長谷くん定義してます。生身だろうがなんだろうが、何とも関わりたくない状態。悟りの境地です。一人というのは、一人の状態が好きなだけです。基本放っておいてほしいけど、誰かと都合が合って、波長が合えば、ちょっとした時間、一緒にいてもいい。でも基本寂しくない。一人が好きなわけなのです」


「うん……」


 一人が好き。たしかにそうだ。


 やがて長谷はどこか、自分の脆いところを自分でえぐるような、苦々しい面立ちで呟く。


「……なんかさ、子供会の集まりとか、ありませんでしたか」


「あったよ」


 明日加との思い出がある。


「俺んちさ……母さんだけなのですよ」


 長谷が告げた。


 反応しないように努めた。告白の先、無限に繰り返される一瞬の空気を知ってるから。


 自分から言ったりすることはないけど、二人そろっている前提で話をされたり、何気ないコミュニケーションで無限に繰り返される申し訳なさを帯びた気遣いと沈黙の、一瞬。


 精一杯だった。


「で、母さんが働いてるので、俺は一人で地域のやつとか出るわけですが……一人で行ってるの、俺だけです。長谷くん家の中で一人は慣れてます。でも……そういう地域の集まりで、知り合い? とかいて、こう……うっすら気遣われつつ、ぽつん、みたいなとき、すげー虚無に襲われるんですよ」


 長谷は「お菓子食えるけど!」と誤魔化すように笑う。でも目が笑ってない。悪意があるのではなく、無理に盛り上げようとしている。痛いほど分かった。空気を保たせようとしているのが。


「でも、母さん的には家で一人でいるより、楽しいだろって思ってるから、行かなきゃいけなくて……でも、小6とかは、自分の小遣いで、お菓子買って、行ってきた~って嘘ついてた、なんか、途方もなく、自分だけ遠くて、絶対、どうにもならないなぁって苦しくなるから」


「長谷」


「でも、そういう感情とはまた別の虚無がある。それが、恋しい。誰でもいいからそばにいてほしいじゃなくて、その人と、一人でいること、選べるならその人と一緒がいいとか、一緒でもいいかもしれない、という選択肢が生まれる、その過程で心が痛くなる。慣れてないから。一人好きの世界に誰かに励まされたいとか褒められたいという新たな選択肢が出てきちゃうから、虚無になったりする。開拓されてるわけです。ソロプレイヤーの心が」


 長谷は普段よりずっと落ち着いた様子で話をしている。笑い転げている長谷、今の長谷、どちらが偽物というよりどちらも長谷な気がした。黙っていると、長谷はいつも通りの表情に戻る。


「わりーな。なんか相談のりたいのに、変な空気にしちゃって」


「全然」


 僕は一切の気遣いをせず言った。長谷の望むものを、僕は知っている。


 届くかどうかは、分からないけど。


「……黒辺の妹も、さ」


 長谷が呟く。


「ん?」


 どうして今、黒辺誠の妹の話を出すのか。


「母さんだけみたいなの、バレたっていうか……勉強会のとき、母さんと話してるの、見られて……俺焦っちゃってさ~、自爆したんだけど……結構、ふーんって感じで、それで、今、田中にも話して……」


 長谷は少し照れくさそうに話す。へにゃり、と音がしそうな、朗らかさがあれど押し付けがましさのない明るい表情に、わずかな朱色がさして見える。


「恋しいを、学んだ」


 長谷は切なげに呟いた後「ふははは」とわざとらしく笑う。


「黒辺に言ったんだよね。妹ちゃん、好きだって」


 そんなこと、絶対駄目だ。叫びそうになった。相手が悪い。長谷が告白をして、それこそデスゲームの支障となる存在になれば、彼は消されてしまう。


「長谷──」


「変なこと話して、悪かったな! じゃあな!」


 長谷は僕を置いて走っていく。追いかけたけれど長谷の足は速く、追いつくことが出来なかった。










 そのあと、長谷は妹の話をしなかった。だから触れることも出来ずしばらくたったころ、クラスに激震が走った。




 突然長谷が転校したのだ。


 5月31日から6月2日の2泊3日、オーストラリアのホームステイ。


 それを待たずして、長谷が転校した。母親が倒れて手術が必要になり、経済状況が大きく変わってのことだった。


「ずっと悩んでいたみたいなんだ」


 黒辺誠は視線を落とす。クラスメイトの突然の転校にショックを受けている表情、そのものだ。だからこそ恐怖を覚えた。


 黒辺誠が、なにかをした。長谷の転校は漫画のシナリオにない。そして黒辺舞について話をしていた。長谷が黒辺舞になにをしたかは分からないが、デスゲームの計画に邪魔だったのだろうことは容易に想像できる。


 そうした中、迫ってきたオーストラリアのホームステイ。


 気が気ではなかった。デスゲームの開催が早まる可能性は十分にある。


 ホームステイのスケジュールはこうだ。朝8時半に空港に集合し、9時半の便で発つ。そこから約10時間のフライトを行い、到着は20時。


 僕は一緒に空港へ行こうと明日加を誘った。






「でも良かった間に合って。ひろし、全然起きてこないんだもん。びっくりしちゃった。初じゃない? 時差に合わせようとして失敗したんでしょ~」


 最寄り駅のホーム。僕と明日加はベンチに座っていた。平日ということもあり、周囲は学生とサラリーマンでごった返している。転落防止のために設置されたホームドアがあるからか、ぶつかっても誰かを落とすことはないだろうと、我関せず突き進んでいる人もいれば、すいすいと隙間を縫うように進む人、様々だ。


「えっと、次に乗って……乗り換えがなくて直通だから……」


 キャリーカートを横に置いた明日加がスマホを見ている。普段、予定時間より先立っての行動を心がけているけど、今日僕は明日加を待たせた。予定では3本ほど余裕をもった電車に乗るつもりだったけど、この電車に乗らなければ間に合わない。


「ひろしのお母さんとお父さんもひろし置いてうちのお母さんとお父さんと出発しちゃってたしさ、私と約束してなかったら危なかったね。なんだろう、虫の知らせだったのかな?」


 僕の両親と、明日加の両親はホームステイに合わせ、一緒に旅行することになっていた。明日加の両親が旅行のペアチケットを2組買い、僕の両親を誘ってくれたのだ。


『まもなく、四番線に、特急、末無海公園行きがまいります。末幸、別治には、止まりません』


 駅のホームで、軽快ながらやけに重苦しく響くメロディアナウンスが響く。


 明日加は立ち上がろうとした。僕は前を見据えたまま、彼女の手を握る。さっきまで拳を握りしめていたから、汗ばんでいると思う。明日加は批判もせず、「ひろし」と問いかけてきた。僕は返事をしない。


『白線の内側にお下がりください』


 アナウンスが繰り返される。


 電子掲示板には、電車がまいりますと赤字で表示されているだろう。


 僕は見ない。ただ前を見据える。


「ひろし、ねぇ、どうしたの」


 電車がホームに滑り込むようにして、止まった。


 僕は明日加を見ない。何も言わない。


「電車行っちゃうよ」


 ただただ、明日加の手を握る。明日加は立ち上がろうとしない。


 早く行け、走り出せ、早く行け、走りだせ、電車に向かって祈る。


 時間切れを告げるメロディが響く。明日加はとうとう黙った。


 電車が走り出してから、僕はゆっくりと彼女に顔を向ける。


 ホームステイに行く気はさらさらなかった。行かせる気もなかった。


 でもすべて伝えて反対されても、僕はどうにもできない。明日加をどこかに閉じ込めておけたらそんなにいいことはないけど、僕はデスゲームを開くことができる黒辺誠のような財力もなければ計画性もない。こうするほかなかった。


「明日加」


 手遅れになってから、僕はようやく口を開く。


「行くの、やめない?」


 もう取り返しがつかない。明日加の一年生の思い出をどぶに捨てたも同然だ。ついでに言えば、彼女のオーストラリアまでのフライトの費用や宿泊費諸々も水の泡、徳川家には顔向けできない。


 明日加はじっと僕を見ていた。多分、僕が無言で明日加の手を握り続けている間もずっと。


「いいよ」


 でも明日加の許しがあれば、十分だった。


 今の僕に必要なものはそれだけだ。それ以外何もいらない。


 不自然に電車のアナウンスが止まる。停車時刻の表示が不自然に消えた。


「葉山線で人身事故だって」


「マジかよいい加減にしてくれよ」


 ホームに立つ人々が口々にいう。


「死ぬなら一人で迷惑かけずに死んでくれよ」 


 一人、掲示板を見つめるサラリーマンが吐き捨てるように言った。


 誰か死んでいるかもしれない。


 でも聞いたことがある。意を決してホームに飛び込む人間もいるけど、その遺品の鞄の中を調べると、とてもその日、死のうと思っていたとは思えない品物があったらしい。


 旅行のパンフレット、誰かへのプレゼント、展覧会のチケット。


 これがあるから生きていたいという自分への応援かもしれないし、未来を見ている状況であってもなお、嫌なことがあったのかもしれない。


 もしかしたらこの世界から消えるつもりなんてなくて、突き落されたりとか、ぶつかって落ちて何も言えずに死んだのかもしれない。


 何も知らない間、人の命が日々失われている。でも関心を持っていたらきりがない。


 生きていけない。


 本当はデスゲーム開催の阻止に努めるのが一番だろう。でも僕は、僕が守りたいのは明日加ひとりだ。


 明日加がいればいい。


 明日加さえ許してくれるならば、なにもかもどうでもいい。 


 誰が死んだっていい。


「明日加」


 僕は彼女の名前を呼ぶ。


「水族館に行かない?」


「ずる休みして電車に乗るのって、なんか、変な感じ」


 通勤時間が過ぎ、人身事故で遅延中の路線から外れた各駅電車の座席に座り、明日加が呟く。


 ほかの乗客は、遠くに寝坊したらしい私立の小学生と、お年寄り。二人とも遠くに座っている。あれから僕は、気持ち悪くなり、どうしても行けないこと、明日加に付き添ってもらっていると学校に電話をした。フライトに間に合わない、参加は無理かもしれないと教師に言われたが、望むところだった。そのまま欠席の旨を伝え、風邪かもしれないこと、明日加にもうつしているかもしれないと言い、電話を切った。


 間に合わなくていい。手遅れでいい。明日加の両親には謝るけど学校はどうでもいい。


 キャリーケースは邪魔なので駅のコインロッカーに預けた。幸い海外宿泊用に、定期券の電子マネーは上限ぎりぎりまでチャージしているし、海外渡航用に軍資金もある。


「悪いことしてるみたいじゃない?」


 明日加が聞いてきた。


「みたいじゃなくて、悪いことしてると思う」


 明日加に対し、僕は悪いことをしている。ずっと。


「あはは。じゃあ共犯だ」


 明日加は楽しそうに僕にもたれかかってくる。ふわり、と花かシャンプーか、いい匂いがした。小学校や中学校の頃、彼女が僕に汗拭きシートを貸してくれたことで、時折彼女からする甘い香りの正体を知ったけれど、今日は分からない。シートじゃないことは確かだし、それよりいい匂いなのかどうかわからない。


 分かるのは、こんなことを考えていると最悪な気持ちになるだけだ。


 明日加は僕の共犯じゃない。徹頭徹尾ただの被害者だった。自罰的な言葉を用いるならば僕の行為は誘拐に該当するけど、僕は完全犯罪が出来るほどの知能を持ってないし、そんな実行力もない。


「最初に言ってくれてたら、もっとおしゃれしたのに」


 不満をにじませた声で明日加がもたれ掛かってくる。ぬるい体温に、自分の身体じゃ絶対感じない柔らかさを感じた。明日加の体はほかの女の子よりしゅっとしているのに、不思議だ。明日加の太ももと僕の太ももが密着している。小学校の頃だってこんな距離にはならなかった。手を繋いだことはあったし、むしろそちらのほうが意識的に触れているはずなのに、呼吸がしづらい。


「最初に言ったら、やだって言われるかもと、思って」


「言わないもん」


 明日加は不貞腐れたように、僕の太ももを叩く。ぱちん、と軽い音がした。恥骨には重く響く。今度は二の腕が触れた。


「ついていくよ──どこへでも」


 触れ合っている温もりとは対照的に冷ややかな声だった。


 徳川明日加は田中ひろしに恋をしている。


 どこへでもついて行くだろう。


 でも僕は彼女を田中ひろしとしてどこかに連れていくことは出来ない。


 僕はどこへも行けない。そういう人間だから前の人生でああいう末路をたどった。


 それなのに彼女の「どこへでも」を信じてしまいそうになる。


 僕に向けられたものでは決してないのに。




 明日加とともに電車に乗って向かったのは、小学校の頃に向かった水族館だった。薄暗い館内は、社会科見学の小学生や、高齢者のツアー客がまばらに見える程度で空いていた。こちらの照明の影響を与えないよう、特殊な加工を施された硝子の向こうには、海藻や珊瑚が適度に配置され、魚が遊泳している。


 人間に整えられた、水の箱庭。浅瀬に生きる魚、深海で過ごす魚と別々に振り分けられ、それぞれが生きやすい環境が維持されている。


 理由は動物愛護的な思想だってもちろんあるだろうけど、そもそも元気のないものなんて誰も見たくないからだ。


 前に小説家のインタビューで読んだことがある。人は元気になれる、見ていて応援したくなる主人公を求めているらしい。簡単に言えば、前向きな頑張り屋で、スカッとするような、共感と憧れを集めることが出来る主人公。みんなに好きになってもらえる主人公だ。


 そのインタビューを見て、だからかと、納得した。


 そんな主人公に、僕は共感も憧れも抱けない。そもそも人物を応援したいと思ったこともなければ、憧れることもない。


 僕は見ていて、なんとなく、「この人物はこういう風に考えるんだ」と、誰かの考えや想いを知るものとして、物語に触れていた。


 ようするに僕の不完全性や欠陥は、ものを楽しむという方向にもきっちり作用している。


 逆を言えばエンターテインメントすらまともに楽しめないのだから、普通に生きていけるはずがなかった。


 生きることにも人間であることにも絶望的に向いてない。


 向いてないことをするのは他人に迷惑をかける。死ぬのも迷惑をかける。どうしようもできない閉塞感の中、さよ獄を読んでいるときは、少しだけ楽だった。


 田中ひろしはさておき、デスゲームに参加させられた人々は皆正気を失うし、前向きな頑張り屋だって、これから先どうやっても幸せになれない世界だった。


 死ぬことが決まっている。


 努力は報われない、報われない努力を──何の役にも立てず、死んだほうがいいのに生きていても、許されるような気持ちになっていた。


 デスゲームは本来、読んでいてハラハラしたり、誰か助かってほしいと祈るもの。こんな愉しみ方は間違っているだろうけど、正しくても正しくなくても皆結局死ぬ世界に、勝手に肯定されていた。


 そんな僕に、報われてほしいと思われたところでどうにもならないのに。


 水槽の魚たちを見ては、「この魚の名前は」と、手前にある解説を読む明日加を見ていると、つくづく思う。僕は彼女には報われてほしい。この世界は持っている人間しか報われなくて、僕は報われない。そんな状況に苛立つのに、全部持ってる明日加には、そのまま報われてほしい。


「あ、ひろし、クラゲがいるよ」


 明日加と見て回っていると、彼女がつん、と僕の服の裾を引っ張った。触れられることは嫌いじゃない。なのにやめてほしいと思う。最近、明日加のこうした何気ない関わりが辛くなって仕方なくなる。それも今この瞬間じゃなく、触れられてしばらく経った後、ひどい虚無に襲われる。生きていたくなくなる。


「うん」


 つまらない返事しか出来ないのに、明日加は僕を見ている。


「最近、クラゲメインの展示とか増えてるんだって、ここはやってないみたいだけど……」


「へぇ……」


 クラゲ、小学校の頃は水族館の生き物として名前が上がるかすら危うい印象だった。メインの展示……どうしてだろう。どこかの水族館が資金難でたくさんクラゲを買って、展示したら好評で追随……とか。


 しばらく明日加とクラゲを見ていると、彼女がこちらに振り向いた。


「なんでクラゲ選んだの……?」


「ん、なにが」


「キーホルダー」


 明日加が自分のつけているイルカのキーホルダーを示す。よく見ると、イルカのひれのあたりに大きな傷がついていた。


「えっと……」


 当時の記憶は、ちゃんとある。僕が一人で回っているのを見かねた明日加が、一緒に見て回っていた女の子たちから離れ、僕と回ってくれたのだ。そうして一緒にお土産屋さんに行き、彼女は一緒にキーホルダーを買おうと言った。


 種類は、たくさんあったと思う。イルカのほかにウミガメとか、エンジェルフィッシュとか、イカにタコ、子供の海の図鑑に載ってるようなラインナップがそのまま反映されていた。


 明日加はイルカを眺め、それにした。主体性のない僕はどれでも良かったけど、明日加と一緒のイルカ以外にしようと決め、クラゲを選んだ。


僕なんかとお揃いは良くないから。


「存在感が薄い、と、思ってたから」


「薄い?」


「うん、透明だし……」


 クラゲは、食べることもできる。でもほぼ水分で出来ていて、栄養価はない。クラゲを食べるのならほかのものを食べたほうが元気になる。そうした意味でも、僕と合ってる。いいものを選んだ。


「澄んでて綺麗じゃん。汚れがなんにもない」


 明日加は「綺麗」と、水槽のクラゲを見てうっとりしている。


「食物連鎖のなかでも、下のほうにいるから、クラゲは」


 生き物は自分より弱い生き物を食べる。自分より弱い生き物が貯めこんでいた毒素ごとだ。大きくて強い生き物ほど、多くの命が必要になる。結果的に大きな生き物の腹の中には、相当な単位の生き物の毒素が溜まる。そういう魚を食べて食中毒を起こしたりする。


 クラゲは微生物を吸収する程度で、食事をするための歯なんてない。そこらへんでただ浮いているだけだ。


「だから綺麗なんだ」


 明日加は微笑む。


 笑顔が苦しい。


 彼女の笑顔を見ていると、嬉しくて苦しい。


 そして途方もなく、死にたくなる。


 館内を見て回って、昼食を済ませた僕らは、最後にイルカショーを見ることにした。ショーは、水がかかることも込みでイベントとしている。


 客席の前方には、濡れることを歓迎する小学生たち、その後ろでは、水にかかりたくないがショーは近くで楽しみたいという高齢者が集まっていて、どちらにも該当しない僕らは、客席ごと俯瞰するような後方の席に座っていた。


 イルカが泳ぎ、トレーナーのもと芸を披露している。


 イルカはトレーナーの指示を受けながらものびのびと泳いでいる。観客は魅了され、明日加もまた同じようにイルカに注目している。


 バスケットコートの中の明日加と同じだ。


 どこまでも自由で、輝いている。そういう明るさや華やかさが、僕は好きじゃない。好きじゃないのに目が逸らせなくて、明日加からそういった魅力がすべて消えてくれたらと願う。ここまで落ちてきてほしい。ありえない妄想が脳裏に絡みついて離れない。確かに幸せになってほしいのに、今の明日加を僕が幸せにすることはできないからと、凶暴で汚い独占欲が拭えない。


 羨ましい。


 明日加が眺めるイルカを見て、思う。明日加と同じ種族で羨ましい。イルカと人間は違うけど、同じジャンルで羨ましい。


 羨ましいのに、イルカになろうという努力が出来ない。






「あー楽しかった!」


 明日加は思い切り伸びをする。イルカショーが終わったあとも、僕らは観客席に座っていた。明日加は「どこか近くで泊ってっちゃう?」なんて言っていたけれど、高校生の男女が二人で泊れる場所なんて早々ない。24時間営業のファーストフード店だって、声をかけられて終わりだ。お互いの家には両親がいない。黒辺誠は海外にいる。だからもう、どうでもいい。


「なら、明日も水族館行く?」


「えー! やだ!」


「嫌なんだ。楽しそうにしていたから、てっきり」


 冗談のつもりだったけど、中々に強い拒否だった。ホームステイの終わりまでまだ日がある。一緒にいてもいいし、いなくてもいい。ただ明日加が望むことをしたい。考えていると、明日加がずっと僕を見て怪訝な顔をしていることに気付いた。


「どうしたの」


「なにかひろし、誤解してない?」


「誤解、なにが?」


「私、水族館が楽しいってわけじゃないよ」


「え……」


 予期せぬ言葉に頭が真っ白になった。明日加は水族館に執着を持っていたのではないのか。


「私はひろしと居て楽しかったんだよ! ひろしと行ったから水族館が楽しかったの!」


 明日加は僕を信じられないものを見るようにしている。


 僕はずっとしゃべっていない。ただ明日加を無言で見ていただけだし、明日加は明日加で一人で喋っていた。それに、適当な相槌をうつだけだ。いつもと変わらない。彼女の相手が面倒なんじゃなくて、下手なことを言って傷つけたくないし、僕の言葉で彼女を濁したくなかった。


「……楽しい?」


「うん」


「でも僕、今日、だいぶ黙ってたよ」


「一緒にいてくれるのが、いいの。喋らなくても、傍にいてくれたら」


 明日加は優しくこちらを受け止めるような雰囲気で、目を細めた。イルカが居なくなったプールでは、ゆっくりと波が流れている。


 恋しい。


 僕は明日加の横顔をうかがう。


 伏し目がちに視線を落としていることもあって、夕焼けの儚さに馴染んでいた。


 隣にいて、苦しくなるほどに強く思う。


 僕は明日加が恋しい。








 徳川明日加に報われてほしい。だって頑張っているから。可哀そうだから。最初は同情だった。


 哀れな自分から目を逸らして勝手に憐れんでいるうちはいい。


 なのに僕は、望んだ。


 始まらないデスゲームによる、終わらない明日加との日々を。


 気持ち悪い。期待なんてしても無駄なのに。こうして生きていることすら無駄なのに。


 生きることに僕は絶望的に向いてない。


 なのにどうして、他者との関わりが必須な人間として生まれてきてしまったのだろう。


 そして長谷の言う通り、この良くわからない空虚が寂しさなら目も当てられない。


 人といるのが得意ではないのに、寂しさを感じるなんて矛盾してる。


 殺してほしいなと思う。死ぬ気力も出ない。殺されたい。誰かに。そうすれば、同情してもらえそうだし、何より周囲にあれこれ気遣われずに済む。


 気遣う人間を期待している自分に吐き気がする。


 徳川明日加は悲しむだろう。田中ひろしの死を。僕の死じゃない。僕が死んだって悲しむ人間なんて一人たりともいないけど、田中ひろしの皮を被れば別だった。


 当たり前のことなのに、どうしようもなく受け入れられない。


 自覚して、僕は僕の終わりを悟る。


 結論から言えば僕らは三日間共に過ごすことが出来なかった。僕が担任ではなく学校に連絡してしまっていたことで、欠席の一報を受けた職員が疑いではなく明日加と僕だけでは心細いだろうと緊急連絡先である両親に電話をして、急遽僕の両親も明日加の両親も自宅に戻ることとなったのだ。


 いわば心配の副産物。


 そのためホームステイ予定だった残りの日数、僕は医者に診てもらい自宅待機、明日加も感染症の疑いにより自宅待機を余儀なくされた。


 そうして僕は、登校日までベッドに横たわり、授業を受けずただただ明日加と僕、そしてデスゲームについて考えていた。


 僕は明日加が恋しい。


 同時に、僕は分不相応の期待を抱いている。


 明日加は喋らずとも傍にいてくれたらいいと言った。その言葉に、僕は安堵した。


 だから駄目だった。


 徳川明日加は、僕を好きなわけではない。田中ひろしが好きだ。僕がたまたま関与している皮に恋をしている。


 中身は僕。頑張ってようやく人並みに辿り着けるか運頼みで、空っぽで、暗く、暗いなりの面白さも持ちえない、どうしようもない僕だ。


 この中身を理解したい人間も理解できる人間も誰もいやしない。好かれるはずがない。僕を好きな人間なんて現れない。一生だ。僕が僕である限り、僕は誰とも繋がれない。


 にも関わらず、田中ひろしに恋をしている徳川明日加の言葉を受け、僕は安堵した。


 たとえるなら、他人向けの贈り物を勝手に奪い取り、喜んでいるのと同じだ。なんて醜いことだろう。


 徳川明日加は田中ひろしに恋をしている。原作の設定、さよ獄を1話でも読めばどんな人間でも理解できるはずの事象を、僕はすっかり忘れていた。


 田中ひろしに向けられていた好意をあたかも自分に向けられているものだと誤認していた。


 これでは漫画を全話読んだなんてとても言えない。ファンですと言いながら常時主人公の名前を間違え続けているようなものだ。失笑される。


 徳川明日加と一緒にいる価値もなければ、田中ひろしとしてその恋心を享受できる資格はない。


 そうして自分の愚かさを認めていると、渦潮のようにざわついていた心の内が、ふっと穏やかになった。


 前の人生、大学進学について悩んでいた時もそうだった。


 大学にまで行って、どうするのか。人生好転するのか。働いたほうがいいんじゃないのか。でも大学に行ったほうが人生は安定するんじゃないか。悩んでいるうちに、進路希望調査があって、母親に言った。


『えぇ~大学行くの? お金ないよ~大学行きたいなんて言ってなかったじゃん』


 まるで夕食のメニューについて我儘を言うのと変わりない声音だった。


 考えて考えて、疲れてもういいやと、大学を受けることにした。考えることは疲れる。人の気持ちを考えることはなおさらだ。


 どうせ死ねばいいや。ずっとそれで生きている。どうせ死ねばいい。死にたいのだから。だから、生きていたくないわりにバイトも出来たし人と関われないのに接客業を選んだ。安定を求めて悩む割に、突然すべてがどうでも良くなるから。


 どうせ死ぬんだから、どうせこの先生きていてもいいことなんてないんだから、もうどうだっていいや。


 僕の人生、それがすべて。死んだ日もそうだった。


 ダンプカーで女子大生が轢かれて、その日、一生懸命まとめたレポートにミスがあったことを教授から指摘されて、それが少しきつく感じて、頑張ってるのに、なんて報われないことが辛く感じて、報われない人生なのにこの期に及んでまだ期待しようとしている自分に気付いて、気持ち悪くなって寂しくなって怖くなって死のうと決めた。


 悩むことに疲れた。


 人っぽい振る舞いにも飽きた。


 どうせ幸せになれないのに頑張ることが嫌になった。


 報われたいから飛び降りた。


 なのにただの自殺だと嫌だなんて変なプライドがあって、事故現場近くの歩道橋を選んだ。


 死ぬ間際、死ぬことが怖いとか嫌だと思うことがなかった。


 ああやっと終わる、という安心感だった。


 ほっとしてふわっとした。


 あの安堵が欲しい。


 誰のことも考えたくない。


 自分含めて。 


 僕が手を離せばいいだけだ。


 徳川明日加の幸せに僕は必要がない。僕が手を離せばいいだけだった。最初からこうすれば良かったのにどうして彼女に好きだなんて言ったんだろう。


 馬鹿みたいだなと思う。馬鹿みたいだった。


 生まれてきたことも全部。


 そのことに気付いたきっかけが、明日加への想いを自覚してなんてあまりに皮肉だ。


 恋をしたことで、自らの命を水泡に帰した人魚姫よりずっと、愚かだ。


 だから僕は、これを楔として、もう二度と思いあがることなく田中ひろしとして徹底しようと決めた。


 演技なんてやったことがないし、結局のところ僕は僕だ。でも、やり切るしかない。それに数多の人間が未遂で終わらせ、時には失敗する中で、僕は自殺を完遂させた。


 死のうと思うのならば何でもできるはず──そんな励ましの言葉に共感できたことは一度だってなかったけれど、今の僕には追い風だった。


 一回死んだのだから、どうとも出来る。




 今度こそ僕は僕を殺して、田中ひろしとして生まれる。


 ホームステイが終わり迎えた登校日。僕は学校に行く前に、徳川明日加と待ち合わせをした。


「おはよう! ごめん、寝坊しちゃって」


 田中ひろしのロールプレイ。一人自室で練習していた甲斐があって完璧だ。


 徳川明日加の好きな田中ひろし。変な中身の入ってない田中ひろし。


 だというのに徳川明日加は、どこか愕然とするように僕を見ていた。




 漫画のまま、田中ひろしとして振る舞う。


 暗い僕から適度に明るく、それでいて弱気で善良な田中ひろしに生まれ変わる。不良漫画にいるような激しい人間に変貌したわけではないし、そもそもクラスの人間は僕に関心が無い。ホームステイにより海外の文化に触れたこともあってか、正規品の田中ひろしはクラスの人間に拒絶されることなく浸透していった。


 しかし、想定外がひとつあった。


「調子はどう……? 連絡、取れなくて心配したわ」


 休憩時間、人気のない廊下で姫ヶ崎が声をひそめる。そばにいるのは黒辺誠だ。


 彼は体調不良を理由にホームステイを欠席した。


 黒辺誠を取り巻く回想に、ホームステイの場面はなかった。体育祭もだ。彼にとっては普段の授業も行事も変わらない。だから描写されなかった可能性は大いにある。


 しかし漫画と異なり、妹がトラックに撥ねられ、堂山が消え、黒辺誠は漫画よりずっと想像のつかない化け物として君臨している。


 姫ヶ崎との接触も、漫画にはない。


「体調が悪かったからね」


「……家には、一人だった?」


「家族がいたよ」


「それは妹さん……?」


「どうして?」


 黒辺誠が静かに問う。姫ヶ崎の質問は、本人の声音や調子により同級生としての心配に覆われているように見えるが、黒辺誠への固執した感情がちらついている。それを黒辺誠も気付いているらしい。姫ヶ崎の黒辺誠への想いはもはやクラスの誰もが認識していて、黒辺誠も受け止めているていで動いていたが、今の声音には明確な拒絶も含まれていた。


「いや……」


「悪いけど、先生に呼ばれてるんだ」


 黒辺誠は立ち去っていく。


 姫ヶ崎はばつが悪そうな顔で去っていく。


 黒辺誠の邪魔になった人間は消される。堂山のように。姫ヶ崎もおそらく例に漏れない。でも、丁度いい。黒辺誠が姫ヶ崎を邪魔に思っている間、徳川明日加が狙われることはないだろう。


 非情だろうが姑息だろうが、どうでもいい。誰がどうなろうと徳川明日加が生きていれば。


 そして傍観者は、僕だけではない。


「なんかさ」


 黒辺誠と姫ヶ崎のやり取りを見ていたのは、僕だけじゃなかった。


 元村エリとその同行者もいた。彼女たちは姿を隠すこともせず見ていたし、おそらく黒辺誠も彼女たちを認識していたと思う。黒辺誠が不愉快に思えば、きっと二人も消される。


「ざまあって感じ。姫ヶ崎ゆりあ」


 元村エリが言う。彼女は姫ヶ崎との相性が悪く、とうとうフルネームで呼ぶようになっていた。


「エリちゃん!」


 元村エリの同行者が窘める。


「だってさ、何でも持ってるじゃん。そのうえ黒辺くんまで狙ってさ、欲しがりすぎじゃない? 調子乗りすぎでしょ」


「何でも持ってるって言ったって、もしかしたら、何かあるかもしれないし……」


「何かってなに?」


「え……なんだろ」


「それに黒辺くんの妹まで嫉妬してる感じじゃない? 付き合ってもないのに」


 元村エリの言う通りだった。先ほどの姫ヶ崎の感じを見るに、彼女は妹にまで嫉妬をしている。義理で血が繋がっておらず、結婚できるからといえばそれまでだが、それはそれとして、異常にも感じた。


「確かに……行き過ぎたとは思うな……」


 元村エリの同行者も同じ所感らしい。


「まぁ、黒辺の妹もアレっぽいけどね」


「アレ?」


「ブラコンっていうか、黒辺、優しいじゃん? その分我儘そう」


「エリちゃん会ったことあるの?」


「無いけどさ、同じ高校行きたいとか言ってるって黒辺くん言ってて、引いた。中三でさ、いくら身体弱くてもお兄ちゃんと同じ高校行きたいってなる? キモくない? 姫ヶ崎ゆりあもヤバいけどさ、妹も相当でしょ。黒辺可哀そう」


「エリちゃん」


 元村エリの同行者がとうとう我慢ならないといった様子で声を荒げた。


「良くないよ、見てもないのに」


「は……? 前も姫ヶ崎ゆりあのこと言ったときそんな感じだったけどさ、何?」


「何って?」


「意味わかんないんだけど、普通そんなわざわざ良くないとか言う? 前から思ってたんだけど押し付けがましいよ」


「押し付けがましいって」


「そういうの、すーぐ聞いてくるの、キモい」


 そう言って元村エリは同行者を置いて去って行く。小学校からの経験則だけど、こうした軋轢は大抵戻らない。表面上仲直りをしても、ワンシーズン過ぎればグループの改変が起きるし、陰口の言い合いが始まる。この場合、元村エリが誰かを見つけ、一方的に悪口を言いそうだけど。


 でも二人はデスゲーム終盤も助け合っていたはずだ。姫ヶ崎の変化により、水の波紋のように影響が広がっているということか。


 元村エリの同行者は、くるりと踵を返す。目に涙を浮かべていた。可哀そう、とは思わなかったが、僕は声をかける。


「大丈夫……?」


「田中くん……」


 彼女は僕を見て、ダムが決壊するかのようにぼろぼろ泣き出した。ややこしいことになった、と胃と背中のあたりがもやもやする。普通は同情するのに、次の授業の始まりが気になる。


「えっと……どっか、行く? 場所変える?」


 このまま教室に連れていくのは酷すぎる。それは分かる。声を出せばより一層涙が出てしまうと耐えるように、彼女は静かに頷いた。


「じゃあ、えっと、俺の後ろについてきて、ください」


 僕は先陣をきって歩く。なるべく彼女の泣き顔を晒さないように。でも、堂山や黒辺と違い僕の身長はあまり高くない。田中ひろしのステータスはどこまでも平均値だ。平凡なんてモノローグで卑下していたけど、平均値が一番難しい。普通になれないこちらからしたら、それ以上何を望むのか、という気持ちになる。


 それは、元村エリが姫ヶ崎ゆりあに向けている感情と同じかもしれない。姫ヶ崎ゆりあの場合は持ちすぎているにも関わらずまだ求めるのか、という状況だけど。


 そして求めている先が黒辺誠、因果だ。ある意味、理にかなっているかもしれない。黒辺誠を得るなんてありえない、ましてや黒辺誠が誰かを求めるなんてもっとないだろう。


 それこそ、徳川明日加が田中ひろしではなく僕を選ぶくらい。


 それくらい、ありえない。


 徳川明日加と僕でたとえる自分に吐き気がする。

「ごめん……授業……間に合わなくなっちゃうのに」


 僕と元村エリの同行者は、中庭に移動した。授業が始まってしまったけれど、彼女にとっては好都合だろう。人に見られずに済む。僕も泣いている女子生徒と一緒にいるところを誰かに見られずに済む。


 薄情だなと思う。でも本心だった。たぶん彼女がただ落ち込んでいるだけなら同情できた。涙を目の当たりにすると、もう、傍にいる誰かが傷ついているのではなく災害に遭うような認識に変わってしまって、とにかくこの混乱に過ぎ去ってもらいたいという忌避感が勝つ。


「気にしないで」


 そんなこと出来やしないのに言う。辛い、苦しい、悲しい、許せない、すべて「気にしない」ことが最適解とされている。そんなこと出来ればやってる。それが一番難しい。「気にしない」ことが幸せの近道、なんてされているけど本当にどうすればいいのだろう。何でも気にせず済むなんて、もはや黒辺誠のようなサイコパスでない限り難しいのではと疑問が浮かぶ。


 でも、自分で口にしてよくわかった。


 それしか、ないのだ。


 気にしないでと言うほかない。何もないから、ありあわせのものでなんとかするしかないように、「気にしない」以外に手段がない。


「気にしないでって言われても、気にするだろうけど」


 僕は続けた。彼女は「ごめんね」と力なく笑う。


「エリちゃん、怒らせちゃった……」


「うん」


 元村エリは怒っていた。姫ヶ崎ゆりあに対しても、黒辺舞に対しても、そして今隣にいる彼女に対しても。


「仲良くしたいんだけどな……もう、駄目なのかな……」


「いや、間に合うんじゃない?」


「え?」


 彼女は目を丸くした。


 人間関係において、僕より手遅れな人間は見たことがない。それに。


「元村さんが怒っていたのは、味方してもらえなかったから……かもしれない、から」


 元村エリの機嫌が悪くなったのは、姫ヶ崎ゆりあを批判したとき、今僕の隣にいる彼女が同調しなかった瞬間からだった気がする。そこから、確かめるように黒辺舞の批判に移行した。たぶん、彼女が自分に同調するか、黒辺舞を使って試した。


「味方って?」


「言葉通りの意味というか……悪口を言っていたし、一緒に姫ヶ崎を悪く言ってほしかったかもしれないけど……第一に、ただ、聞いてほしかったんじゃないかな。姫ヶ崎を、悪く思ってること。陰口はいけないことだけど、なんていうんだろう、クラスで姫ヶ崎のこと、悪く思っちゃいけない雰囲気が、あるじゃん」


 黒辺誠が、姫ヶ崎に対して「姫ヶ崎のこと知ればみんな好きになる」と言ったらしい。黒辺誠の評価は、絶対だ。クラスメイトは高嶺の花ではなく、クラスの女子生徒として姫ヶ崎ゆりあに一目置くようになった。彼女に敵意を向けていた女子生徒たちも、手のひらを返し、彼女に化粧の仕方や美容法について聞いている。


 でも元村エリは違った。徹頭徹尾、彼女と距離を置いていた。


「元村さんは、姫ヶ崎が嫌いでも自分と一緒にいてくれるか、知りたかったのかも」


「そんな……エリちゃんが、誰をどんなふうに思ってても、友達なのに……!」


「でも、まぁ、好きなものが一緒じゃないと……つまんないとか、いるんじゃない? 僕は分からないけど……」


 クラスの人間たちが友達を形成していく過程を見ていたけど、野球部は野球部、サッカー部はサッカー部で集まる。そして試合があればその話をするし、テレビで試合の中継があれば翌日はその話だ。


 同じものを好きじゃないと、一緒にいられない。そんなことはないだろうけど、好きなものが共通していると仲良くなりやすいのは確かだ。


 同時に、嫌いなものが一緒で盛り上がることもある。共通の敵を見つけて排除することで団結することだってあるし、前の人生では何度か憂き目に遭った。


「あと、分からないけど、あなたは私の味方って言われても、安心できないとか……あるのかもしれない。友達だと思ってても、自分だけじゃないかって悩んだり、してる人はいるみたいだし」


 友達なんていたことがないから良くわからないけど、他人事として見ていた教室やネットで見る悩みを総括すれば、友達が作れる人間だって不安を抱えている。


「だから、元村さんのしたことはいいことじゃないし、どうしてそうしたかは元村さんにしか分からないけど……僕は、試したんじゃないかなと思う」


「そうかな……もう、嫌われちゃったかも……」


「だとしても……元村さんと友達になれたなら、他にも合う人はいるだろうし……」


「エリちゃんの代わりなんて誰もなれないよ!」


 彼女は涙をこぼした。ああ駄目だ。これだから僕は駄目だ。相手の意に沿うことが出来ない。共感性に欠けている。少なくとも元村という、若干攻撃的な人間と一緒に居られたのなら、他にも人と繋がれる。励ましたかったけど、彼女の悲しみは友達を失うことではなく、元村エリの喪失だ。


「ご、ごめん……元村さんを捨てろって言いたいわけじゃなくて……せ、世界中に嫌われたわけじゃないだろうからって、言いたくて……」


「あぁ……う、ううん、私のほうこそ……ごめん」


 彼女がハッとした顔で首を横に振ったあと、一度うつむき、沈黙が訪れた。


 人と関わると、こういうことが繰り返されるのかもしれない。


 そう思うと、疲れた。つくづく人間に向いてない。こんなことが繰り返される日常を送りながら、みんなどうやって仕事をしたり勉強をしたりして、普通でいられるんだろう。


 というか、田中ひろしとして生きるのであれば、今後もこんなことが続くのか。


 普通に、なれない。


 普通になりたかったし、実際、土台は整っている。あとは僕の心次第。なのに絶望的な気持ちになってきた。なれない、なれない、なれないと心の中で誰とも分からない声が繰り返される。


 僕は普通になれない。


「こんな風に……エリちゃんとも、誤解……があったりするのかな」


 ふいに彼女が呟いた。


「え?」


「さっきの田中くんの話、私勝手にエリちゃんなんかもういらないよって言われた気がして、でも、誤解で……田中くん、私のこと考えてくれてたのに、それ、私知らなくてさ……同じように、エリちゃんの知らないこと、あるのかなって……」


「ああ……」


「……私、エリちゃんと話、してみる」


 彼女は意を決した顔で僕を見た。


「それに、もう嫌われちゃったなら、嫌われちゃったらどうしようって悩まずに話が出来るかもしれないし」


 ──ずるいけどね。と彼女が続ける。


「まぁ」


 ずるいこと、なのか。どうせ嫌われてるからどうでもいいと話をすることは。


 考えていると、彼女は立ち上がり、「ありがとう、田中くん」と笑みを浮かべた。


「いや、僕は何もしてないよ」


「でも一緒にいてくれたし」


「泣いてたから、置き去りにはできない……」


 言いながら気付いた。女の子が泣く、というイレギュラーのせいで、田中ひろしの模倣を忘れていた。


「ありがとう田中くん。私ちょっと目冷やしてから教室に行くね」


 彼女は軽い足取りで去っていく。太陽に反射する白シャツの背中を眺めながら、駄目だろうなと気が重くなった。


 田中ひろしとして助言出来ていたら、主人公の言葉で事態は好転していただろう。


 でも僕の言葉で彼女が立ち直るのは無理だ。


 僕の言葉は、誰にも届かない。


 黒辺誠は通り魔事件に映りこんでいたり、猫ではなく人間の交通事故現場を目の当たりにしたり、最悪な方向へ変化している。


 でも、結局のところすべてデスゲーム開催に向けての予定調和なのかもしれない。


 それを証明するように、元村エリと彼女の同行者は復縁した。


「エリちゃん」


「もー、なに?」


 教室で、元村エリが彼女に抱きつかれている。女子同士特有のじゃれあいだ。


 復縁した、という表現は恋人や夫婦に用いられるものだけど、二人を見ていると縁が再び繋がれたと捉えるのがふさわしい気がする。


 親子や家族関係の離反は絶縁と言うし、暴力団を取り扱った映画で「絶縁」という単語が出ていた。男同士の交友関係でも用いられるわけだし、許してほしいと思う。仲直り、だとなんか違和感があるし。


 そしてこういう違和感を持ってしまうからこそ、苦しむ気がする。黒辺誠は何でも予想通り、ようするに分かってしまうからつまらないと言っていたけれど、僕のこの違和感の解決策を教えてほしい。


 なんて、くだらないことを考えていると、机をとん、と叩かれた。顔を上げると元村エリとその同行者がいた。


「田中」


「はい」


 考え事をしすぎて、目の前の存在に気付かず田中ひろしのロールプレイを失念していた。


「はいってなに、そんなにかしこまんないでよ」


 元村エリはバツが悪そうに言う。


「えっと……どうしたの」


「いや、この子のこととか、私のこと、色々ありがとうと思って」


「ああ……いや、べつに」


 二人の仲直りは、シナリオ通りに事が進むからこそのものだろう。僕には関係ない。でも二人は漫画について知らないのだ。


 とりあえずご都合主義解決要因として、仲直りの理由が僕にあると定義されたのだろう。


 嫌な気持ちだ。何もしてない中で感謝されるのは。他人の功績を奪っている。田中ひろしの皮で徳川明日加に好かれている僕と同じ。寄生虫。死んだほうがいい人間のくせに。


「これさ、良かったら食べてよ」


 元村エリが透明な袋に包まれたクッキーを取り出す。


「なにこれ」


「チョコレートクッキー、良かったら食べてよ」


「なぜ……」


「お礼」


 元村エリは呆れたように言う。すると、彼女の同行者が補足するように続けた。


「田中くん、オーストラリア行けなかったじゃん。オーストラリアで二人で食べたチョコレートクッキーすっごく美味しくてさ、エリちゃんと一緒に再現してて、良かったら田中くんにも食べてほしいなって」


「あ……ありがとうございます」


「なんで敬語? もしかしてまずいんじゃないかって疑ってる? ちゃんとこの子の言う通り作ったから美味しいよ」


 元村エリは若干不機嫌そうに言うが、おそらくこの振る舞いは元々のものだろう。


「じゃあ」


 そして元村エリは去っていく。すると彼女の同行者も元村エリに追随しながらもこちらに振り返った。 


「田中くん」


「ん?」


「ありがと。田中くんのおかげで、エリちゃんと仲直り出来た」


 そう言って彼女がはにかみ去っていく。


 申し訳ないと思う。こうして優しくしてくれるけど、僕は彼女たちを助けられない。


 彼女たち、いや、誰かにデスゲームについて打ち明けて、デスゲームを食い止める、本当はそういう風にデスゲームに抗うのが一番いい。そうしないと、たぶん、みんな助かる手段はない。黒辺誠がデスゲーム開催をやめて、みんなでちゃんと卒業するのが一番いい。


 でも、僕にはそれが出来ないと思う。僕がみんなの協力を得てデスゲームを止めるなんて信じられない。田中ひろしですら出来なかったのだ。僕に出来るはずもない。黒辺誠の凶行を止めるなんて。


 だから、徳川明日加の走馬灯を優しくすることに注力する。


 それに誰かを助けられるなら、徳川明日加に生きていてほしい。クラスメイト全員が死に導かれようと、徳川明日加にだけは生きていてもらいたい。自分以外のクラスメイトが全員死んでいる状況なんて、絶対にその先の人生、まっとうに幸せになることなんて出来やしないのに。


 それでも、生きていてほしい。


 彼女以外、全員死んでも。


 だから元村エリと彼女の同行者に申し訳ない。僕は感謝されるような存在じゃない。徳川明日加の為なら僕は平気で二人を見捨てる。


 凪いだ気持ちで二人を見送っていると、視界をさえぎるように目の前に白いシャツが現れた。顔を上げると徳川明日加が立っていた。


「明日加……」


「美味しそう」


 明日加がどことなく感情の欠けた眼差しで僕を見る。一体何が美味しそうなのか。ああ、クッキーかと結論に至る。


「貰って……」


「うん。なんか、言ってたね」


 心の奥底まですべて、冷え切ったような声音だった。


「食べるの?」


 明日加が聞く。


 他人から貰ったものをそのまま明日加に流すのも気が引けるし、なおかつこれは手作りの品物だ。他者からの手作りをさらに横流しすることは気が引ける。


「……良ければだけど、一緒に購買とか行く?」


「うん。ひろしが行くなら」


「じゃあ一緒に行こう」


 僕は明日加と一緒に教室に出る。


「木本さんと仲いいの?」


 しばらくして明日加が聞いてきた。


「木本さん……ああ」


 元村エリの同行者の名字か、と気付く。デスゲーム開催の日が近づくたび、クラスメイトに対して、「個」という認識が薄れてきた。黒辺誠の被害者。どうしたってそういう前提がつく。長谷が転校してからなおさらだ。


 そのためか、元村エリはまだしも泣いていた彼女については、元村エリの同行者としか思えなかった。


「仲良くないよ。話をしただけ」


「どんな話?」


「人間関係」


「ひろし、そういう話するんだ」


「まぁ……それより、夏休み、どうする?」


 明日加の疑問に答えていく。戻ってしまっているなと思う。きちんと田中ひろしでいなくてはいけないのに。深海を潜り、底に近づかれているみたいな気がして、僕は話題を変えた。


「どうするって?」


「行きたいところある?」


「ひろしの家」


 即答に、がくん、と膝が笑う。体勢を崩した僕を、明日加が見下ろす。


「付き合ってから行ってないから、行きたい」


 どういう意味で言っているのか。背中に冷や汗が伝う。徳川明日加は誰より可愛くて綺麗だ。魅力的な人間だと思う。でも、本能的な忌避感のほうがずっと勝った。


「勉強するなら、外のがいいんじゃない。うち、あんまりエアコン効かないから」


 僕は逃げの選択肢を選んだ。


「家の中に見られたくないものでもあるの?」


 明日加が何かを見透かすようにしている。


 そんなものはない。


「何もないよ」


 見られたくないものがあるならば、僕の心のうちだけ。


 何もない。何もない僕だけ。


 田中ひろしの皮をかぶった、本当の僕だ。


 そして家の中に見られたくないものがあるのは、黒辺誠だ。彼は、家の中の本棚に武器を隠し持っている。改造し、殺傷性を高めたエアガン、ナイフに包丁、一度に大量に仕入れれば咎められるそれは、夏休みの宿題のようにこつこつと地道に集められ、クラスメイト全員の命を奪う結果となった。


 黒辺誠にとっては、最良の宿題の成果だろう。


「じゃあ、ひろしの家で勉強する。図書館は涼しいかもしれないけど、図書館に行くまでが暑いし、辿り着く前に死んじゃうよ」


 明日加はパタパタと手で自分をあおぐ。おどけた仕草に安堵した。


 なんだか大人びた雰囲気で言ってきたから、勘違いをした。


 死刑になりたい。


 僕は自分を戒めるように手のひらを握りしめる。


 明日加と購買に行き、彼女がお菓子を買うのを眺め、また教室に戻ろうとすると明日加は「お手洗いに行きたい」と言い、先に教室に戻ることになった。女子同士は一緒トイレに行き、置いていこうものなら翌日からひどい目に遭う、なんて恐ろしい慣習があるらしいけど、僕が明日加の手洗いを待とうものなら捕まる。よほど正当な理由があっても──駄目だ。


 明日加が、保護者から責められる事件。あれがあっても、許されないだろう。


 異性を狙う犯罪があるように、同性を狙う犯罪もある。だからといって、異性がトイレのそばで待っていい理由にならない。


 同性同士の犯罪はどうやって防いでいけばいいのだろう。


 だんだん、今いる場から離れ、答えの出ない思考に移りそうになり、慌てて目の前の景色に集中すると、社会科準備室に入っていく黒辺誠と姫ヶ崎の姿が見えた。


 漫画では無かったように思う、二人の関係。


 僕は気配を悟られないよう注意しながら、教室の傍に向かっていくと、しばらくして姫ヶ崎が教室から飛び出すようにして出てきた。顔面蒼白となり、すれ違った一瞬だけで何か恐ろしいものを目の当たりにしたのだと分かった。何が起きたのか。自分だって早く逃げたほうがいいだろうに、足が動かない。


「ああ、田中」


 黒辺誠が出てきた。


 目が、合った。


 黒辺誠は「なんか、久しぶりだね」と、柔らかな振る舞いでこちらに近づいてくる。しかしその眼差しは機械じみていて、ロボットが無理やり人間のふりをしているようだった。


 殺される。


 僕は息を呑む。明らかに今の黒辺誠は殺意を抱えているし、それを隠そうとしてない。いや、これでも隠しているのかもしれない。どうしてと疑問が浮かぶ。


 だって黒辺誠はもっと殺意を隠すのが、人間に擬態をするのが上手かった。


 完璧な黒辺誠という人間の皮を被った、化け物。それが黒辺誠と名付けられた『なにか』のはずなのに、目の前の化け物は皮が剝がれた状態で僕を見ている。


「でもどうして、こんなところにいるの」


「え……?」


「田中、社会資料室に用なんてないはずでしょう?」


「あ……まぁ」


 探られている。いや、悟られているのかもしれない。悪手だった。黒辺誠と姫ヶ崎ゆりあの密会に近づいたのは。失敗だった。気配を殺すといえど相手は黒辺誠だったのに。


「なんで来たの?」


 黒辺誠が僕を見据える。


 殺される。


 繰り返し思う。


 殺される。


 何度でも思う。


「……姫ヶ崎のことが、気になってて……」


 僕は苦し紛れに言った。誤魔化しきれるはずがない。これで終わりだ。


「へぇ」


 黒辺誠は目を細めた。


「いいんじゃない。協力しようか」


 黒辺誠は優等生の笑みを浮かべる。


「えっ……」


「田中、さっきからそればっかりだね」


 驚いていることを言ってるのだろう。


「いや……」


「っていうか田中、姫ヶ崎のこと気になってるんだったら言ってくれれば良かったのに。驚いたな」


 言いながら、彼は社会科室の扉を閉じた。重苦しく、牢を施錠するような音が響く。


「田中、徳川のことが好きだと思ってたけど」


「いや、全然、ただの幼馴染……」


 僕は素早く返した。今この状態の黒辺誠が、明日加に関心を抱くなんてことはあってはならない。明日加が殺される。


「そ、それよりひ、姫ヶ崎……大丈夫なの? な、なにかあったとか」


「ああ……学校生活とか、将来のこととか不安みたいで、取り乱しててさ。助けてあげたいとは思うけど、姫ヶ崎の人生は俺じゃどうしようもできないし、助けられないからあたりさわりなく接してたら……傷ついたみたい」


「そ……そうなんだ」


「うん。申し訳ないとは思うんだけど……俺は妹のこともあるから」


「妹さん、身体……丈夫じゃないんだっけ」


 延々と言葉を選びながら話をするのはいつものことだ。でも、一言でも間違えれば、殺される気がした。


 いや、僕が殺されるだけで済むならいいだろう。でもデスゲームが開かれるのが明日になるかもしれないし、そもそも明日誰かが黒辺誠により殺されるかもしれない。


 明日加が殺されるかもしれない。


 怖い。


 生きていることより、殺されることよりずっと怖い。明日加が殺されることだけは避けたい。


「……うん。元々身体が強くなくて……過保護だとは思うんだけど、交通事故に遭ったんだ。大きな車に撥ねられてさ、身体が吹き飛ばされて、ゴミ捨て場に落ちて」


 楽しくない話。しかし黒辺誠にとっては愉快この上ない話。


 なのに隣にいる彼から発された声音は、不愉快を煮詰め落とし込んだとしか思えない声音だった。


「無事だったけど、そんな状態で無事なはずないし、突然死とかも考えるとさ、姫ヶ崎というか、誰かを助ける余力はなくて……冷たいけど、でも……俺には、妹のこと助けながらほかの誰かを……なんて無理だから」


「確かに、優先順位は、あるよね」


 家族だから、という単語は意図的に避けた。家族だからで理解し合えるような思考を彼は持ってないし、家族だからという単語に、僕は幾度となく打ちのめされてきた。


「うん。だから……色々選んでいかなきゃいけなくて、あはは、こんなこと言っても、意味なんてないけど」


 それはたぶん、俺に言っても意味がないというより、自分以外の存在に助力を求めたところで意味がないという話だろう。


 黒辺誠を助けようとする存在はいるだろうが、彼を助けられる存在は、いない。


 長谷が一人と孤独は違うといっていたが、おそらく、こういうことだ。


 黒辺誠は、孤独だ。


 それについてどう思っているかは分からない。いや、気にもしてないのだろう。理解者も理解も彼に必要ない。


「そういえば、田中は夏休みどうするの?」


「中学と変わらずに過ごす……かな」


「へぇ」


 黒辺は?


 クラスメイトならば、そう問いかける。


 でも僕は黒辺誠の夏を知ってる。


 迂闊な返事はできない。


「まぁ……キラキラした、青春みたいなのは、無理だな……って」


「あははは。なにそれ」


 黒辺誠は笑う。絶対に面白いはずがないのに。


「ば、映えみたいな……」


「あぁ……でも俺もかも。あんまり写真興味ないんだよね。綺麗な景色とかも、正直……誰と見るかかな……って」


 模範解答だ。人間らしい。でも黒辺誠に綺麗な景色を誰かと共有しあう感覚なんてない。


 かといって僕も、綺麗な景色に興味がない。


 ただ、水族館で明日加が楽しそうにしている姿を見て、明日加を通して、なんだかとても満たされた気がした。


「写真は結局、データだし、記憶も消えるけど、だからこそ、今を大切にしたいなって」


「うん」


「だから田中も、無理なんて思わず、思い出いっぱい作ったほうがいいよ」


 そう言って、黒辺誠は優等生のような笑みを浮かべて続けた。


「今年の夏は一回しか来ないんだから」


 ああ、デスゲームは絶対に開かれる。


 夏休みに入るまで、呆気なかった。


 本格的にデスゲームを阻止しよう、みんなと団結して黒辺誠を打ち倒そう、そんな風に勧善懲悪ができて、敵と味方を分けて考えられたら良かったけれど、この世界はどこまでも現実だった。悪いからと言ってすぐさま罰せられることはないし、いい人間が報われることだってない。


 毎日地道に頑張って礼儀正しく振る舞っても、ちょっと失礼だけど派手な奴のほうが、同じ結果を残したとしても誰かの印象に残り評価されていく、それでいて「個性」「多様性」「みんなに価値がある」なんて上から目線の綺麗ごとをべったりと塗りたくられながら生きていかなきゃいけない、閉塞的な世界。


 物語には起承転結があるけれど、転生者田中ひろしの視点の物語があるとするならば、もはや結末の手前で始まっているようなものだし、ハッピーエンドになんてならない。


 だから、徳川明日加の走馬灯に尽くすことだけ集中し、思い出作りの妨げにならない程度に学校生活を送っていた。


 一度、高校の授業を受けたから、ある程度成績は良くなっているはずではないか。


 そんな期待をしたものの、大学受験や大学の講義は高校の勉強の地続きに見えてそうじゃない。


 英語はまだしも現代文古文数学生物科学に化学と、忘れていた学びは僕を容易く苦しめる。そうして、一度やったことにまた手こずる自分に嫌気がさしながら迎えた夏休み、案外明日加と会うことは少なかった。


 学校が長い休みに入ると、もれなく部活動が盛んになる。徳川明日加の入部しているバスケ部も例にもれず、平日は練習、土日は3年生の思い出優先で行われる大会に、せっせと手伝いとして参加して、忙しい日々を送っていた。


 でも、要所要所、バスケ部の練習や大会が休みになるタイミングで、明日加から誘いのメッセージがあった。


 夏祭り、遊園地、プール、水族館、美術館、図書館、ショッピングモール、行き場所は様々だったけど、することは同じ。明日加がはしゃぎ楽しむ様子を、僕は田中ひろしの皮をかぶって眺める。


 自分に向けられたものではなく、田中ひろしであると意識しながら。


 そうして、デスゲーム開催まで残り3日となった日、明日加から夏休みの宿題の片づけをしたいから、僕の家に来たいとの誘いがあった。


「ぜんぜん変わってないね、ひろしの部屋」


 勉強道具を広げたローテーブルを前にして、僕の隣に座る明日加が、部屋を見渡す。


 田中ひろしの部屋は、漫画だと色々、漫画や小学校のころから使っているような辞書、世界地図ポスターが貼られていたけど、この部屋は殺風景だ。勉強机と椅子は田中ひろしと同じものだけど、漫画やポスターはない。僕の部屋の惨状から僕の情操教育に危機感を抱いた両親から譲り受けたローテーブルと、小さいソファ代わりのクッションが、そのうち事件でも起こしそうな社会不適合者の雰囲気を殺すためいつも頑張っている。


 そんなクッションの上に、明日加が座っている。彼女が家に来る前、僕はベッド側のソファにひとつ、ローテーブルを挟んで反対側にクッションを配置した。明日加は客人、上座下座と礼儀作法は色々あるけど、僕にとってそれより重要なのは徳川明日加をベッドのそばに近づけないこと。ただそれだけ。


「あぁでも、本とかは変わってるか」


 明日加は僕の後ろ側に手をついて、ベッドの側面に寄りかかる。僕の事前準備は、明日加の「この位置だとノート見辛い!」というぐうの音も出ない訴えで水の泡になった。だから今、僕はベッドを背に明日加と横並びになっている。


 今日、両親は家にいない。これもまた僕の想定外だった。共働きである田中ひろしの両親が日中家にいることはほぼない。だからこそ、二人の貴重な休みを明日加が家に来る日にしようとしたのに、都合がつかなかった。


 明日加の両親にそれとなく明日加と二人で勉強することを伝えたのに、「伝えてくれてありがとうね」と複雑そうな顔をされた。


 たぶんだけど、泊りますぐらいの意味を言ったやつになったのかもしれない。死んでしまいたい。


 女の子が男の部屋に一人で来ていいわけない。


 そう思うのは僕だけなんじゃないかと思う。別に酷いことをする気なんてないけど、この状況に恐怖がある。ネットで女の子の危機管理や男の犯罪がどうこうあったけど、そういうのを誰も見ていないんじゃないか、いや、あれはあれですごく感情的な文面になっていて、肝心の具体的な防犯対策には触れていない人もいるからどうも言えないけど。


 というかなんで男の僕がそれを考えなきゃいけないんだと訴えたくなる。訴えたら性別なんて関係ないと反論が来る。だから言えないしそもそも言う相手もいない。


 もう、3日後には死ぬのに。


 なのに僕は、延々と僕を認識すらしない周囲を気にしている。馬鹿だなと思う。


 誰も僕のことなんて気にしないのに。


「あ、あの本の表紙の人、私、画集持ってるよ」


「どれ」


「独下ケイ先生の本」


 明日加は立ち上がる。ふわりと石鹸の香りがした。甘い感じじゃない、白っぽい石鹸の香り。明日加は今日、前にボタンのついている白いブラウスにデニム生地のショートパンツを履いていた。ショートパンツとはいえ結局はズボン、スカートとズボンならばズボンのほうが露出面積はスカートのほうが多いはずなのに、明日加の今履いているそれは太ももが完全に出ていて、立ち上がる瞬間、視界に彼女の肌がちらついた。


 僕はローテーブルに置いてある麦茶を手に取り飲む。一旦コンビニにアイスでも買いに行こうか悩む。


「この表紙の人……えっと、装丁……」


 そう言って、明日加は装丁を担当した画家の名前を紡ぐ。


「え」


 しかし僕は明日加の言葉に違和感を覚えた。


 彼女が発した画家の名前は、さよ獄の作者だ。


「そ、その人って、画集出してるの……?」


「うん。漫画家さん? みたいなこと書いてあった気がする」


 明日加はそう言って文庫本を手に取り、こちらに持ってきた。


「こっち座って見ようよ」


 明日加に促されるまま僕はベッドに座り、文庫本を確かめる。


 確かに装丁の名前には、さよ獄の作者の名前がある。


 この世界は、さよ獄の漫画の世界だと思っていた。単行本の中にそのまま入り込む、というわけではないけれど、架空の世界に紛れ込むようなものだという認識だった。


 でも、これではさよ獄の世界の中に、さよ獄の作者が存在しているということになる。


 マトリョーシカの中に別のマトリョーシカがある、みたいな。


 そもそも僕は田中ひろしとして生まれたけど、明日加は明日加のままだ。本物の田中ひろしは一体どこにいるのだろうか。


 考えていると、「ねぇ」と明日加に肩を叩かれた。


「ああ、ごめん」


 そう言って、明日加に振り返り、僕は息をのむ。


 彼女はじっと僕を見つめていた。少し上目遣い的で、普段の彼女とは全然違う。そして僕の隣に座っていた。あれだけ彼女をベッドから遠ざけようとしたのに。


「勉強しないと」


 僕は床に座りなおそうとする。


「やだ」


 でも、明日加に腕を引かれた。男女の力の差は歴然なのに、いともたやすくベッドに押し倒され、僕は明日加を見上げる。


「あ、明日加」


「こういうことになるって何にも考えてなかったの?」


 明日加は僕を見下ろしている。冷ややかな眼差しだった。


「ど、どういうこと……」


「言わせたいの?」


 あざ笑うような声音が、やけに艶めかしくて視線を逸らす。明日加は僕の腰の上に跨っていて、無理やり突き飛ばせばこの状況から脱せられることは分かっているのに、どうにもできない。


「最近ずっと、上の空だった。出かけても、なんかずっと、日が過ぎるのを耐えて待ってるみたいで」


「明日加……」


「色々、待ってようかなって思ってたけど、でも、もう待つの疲れちゃったし、私は、絶対にひろしじゃなきゃ嫌だから……」


 そう言って、明日加は自分のブラウスのボタンを外し始めた。ひとつひとつ、真実を暴いていくみたいにゆっくりと。青いレースの下着の布地、今まで一度も見なかった肌の部分を前にして、僕は絶望的な気持ちになった。


 ──そこまで、田中ひろしが好きなのか。


 血の気が引くという感覚は、恐怖以外にも感じるのかと学ぶ。


 身体すべてが冷えて、落ち着きを取り戻した僕は明日加のシャツに触れた。露になっている前を隠すように、ボタンとシャツを止める。その動きに明日加は顔をゆがめた。


「ひろし、なんで……? 私のこと好きって言ったのに」


「好きだよ」


 この上なく、僕は明日加が好きだ。


 田中ひろしとしてではなく僕として好きだ。だから駄目になった。


 苦しい。田中ひろしとして好かれることに喜んでいればいいのに、僕は僕として好かれたくて、ありえない夢を見続けるのが愚かなのにやめられなくて、苦しい。


 偽りがないと判断したのだろう。明日加は僕を責めることも疑問をぶつけることもなく黙った。 その沈黙を僕は破る。


「8月が終わるまで待ってて欲しい」


「え……?」


「明日加は何も悪くない。8月さえ終われば、全部大丈夫になるから、そのときに明日加が、僕を好きだったらにしよう」


「なんで? 9月でいいなら今日だっていいじゃん!」


「駄目だよ」


 僕は今まで明日加を強く否定したことがない。そもそも、誰のことも強く否定したことがない。勇気がないし、そんな人間関係を形成出来たことだってない。


「ごめんね、明日加」


 僕は謝る。明日加は僕から身体を離し、逃げるように部屋から出ていく。


「本当に、ごめん」


 なにもかも。


 僕が田中ひろしじゃないことも、全部。


 デスゲーム開催前日の深夜、僕は教室に入った。


 今日、黒辺舞は死ぬ。デスゲーム開催にあたって、黒辺誠の偽装死体用に殺されるのだ。


 彼女が死ぬことを防ぎデスゲームの開催を阻止出来たらいいだろうが、現実的ではない。僕が助けに行ったところで、死体がもう一人分増えるだけだ。だって田中ひろしが主人公であっても、僕は主人公じゃない。


 主人公気質も補正もない中、デスゲームを防ぐ手段が一つだけある。


 簡単な話だ。


 デスゲーム開催前夜に、教室で派手に死んで注目を集めればいい。


 生まれ変わる前にしたことと同じことをすればいいだけだ。夏休み、教室で死ねば簡単に集まる。


 8月下旬は、学生がこれからまた始まる学校生活に絶望し、自殺が増えるらしい。メディアの注目度が高まる。人間は四六時中死んでいるというのに。


 そして当然、四六時中死んでいる人間を追っている警察やマスコミも注目する。


 一度セキュリティを突破されれば、守りは前より強固になる。


 命と引き換えなんて代償が大きすぎる方法だけど、それは普通の人が死んだらという前提だ。周りが悲しむのは悲しむ周りがいてこその話であり、幸い僕に価値はなく、悲しむ人間もいない。


 いたとしても、僕の死に悲しむのではなく近くの誰かの死に悲しむだけだ。僕が死んだことが一生の傷になる人間は、誰もいない。僕が必要な人間はいない。


 そして僕には際立った強みがある。


 死の経験があるところだ。


 自分が死んでいく瞬間、確実に命が失われ、覚悟が決まる瞬間。


 あの感覚は、永遠に残る。それを持ったまま新しい人生を割り切ってスタートさせることはとても難しい。たぶん、死ぬ前に普通の感覚を持って生きていたらなおさら無理だと思う。


 だって今まで組み上げてきたものがすべて崩れ落ち、お前のしてきたことは全て無駄だったと否定されるのだ。


 死因になる。もう死んでるのに。


 僕はゆっくりと廊下を歩いていく。デスゲーム開催の序章ともなる肝試しの連絡が来ていないけど、こんな僕だし、連絡が漏れているのだろう。前の人生で無限にあった。「クラスみんなで」という前置きのつく、僕の知らない打ち上げや遊び。慣れているし、そもそも肝試しは始まらない。僕は学生鞄の紐を握りしめる。中には家から持ち出した包丁だけが入っている。


 デスゲームが開かれる教室の真ん中で、惨たらしく、誰よりも汚く残酷に死ぬ。


 話題性抜群の死に方をする。生配信での自殺だ。流行り廃りの感覚はどんどん短くなっているけど、無価値の人間の死であろうと2日くらいは持つだろう。映像も拡散されるだろうし。


 今は小学生もSNSをしているし、親のスマホを見ている小さい子供もいる。そういう子供には申し訳ない気もする。


 どうなんだろう。高校の1クラス全員死ぬことと、不特定多数の目にセンセーショナルな映像が押し付けられること。頭の中に架空の子供のイメージが浮かんで、もう最期くらい考えることはやめようと、教室の扉を開く。


 そして一番最初に視線を向けたのは、明日加の席だった。


 徳川明日加は、田中ひろしの死に悲しむだろうが、デスゲームでクラスメイトがどんどん死に、知り合いに殺されていき、最期には誰にも看取られることなく水槽の魚を横目に一人悲しく田中ひろしを思い死んでいくのと天秤にかければ前者のほうが絶対に幸せだろう。そんなことないと言う人間がいれば反論を聞きたいくらいだ。


 徳川明日加には励ましてもらえる相手もいる。だから大丈夫だ。なんの問題もない。それに幸い、田中ひろしの中身は田中ひろしではなく僕だ。傷も浅く済む。純然たる田中ひろしではないのだから。


 僕は明日加の席から、少し離れた位置に立つ。僕の血で汚したくないし、生配信で映すのも嫌だ。かといって明日加の座席にスマホを置いて、のちのち明日加の席で撮影したことが明らかになるのも嫌だ。


 全部嫌だ。


 そうだ。座席全部、めちゃくちゃにしてしまおう。


 教室は防音処理がされている。音を立てても教師は来ない。なおかつ黒辺誠がデスゲームの準備が出来たのだから、今日僕が何をしても止めに入る人間はいないだろう。


 僕は鞄を放り、教室の真ん中に向かうと、机や椅子を掴むと、すべて壁際に放り投げる。勉強道具や座席の主から解放されたそれらは、大きな音を立てながらほかの座席を巻き込み倒れたり、壁にぶつかる。案外、力がなくてもいける。座席も景色も統一性が消えたところで、僕は鞄を手に取り、チャックを開けた。


 包丁を取り、次にスマホで配信を始めようとした次の瞬間──、


 思い切り右腕をはじかれた。けたたましい音を立てて包丁が床に落ちる。


 今黒辺誠は義妹を殺しているはずだ。だから教室には来れない。デスゲーム前日ということに加え、彼の行動を予測できる絶好の機会だった。だから今日を選んだ。なのに。


 そう思って振り返った瞬間、頭が真っ白になった。そこにいたのは黒辺誠ではなく、明日加だった。


「明日加……どうして、ここに」


 そう言う間に、明日加がサッと身体を動かし包丁を手に取ると僕から距離を取り、その切っ先を自分の首に突きつけた。


「明日加!」


 僕は怒鳴るように声を発し、彼女に近づこうとする。しかし彼女も「死ぬから!」と怒鳴り返してきて、さらにその刃先を自分の首に押し付けた。雨のしずくが窓を伝うように、血が流れる。


「明日加やめて、やめてよ」


「やめてほしいのはこっちだよ! 今何しようとしてたの?」


「それは……」


「死のうとしてたんでしょう!」


「……」


 明日加は自分の首から血を流しながらこちらを真っすぐ射貫く。


「なんで死のうなんてするの……私のこと好きじゃないの?」


「好きだよ」


「ならなんで一人で死のうとするの!? 置いていかないでよ!」


 悲痛な訴えだった。嫌な予感がする。


「ひろしが死ぬなら私も死ぬよ……」


 そしてすぐに、最悪の想像は的中した。


 徳川明日加はデスゲームを前にしても生きることを諦めなかった。そんな彼女が自らの死を受け入れたのは、田中ひろしを守るためだ。


 デスゲームを前にしていない中、彼女が自らの終わりを覚悟する理由はただひとつ、僕が付き合おうなんて言ったからだ。


 彼女の走馬灯を優しいものにしたいなんてヒーローぶって、彼女に中途半端に手を差し伸べた気になっていたからだ。


 そして田中ひろしが手に入ったと認識し、彼女は幸せを知ったのだろう。中身が僕という贋作でもだ。そしてなお、彼女は田中ひろしを求めている。このまま明日デスゲームに突入しても、すでに変わってしまった彼女が漫画の通りに動くことはない。なおかつ、漫画のシナリオを辿り彼女と最終局面を迎えようとしても、きっと彼女は僕が死ぬことを疑いながら行動する。その行動は彼女の生存戦略に確実に影響するだろう。


 ならば、僕は徳川明日加に、現実を伝えなければいけない。彼女の中の田中ひろしは、まがい物だということを。


「駄目だ、僕は、田中ひろしじゃないから」


「え……?」


 頭がおかしくなったと思われても、信じてくれなくてもいい。これから話す僕についてを信じたならば、彼女は僕への気持ちを無くすだろうし、信じられなくても荒唐無稽なことを饒舌に話す男として嫌われる。どちらにせよ、僕の望む結末は手に入る。


「信じられないかもしれないけど、僕は、徳川明日加の好きな田中ひろしじゃない」


「なに言ってるの……?」


「転生もの、流行ってるでしょう? 僕は別の世界で一度死んでる。大学生だった。死因はトラックでの事故じゃなくて、過労死でもなくて、自殺。死んだんだよ。歩道橋から飛び降りた」


「なんで……」


「何も持ってないから。生きてる理由がなかった」


 本当に、何もなかった。生きていていい理由も、全部。


「生きていても、いいことがない。これから先、生きていても苦しいだけの消耗戦の日々だなって思って死ねるうちに死んだ」


 ずっと目をそむけていた。この世界に転生もののコンテンツがあることを。トラック転生やブラック企業に勤め、過労死をしたといった死因はよく見るけど、僕のような人間はあまり見ない。


 自殺をすると地獄行き、なんて聞く。そういうことが起因しているのか、自殺した人間を題材にすると自殺肯定と読めるからかは分からない。


 トラックの事故で死ぬことより、自殺のほうが数はずっと多いのに。


「そして、僕はデスゲーム漫画の主人公に転生した。参加者は、クラス全員。期間は8月29日、30日、31日。最期には黒幕の殺人鬼に殺される。クラスメイト全員、9月を迎えられない」


 明日加は黙ったままだった。まるで、駅のホームで黙ったままだった僕の沈黙を繰り返すみたいだった。


「そして、主人公である僕──田中ひろしを好きな、幼馴染キャラクターの徳川明日加だよ」


 キャラクター、あえて意識して言った。徳川明日加は漫画のキャラクター。


 でも、僕にとって明日加は人だった。好きな女の子。ただ一人。


「君は、物語のなかで、田中ひろしを庇って死ぬ。田中ひろしのことが好きだから。僕は読者として、君に同情をした。だから、君に好きだと言って付き合うことにした。人生すら上手く生きられなかった僕が、デスゲームの黒幕に勝てるわけないし、デスゲーム開催を阻止することも出来ないから、せめて、君が一人で死んだり、走馬灯の中であれがしたかった、これがしたかったと後悔がないように、今まで生きてるつもりだった」


 でも、出来なくなった。明日加が田中ひろしを見ていることが苦しい。好きな人間に好きだと思われてうれしいはずなのに、僕を理解してほしいと思う。


 中学の頃に書こうとした、女性性について書いた僕の小論文。


 僕は色々と調べて臨んでいたつもりだったし、たぶん、教師は題材を悪手としていただけで、僕の文自体を批判する意図はなかったと思う。「勿体ない」「せっかくここが盛り上がりなのに」「ここをこうすれば読み手は盛り上がる」そういう善意のプロデュースが、ことごとく合わなかった。「参考になると思って」「この表現をこの本みたいなイメージで変えていけば良くなると思う」そう言われて渡された本も過去の論文も、1ページ読むのが限度だった。


『すっごくいい! これなら賞も取れる! 完成が楽しみ!』


 小論文が半分ほど出来上がったころ、受験対策の小論文はいつの間にかコンクールに向けたものにすりかわっていたと、教師の大絶賛とともに明らかになった。


 オーダーメイドキメラ。


 小論文ですらない。僕はそんなつもりは無かったと言った。教師は「認識が違いすぎる」と愕然とし、その現場を目撃した学年主任が入ってきて、教師は僕の為を思ってのことであり、理解してほしいと言われた。理解できなかったし、僕を理解してもいない人間から理解を求められることも不愉快で、他者に理解を求めることは醜いことだと、田中ひろしとしての人生で学んだ瞬間だった。


 だから、その一線を越えられない。理解をしてほしいと思えど、そこにハンドルを切れない。


 理解を求めることは醜いから。


 世界で一番醜いことだから。


 ただでさえ、こんな僕だ。こんな僕を理解してくれる存在なんていない。


「だから、君が今死んでほしくないと思ってる田中ひろしは、そもそもこの世界に存在していないんだよ。僕は、僕の意識でたぶん生まれて、今こうして生きてきてしまった。憑依したりじゃない。保育園、幼稚園、小学校、中学校、そして高校と──今、こうして君と話をしている僕は田中ひろしじゃなくて、前の人生の頃、どこまでも暗くて友達も出来ず、何にもなれなかった男子大学生の亡霊みたいなものだ。君が一緒に死ぬ価値のない人間だよ」


 僕は明日加に真実を告げる。


 明日加はずっと僕を見ていた。苦しい。何が理由で苦しいのか分からない。


「貴方の名前は、なんていうの」


「……え?」


「名前……ひろしじゃないのなら、前の人生の、名前は……?」


 どうやら、明日加は僕の話を信じてくれたらしい。状況も、状況だし、信じるしかないのかもしれない。


「……みづき。海に月って読むんだ。クラゲを漢字で書く時と、一緒」


 クラゲは漢字で書くと、海月と書く。


 母親が父親と行ったのが水族館で、記憶に残っていたのがクラゲだった。物心ついたときから、老若男女問わず女の子みたい、女の子かと思った。無限に言われた。バイト先だけだった。そういう煩わしいやり取りがなかったのは。そして、女の子だと間違えられる以上に嫌だったのは、名前負けしていることだ。こんな名前似合わない。海も月も綺麗なものなのに、僕はこのありさまだから。


「海月、くん」


 か細く辿るように、明日加が僕の名を呼ぶ。前の人生、僕の名前を呼ぶ人間はほぼいなかった。母親は「ねえ」「ちょっと」で僕を呼んでいたし、病院で呼ばれるくらいだったけど、番号に変わった。


 だから、反応が出来なかった。


「貴方は、消えちゃうの」


「え」


 そこでようやく、彼女に言葉が返せた。


「だって、海月くんがそこにいるのなら、田中ひろしも、どこかにいるはずでしょう。それとも、いつか……海月くんじゃなくなっちゃうの……?」


 明日加の声が震えている。


 考えたことがなかった。いつか、田中ひろしがこの身体に帰ってくることも、あるだろうに。それとも僕のように別の人間の人生に存在しているのだろうか。


「……わからない」


「消えないでほしい」


「なんで……?」


 明日加の目には涙が浮かんでいた。水滴というより、水で出来たことがかろうじて分かる宝石のように、光に反射している。


「なんでって、なんで分からないの……」


 明日加が僕を見る。声音に眼差し、何故明日加が消えないでと思うのか、理由は想像できる。でもそんな想像をする自分が本当に気持ち悪くて、今すぐ窓から飛び降りたくなる。


「分からない」


 だから分からない。分からないで止まる。期待したくないし期待するほどの人間性を僕は持ってない。


「私は、田中ひろしじゃなくて海月くんのことが好きなんだよ……」


 明日加がぽたぽたと涙を流す。水滴が彼女の首から滴る血と混ざりあう。


「そんなことない……僕は人に好かれるような人間じゃない」


「人に好かれるような人間じゃない海月くんが好きだよ……」


「そんなこと……」


 僕は同じ言葉を繰り返そうとする。けれど明日加は「なら証明する」と、包丁を自分の首に押し当てた。


「先に死ねば信じてくれる……?」


「やめて明日加、僕は明日加には生きていてほしいんだよ」


「そんなの私だって同じだよ!」


 明日加が叫んだ。


「海月くんに生きていてほしいよ! 一緒に生きてよ! 生きるのが嫌なら一緒に死んでよ! どこにも行かないでよ!」


 訴えに、ぐっと喉の奥が詰まった錯覚がした。不意に自分の目から涙がこぼれたのが分かる。


「私から離れないでよ……」


 明日加が泣く。僕は彼女にゆっくりと近づいた。明日加は包丁を握りしめる手にさらに力を込める。


「明日加」


「やだ」


「分かったから、しないで」


「やだ」


「……一緒に、死ぬから」


「嘘」


「嘘じゃない……明日加と、死ぬ」


 そう言うと、明日加は手の力を緩めた。僕は彼女から包丁を取る。そして、彼女の首を手で押さえた。女の子の力だ。そこまで深くはない。手当をしないと。でも、明日加は僕を強く抱きしめた。次の手を封じるみたいに。


「明日加」


「やだ……全部やだ……やだ!」


 明日加は僕の腕の中で泣く。


 海月くんと、何度も僕の名前を呼びながら。助けを求めるみたいだった。


「手当てしよう」


「したくない。一緒に死ぬの……」


 明日加が子供みたいに言う。状況は深刻でしかないのに。


 僕はしばらく考えて、呟いた。


「海に行こう、明日加。一緒に。そのままだと、電車にも乗れないから。だから手当てしよう?」










 海に行く。


 そんな僕の苦し紛れの提案は、承認された。ところどころ血の付いた制服を隠しながら、両親の寝静まる家に一度戻り、僕の下手な手当を受けた明日加とともに、最終運航のバスに乗り、僕たちはなるべく遠くの海を目指した。


 そうして、日付が代わり、朝を迎え、昼が過ぎ、デスゲーム開催の夜を迎えたころ、僕は明日加と砂浜を歩いていた。彼女の首には、真夏ながら水色のショールが巻かれている。首の傷を隠すためだ。


 教室は、めちゃくちゃにしたまま出てきた。血はそのままだ。そもそも床に垂れてない。ほぼ明日加の制服が吸収していた。


 でも、教室がどれだけ血染めになろうが、明日加が生きていればどうでもいい。どうせ今日は、デスゲーム開催当日だ。


 机と椅子が乱れ教室の中が血染めになろうと、それより酷い状況になる。


「座ろっか」


「うん」


 明日加に促され、僕らは自然な流れで砂浜に座った。


 この先のことを、何も考えてない。黒辺誠は僕らを見つけ、デスゲームに強制的に参加させるつもりなのだろうか。いったいどうなるのだろう。こうして海に向かう途中、黒辺誠に見つかったら、なんてことを考えていたけれど、こうして海に辿り着いてしまった。


「海月くんさ」


「うん」


「前の人生で恋人とか、いた……?」


 明日加がおそるおそる問いかけてくる。


「いない」


「男子、大学生って言ってたけど……男の人が、好きだったり、したの? それとも、そういうの、興味なかった……?」


 苦しみを滲ませながらの質問だった。性的嗜好について探っているのだろう。こんなことを、普段の明日加は聞かない。おそらく、彼女が僕の家に来た時、何もしなかったことを気にしているのかもしれない。


「恋愛対象は女の子。自認は男。機能に問題もなかった。経験がないのは、性格。そして性格を覆せるほどの見た目もない。全部、悪かった」


「私のこと好きだって言ったのに、なにもしてくれなかったのは、どうして?」


「どうしてって……普通に、田中ひろしの代わりに、出来るほど器用じゃないから……」


 それに、たぶん無理だった。慣れてない緊張、田中ひろしとして求められている状況で、どうにか出来るイメージも浮かばない。


「……ああ……そっか。なんていうんだろう、身代わりみたいに、思うよね……海月くんの立場だったら……私も、姫ヶ崎さんの代わりに、って、されたら嫌だし」


「なんで姫ヶ崎……?」


「だって海月くん、黒辺くんとそうやって話してたから」


「あ……」


 あれを見られていたのか……。


「あの、僕は別に……」


「知ってるよ」


 明日加は僕の言葉をさえぎった。


「分かるよ。姫ヶ崎さんのこと好きじゃないって、今は」


「今は?」


「うん。聞いたときは、ショックだったけど、今までの海月くんこと考えれば、違うだろうなぁっていうのは分かるから。ただ、なんで黒辺くんに姫ヶ崎さんが好きだって思わせたのか分からなかったし……色々、海月くんのこと分かんなかったから、混乱したけど」


「ごめん……」


「ううん……でも、海月くんは……どうなの? 私は、たぶん、海月くんが同情してた私とは……違う気がするけど……なんかこう、姫ヶ崎さんと一緒にいる田中ひろしを、見送ってたりしてたんだよね? 好きだからって」


「うん……」


「包丁とか握って死ぬとか、言ったりしない感じ……だよね?」


「まぁ……そういう激しさは、漫画になかったよ」


「私のどんなところが好きか聞いたとき、曖昧な返事だったのはそれ?」


「いや……」


 僕は言葉を濁す。気持ち悪さの集大成のような返事はしたくない。


「漫画で同情したなら、見た目?」


「いや……」


「私の好きなところ、ない?」


 明日加が悲しそうな顔をした。僕は思わず「違う!」と否定する。


「なら、どこ」


「……食べるの、ゆっくりでいいってしてくれてるところと、喋らなくても、楽しいって思ってくれるところ……それが、本当なら」


「え、なにそれ」


 想像通りの反応だ。だから言いたくなかった。


「気持ち悪いと思うから、いい、分からないままで」


「別に気持ち悪いとは思ってないよ。ただ、食べるのゆっくりとか喋らないって、海月くん特有のもの……だよね?」


「たぶん。田中ひろしは、良くしゃべるほうだし」


 僕の負債は、前の人生のものをそのまま引き継いでいる。田中ひろしには本来ないものだ。


「なら……漫画の私は、海月くんに言ってないかな」


「言わないと思う。」


「そっか……」


 明日加はどこか嬉しそうにしている。一瞬、もういいかとも思ったけど、改めて否定した。


「だから、君が僕の……というと難しいけど、田中ひろしの部屋に来た時、君に問題があったわけじゃない。ただただ、僕に問題があった」


「私が、田中ひろしを好きだと思ったから」


「うん」


「……消えないで」


 明日加は言う。たぶん彼女はもう、死ぬ気はない。僕が死のうとしない限りは。だから、消えないでと願う。今死ぬなら、どうでもいいことを願う。


 僕は返事が出来なかった。


 消えないでと言われても、田中ひろしが返ってくるかも分からない。主人公ならずっと傍にいるよとか、一緒にいるよと言えたのだろう。でも僕はずっと傍にいて欲しいと思うことはあっても、約束ができない。というかそんなことは言えない。似合わない。


「消える消えない以前に、デスゲームが始まるから」


 そして僕が僕であるかぎり、明日加はいつか僕から離れるだろうという疑いは消えないし、こんな自分は一生誰にも好かれないという諦めと戒めで作った骨格なしに、僕は立っていられない。恐ろしいから。死ぬことに抵抗はない。教室をめちゃくちゃにしたとき、たぶん、何人か殺せる気もした。体力的にも腕力的にも勝てる相手なら。でも、明日加が僕を好きだと認めることはずっと怖いし、その時点で駄目なんだと思う。


「始まらないかな、デスゲーム」


「……え」


 明日加が信じられないようなことを呟く。漫画の徳川明日加ならば、絶対に言わないようなことだ。


「海月が消えるんだったら、デスゲームが起きて一緒に死にたい。私のほうが先に死にたい。後悔してほしい。私の好きを、信じてくれなかったこと」


「すごく、苦しいよ。斧とか、モデルガンで撃たれたりするかもしれないんだよ」


「いいよ。海月が消えるくらいなら、全部、そのほうがいい」


 子守唄をうたうように明日加は言う。人魚姫は美しい声を引き換えに足を手に入れるが、今の彼女は足を失い声を取り戻していると錯覚するほど、澄んだ響きだった。


「海月くんが、キーホルダー、クラゲ選んだのって、名前が理由?」


「ううん、イルカは似合わないなと思って……手に取ったのが、クラゲだった。栄養にもならないし、浮いてるだけだし、それっぽいなと思って。漫画では、田中ひろしはイルカを選んでたけど……」


「私は」


「イルカ。お揃いにしてた」


「えー、でも、田中ひろしって最後には姫ヶ崎さん選ぶんだよね?」


「うん」


「なら、海月くんも最後には姫ヶ崎さんを選ぶ?」


「いや……僕、ほら今……不謹慎だけど、クラスメイト、見殺しにしてる状態だから」


 今、放送がかかっている頃だろうか。黒辺誠はどうしているのだろう。この先どうなるのだろう。色々なパターンを想像する。


 僕と明日加だけが、肝試しに行かないパターン。


 黒辺誠は自分の期待を超える存在を探している。同時に、予想通りに行く……自分の想定通りに事が進むことも望んでいる。だから堂山を消した。


 ゆえに一番考えられる結末は、教室に集まったクラスメイトを殺した後、集まらなかった僕と明日加を殺しに来るパターンだ。2人が来ないことを予測は出来てない。そのことに喜びつつも、全員殺しておきたいと、自分の想定を正そうとする。


 漫画で田中ひろしは黒辺誠に敗れた。僕が勝てるわけない。


 黒辺誠の家に火でも付けたら変わるだろうか。それとも学校に。


 教室で自殺を考えたとき考えたけど、黒辺誠の家に火をつけたところでたぶん黒辺誠は死なないし、学校に火をつけたところでスプリンクラーに妨害されるとやめた。スプリンクラーを壊して済むならやってるけど、よりによって教室に取り付けられているそれは最新式、何かエラーがあれば通報されるシステムだった。


「海月くんは私のこと選んでくれたんだ」


「そんな大層な感じじゃないよ」


「でもよくあるじゃん。世界を敵にまわしてもって」


 世界を敵にまわしても。そもそも世界が敵になるような存在とは一体、なんて疑念を抱く。そしてああいうのは世界側の人間が、大切な存在を守るためにそこから外れることが感動的であり、僕の場合、そもそも世界側に属してないし、失うものがないのだ。感動もなにもない。


「イルカとクラゲが一緒にいる方法、ずっと考えてたんだよね。海月くんが、クラゲのキーホルダー選んだときから」


「うん」


「おなじ鯨のおなかの中にいること」


「ああ……」


「でもね、深海に潜れるイルカも、クラゲもいるんだって。深くて暗いところが好きなの。それぞれ、なかなかない種類らしいけど」


 イルカは温かく浅い場所で暮らしている。そして深海は冷たい場所だ。太陽の光が届かないこと、理由は色々ある。そして暗い。星が瞬く宇宙とは違う。本当の闇の底だ。


 だから、よく思っていた。自分は、陸の生き物じゃなくて深海に生まれるはずだったプランクトンか何かが誤って人間に生まれてしまったのだろうと。


「だから海月くんは、田中ひろしじゃなくて海月くんとしていて。私も、漫画の徳川明日加には、たぶんなれないから」


 少し諦めたような、寂しそうな声音に、なぜかとても安心した。


 いつの間にか夜はあけ、朝焼けが僕らを照らす。朝日を受けた波打ち際は、少しだけ赤みを帯びて見えた。


 僕らはデスゲームの三日間、家に帰らなかった。学校では惨劇が繰り広げられているし、その間に警察の邪魔が入らなかったことを考えると、家に居て黒辺誠が殺しに来ても警察は役に立たない。


 僕や明日加の両親が殺されているかもしれないと思えど、僕は明日加のほうが重要だった。


 黒辺誠が追ってくるかもしれない、という理由からスマホの電源は互いに切り、夜は海、昼はカラオケやカフェで過ごした。それに幸い、22時くらいまで、個室等がないネカフェならば高校生だけでも入れるし、銭湯も昼間なら規約の範囲内で利用ができる場所のほうが多い。昼間にお風呂に入るとすれば、入浴にも困らない。


 そうして、生きたまま9月を迎えた僕らを待っていたのは僕らを心配した両親と、両親の通報のもと僕らを探していた警察官の怒りだった。


 デスゲームや教室の惨劇に一切触れない周囲を不思議に思い、適当に同級生のSNSアカウントを見ていれば、皆生きていた。デスゲームが開かれた形跡がなかった。


 何が起きているのか、黒辺誠はデスゲームを開かなかったのか。


 混乱しながらも両親と警察官の手前状況を説明しなければならず、打開策もなく惑う僕の前に立ったのは、明日加だった。


 明日加は、自分が自殺をしようとして、僕は明日加を心配し死のうとする明日加に付き添ったと話をした。どうやら僕が明日加の手当をするため、救急箱を取りに行ったとき遺書を認めていたらしく、それらの開示により「突然親に無断で行方不明になった2人の高校生」は、「死のうとした女子高生と、彼女をなんとか根気強く説得し、9月を迎えさせた男子高校生」に変わった。


 そうして、みんなより1日遅れで迎えた新学期から日がたち、秋を迎えてもなお、デスゲームの片鱗すら感じさせない穏やかな日々が続いていた。


 ただ、夏休み前とは、少し違うけど。


 なぜなら明日加が死のうとしたことを、学校は把握している。


 僕と明日加、それぞれの両親が学校に僕らがいないか連絡したからだ。連絡を受け、当然教師たちは僕がめちゃくちゃにした教室を確認したけれど、僕の自殺用セッティングは明日加が死のうとしたのを止めた時のものだと解釈された。


 だからか、僕と明日加を一人にしないように、ある程度監視下に置こうという学校の目論見なのか、普段黒辺誠が頼まれるようなクラスの人間のノートを集め別の教室に運ぶ仕事を明日加と一緒に任された。


 とはいえ、教師にも教師の事情がある。ほかの生徒から部活の相談があると呼ばれ、退出した。この場で明日加が死のうとしたらどうするのかと思えど、衝動的に自殺をするのは僕のほうだ。


「水槽、魚じゃなくてクラゲがあればいいのに」


 明日加がそう言って後ろから抱きついてきた。背中に明日加の全部があたっている。柔らかくて、温かい。石鹸の香りがする。そんなことを思う自分が気持ち悪くて死にたくなる。


 僕は平静を装いノートの整理を続ける。黒辺誠、と綺麗に書かれた名前が視界に入る。


 黒辺誠は、黒辺誠のままだ。相変わらずクラスメイト全員、物のように見ながらも優等生を演じている。ただ奇妙なことに、彼と妹が手を繋いで歩く姿が目撃され、姫ヶ崎は黒辺誠の勉強会に参加していたような頃から一変し、クールビューティーどころか淡々と感情を無くしたようにして過ごしている。


 デスゲームが開かれるのが延期されたのか、黒辺誠は別の事件を起こそうとしているのか、分からない。


 けれど、デスゲームが開かれれば、僕は明日加と共に死ぬ。


 そう決めながら、日々を過ごしている。それは漫画で徳川明日加が一人で死んでいった教室で、水槽を横目に集めたノートを運んでいる今日も同じだ。


「知ってる?」


 明日加が問う。


 耳元で囁かれたからか、妙に緊張して身体が強張る。


「イルカって肉食なんだよ」


 明日加が僕を抱きしめる。まるで、どこにも流されないよう、捕らえているみたいだった。


 でも、いい。僕のほんとうの姿を知っている彼女の思うままがいい。


 なにもない僕を欲してくれる彼女となら、どこへでも行けるし、どこにも行かない。


 いつの日か、明日加が僕のほんとうの価値──無価値な存在だということに気づき、不要としてもいい。なんでもいい。


 徳川明日加が──いや、明日加が死ぬときに、生きていてよかったと思いながら、なるべく怖い思いも痛い思いもすることなく寂しくない状態で死んでくれたらそれでいい。僕のことを忘れてくれていたら、もっといい。


 明日加の走馬灯が、どうか、安らかに、優しくあたたかなものでありますように。


 僕はそう思いながら、彼女の腕に触れた。










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