砧
この小さな身体のどこに力を潜めているのか。
嫌い嫌いと喚き続けた絃を、寿は海中にいる時は抱きかかえて、陸に上がると砂浜に下ろして傍にい続けて今、疲れ切ったのだろう。到着した竹蔵が絃に話しかけた途端、こてんと砂浜に横になって眠り始めたのだ。
竹蔵は絃を抱えて寿を見た。
「すっきりしているわね」
「竹蔵は。半分すっきりしていて、半分もやもやしていますね」
「やだあもう。丸分かり?」
「黒笹と何かありましたか?」
「まあねえ。私が先振ったはずなのに、実はまだ未練たらたらで振っていなくて、だから先に振られて結構衝撃を受けた。みたいな?」
おどけて笑ってみせる竹蔵をじっと見た寿。おもむろに口を開いた。
「………僕は竹蔵と黒笹が戦っている姿を見た事はありませんが。姉弟子から聞いた事はあります。本当にお互いしか見ていない、二人だけで成立する世界だったと」
「一対一の戦いなら、多分、みんなそうだと思うわよ」
「そうでしょうか」
「………まあ。そうだったらいいかなーって。若かりし頃の私は思っていた事もあったようななかったような。このまま永遠に戦っていられたらーって」
竹蔵は寿から腕の中で眠っている絃へと視線を変えて、起こさないように気をつけながら丸めている手の小指をちょんちょんと触った。手を開いて握らないかなと思っていたが、その丸まった手が動く事はなかった。
「怖くなったの。いつか、いつまでも負け続ける私に見切りをつける日が来るって。幻滅した目を見たくなかった。面白くないって思われたくなかった。その前に逃げ出した。って、今ならそう思うの。勝てない自分に嫌気がさしたっていうのもあるけど」
「二人で勝つんでしょう」
寿の断言にふと、竹蔵は疑問を投げかけたくなった。
寿一人で勝てるんじゃない、と。
思ってしまうのだ。思わせてしまうのだ。
一人でも黒笹に勝てるのではないかと。
だが、口に出さなかった。
何も勝負の邪魔をしたいわけでも、好敵手になるかもしれない芽を摘みたかったわけでもない。
二人の今の望みだったからだ。
二人で勝つと。言ったのだ。
(なんて。私の我が儘よね)
竹蔵は視線を上げて澄み切った寿の目を直視した。
「きっぱり振られた?」
「はい」
瞬間回答に竹蔵はジト目を向けた。
「よくまあそんなに清々しくいられるわねえ」
「はい。嫌いでも必要だと言われたので」
「嫌われているのよ?」
「はい。でも、好かれる必要はありませんから」
「でも、寿は絃が好きなのよね?」
「はい、好きです」
「好きな相手に嫌われるのって、かなり衝撃があると思うんだけど?」
「はい、衝撃はありましたが、でも」
寿は竹蔵から、すやすやと眠っている絃を目を細めて見つめた。
慈愛に満ちる表情は今の寿を言うのではないだろうか。竹蔵は思った。
「でも、多分。僕は尚斗様が絃さんを連れて来なければ。例えば。あり得ない話ですけど。竹蔵だけが絃さんを連れて来たとしても、きっと見向きもしなかった。惹かれるなんてあり得なかった。尚斗様が連れて来たからこそ。絃さんに興味を持った。助けたいと思った。好きになった。だから絃さんに嫌われて当然なんです」
「何がだから嫌われて当然なのかさっぱり分からないけど。その理屈で言えば、若旦那が連れて来る人みんな好きになるって事よね?」
「はい」
「その人たちと絃は同じなわけ?」
「同じになると思います」
「若旦那が主で若旦那以外特別な相手は要らないから?」
「はい」
「じゃあもしも、若旦那が絃を殺せって言ったらどうするの?仮定の話だから、そんな事はしないって返答はなしね」
「絃さんを殺さないように尚斗様を説得します」
「何で?」
「尚斗様には絃さんが必要だからです」
「………」
(どっちかよく分からないわね。本気で若旦那には絃が必要だと思い込んでいるのか、若旦那以外に特別な相手を作る事を否定したくて、でも手放したくもなくて、若旦那を言い訳に使っているのか)
後者はあり得ないと思っているが、人の心は複雑なのであり得なくもない。
(別に特別な相手が増えたって困らない。事もないわよね。選択に迫られた時なんかは苦しむ、だろうし)
竹蔵はにこにこ笑う、心底機嫌よく笑っているように見える寿を見て、まあいいかと思った。
絃に害をなす訳ではないし。
(二人を見ていて微笑ましいけど、絃の相手として考えたら、若旦那第一の寿には任せたくないし)
うふふ。ははは。二人は笑った。とても清々しい笑いだった。
「とりあえず、私が背負うから、馬型自転車に乗って帰りましょうか」
「はい」
馬型自転車に乗った竹蔵と寿は太陽を背に走り出したのであった。
(2023.3.2)
まにまにのほころび/あおあおさくら 藤泉都理 @fujitori
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