番外編 天泣摂受傘もなく

 夏休み前の空気は、得意じゃない。


 教師たちは学校が長期的に休みに入ることで慌ただしくなり、捕まえづらくなるし、生徒は生徒で浮かれ、「夏休み前だから」「せっかく夏休みに入るのだから」と前置きして、煩わしいことばかり増やしていく。


「黒辺くん、ちょっといいかな」


 終業式を明日に控えた昼下がり、夏休み前の生徒会の最後の大仕事として与えられたのは、プール掃除だった。1,4メートルほどの水深を誇る内部とその外周に、デッキブラシと水を気休め程度にこすりつける単純作業。それに選ばれたのは生徒会役員全員と有志の生徒で、俺を呼び止めたのは学年が違う女子生徒だった。


 後輩だろうが、1年か2年かも分からない。


「わたし、あの、いつも皆のことまとめて、成績とかも1位で、かっこよくて……好きで。あの良ければ彼氏になってもらえたり……って」


 太陽に灼かれた床は熱く、立っているだけで不快というのに、いっそう気分が悪くなる。


「そうなんだ。ありがとう。でもごめんね。受験のこともあるし、今は生徒会としての仕事が大切だから」


 定例の言葉で断ると、女子生徒は涙ぐんでかけていく。面倒な儀式だ。適当にあしらえば悪評を流され、手間がかかる。デッキブラシを握る手に力をこめていると、とん、と肩に手がのった。


「お兄ちゃん! 今告白されてたよね? 断ったよね?!」


「そうだね」


 俺の父さんと結婚した人の連れてきた、義妹。舞が蛙みたいにはねながら、やかましくくっついてくる。


 幼い頃から、あまり知性を感じないそれの世話をすると周囲の評価が上がっていた。


 だから死なない程度に放っておきつつ、要所要所で世話をした結果、好かれたらしいその生き物は、夏の暑さに憂いも見せずはしゃぐばかりだ。血が繋がっていなくて良かったと、心から思う。あれと同じ血を持っていると思われるのは、いささか堪える。


「舞、それより水分取った? 暑いし気をつけたほうが良いよ」


「おっけい!」


 さりげなく立ち退くよう差し向けると、それはプールサイドを小走りで駆け、日陰に置いていたペットボトルを手にとった。


 男子生徒も女子生徒も、濡れても大丈夫なようみんな体操着を着ている。義妹も同じだ。一律揃えられた線が重なる半ズボンからのぞく足が視界に入って、ふと思いつく。


 虫は足をなくしても、しばらくの間は生きていた。それは人間も同じだろうか。みな夏休みに計画を立てているけれど、自分もそれに倣ってみるのもいいかもしれない。


 なにかが命を失う瞬間は、心が晴れやかになって、昂りを覚える。自分が何かを殺すことだけにこの心が動かされているのかも、調べてみたい気もする。


 けれど虫だけじゃ、実験にならないような気がした。だって虫は殺しても騒がないけど、人間はそうはならないだろう。でも経験として、誰かを突き落としてはみたい。海でも、川でも、池でも、このプールでも。


 背後には、顧問の言いつけでこの掃除に参加した男子バレー部たちが、お互いをプールへ落とそうと押し合いをしていた。すでにプールの水は抜いているからか、完全に茶番だろう。けれど、もし落ちたらどんなふうに人の頭が砕けていくのか、興味が湧いた。


 そうだ、近くに公園がある。その池は、小学生の水遊びの場所になっている。少し落とし方を間違えば、岩場に頭を打ち付けるだろう。


「黒辺、お前告白されてたな!」


 ぼんやりと眺めていると、脇腹を小突かれた。生ぬるい温度が不愉快で、それを隠すために「えぇ?」なんて、一歩引く。隣には我が物顔で同じクラスの男子生徒が立ち、先程俺の時間を奪った女子生徒を指差した。


「あの子、すげえ可愛かったのになんで断ったんだよ。頭いい顔かわいい性格もいいで断るところなんて無いだろ」


「今年受験があるからね」


「受験なんて関係なくね? ふつーに付き合えばいいのに。勿体ない」


 勿体ない。その感情がよく分からない。


 なんとなく将来、適して迷惑のかからない人間と付き合って結婚して、生きていくのが正解だろうということは、他人を見ていてわかる。


 でも、自分がしたいとは思わなかった。人に好かれると便利だから、そういうように行動はするけど、誰か一人を好きでいることにメリットを感じない。一定以上利用できる程度に好かれて、それを享受するだけでいい。


「えー勿体な! 俺めっちゃお前関連で相談受けるんだけど」


「どうして?」


「親友だからだろ!? 俺と! お前が!」


「そうだっけ?」


「黒辺おまえひっど!」


 何がおかしいのか、男子生徒はよく笑う。俺が楽しくもなく笑っていることに騙され、冗談だと思っているのだろう。


「もしかしてお前シスコンだったりするの?」


「なにそれ」


「妹がすき?」


「いや、意味は通じてるって。っていうか、妹だよ? 父さんに頼まれてるんだよね」


 年にあまり差のない義妹に対して、利用価値以外に思うところはなかった。しいていえば、うるさい、もしくは、面倒。


 生産性のない言葉に適当に返事をしていれば、俺は「いい人間」と評価される。しつけのなってない犬に、適当に餌付けをするだけで。


「えーでも顔かわいくね? そんで義理でしょ? 俺もあんな義妹ほしーわ」


「犯罪者思考っぽいよ」


「いや一歳しか変わんないんだからいいだろ」


 あげるよ、ほしいなら。別にいらないし。便利だから使ってるだけで、使いたいわけじゃないから。


 ただそう言えば面倒なことになるなと、後ろから聞こえてきた足音に口をつぐむ。


「お兄ちゃんもうプール掃除終わりそう? っていうかこれ終わったら水入れたりするの? なんか飽きてきちゃったなー」


「どうだろう」


 興味がない。掃除も、舞が発する言葉にも。


 でも、舞は俺の言葉を疑わないし、無邪気になついてくる。便利だ。


「前に先輩に聞いたけど、先生によっては最後プール遊びさせてもらえるみたいだよ。だからちゃんとやったほうがいいかも」


 そんな話、聞いたこと無いけど。適当に空想を混ぜて話すと、舞はやる気を出し始めた。かといって俺はこの炎天下のなか、やる気も持てず、「みんなビート板の整理してるかな……」と不安な顔を作る。


「えーどうだろ。してないかも……」


「じゃあ、俺ちょっと見てくるよ。あのあたり、心配だし」


 俺はバレー部の男子たちへ視線を向けた。面倒くさい茶番に関わるつもりは毛頭ない。


「いってらっしゃいお兄ちゃん! 気をつけてね!」


「うん。いってきます」


 今年の夏休み、何か新しいことを始めてみるのもいいかもしれない。そうしたら、この慢性的な退屈からも、少しは抜け出せるかも。


 俺はプールサイドから離れながら、舞に背を向け、やけに鮮やかな青空を見上げて歩いたのだった。




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