7

 帰れと言われたところで、すんなり帰れるはずもない。


 シャーロットの雇い主は国王で、帰るにしても国王の許可が必要だ。


 でも、アレックスの顔は見たくなくて、シャーロットはあのあと、一日部屋にこもっていた。


 暇さえあれば開いていた本を開く気にもなれない。


 どうしてこんなに自分が傷ついているのかわからずに、日が落ちたころ、シャーロットはふらりと城の中庭に下りた。


 シャーロットは城の中庭のベンチで読書をするのが好きで、毎日の日課のように訪れていたが、昼に訪れる庭と夜の庭では趣がだいぶ違う。


 夜闇の中に浮かび上がる墨で塗ったように黒い木の影や建物の影は、まるでそこから得体のしれないものが飛び出してきそうな気がして恐ろしい。


 城の警備の兵たちの足音や話し声の中に響き渡る虫の声や鳥の声、噴水から水の流れる音。それを聞きながら静かに座っていると、まるで世界にたった一人取り残されたような気さえしてくる。


 ひとりぼっちーー


 確かにそうかもしれない。


 婚約者に捨てられて親友に裏切られてーー、アレックスもいらないといった。


 ーーお前みたいなつまらない女、いらないんだよ。


 アレックスの声に、婚約者であったレドモンドの声が重なる。


 レドモンドも、シャーロットに「つまらない」と言った。つまらないーー、そんなこと、言われなくてもわかっている。シャーロットは「つまらない」から、きっと一生誰からも愛されることはないのだと、わかっている。


(いいじゃない。お金くれるっていうんだもの。……田舎でのんびり暮らすって決めたじゃない。これでわたしの目的がかなうもの)


 仕事をせずに収入が得られたのだから喜ぶべきだ。


 もともとアレックスの教育係なんて乗り気じゃなった。


 アレックスは口が悪くて失礼で、全然本を読んでくれないし、暇さえあれば筋トレをしている筋肉バカ。そんなろくでもない王子から解放されるのだから、これでよかったのだ。


 そう思うのに、シャーロットの気分は沈んでいく。どうしてだろう。どうして喜べないのだろう。どうしてこんなにーー傷ついているのだろうか。


 シャーロットは空を見上げる。空にはたくさんの星がきらめいて、半分ほどまで欠けた月が輝いていた。


 ぼんやりと空を見上げて、虫たちの声を聴いていると、徐々に瞳がうるんで視界がかすんでいく。


(……わたし、きっと死ぬまでひとりぼっちね)


 望んでいたはずだった。一人で田舎でのんびり本を読みながら生活する。なんて素敵な計画だと思った。それなのに、無性にそれをさみしく思ってしまったのはどうして。


 シャーロットはゆっくりと瞼を閉じる。


 瞼を閉じた拍子に、盛り上がっていた涙が頬を伝った。






 眠れないーー


 アレックスは何度目かの寝返りを打つ。


 無理やり眠りにつこうと、きつく瞼を閉じるが、その裏にシャーロットの顔が浮かび上がって目をあける。


(……泣くなんて思わなかった)


 シャーロットは引き受けたくてアレックスの教育係になったわけではないはずだ。国王が無理を言ったのはわかっているし、莫大な報酬が約束されていることを知っている。


 裕福な伯爵家の令嬢がどうして金に釣られたのかは甚だ疑問ではあるが、金が欲しくて引き受けたのならば、アレックスの提案は渡りに船ではなかろうか?


 それなのに、シャーロットは泣いた。


(俺が傷つけた……)


 別に、女を傷つけたことなんて何度もある。泣かせたことだって。父王が縁談を用意するたびに、婚約者候補として女が現れるたびに、散々に傷つけて泣かせて追い出した。


 女の泣き顔なんて、なんとも思わない。


 女はすぐに裏切る。そんな女がどれだけ泣こうと、傷つこうと、アレックスには関係ない。


 シャーロットだって金に釣られて引き受けた。王子という身分に釣られて近づいてくる女たちと何が違うというのだ。


「くそっ」


 アレックスは起き上がると、くしゃりと前髪をかきあげる。


 シャーロットはどうして泣いたんだろう。


 アレックスは何を言って彼女を傷つけた?


 出て行けと言った。けれどもそんなことで傷つくほど、シャーロットはアレックスの教育係としての仕事にやりがいや誇りを持っているわけでもないはずだ。


 では、いったい何に傷ついた?


 アレックスの口が悪いのはいつものことだ。


 シャーロットに向かって乱暴な言葉を吐いたのははじめてのことではない。


 アレックスの言葉に起こった時、シャーロットは木の棒で容赦なく殴りつけてくる。泣いたのははじめてだ。


(もやもやする……)


 アレックスはベッドから降りると、うろうろと室内を歩き回った。


 シャーロットを泣かせた。


 あの後シャーロットは姿を見せなかったが、城から出て行っていないことは知っている。


 シャーロットの身の回りの世話を任せているメイドからは、ほとんど食事に手を付けていないと報告が来ていた。


 シャーロットがこのまま城にいては、ボルス侯爵令嬢に何をされるかわからない。


 嫌がらせは日々エスカレートしているように見える。幸い、シャーロットにまだ怪我はないが、彼女がいつまでも城にいては、業を煮やしたボルス侯爵令嬢が次に何をしてくるのかーー、考えただけでもぞっとする。


 ああいう女は、自分がすべて正しいと思っているのだ。傲慢は時として非常な残酷性を生む。


 シャーロットを早く城から遠ざけなくてはいけない。


 せめて、アレックスがすべてを終えるまではーー


 アレックスは何気なく窓に近づいた。


 今夜はよく晴れているらしい。カーテンの隙間から漏れる月明かりは明るく、いつもそこからシャーロットが読書をしているのを見下ろしていたアレックスは、カーテンを開けると、つい癖で彼女がいつも座っているベンチに視線を落とし、そこに座っている人影を見つけてぎくりとした。


(シャーロット……?)


 月明かりに浮かぶ影は暗くぼやけてはっきりしない。けれども毎日のようにそこで本を読むシャーロットを見ていたアレックスには、それがシャーロットであると確信できた。


 こんな夜中に、彼女はそこで何をしているのだろう。


 アレックスはいてもたってもいられない気持ちになって、部屋から飛び出した。

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