第3話 寝具の場合


 朝を迎える、珈琲とトーストの香り。

この生活が始まってから早や3日目みっかめ、この心地良い目覚めの空気にも慣れてきたところだ。

ざくっと音をたてるよく焼けたトースト。そこに染み込んだバターに、ジャムの舌触り。シンプルな食卓の周りでは、数名の女性達がいそいそと家事をこなす。そこからふっと鼻先をくすぐる、女性特有の甘い石鹸のような匂いには、まだ慣れないが。


 しかし、その朝の心地よい空気とは裏腹に、俺の横でにこやかな笑みを浮かべる女性に、俺はここ数日悩まされている。いろんな意味で。


「今日はやけに上機嫌だな、パソコン。」

「ユウトさんとご一緒ですから、当然です。」



 昨日のパソコンとの「デート」の結果、何故か彼女は元に戻らなかった。

いや、正確に言うと1度は元のノートパソコンの姿に戻った。しかし朝になると再び人の、可愛らしい女性の姿になってしまっていた。


 まぁとりあえず元のパソコンに戻った時に、書きかけのレポートのデータはバックアップをとることが出来た。このデータがあればパソコンがなくても、スマホなどでレポートを書くことは出来る。パソコンより打ち込みにくい、全体像が見辛い等の欠点はあるが。

 それでもやっぱり、というべきか。人の姿に戻ったパソコンにその事を伝えると、なんだか不満そうな顔をしていた…。それなら元の姿でずっと居てくれないかな!?


 だが、これでデータ紛失による課題提出が出来ない!と言う最悪の事態は避けることができた。しかし、まだレポートを書き終わった訳じゃない。

提出までには、これから文献をさらに調べたり、内容を推敲したり。やることはまだまだ残っている。

…なのに、貴重な課題締め切りまでの2日を俺は、パソコンからデータを取り出すということに浪費してしまった。



 課題締め切りまで残り5日。今レポートを完成させるために、次に必要なのは寝る場所、ベッドだ。


なにを馬鹿なことを、とお思いかもしれないが、良質な睡眠というのは優れた思考に欠かせないものだ。現に俺はこの数日間、やむを得ずにクローゼットの中で寝ているが、睡眠不足と疲労の蓄積のために、授業中は夢うつつ。家に戻ってからもいつもは開ける前にノックして確認する浴室の扉を、疲れそのまま開けてしまい、風呂に入っていたキッチンと鉢合わせしてしまう始末だし!


もうクローゼットの中に服の上で寝るのは限界だ。体力的にも精神的にも!




 そのためには、現在擬人化している寝具たちに元に戻ってもらわなければいけないわけだが…。

 トーストの最後の1口をほんのりぬるくなった珈琲で流し込み、今夜のことを考えると憂鬱にならざるを得なかった。



呑気な友人、ヒロカズに今の俺の状況を話したら、

『何それ、超面白いじゃん。ユウトは真面目だよな。もっと楽しめばいいのに!』

とか、あのいつもの能天気な笑顔で言うんだろうか…

人の気も知らないで、と頭の中の想像に文句を垂れつつ、大学へと向かった。





 そして、夜。今夜は珍しく冷え込む日のようで。追い打ちをかけるようにフルコマ授業で疲れきった。こんな日はさっさと風呂に入って、ゆっくり布団にくるまって早めに寝たいところだが、そうもいかないだろうな…。



 ゆらゆらとした身体で、眠りにつく準備を始める。

「俺の布団…とりあえず敷き布団と掛け布団はどこに?」


「寝具は、彼女たちです。」

パソコンはそう言うと、3人の女性を手で示した。


左から順に、敷き布団、掛け布団、枕…とのこと。

 彼女らのビジュアルとしては、全員絶賛、もこもこパジャマを着用している。


敷き布団は白ベースの前閉じルームウェアに身を包み、掛け布団は敷き毛布と似たデザインで黒色の生地に青の線模様があしらわれている。

枕は裾にレースのようにひらひらしたやつがついた、水色の短めワンピースタイプのパジャマ。

見事に元々のデザインを踏襲したお姿で…。


彼女たちの見た目については、まぁ俺にもう少しファッション関係の語彙力があれば他に言いようがあったかもしれないが…

とりあえず、どうして全員太ももから下は布面積が少ないのかについては、考えないでおこう。今のところは。


 彼女たちの足元から目をそらし、階段状に並んだ姿を見つめる。


…これまでのことを考えると、非常に嫌な予感がするんだが。


「「「ユウト!」」」

想像通り、彼女たちは俺にまっしぐらに抱きついてきた。

まぁ寝具だしな…こうなることはうすうす気づいてはいたんだ。




 背中に敷き布団、身体前方には掛け布団、傍らには枕。文字にすれば普通のものだが、この今の俺の状態をどう言葉にすればいいものか…。


いわゆる、押しくらまんじゅうのような状態で。

背中に張り付いて腕を回してくる長身長髪の敷き布団。…敷き布団だから俺より身長高めって訳ね。

正面で同じく抱きついてくる掛け布団。

そして、身長が他2人よりも低いために、枕として敷き布団の上にいくことも難しく。横でなんとか暖を与えようと腕元にくっつく枕。


こんな状況で寝れると思うか?



 こうなったら新しい寝具を買うことも昼間一瞬頭をよぎったが、


「新しい女(布団)に鞍替えしたの?」

「飽きたらすぐ手放すの?…まぁそんなもんだよね。

私、そういうのには慣れてるから。」

「だけど…寂しいな。」


…と、彼女達に陰ながら言われている様子が思い浮かんだ。

それは心情的にとても嫌だ。

というか、そもそも新しい寝具を買い揃える金もない。



ならば、彼女らをどうにか満足させて、元の姿に戻ってもらうしかない。

パソコンの例もあるし、そう簡単にはいかないと思うが、



「何とかしないと…。」


 そう頭では考えているのに、現実の身体は寝具の彼女らに囲まれて、思考放棄している。


長身の敷き布団に、大きめの身体で完全ホールドされていて身動きとれず。

見た目では分からなかったが実は巨乳の掛け布団からは、絶対に離してくれない暖かみとぬくもりが身体全体から伝わってくる。さすが布団。

そして枕は小さな身体でも、しっかりと腕を支えてくれるふんわりとした存在感。


こういう雰囲気になるからなぁ…

どうしよう。


そもそも俺は、擬人化した彼女たちに手を出そうとか、そんなことは考えていない。

いや、彼女たちが好みだとかそうじゃないとか、そういう問題ではなく。

俺の理性とも呼べる感情は、それまで見ていた画面越しの世界とは違う圧倒的な女性の存在感に、頭の中が真っ白になっていた。


「それに、初めては大切にしたいんだ!!!」



 そこまで言うと、今までこの状況を横でずっと見ていたパソコンが、ふいに動いた。


「敷き布団さん、掛け布団さん、枕さん。ユウトさんは身体での欲望はあまり持ち合わせていません。その状況でも満足いただけないかと。」

「あれっ、そうなの?」

「なーんだ。通りでなんかあんまり嬉しくなさそうだと思った。」

「むしろ苦しそうだった…かも。」


パソコンがようやく俺の気持ちを代弁してくれたおかけで、彼女たち寝具から解放される。


けれど、彼女たちはまだ俺の望みを叶えることを諦めていないようで…

「うーん、どうしよっか。」

「ユウトの望みを言ってごらん!出来ることならなんでも叶えるよ!」

「何が出来るかな…」


うんうんと頭をひねる彼女たちに、疲れもピークにもはや眠すぎて、考えることをほとんど放棄した俺は、率直な願いを口にする。

「とりあえず、寝たいんですが…スリープの方向で…。」


「だったらこうするしかないでしょ!」

掛け布団が先程の行動をリプレイする。続いて残り2人も。

「ちょっと!敷き布団が先です!」

「私も入る!」




「結局、こうなるのか…。」

疲れた身体に、次第に温もりが溶けていく。

とうとう諦めた俺は、

思考と共に、意識を手放した。






「…これ以上は、ユウトさんに悪影響かもしれませんね。」




 ふと、暗闇の中で目が覚めた。ポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、夜中の1時だった。

ぼんやりとした意識の中、ほこほことした温もりに手を伸ばすと、ふかふかのパジャマ…ではなく、いつもの掛け布団が、枕が、敷き毛布がそこにあった。


…彼女たちは、俺を眠らせることで元に戻れたんだろうか。

そこまで考えるかしないかのところで、また意識を手放した。






朝。

スマホのアラームを止めるために伸ばした手に、覚えのある感触が伝わる。

そこで次こそしっかり目が覚め、今の状況をしっかりと意識がとらえ始める。


カーテン越しに注がれる朝日に照らされた、ベッドの上。

昨夜と変わらず、敷き布団、掛け布団、枕の3人は、俺に身体を密着させて、未だに気持ち良さそうに寝息をたてている。


そこで、パチッと開いた掛け布団の瞳と目が合った。


「おはよう!ユウト!」

「おはよう…ございます。」


次からアラームをバイブレーションにするべきかな…そこまで考えて、掛け布団の顔が、温もりがまだ眼前にあることに気づく。

モゾモゾと背後で気配がするのでおそらく敷き布団と枕も起きたのだろう。


「あの…学校に行くので離してもらってもいいですか?」

「いやだ!離したくない!」

「何でだよ!!」

布団だからか!?


昨日と変わらず押しくらまんじゅう状態でわちゃわちゃと布団たちは、離さない!私が上だ!と言い合い出す。

…だから身体を押し付けるのはやめてくれ!



「学校を休めばいいんですよ。」

そんな幻聴まで聞こえてくる。

…休むわけにはいかないんだ。



「昨日はよく眠れたから!休養はもう十分!!!です!!」

彼女らを引き剥がして、飛び出すように大学へと向かう。


あ。キッチンの朝食、食べそびれちゃったな…。






 フルコマの翌日、数コマの授業終わり。ヒロカズの「レポート一緒にやろうぜ!」発言により、大学の図書館に来た。


「そういえばこれ必ず参考・引用文献を明記のこと、かぁ。文献探すのめんどくさいなー。」

 そう言っていたヒロカズは、自分の黒のノートパソコンと本の文字を見比べているうちに、うとうと船をこぎ始めた。突っ伏した頃にはパソコンの画面に不可解な文字列が並んでいることだろうな。


 俺はルーズリーフに課題のメモを取るついでに、家で擬人化してしまったパソコンやキッチンなど彼女達について、改めて考えていた。




 彼女たちは、どうやら夜の間だけ元の姿に戻ることは出来るが、朝起きると変わらず人間の姿で横に居る。

それはこれまでの3日間で、夜の間は俺以外で部屋の中で物音が全くしないこと。そして昨夜、夜中に寝具たちが元の姿に戻っていたこと。それらから仮定した考えだ。


 最初に彼女たちが説明した、『ユウトさんの望みを叶えられれば元の姿に戻る』という発言に嘘はないようだが、俺の望みを叶えて元の姿に戻ったとしても、再び人の姿をとる。まだ叶えたいことがあるからだ、とパソコンは言った。


そこまで書いて、ひとつの結論に至る。

…こいつら、完全に元の「もの」の姿に戻る気はないのでは?

人の欲望なんて、際限無いものじゃないか。



そんな思いつきをかき消し、出たケシカスをパッと払う。


「とりあえず、レポートだな…。」




やるべきことを目の前にした人間にとって現実逃避をするということは、

いわば当然の行動心理だった。



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