番外編 ゆかりの困惑

「……しゅっ」


 晴れ渡った青空の下。相変わらず蝉が大合唱している塾の帰り道、なるべく声を発さず公園の池に飛び込む。着水してから無言で池へと上がると、兄が呆れ顔で近づいてきた。


「舞、何でこんなことするの?」

「お兄ちゃんを驚かせたいから」


 比較的おおざっぱに私の頭をタオルで拭う兄に、思い切り口角を上げた笑顔を向ける。目を大きく見開いていると、不愉快だったのか顔ごとタオルで覆われた。


 はじめて私が池に飛び込んでから今日でおよそ一週間。通算八回目の池ダイビングだ。


「まぁ確かに驚くけどさぁ……普通に汚いでしょ」


 兄はため息を吐きながら私の二の腕を掴みずるずる引きずっていく。


 飛び込まれることが分かっているのに池の周りを通るのは、やはり飛び込みが見たいからだと思う。両親に話をしている気配もないし、飛び込み二日目からは透け防止のために黒Tシャツを着ているし、私のダイビングライフは順調だ。


「舞、池に飛び込むっていうことは良くないことっていうのはわかる?」

「うん。迷惑になっちゃうよね」

「じゃあなんでするのかなぁ……」

「お兄ちゃんを驚かせたいから」


 驚かすだけなら、兄を池や滑り台から突き落とす選択肢もある。でも普通に加害行為で終わるし危ない。自分で落ちようと思えばいくらでも受け身が取れるし、危ないのは私だ。だからこれからも飛ぶ。やめる日は来ない。


「それよりどうだった? 無音飛び!」


 私はこの一週間、落ちた後は真顔でいたり、定期的に沈み浮上を繰り返して陸に上がったりしている。それは偏に兄のためだ。このまま池に飛び込むことを繰り返していても、近所に頭のおかしな中学生がいると不審者の称号を得てしまうだけだ。だからバリエーション豊かに飛び込んでいた。


「全体的な感想といえば」

「うん!」

「中学二年生の女の子がしていいことじゃないよ」


 無音飛びはどうやらお気に召さなかったらしい。兄は不機嫌そうな顔をしている。仕方ない。次の作戦を始めようと考えていると、兄がスマホを手にして「あ」と声を発した。


「どうしたの?」


「今日はお父さんもお母さんも帰ってくるのが早いから、夕食の時間ちょっと早くなるかもだって」


「えーそうなんだ」


 兄の実のお父さん……このサイコパスと血の繋がっているお父さんは優しくて大らかだ。食品を扱う会社で専務をしていて、私の実のお母さんもおっとりしていて静かな人だ。ただ怒ると怖い。エンジニアの仕事をしていて、家と会社の半々で仕事をしている。


 お互い離婚して一人で私たちを育てているときに出会ったみたいだけど、私の実のお父さんや兄の実のお母さんがどんな人かは分からない。


「ちょっと急ごうか。二人が帰ってくるまでに着替えないと」

「うん」


 兄の言う通り足を早めて家に向かい、玄関の扉を開く。すると何故か悲しげな父と母の姿があった。唖然としながら振り返ると、兄は静かに私を見下ろしている。


 謀られた?


 悟る前に、私はお母さんに腕をつかまれた。そのままお風呂場に放り込まれ身ぐるみをはがされると、風呂場の扉を閉められる。いそいそと身体を洗い終え着替えると、お母さんが「リビングに来て」と温度のない声でつぶやく。


 逆らうなんてことはできず、私は恐る恐るダイニングチェアに座った。目の前にはお母さんとお父さんが座り、隣には兄が座っている。


「舞、最近公園でおかしなことをしていると聞いたけど、どういうこと?」

「えっと……」


 重々しくお母さんが口を開いた。この一週間、私は兄に対して驚きを提供し続けた。兄にだけ迷惑がかかるよう安全に留意した形で。兄は両親に報告している感じはないと思っていたけど、この様子だと逐一報告されていたみたいだ。


「誠が止めても毎日池に飛び込むって聞いて驚いたよ……あのさ、何か嫌なことがあったのかな? その、ストレスとか……」


 そしてたぶん、泳がされていたらしい。私が八回飛び込みができたのは、止めても八回飛び込んだ妹がいるという事実によって、両親に強制措置を取らせたい兄の思惑だったようだ。


「公園の池はみんなのもので、決して飛び込んでいい場所じゃないの。舞も危ないけど、舞の真似をして、小さい子が危ない目にあうかもしれない。どんなに浅くても、溺れることはあるし、なにより本当に池に落ちた人が、助けてもらえなくなるかもしれないのよ」

「中学生の舞ちゃんにこんなこと言うのはよくないかもしれないけど、明日から外出は禁止だ。ちょうど来週は学校が始まるし、それまでは家で大人しくしてること」


 確かに、来週から新学期が始まる。最後の七日間は大技に挑戦しようと思っていたのに。何か別の手段を考えなくてはいけない。しかし上の空だったことが分かったのか、お母さんに「舞」と窘めるように呼ばれてしまった。


「舞が理由も無しにこんなことする子じゃないっていうのは分かるから、最後に理由だけ教えて?」

「うん。そうしたらもうこの話は終わりだ」


 二人が私を心配する気持ちは分かる。でも議題は私ではなく、兄の方であるべきだと声を大に出して言いたい。でも言ったら消される。今私が庭にある死体安置箱の中身を伝えれば、きっと議題の矛先は変わるだろう。ちらりと視線を向けると、兄は困った顔で私を見ていた。しかし瞳の奥は相変わらず、光がある感じがしない。


 でも、お父さんやお母さんが兄の嗜好を否定して、兄が「分かった!」と気持ちや嗜好を変えるとは到底思えない。そんなすぐ変わるなら何十人も殺さない。下手したらお父さんとお母さんが死ぬだろう。


「池落ちるの楽しいから飛んでた。なんか、抑えきれなかったっていうか、むしゃくしゃして……」


 だから私は、犯罪者みたいな言い訳しかできなかった。そしてそんな娘に対して、お父さんとお母さんは顔を見合わせたのだった。


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