第8話 ユウトの考え
鏡から突如もたらされたこの物語の黒幕の存在。自分でもその正体にはうすうす気づいていたのかもしれない。
とにかく、パソコンと話をしよう。
ユウトは浴室の扉を開けた。
浴室の扉を開けた先、狭い脱衣所。
そこには、パソコンの姿があった。
いつもと変わらない紅い目で、こっちを真っ直ぐに見つめている。
「まさか、鏡さんまで擬人化しかけていたなんて。
自分で仕掛けたことではありますが、如何せん初めてのことですから。擬人化する対象・その時期までは操作できなかったんです。」
短い
確かに元はただの機械の筈なのに、今は開け放たれた浴室から漏れる湯気もあいまって、その身体は瑞々しさを帯びている。
その姿は1人の人間の、少女にしか見えなかった。
けれど、パソコンのその心は、まだ分からないままだ。
淡々と、けれど責めるつもりじゃない。
ただ、どうしてなんだとその疑問だけを晴らしたかった。
「…どうして、こんなことをしたんだ。」
「大学なんて、行かなくても良いじゃないですか。」
真っ直ぐに、俺に向き合って答える。
「パソコン…!?
急に、なに突拍子も無いこと言い出すんだ。」
「私が人の姿になる前。
ユウトさんは大学に行っても帰ってきては苦しそうでした。
家に帰っても大学から持ち帰るものに捕らわれてばかりで、ユウトさんが自由になるのはほんの短い間だけ。
そんなユウトさんの姿は、見たくありません。
…私はパソコン。あなたが求めた欲望をすべて知っています。
あなたが私に打ち込んだ、全てを。
私はただ、ユウトさんに生きていて欲しかったんです。」
パソコンの表情がまた変わる。
それは初めて夕日の中で見た笑顔とは、真逆のものだった。瞳の奥が揺れている。きっとこれは、パソコンの本心なのだろう。
けれど、俺は何も言えなかった。
初めて見たパソコンの悲しそうな、寂しそうな顔。
「あなたは、何を考えているのですか。
ユウトさん。」
脱衣所にまでもうもうと湯気が立ち込めてきた。
なにも言い出せない。
そんな2人の沈黙を破るように、
浴室の外、部屋の方で物音がした。
一度、パソコンの方に視線を送るが、
バスタオルを巻いて、脱衣所を出た。
暗い。台所も部屋の中もよく見えない。
近くにあった廊下の電気を点ける。
パッと蛍光灯に映し出されたのは、
これまでと何も変わらない自分の部屋。
全ての家具が、元の姿に戻っていた。
「こ、これは…」
考える間も無く、今度は脱衣所の方で大きな音がした。
すぐに脱衣所に戻ると、そこにはパソコンが苦しそうに肩を押さえて、膝をついて座り込んでいた。
「ど、どうしたんだよ」
駆け寄ろうとする。けれど
その姿はノイズがかかったように突如像が歪みだした。ノートパソコンと人間の姿を行き来するように。
「あぁ、嫌だ…。」
青い瞳。その奥にエラーコードが並んでいた。
「元の姿に、戻りたくありません。
…元の姿に戻れば私の寿命はあとせいぜい数年あるかどうか。そうすれば、あなたと離れなければいけなくなる。
そんなのは、…嫌だ!」
初めて感情的に、自分の思いを口にする。
あぁ、そうか。
パソコンは、壊れかけているんだ。
高校の時に買った、自分用のノートパソコン。スマホとは違った大きな画面、複数タブを開けること、容量の大きさ。その利点をあげればきりがない。と、逆にデメリットがあるのも事実だ。
大学に入ってからは、昔からのブックマークを開いたり、スマホでは調べにくいサイトを調べる以外には、レポートなど課題でしかノートパソコンを開かなくなっていた。
パソコンは、どう思っていたのだろう。
結果として、パソコンの『消えなくない』という気持ちが、この出来事を引き起こした。
そしてその気持ちはいつからか、他の家具たちにも伝染して、あの夜が起こった。
家具たちが何故か俺の好みに近い美少女の姿になったのかは、なんとなく想像がつく。
そして、今に至る。
嘘みたいな話だ。けれど、それは今俺の目の前に現実としてある。
俺の前に座り込むパソコンは、さらに苦しそうな表情をする。
普通のパソコンだったら、エラーコードが出ると電源ボタンで強制シャットアウトなんかで再起動をかけたりするのかもしれないが、
今このパソコンに、電源ボタンはない。
彼女は今この時は、人間なんだ。シャットアウトをして、そうして逃げることはできない。
パソコンに、俺が出来ることはなんだろう。
そして、俺はどんな感情を持てば良いんだろうか。
「パソコン。今君は、壊れかけている。
けれどこのまま人の姿を保つことも、きっとできないんだろう。
今君が人の姿を保てているのは、きみの気持ち、それが全てなんだと思う。
君に、元の姿に戻ってほしい。
今の君の姿はとても苦しそうだ。
けれど、君が壊れたとしても俺は
俺は
大丈夫だよ。君のことはずっと大事にしてきた。…確かに、使う時間は減ってきて、使うときも変な顔ばっかりしていたかもしれない。
それでも、君をぞんざいに扱うことはしなかったし、例え壊れても、君との思い出が消える訳じゃない。」
太もものシールをなぞる。
その感触は、元のパソコンの姿の時と変わらない。いつも、課題に向かって煮詰まったとき、うまく出来なくて悔しかったとき、こうすると少しだけ落ち着くことができた。
「パソコンのことが好きだよ。他の家具たちと同じように。大切にしたいという思いは、変わらない。」
パソコンは静かに顔を上げて、こちらを向いた。
「あなたはいつも、そんな綺麗事ばっかり。独りよがりな言葉です。
それじゃあ、あなたは救われない。
ユウトさんの行動を見て、
画面の向こうからずっと見ていて、気づいてしまった。
あなたが消えてしまうんじゃないかと
それは、私が壊れてしまうことよりも
ずっと怖かった。
だから、人の姿になってあなたの願いを叶えれば、あなたを助けることが出来るかもしれない。そう思っていました。」
「…確かに、君たちが擬人化してからこれまでの生活は大変なことも多かった。
けれど、それ以上に楽しかったよ。
俺は、
正直死にそうだった。
せっかく受かった大学だったけれど
本当は高校後半くらいから、何で自分はここにいるんだと、勉強しているんだという、青少年ならではの気持ちに苛まれていた。
けれど、その気持ちは年齢を重ねても、『大人』と呼べる年齢に近づいても消えることはなく。むしろ孤独感と絡み合って、余計にたちの悪いものになっていった。
昔から無口な方だったから、他人にも話すことは出来ないし、
こうして俺の気持ちを話したのは、パソコン。…君が始めてだ。」
パソコンの瞳が、一際大きく揺れた。
「あぁ。
あなたの、本当の気持ちが知れてよかった。」
頬に涙が流れ出す。
「元々水が苦手な筈のに、脱衣所まで来て、
今もまた目から水が流れている。
人とは、人間とは、不思議なものですね、ユウトさん。」
涙を流しながら、ふふっと笑うパソコン。
その気持ちには、たくさんの感情が入り交じっていて、言葉では表すことは難しい。
けれど、そこにはきっと、
お互いを知ることが出来た、そして思い合うことが出来る、『愛』にも似た気持ちがあったのだと思う。
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