春疾風
九尾の妖狐を捜索中のやしろは今、次の目的地である大豆畑にいた。
種を植えたのかどうなのか判別はつかないそこは、珍しく杉が遠方にしか見当たらず、柔らかく盛り上がった土だけが一面にあった。
「ねぇねぇ。やしろ。なんで九尾の妖狐を探してんの?ま~た力勝負を挑む為?懲りないわね。あんたも。ま。そこがばかわいいんだけど」
「うっせえな。腕を組むな。のばら」
やしろに柔らかく腕を絡ませているのは、肌黒で肩に届かないほどの波打つ髪と、山の形のように笑みを常に湛えるような口元の女性烏天狗である。九尾の妖狐捜索に協力を申し出た相手でもあったが、その理由までは告げてはいなかった。
「なによ。相思相愛の仲なんだから遠慮しなくていいのよ」
茶化して告げれば、やしろは無言でのばらを睨んだ。あ、本気で怒っている。そう悟りながらも、のばらは腕を離さなかった。怒らせるのは慣れっこだったのだ。
にこにこと、のばらが殊更笑みを湛えて見つめ返せば、一度は怒髪冠を衝きながらも、間を置かずに、やしろの怒りはしおしおと萎んでいった。いつもの事かと諦めたのだ。次いで、三角にしていた目もいつもの切れ長に戻ったところで嘆息した。
「情報は?」
「塩作りのとこで見かけたから足止めを頼んだ」
「ちっ。端かよ」
(だが、烏天狗国で助かった)
塩作りとは、海岸の或る場所を示しており、烏天狗国の一番端に位置していた。
やしろは捜索の為に落としていた速度を目一杯上げてそこへ向かった。杉が折れて倒れるのではないかと危惧するほどの速度に、のばらは腕を絡ませたまま並んで飛翔する。やしろの全速力にもかかわらず、のばらはその速度について行けるのだ。涼しい顔をして。
(武骨な飛翔。好きだけど)
風に抗うように羽ばたきで新たな風を生み出し、すべてをなぎ倒し破壊するような飛翔をする烏天狗。
のばらは烏天狗の飛翔を好んでいたが、妖精の飛翔も好んでいた。
どんな風にも添い、羽ばたく音さえ感じさせず、軽やかに、優雅に飛翔する妖精を。
母に聞かされていた話に違わない妖精の飛翔が、未だ目に焼き付いて離れないでいる。
「足止めってどいつだよ?」
「私の相思相愛の仲で一番強い烏天狗」
やしろは眉根を寄せた。
「一番強いのは俺だろ」
ちっちっちっと、のばらは舌で音を鳴らした。
「私の見立ては公正で正確。やしろは五番目。でも一番ばかわいいのは、やしろよ。嬉しいでしょ?」
「不名誉極まりないな」
「その評価を覆したいなら早く強くなりなさい。私よりも、ね」
流し目で視線を射止められた瞬間、やしろの産毛が逆立った。孕んでいた殺気に身体が反応してしまったのだ。不本意にも。
「ほんと素直な反応」
のばらは鈴を転がすような綺麗な声で笑った。
(くそっ)
やしろは感情を露わにしまいと、意識を全神経に張り巡らせて耐え忍び、無感情を貫いた。
(ばっかね。丸見えなのに)
声を大にして笑ってしまいたいが、そこは恋仲の相手である。立てる意味でも、堪えて、目を細めるに留めた。
(あ~、でも本当にばかわいい)
強い相手を自分のものにしたい。欲求のままに告白しては、色好い返事をもらい続けてきた。
やしろも同様に。告白した時点ではそう強くはなかったが、強くなると読めていた。まだまだ伸びしろがある。あと数十年もすれば一番の座は確実だろう。
(ま。恋仲の相手の中では、だけど)
九尾の妖狐は別枠と考えて無視。烏天狗も含めて妖怪の中で一番強いのはほかにいる。
やしろは一番の相手を超えたいから、自分と付き合っている。と、のばらは推測していた。
同じ思いを抱いての返答ではなかった。と。
落胆も悲哀も抱かない。告白した時も今現在も。恐らく未来も。
相手の内情などどうでもいいのだ。自分のものであるという証明さえできればなんでも構わない。それこそ、ほかに思慕の想いを寄せる相手がいたとしても。
(むしろ、そっちの方が面白いしね)
こちらの都合でいくらでもおもしろおかしく引っ掻き回せるのだから。
のばらは内心で舌なめずりしながら、無邪気に問いかけた。
圭の為に必死になっているのかと。
交わした視線でやしろの不機嫌さがわかる。史上最悪に虫の居所が悪いらしい。
横目でのばらに向けていた視線を前に戻したやしろ。遠方に海を捉えながら、低い声音で言葉を紡ぎ始めた。
今凪いでいるらしい海もいつ豹変するか読めない。いつ襲いかかるかわからないのだ。
同様に、
「一体の妖精と一体のマンドレイクっていう生物が烏天狗国に入って来た。圭はマンドレイクの所為で身体は瀕死状態、魂が身体から追い出された挙句、マンドレイクに定着した。すべてを解決する為に俺とかづらが動いている」
「へえ」
それはまた面白い事になっているわね。流石に継げたい言葉は飲み込む。
(それならかづらの負担がひどいわよね。今は交術を使ってこっちの様子を見ていないみたいだし。体力の温存か、できない状況か。あっちでもなにかあったって事よね。私もかづらに分身を送ってあげようかしら)
「それでいつになく険しい表情してるわけね。やしろは圭にいっつも一生懸命。妬けちゃうわ」
忙しなく思考を巡らす中、のばらは唇を尖らせて告げた。やしろは当たり前だろと、心底真剣に告げた。
そう。今凪いでいる海もいつ豹変するか、なんて読めるわけがない。故に監視するのだ。いつ緊急事態が起きても対応できるように。
「あいつになにか起きたら絶対世界は滅びるぞ」
(あーほんと。ばかわいい)
のばらは慈愛に満ちた瞳でやしろを見つめた。
いったいやしろは私に何千回ばかわいいという単語を使わせる気なのだろうか。際限などないだろう。無限大だ。のばらは確信しながらも、回想し始めた。
圭が来てから何千回もやしろをからかってきた。圭が烏天狗国にいる時は決まってやしろは傍にい続けるのだ。それはもうからかうしかないだろう。圭の傍にいるのはどうして。問えばやしろは決まって言うのだ。あいつになにかあれば、世界は滅びるぞと。
俺の世界が滅びるの間違いじゃないの。何千回訂正しようとした事か。まだした事はない。果実は腐りかけが一番おいしいのだ。時期の見極めが肝心で、まだ収穫すべき時ではない。
やしろ曰く。九尾の妖狐が差し向けた世界の審判者だから、あいつが死ぬような事があれば得体の知れないなにかが襲いかかってくる。もしかしたらあいつが豹変して世界を滅ぼしにかかる。追い返す自信は今はまだないから、何事もないように見張っている。今は。に強調し続けている。今もなお。
どこからそういった思考が生まれたのか。甚だ疑問ではある。可愛い部類に入る普通の少女だ。異様な気配などない。ちょっと不愛想だけど、その分笑顔の価値が跳ね上がって可愛い。
そう。可愛い。いちいち可愛い。不愛想なのに。無口なのに。思わず、よしよしと頭を撫でまわしたくなるくらい可愛い。残念ながら実行した事はないので、頭の中で補完するに留めている。
初めての感情だった。強いものを自分のものにしたい欲求は常に持っているが、可愛いものを自分のものにしたい欲求は圭が初めてだったのだ。それも火花のように苛烈な欲求ではなく、ぬるま湯に浸っているような柔和な欲求。積極的に手に入れるまでもないが、常に愛でられればそれで構わなかった。現状では。今後、どのように変化するかはわからない。変わらないままかもしれないのだ。
「そう、圭が」
何千回と聞いた話を素通りしながら、のばらはぽつりと呟いた。気に入っている圭が死ぬかもしれない状況にもかかわらず、不思議と焦りも悲哀も感じられない。
やしろの所為だろう。やしろが圭は特別な存在だとあまりにも言うものだから、言葉が身体に染み込んで離れなくなり、事実であると受け入れてしまったのだ。
特別だから、こんな事で死ぬわけがない。
だからまだ、圭の傍には行かない。自分は、
「でもやしろは今、圭の傍を離れている。なんで?」
「それは、」
「分身も圭の傍にいないんでしょう?」
やしろの分身はすべて、九尾の妖狐捜索に充てていた。
疑問だった。やしろは自分と違って、圭が死ぬかもしれないと焦燥を抱いている。常日頃俺は見張っているんだと豪語しているにもかかわらず、今がまさに傍にいる時にもかかわらず、やしろは圭の傍にいないのだ。
役割分担として、やしろが九尾の妖狐捜索に力を入れるのはわかる。わかるのだが。
「最後の最後は、お父さん助けてって泣きついたの?」
最後の最後は目を離すのかこいつは、
心中では秘かに怒りの火を灯しながらも、表立っては冷酷に、揶揄するようにのばらは言った。無論、期せずしてではない。意図してだった。
瞬間、カッと頭に血が上る。だが持続はしない。のばら相手ではいつもこうだ。原因は諦めだけではないと知っている。
やしろは一文字に結んだ口を一層強く噛みしめて後、やおら口を開いた。
「そうだ。俺がやるべきなのは九尾を見つける事。俺があいつの傍にいたって、今はなんにもできない」
(今はいじめ時じゃないんだろうけど)
のばらは天を仰いだ。首に痛みが走るくらいに。やしろに対しても。己に対してもだ。反省点は多い。
「あんなに莫迦にしている親父に頼る事しかできない」
(あ~。失敗。言わせちゃった)
ごめんごめんと軽く言って、強く抱きしめるのが常套だろう。
常日頃なら絡めた腕を背中に胸にと回して、すでに実行している。
けれど、実際は腕を絡めたまま。
からかってはいるが、やしろの圭に対する想いがどんな種類のものかは、正確にはわからない。友情か、思慕か。それとも思いもつかない感情か。
ただ一つ、確実なのは、やしろにとって圭は大切な、かけがえのない存在である事。己の半身と言っても過言ではないだろう。
(焦って当然よね)
不謹慎にも、羨ましいと思う。その感情はまだ、持ち合わせた事がない。一度たりとも、
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