8
(そろそろ部屋に戻らないとーー)
シャーロットは夜空を見上げながら何度か自分に言い聞かせては、重い腰があげられないでいた。
明日からどうすればいいのだろう。
アレックスに拒絶されるのには慣れていた。最初のころは何度訪れても完全に無視されていたのだ。けれども今回の拒絶は今までとは違う気がして、怖くて足がすくんでしまう。
涙は引っ込んだが、ともすればまたあふれてきそうで、シャーロットはきゅっと奥歯をかみしめる。
「シャーロット」
控えめに名前を呼ぶ声が背後から聞こえたのは、そんなときだった。
振り返るとアレックスがいて、シャーロットは息を呑む。
「風邪をひくぞ」
秋の夜は寒い。シャーロットは夜着の上にガウンを羽織っていたが、確かに言われてみれば寒かった。
アレックスの声は今まで聞いた中で一番優しく響いたけれど、シャーロットは立ち上がることができなかった。
無言でうつむくシャーロットの隣に、アレックスは静かに腰を下ろした。
「そういう格好をしていると普通に見えるな」
アレックスが小さく笑った。すぐ隣にいるから笑った時の空気の振動すら感じられる幼な気がして、シャーロットはどうしていいのかわからない。
昼間あれほど拒絶したくせに、どうしてそんな風に笑えるのだろう。
「……わたしは普通よ」
ちょっと腹が立ってきたので言い返してやると、アレックスがまた笑った。
シャーロットは今、いつも二つに束ねている髪をほどいて、白のシンプルな夜着の上にガウンを羽織っている。
アレックスは喉の奥で笑いながら、じっとシャーロットを見つめ、突然に真顔になった。
「泣いていたのか?」
「……泣いてません」
「目が赤い」
「もともとよ」
「嘘を言うな」
アレックスはシャーロットの頬に手を伸ばして、指の腹でなでる。
「……悪かった」
アレックスが謝ったので、シャーロットは目を見張った。
ぱちぱちと目をしばたたいてアレックスを見つめていると、彼はバツが悪そうにふいっと顔をそむけた。
「よくわからんが、俺はお前を傷つけたんだろう?」
ここで素直に「よくわからん」というあたりがアレックスだ。わからないけれど傷つけたみたいだから謝る。その理由に思わず笑ってしまう。
シャーロットが笑うと、アレックスはほっとしたように息を吐いた。
「言っておくが、別に俺はお前がおさげで野暮ったい格好をしているのが嫌なんじゃないぞ! 普通にしてりゃいいのに、どうしてそんな変な格好をするんだとは思ったが、別にお前の自由だからな!」
そして二言目以降がいろいろ余計だ。
「それで、いったい俺の何がお前を泣かせたんだ」
「何が、というか……」
シャーロットは口ごもったが、アレックスは聞くまで納得しなさそうな雰囲気だ。
シャーロットは肩をすくめて口を開いた。
後で考えれば、どうしてアレックス相手に話す気になったのかはわからない。
ただなんとなくーー、胃のあたりにたまっているような気のするドロドロした何かを、吐き出したいと思った。
それは、そろそろ春の訪れがやってこようかというころだった。
春の訪れとともに社交シーズンは終わりに向かい、新緑が青々と茂るころにはオフシーズンに入る。
十五歳の秋にレドモンドと婚約したシャーロットには、レドモンドと迎える二度目のオフシーズンになるはずだった。
そろそろ結婚の話が出てきてもおかしくなく、レドモンドからもオフシーズンを一緒にすごさないかと、冬のはじまりに誘われていた。
レドモンドの家族とオフシーズンをすごすということは、結婚の準備と考えていいだろうとシャーロットは一人で舞い上がっていた。
シャーロットはその野暮ったい見た目からか、社交界に出てもダンスに誘ってくれる人は少ない。
親友のマルゴットのアドバイスで、流行らしい髪型やドレスでダンスパーティーに出席しても、元がイマイチなのだからあまり効果はなかった。
そんな中、レドモンドはシャーロットに微笑みかけてダンスに誘ってくれた数少ない男性だった。何度かダンスパーティーで顔を合わせて、何度かダンスを踊った。しばらくするとレドモンドから直接ダンスパーティーのパートナーにと誘いが来るようになった。そしてまたしばらくしたとき、彼から求婚されたのだ。
誰からも振り向かれないと思っていたシャーロットは舞い上がり、家柄などを出してきては渋い顔をする両親を説得した。父も母も兄も、最終的にはシャーロッドが好きならばと許可をしてくれて、晴れてシャーロッドはレドモンドの婚約者になった。
レドモンドをマルゴットにも紹介して、マルゴットも祝福してくれた。
幸せだった。
レドモンドは野暮ったいシャーロッドに優しく、いつも微笑んでいてくれたから。
だからまさか、あの日、あんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
冬と春が交じり合ったような日だった。
朝には真っ青に晴れていた空が昼過ぎにはどんよりと曇り、地面に落ちてはすぐに消えるような大粒の名残雪がぱらぱらと舞い落ちては通行人の肩を濡らす、そんな日だった。
シャーロットは昼過ぎにレドモンドに呼び出されて、彼のタウンハウスに向かった。カントリーハウスに向かう日程の話だろうかと、楽観的に考えながら。
小さな違和感を覚えたのは、彼の邸の前に、見覚えのある馬車が止まっていた時だった。馬車はマルゴットの家のもので、どうして彼女の家の馬車がここにあるのかと不思議に思いながら門扉をくぐった。
レドモンドの両親や兄弟は一足先にカントリーハウスに戻っていて、邸にはレドモンドとタウンハウスの使用人しかいなかった。
シャーロットはレドモンドの部屋に通されて、そこにいたマルゴットに首をひねった。
やはり、止まっていた馬車はマルゴットのものだった。けれどもどうして彼女がここにいるのだろうか。
「いらっしゃい、シャーロット」
マルゴットが、まるで自分の邸にシャーロットが訪ねてきたかのように出迎えたとき、シャートットの感じていたかすかな違和感が大きくなった。
マルゴットの隣に座って微笑んでいるレドモンドに、胸の奥がざわざわとざわめいた。
混乱したシャーロットは立ち尽くしていたが、マルゴットもレドモンドも彼女に座れとは言わなかった。後から考えれば、すぐに追い返す予定だったから、座らせる必要もティーセットを用意する必要もなかったのだろう。
「シャーロット、別れてくれ」
レドモンドが唐突に言った。
シャーロットは耳を疑い、すぐには反応できなかった。
茫然とするシャーロットに、レドモンドは繰り返した。
「君には悪いことをしたと思っている。けれども僕の心はもう嘘をつけない」
嘘?
嘘って何だろう。
悪いことをしたってどういうこと?
僕の心って何。
ぐるぐるとシャーロットの頭の中が、渦を巻くような混乱に襲われる。
シャーロットは混乱が解けないままにマルゴットに視線を移した。いつも優しくてきれいなマルゴットは、嫣然と微笑んでいた。
「ごめんなさいね、シャーロット」
どうしてマルゴットが謝るのだろう。
胸の軋みが大きくなって、今にも音を立てそうだった。
マルゴットはレドモンドの腕に自身の腕を巻き付ける。
やめて、と言いそうだった。その腕はシャーロットのものだ。触らないでと言いたかった。でもーー、言えなかった。
レドモンドが、いとおしそうにマルゴットを見つめ返したから。
(ああーー)
そういうことなのだ、と理解できたのはどのくらいたってからだろか。
短かったのか長かったのかもわからない。ただシャーロットは立ち尽くし、壊れそうな心を壊さないようにすることで必死だった。
シャーロットがいつまでも動かなかっただろう。
レドモンドは笑みを消すと、イライラしたように言った。
「君は賢いのだと思っていたけれど、実はバカなのかな? わからない? 僕は婚約を解消すると言っているんだ。君みたいなつまらない女は僕の婚約者にはふさわしくない。僕にはマルゴットのように美しく楽しい女性がふさわしいんだよ」
シャーロットはひゅっと音を立てて息を呑み、それから踵を返して部屋から飛び出した。
その背中を、いつまでも二人の笑い声が追いかけてくるようで、部屋から止めてあった馬車までの距離を、無我夢中で走り抜けた。
シャーロットの話を黙って聞いていたアレックスは、すべてを聞き終わると、やがてぽつりと言った。
「……ごめん」
おそらくシャーロットを傷つけた言葉は、シャーロットが本を投げつけてくる直前にアレックスが放った「つまらない」だ。
彼女の心には、かつて婚約者から放たれた言葉の傷がまだ残っている。
「悪かった」
知らなかったとはいえ、彼女が泣くほどのつらい言葉を放ってしまった。アレックスは本当に後悔してうなだれる。
「もういいわ」
吐き出したことで少しはすっきりしたのか、シャーロットが笑う。
「別につまらないのは本当のことだし」
「いや、君は面白いよ」
「お世辞はいいのよ」
「お世辞じゃない。正直なところ、君みたいな変な女ははじめてだ。髪型もドレスも変だし、いつも本ばかり読んでいるし。極めつけは俺を棒で殴りつけてくるなんてーー、そんな女ははじめてだからな」
シャーロットはむっと口をへの字に曲げる。褒められるのかと思ったら全面的に貶された。ここは普通、褒めるところだろう。慰めるところだろう。なんなんだろうこの筋肉バカ王子は。脳まで筋肉に変わってデリカシーというものをなくしたのではなかろうか。
シャーロットがすねたのがわかったのか、アレックスが慌てたように付け加えた。
「それに、お前はかわいいぞ。もとはそんなに悪くない。むしろ格好がひどいというか、もっとましな格好をすればいいのにというか、とにかく、うん、悪くない」
シャーロットはカッと頬を染めた。またしても褒められているのか微妙な発言なのに、どうしてかすごく照れてしまう。
「そ、そんなに悪くないっていうのは、誉め言葉じゃないわ」
どうにかそれだけ言うと、シャーロットは赤い顔を隠すように顔をそむける。夜闇で、顔の色なんて判断がつかないだろうが、そうせずにはいられなかった。
そんなシャーロットにアレックスは何度も褒めているのか貶しているのかわからないことを言い続けて、最後にシャーロットがからかわれていることに気が付いてアレックスの頭を掌ではたくまで、二人は月に見守られながら他愛ない話をつづけたのだった。
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